#69 愛情







 真っ黒な暗闇の中にいる僕は、ただその場で蹲っている。

 もう疲れた。

 この暗闇が一体何なのかは皆目見当も付かないが、別にどうでもいいことだ。

 色も音も、何もかもが失われたこの場所は、本当に心地が良い。


___それは本当なのか?


 まただ。


 僕はもうここから動きたくはないのに、ぽっかりと空いている胸の辺りから微かなもどかしさを感じてしまう。


 どうして僕はそんなことを考えてしまうんだ。


 もう何も考えなくて良いじゃないか。


 それなのに、それなのに___僕はどうしてここから「出たい」と思っているんだ。


 何も見えてはいないのに、僕は腕を伸ばして馬鹿みたいにここから出ようと足掻いている。




 すると、「眩しい」光が目の前に現れ、僕の視線はその光に引き寄せられた。




 急に現れた光に僕は目を細めるが、その光は優しく、そして温かい光であったため、暗闇にいても尚、目が焼けるなどということはなかった。

 その光を、僕はただ一心に見つめる。


 眩しい。


 本当に眩しいな。


 この光が何なのか、僕には全く分からない。

 しかし、この光が「大丈夫」なものであることは、すぐに理解できた。


 一歩、また一歩とその光に近付いていく。


 後ろを振り返ると、やっぱりそこは真っ暗で心地良さを覚えるが、僕の足が止まることはない。


 そして、その光に手を伸ばすと、辺り一面が物凄い光量で照らされる。


 ここから「出れる」という確かな感覚が全身に広がり、僕はその温かな光に身を委ねた。


 すると、どこかから小さな声が聞こえてくる。


 その声は、聞き馴染みのある、とても温かなものだった。




 川瀬、早く目を覚まして___。




 その声に導かれるまま、僕の意識は光に飲み込まれていった。










***










 重たい瞼をゆっくり開けると、視界には白い光景が映し出される。

 ここはどこだ?とぼんやりした頭で考えていると、「誰か」の声が耳に入ってきた。


「……たっ!」


「……てくる!!」


 その内容は上手く聞き取れなかったが、どうやら近くにいる二人が何かを話していたようだ。

 そのまま一人が走り出していくような音が聞こえ、この場所には静寂が訪れる。


 すると、僕は自分の右手が何かに包まれていることに気付いた。


 温かいその何かを確かめるべく、視線を横にずらしてみると、


「…ぁ」


 と僕は思わず小さな声を漏らしてしまった。

 曖昧だった視界がどんどん鮮明になっていき、僕の視界には「見慣れた」ピンク髪の女の子が映し出される。




「川瀬っ」




 その女の子はただ僕の名前だけを呼び、嬉しそうな笑みを浮かべている。


「…愛野さん?」


 どうして僕の前には愛野さんがいるんだ?


 ここは一体どこなんだ?


 どうして僕はこんなところにいるんだ?


 僕は自転車に乗って海まで行ったはずだ。

 そして、海にその身を投げた。


 おかしい、おかしい、おかしい。


 僕は死んだんじゃなかったのか?


 なんで助かった?


 どうして?




「どうして、どうしてッ!?どうして僕は生きてるんだ!?」




 僕は愛野さんの手を振り払い、受け入れられない現実に頭を抱えた。


「…っ!川瀬、落ち着いてっ!」


 愛野さんの声が聞こえてくるが、今の僕に落ち着ける余裕なんてものはない。

 視線を下に向けると、自分が白いベッドで横になっていることや、見慣れない服に着替えさせられていることが分かり、今僕がいる場所は「病院」だと理解できた。

 ここが病院で、今もこうして手足の動く感覚や頭が働く感覚があるということは、僕は死に損なったということなのだろう。


 そんなこと、「絶対」に駄目だ。


「僕は、僕は…死ななくちゃいけないんだッ」


 僕はベッドから素早く降り、ベッド下に置いてあったスリッパを適当に履いて、「急かされるように」この部屋から飛び出した。


「川瀬っ!?」


 後ろの愛野さんの声を無視し、僕はこの病院内をただひたすらに走っていく。


 すると、近くに階段があったので、僕はその階段の上を目指した。


 一番上まで行くと扉があり、勢いそのままにドアノブをひねると、予想通りそこは病院の屋上だった。


 外に出た瞬間、どんよりとした曇り空から雪が降っているのが目に入った。

 室内とは大きく気温が異なるが、不思議と寒さは感じない。

 そんな目の前を邪魔するかのように降る雪をうざったく思いながら、僕は屋上の縁まで一歩ずつ歩いていく。


 しかし、現実というのはいつだって思い通りにはいかない。


 このまま病院の屋上から飛び降りようと思ったのに、屋上は高さのあるフェンスに囲まれ、飛び降りることはできそうになかった。


「なんでッ!?」


 その事実が受け止め切れず、僕は屋上のフェンスに拳を打ち付ける。

 すると、少し遅れて愛野さんがこの屋上にやってきた。

 僕が屋上の縁にいることから、本当は屋上で飛び降りようとしたことに気付いたのだろう、愛野さんは血相を変えながら僕の方に近付いてこようとする。


 そんな愛野さんの僕を「心配」する顔が、僕の胸を締め付ける。


「来るなッ!」


 なんで、どうして、愛野さんは僕なんかに…「俺」なんかに関わってくるんだ。


 俺の言葉を聞いた愛野さんは、その場で立ち止まった。

 しかし、そこから動こうともしなかった。

 愛野さんの視線は、ずっと俺の方にだけ向けられている。


 真っ直ぐな視線を受け、抑えていたものが決壊した俺は、その溢れ出る醜い感情のままに口を開いた。


「どうして俺に構うんだよッ!?俺のことなんて、愛野さんには関係ないだろッ!?」


 俺の口から出たのは、愛野さんに対する「拒絶」だった。

 しかし、それを聞いた愛野さんは、


「関係ない訳ないッ!」


 と俺の「拒絶」を否定した。


 そして、更にこう言葉を続けた。


「好きな人が苦しんでるのに、それを心配しないなんてこと、できる訳ないでしょッ!?」


 愛野さんの言葉に胸がチクリと痛むが、それでも俺は止まることなどできない___。


「『好き』や『愛してる』なんていう感情は、ただの偽物だ!そんな薄っぺらい感情に、俺はもう二度と騙されないッ!」


___できないのだ。


「愛野さんの『その気持ち』だってどうせ偽物に決まってる!迷惑なんだよッ!俺はそんな気持ちなんて必要ないッ!」


 痛む胸をぎゅっと握りながらそう言うと、愛野さんは俺の前まで近付き___、


「…ぇ?」


 そのまま俺の頬を叩いた。


 何が起きたのか一瞬分からなかったが、右頬がジンジンとした痛みを訴えていることから、俺は愛野さんに頬を打たれたのだと気付いた。

 愛野さんはボロボロと涙を流し、その表情には「怒り」が浮かんでいた。


「私の川瀬を想う気持ちは、偽物なんかじゃないッ!」


 愛野さんがこうして怒りを見せるのは、文化祭の準備期間以来だろうか。


「私は川瀬のことが好き!川瀬の優しいところも!カッコいいところも!大人びているところも!可愛いところも!私は川瀬の全部が好きなの!この『好き』な気持ちは、私の、私だけの大切な『宝物』!これだけは川瀬にも『否定』させないからッ!!」


 愛野さんの強い「想い」に押され、俺は一歩後ずさりしてしまう。


「川瀬が本当に私のことを迷惑と言うなら、私は川瀬の想いに蓋をするし、もう二度と川瀬には近づかない…っ。それはとってもつらいけど、私は好きな人が嫌がることをしたくはないから。でもね、川瀬…私に教えて」


 そうして愛野さんは俺にこう言ってきた。


「川瀬はどうしてそんなに『苦しそうな顔』でそんなこと言うの!?どうしてそんな顔で『想い』を否定するの!?本当は必要ないなんてこと、思ってないんでしょう!?」


「…っ!!」


 誰かを「想う」気持ちを偽物だと思わず、俺は必要ないなんて思っていない…、愛野さんはそう俺に訴えてくる。


 そんなはずはない。


 俺はこの感情に裏切られ、「愛」なんてものは偽物だと知ったのだ。


 それなのに、どうしてッ!?


 どうして俺は、愛野さんの言葉を「否定」することができないんだ!?


「違う、違う…っ」


 俺は首を横に振り、「そんなことあるはずがない」と必死になって愛野さんの言葉を否定しようとする。

 愛野さんは涙で濡れた瞳でじっと俺のことを見つめており、そこにはもう「怒り」の色は浮かんでいない。


 今の愛野さんの瞳は、俺の全てを見透かしているようだった。


「俺…っ、俺はッ!そんな感情知らないッ!」


 そんな瞳で見られていることに感情が揺さぶられ、俺は何とか否定をしようとするも、愛野さんを納得させられるような言葉は何一つ思い付かない。


 そして、俺の焦った様子を見つめていた愛野さんは、「確信めいた」声色で俺にこう告げた___。










「川瀬は、『愛情』を受け入れるのが怖かったんだね」










「…は?」


 愛野さんの言葉を聞き、俺はその衝撃で動けなくなってしまった。


 怖かった…?


 分からない。


 愛情が、怖かった…?


 分からない。


 分からない、分からない、分からない___。



 愛野さんの言う「愛情」とは、恐らく「ただ人を愛すること」だけを言っている訳ではないのだろう。


 しかし、それが何だと言うのだ!




 それなのに、そのはずなのに、心のどこかでそれを「受け入れている」自分がいた。




「進さんから聞いたよ、川瀬がお父さんとお母さんのことを『大好き』だったってこと。川瀬の『優しい』性格は、お父さんとお母さんの影響なんだよね?」


 正解だ。

 父親だった人と母親だった人は、いつも俺に「優しかった」。


「日奈子さんが言ってたよ、川瀬が『優しい』ところは二人にそっくりだって。川瀬にとって二人は、本当に『大切』で目標となるようなご両親だったんだね」


 正解だ。

 二人の優しいところは、ずっと俺の目標だった。


「でも、そんな二人が亡くなってしまった。その時に何があったのか、私には分からない。川瀬はさっき『騙されない』なんてことを言ってた…だから、何か『騙された』ように感じた出来事があった…んだよね?」


 …正解だった。


 俺は二人のことを「大切」に想っていた。


 だからこそ、あのクリスマスの時、俺は二人から「裏切られた」ように感じたのだ。

 また胸が締め付けられ、苦しさを味わう。


 それと同時に、胸の中にある「何か」が大きく膨れ上がっていく。


「そこから川瀬は変わってしまったって日葵ちゃんが言ってた。…でも、本当は川瀬の『優しい』ところは何も変わってなくて、何かに怯えているからそう振る舞っているだけだとも言ってたの」


 日葵さんは昔から俺のことをよく見ていた。

 中学で「友情」というものに見切りを付けた時も、日葵さんは「お兄ちゃん、何かあったの?」と心配そうに声を掛けてくれた。


 進さんや日奈子さん、そして日葵さんの名前が愛野さんから出たということは、三人もこの病院にいるのだろう。

 海に飛び込んだ時、俺は三人のことなんてどうでもいいと思っていたはずなのに、三人の「心配そうな顔」を想像するだけで、何故か「罪悪感」のようなものを覚えてしまう。

 俺がその感情に戸惑っていると、


「これは私の勝手な意見で、もしかしたら川瀬を不快にさせてしまうかもしれないけど、一つ聞かせて」


 と愛野さんは真剣な表情を浮かべ、俺に言葉を投げかけた。




「川瀬はさ、本当はご両親に『騙された』なんて思ってないよね…?」




 愛野さんの言葉を聞き、俺の心臓は大きく跳ねた。


「…そんなことないッ!俺は、あの二人に裏切られたんだ!二人の言葉は、俺を騙してたんだよ!」


 愛野さんにこれ以上感情を見透かされたくなくて、俺はしどろもどろになりながらその意見を否定しようとするが、口を開けば開くほど、この意見を認めているような気がしてしまう。


 俺は認めない、認めてたまるかッ!


 しかし、愛野さんは俺の取り乱した様子をものともせず、強く真っ直ぐな視線で俺から目を外そうとしない。


「進さんたちに話を聞くと、川瀬のお父さんとお母さんは、川瀬のことが『大好き』だったように思えたの」


 やめてくれ。


「川瀬のお父さんは、いつも川瀬のことを嬉しそうに自慢していたんだよね?」


 やめてくれ。


「川瀬のお母さんも、大切な『宝物』のように川瀬を見つめてたんだよね?」


 やめてくれ。


 これ以上聞いたら、俺は、俺は…っ!


 咄嗟に耳を塞ごうとするも、愛野さんが俺の両手を優しく掴んだせいで、耳を塞ぐことができなかった。

 そして愛野さんはこう言った。


 それは、あの日から俺が心の片隅に「残していたもの」だった。




「私はね、そんな川瀬のお父さんとお母さんが川瀬を騙したりなんて、『絶対』しないと思う」




「…っ!」


 父親だった人は、いつだったか俺にこう言っていた。


『朔と咲希がいてくれるおかげで、私は毎日幸せだ』


 彼は俺と母親だった人に、いつも家族に対する「愛情」を向けていた。


 あの日、リビングで二人が言い合う声を聞いて、俺は彼が不倫していると思ってしまったが、実際のところ、それが本当かどうかは分からない。


 いや、「父さん」は「絶対」にそんなことしない。


 父さんはあの日、「違う」と強く否定していた。

 父さんは「家族」に嘘をついたことは一度だってない。


 あれは、何かすれ違いを起こしてしまっただけなんだって、俺はとっくに「気付いていた」はずなのに。


 母親だった人は、いつも俺に抱えきれないほどの「愛情」を向けてくれた。

 何かあるたびに頭を撫でてくれた彼女の手は、いつも温かくて、優しさに包まれていた。


 あの日、彼女が俺に言ってきた『愛しているわ』という言葉は、俺を騙すためのものだったのだろうか?


 いや、「母さん」は「絶対」にそんなことしない。




 父さんと母さんは、俺を裏切ってなんかいない。




「…俺だって、そんなこととっくに分かってたんだ…」


 あの日から今までせき止めていた感情が、更に抑えられないほどの勢いで溢れ出してくる。


「でも!あの時はそう考えるしかなかった!仕方なかったんだ!父さんと母さんを失った悲しみを、俺は一体どこにぶつければ良かった!?この真っ黒な気持ちを、どうすれば良かったんだ!?」


「…川瀬」


___認めよう。


 本当は、父さんと母さんに対して「良くない」感情を抱いてなんかいなかった。


 しかし、愛野さんに見透かされたように、俺は「恐怖」を感じた。


 それは、大好きな人がまたどこかに消えてしまうかもしれないという「恐怖」だ。


 父さんと母さんを失った時、俺は絶望感という耐え難い痛苦を味わった。

 俺はもう二度と、その痛みや苦しみを感じたくはなかった。


 そして俺は、「愛情」というものが怖くなったのである。


 だからこそ、父さんや母さんとの思い出を封印し、二人に真逆の「恨み」を持つことで、二人の温かな「愛情」を遠ざけた。

 二人のことを思い出してあの苦しさに囚われるのが、俺は怖かったからだ。


「…俺は怖かったんだ。大好きだった二人を失って、俺は胸に穴が開いたようだった。それは、痛くて、苦しくて、つらくて…だから俺は、二人の愛情を『否定』した。裏切られたと思い込んだら、胸の苦しさは収まった。俺は、二人の想いを恨むことで、『弱い自分』から逃げたんだ」


 そんな「恨み」を心の支えにして生まれたのが、新しい「僕」だ。


 周りの人を遠ざけ、自分の殻に閉じこもることで、俺は「愛情」から逃げ続けた。

 周りと距離を取れば、自分が傷付くことはない。

 進さん、日奈子さん、ひまちゃんが、父さんや母さんと同じような「愛情」を向けてくれていたことにはずっと気付いていた。

 三人は、俺のことを「家族」として見てくれていたのだ。

 だから俺は、弱い自分を守るためにその三人から距離を取った。

 すると、気付いたらそんな自分が「当たり前」となり、どんな相手にも距離を取るような人間となってしまった。


「そして俺は、父さんと母さんの愛情を否定している自分に違和感を覚えた。『本当にこれで良いのか?』って。そう思い始めると、俺の頭は罪悪感と自分に対する嫌悪感でいっぱいになった。俺は、父さんと母さんの想いを本当の意味で『捨てる』ことなんてできなかったんだ。それで…俺は気付いたんだ、自分が『どうしようもないクズ』だっていうことに。俺のせいで、周りの優しい人たちはいつも表情を曇らせていた。こんな保身のために周りを傷付けることしかできないクズに、みんなから心配してもらうような価値なんてない。迷惑を掛け続けることしかできないクズに…生きている価値なんてない。だから俺は、死のうと思った。死ぬことで、父さんと母さんに謝ろうと思った」


 俺が独白をしている間、愛野さんは黙って俺の言葉に耳を傾けており、俺が話し終えた後に、愛野さんはこう尋ねてきた。


「だから川瀬は、私とも距離を取ってたんだね?」


 俺はゆっくりと首を縦に動かした。

 二年生になって愛野さんと話すようになり、しばらくして愛野さんが俺と「仲良く」しようとしてくれていることに気付いた。

 それが「好意」からのものだとは分からなかったが、このまま仲良くすればいつかは裏切られ、愛野さんもまた、どこかに消えてしまうと思ったのだ。


 それだったら、愛野さんと仲良くならない方が良い。

 愛野さんはとても優しい女の子だ。

 こんなクズのために、愛野さんは表情を曇らせるべきじゃない。

 俺は、愛野さんを傷付けたくはない。


 俺は、愛野さんに関わるべきじゃない。


 しかし、何故か愛野さんだけは「自分の意思」で遠ざけることができなくて、「周囲からの視線」や「坂本くんたち」を言い訳に使い、俺は間接的に愛野さんから距離を取った。


 そして、愛野さんは「ごめんなさいっ」と頭を下げた。


「私、川瀬の気持ちも考えずに、川瀬を傷付けるようなことしてた」


 確かに、愛野さんや桐谷さんの告白は俺の心を動揺させた。

 その動揺もあり、正面玄関で「いなくなれ」と言われたことが「最後のきっかけ」となって、俺が死のうと思ったのは事実だ。

 しかし愛野さんや、もちろん桐谷さんも、悪いなんてことは一つもない。


 悪いのは全て俺なのだ。


 愛野さんは頭を上げると、「でもね、川瀬。『死のう』としたのは間違ってるよ」と言いながらその目を吊り上げる。


「川瀬はクズなんかじゃないし、生きている価値がないなんて絶対にないっ。それに、川瀬のお父さんやお母さんは、川瀬が死ぬことなんて絶対に望んでない。それは、川瀬を『心配』しているみんなも絶対に望んでないから」


 愛野さんの怒りに含まれる「心配」の色を見抜いてしまい、俺は視線を反らそうとする。


「川瀬、私のことをしっかり見て」


 …愛野さんは、そんな俺に逃げ道を与えてはくれなかった。


「じゃあどうすれば良いんだよ…っ。俺は、ここからどうやって生きれば良いんだ…」


 「どうすることもできない」今の状況に、俺はただ「弱い自分」をさらけ出すことしかできない。


 本当に、どうすれば良いんだ…。


 俺は周りの全てから距離を置き、近付く人を傷付けた。

 「愛情」などという気持ちの存在を否定し、周りの「優しさ」に気付いておきながら、それを「ありえない」ものとして扱った。

 そして、大切な父さんと母さんの記憶を穢し、命まで絶とうとした。


 分からない。


 どれだけ考えても、俺には何も思い浮かばない。


 だから俺は、縋るような視線を愛野さんに向けた。

 俺はなんて弱い人間なのだろう。

 散々愛野さんを傷付けたくせに、都合が良い時にだけ縋ろうとするなんて、本当にどうしようもない人間だ。


 そんな俺の視線を受けた愛野さんは、俺と視線を合わせながらも、強い言葉でこう口にした。


「川瀬はどうしたいの?川瀬が『本当は』どうしたいのか、それをちゃんと口にして」


 「きっともう、川瀬の心の中に『答え』はあるはずだよ」と言いながら、愛野さんは俺の醜い懇願を一蹴する。

 愛野さんの瞳には、俺が自分で答えを見つけ出すことを信じて疑わないような、そんな「期待」や「信頼」の色がはっきりと映し出されている。


 愛野さんに促されるがまま、俺は自分の心に問い掛ける。


 …俺は一体どうすれば良い?


 目を閉じ、自分の心に集中すると、今も尚広がり続ける「何か」を胸の中に感じた。

 この「何か」は、常に俺の中に「違和感」として存在し、俺の胸を締め付けてきたものだ。

 恐らくこの「何か」が、どうしたいかの「答え」なのだろう。


 気付かないフリをし、「邪魔」なものとして扱ってきたこの「何か」。


 そして俺は、ようやくこの「何か」の正体が分かった。


 いや、俺はこの「何か」を、二年前からずっと知っていた。


 ただ、それを受け入れることができなかったのだ___。










___寂しい。










「俺は寂しかった。大好きな二人が死んで、俺はただ寂しかっただけだったんだ。父さんっ、母さんっ、俺、寂しいよぉ…っ」


 ずっと言えなかったあの日の気持ちを、俺は二年越しに口に出す。


 その言葉は、心の底から溢れ出た「本当の俺の気持ち」だった。


 父さんがいなくて寂しい。


 母さんがいなくて寂しい。


 一人で過ごす家は息苦しい。


 一人で食べるごはんは味気ない。


 一人でいるのはつらい。


 一人でいるのは、寂しい。




「俺は…一人は嫌だ!本当は、みんなと一緒にいたいっ!」


 俺は、こんな俺のことを心配して、いつも話し掛けてくれた「みんな」と一緒にいたかった。


 俺に「優しさ」や「愛情」を向けてくれるみんなと、もっと仲良くなりたかった。


 俺は、ただの「寂しがり屋」なんだ。


 自分から距離を取ったのに、周りとの「繋がり」を求めてしまう。


 愛情を否定していたくせに、本当はその愛情に飢えている。




 そんな幼稚で意味も脈絡もない俺の言葉を、愛野さんは馬鹿にすることなく、


「川瀬ならできるよ」


 と優しい笑みを浮かべながら肯定してくれた。


 そんな愛野さんの肯定に、俺は目の奥が熱くなっていく。


「俺は、色んな人に迷惑を掛けた」


「大丈夫、誰も迷惑だなんて思ってないよ」


「俺は、色んな人を傷付けた」


「大丈夫、誰も川瀬のことを責めたりなんかしないよ」


「俺は、色んな人の気持ちを否定した」


「大丈夫、これから川瀬がみんなにその気持ちを返していけば良いんだよ」


 俺の言葉に、愛野さんは「大丈夫」と優しく返してくれる。




 その「大丈夫」という言葉が、俺の凍てついた心をどんどん溶かして温かいものにしていく。




「こんな、こんな俺でもっ、みんな一緒にいてくれるかな…?」


 そんな俺の問い掛けに、愛野さんはこう言った。


「大丈夫っ、進さんも日奈子さんも日葵ちゃんも朱莉も流歌ちゃんもイリーナさんも四宮先生も他のみんなも、もちろん私だって、川瀬と一緒にいたいって思ってるよ。それに、もし他の全員が川瀬から離れても、私だけは絶対に川瀬から離れたりしない。もう二度と川瀬が『寂しくない』ように、私はいつも一緒にいるよっ」


 愛野さんの微笑みを見て、俺の心は不思議な心地良さを感じ始める。

 これは、父さんや母さん、それに進さんたちに感じる想いとは、似ているようでまた少し違うものだった。


 更に愛野さんはこう言葉を紡いだ。


「もし川瀬が今もまだ『死にたい』と思っているなら、今から私も一緒に死んであげる」


 愛野さんの衝撃的な発言に俺は「そ、それは駄目だよ!」と、思わず「昔の感じ」で愛野さんの言葉に首を振った。


「川瀬が海を選んだのって、多分だけど…誰にも見つからないためでしょ?川瀬の性格的に、誰にも迷惑が掛からない形で死のうって思ったんじゃない?」


 愛野さんの予想は完璧に的を射ていたため、俺はあまりの正確さに「そうだけど…」と頷く他なかった。


「そんな川瀬の隣で私も死ぬってなれば、川瀬は死ぬなんて選択肢を選ばずに、私を止めてくれるでしょ?」


「…当たり前だよ」


「えへへっ」


 そして、愛野さんはとびっきりの咲き誇る笑顔を見せ、俺にこう「お願い」をしてきた。










「だから、私を『死なせない』でね、川瀬っ♪」










 こんなことを言われてしまっては、もう俺は「死ぬ」なんていう選択肢を選ぶことはできない。

 俺の性格を最大限に利用したこの策は、愛野さんの予想通り、俺には効果抜群だった。




「…本当に、愛野さんには敵わないなぁ」




 そのまま愛野さんは俺を優しく抱き締めてきた。

 その「優しさ」と「愛情」の温かさに触れ、俺の目からはボロボロと涙が溢れ出す。


 涙を流すのは、ちょうど二年前のあの日以来だろうか。


 俺はまだ、ここからどうすれば良いのかはっきりとしたことは分かっていない。


 でも、俺は愛野さんから「生きなければいけない」理由をもらった。


 何とも強引な理由だが、それも悪くはなかった。


 むしろ、命を懸けてまで俺が「生きること」を望んでくれている人がいることに、不謹慎だが、言葉では言い表せないほどの「嬉しさ」がこみ上げた。


 降っていたはずの雪は気付けば降り止んでおり、曇り空の間から夕日の光が差し込んでいる。


 その光が、屋上にいる俺と愛野さんを照らしていた。




「川瀬、お誕生日おめでとうっ」




 そう言えば、今日は俺の誕生日だ。


 愛野さんのお祝いの言葉に、こぼれる涙が止まりそうにない。


 俺は十七歳にもなったのに、小さな子どものように声を上げながら、ただひたすらに涙を流す。


 そんな俺の頭を、愛野さんは優しく撫で続けてくれた。


 トクトクと一定のリズムを奏でる愛野さんの心臓に、俺は「安心感」を覚える。




___川瀬、大好きだよ。




 愛野さんの言葉と、母さんの最期に伝えてくれた言葉が、俺には重なっているように聞こえた。




___朔、愛しているわ。




 俺は、「愛情」が温かくて心地良くて、こんなにも「幸せ」にさせてくれる感情であったことを、ようやく受け入れることができたのだった___。






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