#66 向き合う心
学校は冬休みに入っているものの、平日と同じように目が覚めた私は、ベッドから起き上がってリビングへと向かう。
昨日は「お兄ちゃん」と一緒にお出掛けをして、美味しいごはんも食べることができた。
お兄ちゃんの顔が前回会った時よりも「疲れている」、いや「疲れ切っている」ことにはずっと引っ掛かりを覚えたが、お父さんやお母さんが何も言わない以上、私も口を噤むしかなかった。
しかし、お兄ちゃんは私にお土産をくれたり、修学旅行の話をしてくれたり、それに、ショッピングモールで試着をした時には「似合っている」と私を褒めてくれた。
雰囲気は変わってしまったが、「優しい」お兄ちゃんの「性格」は何一つとして変わっていないことを私は再認識し、昨日は温かい気持ちでぐっすりと眠ることができた。
十二月二十五日、クリスマスの今日この日はお兄ちゃんの誕生日である。
当日にお祝いができなかったのは悔やまれるところだが、来年は二十五日にお祝いができると良いな。
そうしてリビングの扉を開けると、
「日葵、おはよう」
「日葵ちゃん、おはよう」
とお父さんとお母さんが声を掛けてくれた。
「おはよう!」
ちょうど今から朝ごはんを準備するところだったらしく、
「私も食べる!」
とお母さんに伝え、私は簡単な身支度を整えるために洗面所に向かった。
戻ってきた後は椅子に座り、三人一緒に朝ごはんを食べ始める。
昨日はお兄ちゃんと一緒に外食をしたため、今日はお家で簡単なクリスマスパーティーをすることになっている。
私とお母さんがケーキの話をしていると、「今日もケーキを食べるのかい?」とお父さんが言ってきたので、私とお母さんは「有無を言わせない笑顔」をお父さんに向けた。
すると、お父さんは「…今のは私が悪かったね」と苦笑した。
沢山食べたら、その…太っちゃうかもしれないけど、甘いものには目がない私とお母さんにとって、クリスマスケーキは特別なものなのだ。
そんな今日の予定を三人で楽しく話していると、
『プルルルッ…』
という電話の音が聞こえてきた。
どうやらお父さんのスマホに電話が掛かってきたらしい。
「四宮先生からの電話だね。朔のことで何かあったのかな?」
お父さんに電話を掛けてきたのはお兄ちゃんの担任の先生だそうで、お母さんも「何かあったのかしら?」と首を傾げている。
「とりあえず電話に出てくるよ」
お父さんは私とお母さんにそう言い、リビングの外へと出て行った。
「何だろね?」
「この前も朔くんの進路についてお電話してくださったそうだし、今回も進路のことかしらね?」
電話の内容は見当が付かなかったため、お父さんが戻ってから内容を聞いてみようということになり、流れで私とお母さんはお兄ちゃんの話を始めた。
「それにしても、やっぱり全科目満点って驚いちゃうよ。夏休みには『東大』のオープンキャンパスにも行ったそうだし、お兄ちゃん凄いなぁ」
「ふふっ、そうね。朔くんは昔からとても頭が良かったものね」
昔のお兄ちゃんは勉強も運動も得意であり、とても優しい性格をしていた。
何でもできて誰にでも優しい笑顔を浮かべるそんなお兄ちゃんのことが、私は大好きだった。
もちろん今もその気持ちに変わりはないし、今でも昔のように沢山甘えたいなぁ…なんて思ってたりもする。
本当は、お兄ちゃんと一緒に暮らしたい。
でも、お兄ちゃんが私のお家の「養子」となった後、「一人で生活したい」とお父さんやお母さんに伝えていたのを見て、私は自分の心に蓋をした。
三人がリビングで話しているのを覗いた時に見えたお兄ちゃんの顔が、あまりにも痛々しく、私ではお兄ちゃんを説得することができないと思ってしまったからだ。
歩おじさんと咲希おばさんが亡くなったと知った時、私は一日中涙が止まらなかった。
それなら、二人の子どもであるお兄ちゃんは、一体どれだけの悲しみをその胸に抱え込んだのだろう。
そのことがきっかけでお兄ちゃんが変わってしまったのは間違いないが、私は今も尚お兄ちゃんに一歩踏み出せないでいる。
お母さんとお兄ちゃんの話をしていることもあり、お兄ちゃんのことで頭がいっぱいになっていると、お父さんがリビングに戻ってきた。
「お父さん、電話は何だっ…た?」
早速お父さんに電話の内容を尋ねようとすると、お父さんの様子はどこかおかしかった。
お母さんもそれに気付いたようで、「進さん、どうかしたの?」と声を掛けている。
お父さんは椅子に腰を下ろした後、
「…日奈子、日葵、落ち着いて聞いてくれ」
と、私たちに真剣な声色で話し掛けてきた。
普段、お父さんがここまで真剣な表情を見せることはほとんどない。
それこそ、お父さんがこんな表情を見せたのは、二人が亡くなったことを伝えてきた時くらいだ。
何か良くないことが起こったと瞬時に理解した私とお母さんは、黙ってお父さんの次の言葉に耳を傾ける。
そして、お父さんはこう話し始めた。
「…朔は今、病院にいるらしい。昨日、私たちと別れた後、朔は海で自殺を図ったそうだ。その場にいた人たちに救助されて命に別状はないらしいが、詳しいことは分からないため、今すぐ病院に向かって欲しいとのことだ」
お父さんから話を聞いた瞬間、私はあまりの衝撃に呆然とすることしかできなかった。
お兄ちゃんが、自殺…?
お母さんも両手を口に当て、驚きで何も言えなくなっている。
「…え、なんで…」
「…理由は私にも分からない。ただ、恐らく昨日の時点で、朔は私たちの前から『いなくなる』つもりだったんだろう…」
お父さんもこの現状を受け入れることがまだできていない様子であり、どうしてお兄ちゃんがそんな行動に出てしまったのか、誰も分かる人はいなかった。
お兄ちゃんが「無事だ」という話を聞いていたおかげで、私は何とか平静を保っている。
いや、平静を保つことしかできないのかもしれない。
このまま、胸の奥からせり上がってくる感情の奔流に身を委ねてしまったら最後、私は平気でいられなくなるような、そんな気がするのだ。
そんな固まることしかできない私の脳内に、ふと昨日お兄ちゃんが最後に言っていた言葉がフラッシュバックしてきた。
『それではみなさん、さようなら』
「…ぁ」
…気付いた、気付いてしまった。
お父さんが口にした「良くない予想」が、実は正解だったということに。
お兄ちゃんは、私たちと別れる瞬間に、「さようなら」と口にした。
それは、「また今度」の意味を含めた帰りの挨拶だと私は思っていた。
だけど、違った、違ったのだ。
あれは、「もう会えない」の意味を込めた、文字通り「最期」の言葉だったのだ。
つまり、お兄ちゃんは本当に「死ぬ」ために、海へとその身を投げたことになる。
苦しい。
胸が苦しい。
私が苦しそうな表情を浮かべ始めると、
「日葵!」
「日葵ちゃんっ!」
と、二人は焦った様子で私の横に駆け寄ってくれる。
二人の心配する声に私は「大丈夫だよ…」と声を返し、
「…お父さん、お母さん、聞いて」
と、私は「気付いてしまった」内容を二人に話し始めた。
私の話を聞いた二人は、共に苦しそうな表情を浮かべ、お父さんは「どうして私は気付いてあげられなかったんだ…」と悔しそうな声を上げた。
お父さんの言う通りだ…昨日私たちが気付いていれば、お兄ちゃんが海で命を絶とうとしたことを事前に防げたのかもしれない。
「たられば」でしかないことは重々承知しているが、今になって思い返せば、この行動に繋がりそうなヒントがいくつかあったようにも感じられる。
私たちとの食事に参加してくれたこと、日程を二十五日から変更したこと、そして、夕食時には「笑顔」を見せていたこと…。
そもそも私たちは、お兄ちゃんが「疲れ切っている顔」をしていたにも関わらず、見て見ぬフリをし続け、しっかりとお兄ちゃんに向き合おうとはしなかったのではないだろうか。
もしかしたら、私たちがお兄ちゃんをそこまで追い込んでしまった可能性がある。
お父さんもお母さんも、恐らく私と同じようなことを考えているだろう。
しかし、このままここで考えていても、お兄ちゃんが何を思ってそんなことをしてしまったのかは分からないままだ。
お兄ちゃんは、生きている___。
お兄ちゃんは、私たちとは会いたくないかもしれない。
だけど、私たちはお兄ちゃんに向き合わなければいけない。
「まずは朔のいる病院に向かおう」
お父さんの言葉に私とお母さんは頷きを返し、朝食も途中のまま、すぐに私たちは車に乗ってお兄ちゃんのいる病院へと向かい始めた。
待っててね、お兄ちゃん___。
***
私の兄である「歩」は、本当に私の「お手本」のような人間だった。
しかしそれは、兄さんが全てで優れていたからというような理由ではない。
実際私の方が勉強は得意であったし、兄さんは運動が得意な方でもなかった。
けれども、性格、いやここでは人としての「在り方」とでも言えば良いだろうか、それを比べてみた時、私は兄さんを超えることはできないと思ったのだ。
理由は色々ある。
一つ一つ理由を上げるのは照れ臭さもあるため、あまり振り返ることもしたくはないが、今も尚、兄さんを目標にしているということは変わりようのない事実だ。
そんな兄さんとお互いの家族で旅行に行った時の夜、宿泊先のバーで遅くまで飲んだことがあった。
そこで、兄さんは咲希さんの話をし始めたのだ。
兄さんと咲希さんが「駆け落ち」のような形で結婚まで至ったことは、当然私も知っていることだ。
兄さんと父親が言い合いをし、兄さんが絶縁状を叩きつけて家を出て行ったことは今でも覚えている。
昔から私たちの父親は頭の固い人だった。
かくいう私も、二人が亡くなって朔を誰が引き取るかになった時に父親と一悶着あり、今は実家と疎遠になっている。
日奈子や日葵には悪いことをしたと思っているものの、朔のことを遠ざけようとした父親に対し、柄にもなく激昂したことを後悔するつもりは全くない。
そして、そんな兄さんの話を聞いていると、兄さんは途中でこう言ってきた。
「…そんな父親と折りが合わなかった経験を教訓にして…とは大げさかもしれないが、子どもの話は何でも聞いてあげたいと私は思っている。何でも聞くとは言ったって、簡単には頷けない話や、良くない話だってあるだろう。でも、そんな時は頭ごなしに怒って否定するのではなく、もっと別の良い方法があるかどうか、子どもと一緒に探していきたいと思っているんだ。それは、父親と私ができなかった関係性でもあるからね。…進、私たちはあの子たちの、たった一人の『父親』だ。私たちがあの子たちの一番『頼れる存在』になれるように、お互い力を合わせていこう」
かなりお酒が入っていたこともあり、兄さんは珍しく饒舌だったが、それは紛れもない兄さんの「本心」だと私は思った。
私もかなりの子煩悩だとは自覚していたが、それ以上に兄さんは朔のことを「愛していた」のだろう。
私は兄さんの言葉に大きく頷き、二人で大切な家族を守っていくことをその日に誓った。
そして今日、朔が自殺を図ったという連絡が四宮先生から伝えられた。
朔の様子が「良くない」ことには気付いていたのに、私は朔と「本当の意味で」対話をすることができていただろうか?
朔は今、僕たちの「養子」であり、僕たちの「息子」だ。
私は、自分の大切な「息子」の、「頼れる存在」になれていたか?
いいや、なれていなかった。
しかし、あの日家族を守ると「誓った」のは、その場の勢いでも、ただの冗談でもなかったはずだ。
私には、もう一度朔に会う資格があるのだろうか。
こんな時、兄さんならどうするのだろう。
…そんなこと、考えるまでもないことだったね、兄さん。
朔の言葉が、思いが、どんなものであろうと、私は受け止めて見せよう。
だって、私は彼の「父親」なのだから___。
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