#62 強迫観念
あの日から、僕は愛野さんのことを無視するようになった。
愛野さんは朝や帰りに挨拶をしてきたり、周りに人がいない時には話し掛けたりしてくるが、僕は反応を返していない。
ほんの少し胸が痛むのは、この期に及んで罪悪感を覚えているからだろうか。
けれども、僕は正しい行いをしているだけだ。
愛野さんの声が僕に届くことはない。
何度でも頭の中で繰り返す。
彼女は、僕なんかのことを忘れるべきだ。
***
今は学期末テストの結果用紙を受け取る時間だ。
今回のテストの結果は、どの教科も散々なものであった。
というのも、修学旅行が明けてからの授業内容は、ほとんど耳には入っていなかったからである。
常に頭はぼんやりとし、授業に対する集中力も皆無であったため、当然と言えば当然であろう。
凡ミスを連発し、どの教科も満点でなかったことは、既に各教科のテスト返却で知っている。
しかし、テスト結果に興味などなく、別にどうでも良かった。
四宮先生に名前を呼ばれたので、前にその紙をもらいに向かう。
その紙には自分の点数が記載されており、各教科の平均点と学年順位も載っている。
その紙を渡す瞬間、四宮先生は小さな声でこう言ってきた。
「川瀬くん、放課後になったら少し廊下で待っていてちょうだい」
常に満点を取っていた生徒がいきなり点数を下げたのだ、教師として何かあったのかと不思議に思うのも無理はないだろう。
しかし、話すような理由は何も持ち合わせていないため、どうやって四宮先生からの追及を逃れようか、僕はただそれだけを考えた。
小さく頷きを返しておき、僕はその紙を持って自分の席へと戻って行く。
その時、先の方から強烈な視線を感じたので視線を向けると、愛野さんがじっと僕の方を見つめていた。
僕と久しぶりに目が合ったことに驚いた表情を浮かべた愛野さんだったが、僕はすぐに視線を反らし、自分の席へと座り込んだ。
それに対し、愛野さんがどう思っているのかなんて僕には全く分からない。
それは間違いではなく、本当にそうだと思っているが、ほんの少しだけ…愛野さんが表情を曇らせたかもしれないと思ってしまった僕がいた___。
放課後となり、教室の廊下で待っていると四宮先生が現れ、二人で進路相談室へと移動した。
椅子に腰かけ、四宮先生に視線を合わせると、案の定話題はテストのことであった。
「川瀬くん、今回のテストだけど、何かあったのかしら?」
「いいえ、何もありませんよ?ただ僕にも分からない問題があったというだけです」
「それは…そうかもしれないけど、川瀬くんがあんな初歩的なミスをいくつもしていたなんて、とてもこれまでからは想像できないの」
これまでのテストでは、僕は一つのミスもすることなく満点を取り続けていた。
やはりそのことが、四宮先生の中で大きな引っ掛かりを生んでいるらしい。
「あまり余計な詮索をするべきでないことは分かっているのだけど…もしかして、水本さんたちと何かあったの?」
四宮先生はそう尋ねてきたが、僕がテストの点数を下げたことに進さんたちは関係していない。
今回のは、ただの集中力不足が招いた僕自身による結果であるため、そのことを四宮先生に説明する。
説明すると、四宮先生は一応納得してくれたようで、
「『次』のテストに期待しているわね」
と声を掛けてきた。
「次」なんて…。
四宮先生が「これから」の話をしてきたことに、僕の黒い感情が顔を出そうとする。
一々「どうでもいいこと」に反応しそうになる自分をうざったく思うが、それも後もう少しだ。
こんな自分であることを呪うのは、今じゃなくても良い。
四宮先生との話が終わったので、僕は進路相談室から出ようとする。
「失礼しました」と声を掛け、扉を締めようとすると、
「川瀬くん、何かあればいつでも相談してちょうだい」
と、四宮先生は「優しい」表情を浮かべていた。
話している間、四宮先生も僕に「心配」するような目を向けてきていたのだ。
本当に、四宮先生はお人好しなタチの人間である。
しかし、僕なんかにそれほど気に掛けてもらうような価値などない。
僕なんか、もう放っておいてくれ___。
***
十二月二十三日、今日は星乃海高校で二学期の終業式が行われ、昼からは冬休みが始まろうとしている。
体育館での話は先ほど終わり、今は教室で四宮先生が話すのを聞いていた。
「配布した紙にも書いてあるけど、明日と明後日は来年度の『受験』に向けた数学と英語の『対策講座』が実施されるわ。参加は任意だけど、今年までの授業内容で克服しておきたい箇所がある人は、ぜひ参加してちょうだい。冬休みの課題を講座でも扱うから、課題を進めることもできるわよ」
四宮先生の説明を聞いた周りの反応は、
「クリスマスイブとクリスマスに学校来るのもなぁ~」
という声もあれば、
「講座自体は半日だし、勉強して昼からは遊びに行こうよ」
という声もあり、どちらかと言えば「参加をする」人が多いような印象である。
特に、「受験」という言葉と「課題が進められる」という言葉に釣られた人は多いようだ。
「受験勉強は三年生になってからでは遅い」という言葉も耳にするが、意外と周りの生徒たちは「受験」のことを意識しているような様子である。
けれども、僕は受験のことなんて全く考えていなければ、もうそんなことはどうでもいいため、他人事のようにその話を受け流した。
その後、成績表が渡され、二学期最後の登校日は放課後を迎えたのだった。
「今から今年お疲れ様でしたの打ち上げしませんかー!?」
夏にも聞いた覚えのある打ち上げの声が教室に響く中、僕は我関せずといった心持ちで教室の外へと出て行った。
懲りずに打ち上げをしようとする気合いは大したものだが、前回と同じ末路を辿りそうな気配をひしひしと感じる。
他のクラスはまだホームルームが続いている様子であり、廊下を歩いているのは僕しかいない。
静かな廊下、そして階段を通り過ぎ、玄関へとやってきた僕は、下駄箱で靴に履き替え、今日はもうそのまま家に帰ろうと決めた。
そうして、玄関を出ようとすると、
「…川瀬っ」
という愛野さんの声が後ろから聞こえてきたため、僕はその場で立ち止まった。
愛野さんは膝に手を付いており、教室から走ってきたような様子である。
しかし、僕は愛野さんを一瞥した後、そのまま外へと歩みを進めた。
「待って!」
後ろから制止の声が聞こえてくるが、僕は止まるつもりはない。
そう思っていたのに…。
「川瀬!」
僕の名前を呼びながら、愛野さんは僕の腕へと抱き着いてきた。
愛野さんに腕を掴まれているため、僕は前に歩くことができないでいる。
その手を振り払えば良いだけの話なのだが、何故か僕にその手を振り払うことはできなかった。
僕は小さくため息を吐き、
「…何か用ですか、愛野さん?」
と声を掛けた。
たったそれだけで、愛野さんは「嬉しそうな表情」を浮かべた。
僕に、わざと無視されていることは分かっているのに…である。
「…っ」
そんな愛野さんの顔を見ると、スッキリしているはずの胸の奥に「違和感」を覚えてしまう。
何なんだ、何なんだこれは。
愛野さんが「話があるの」と言ってきたため、僕たちはそのまま場所を移した。
人気のないところに移動をすると、早速愛野さんが僕にこう尋ねてくる。
「川瀬は明日と明後日、どっちか予定は空いてたりする?」
どうしてそんなことを聞くのかは分からなかったが、愛野さんはもじもじと恥ずかしそうにしながら、期待を込めた目を僕に向けてきている。
僕はそんな愛野さんに向け、首を横に振った。
「明日も明後日も予定がありますね」
僕の言葉を聞いた愛野さんは、「…そっか」と残念そうな表情を浮かべた。
ちなみに愛野さんに伝えた内容は、半分だけが本当である。
明日の二十四日は、進さんと日奈子さんと日葵さんの三人とごはんを食べに行く予定が入っている。
修学旅行から帰ってきたその日、進さんから電話があり、修学旅行から帰ってきた報告を行った。
その後、進さんから「修学旅行の話も聞きたいし、みんなでごはんを食べに行かないかい?」と誘われたのだ。
僕はその申し出を断ったのだが、去年の夏休みに断っていたこともあり、僕の意見は通らなかった。
『日葵がどうしても…と言っているんだ』
進さんのその言葉に、僕は押し黙ることしかできなかった。
そして、二十五日にごはんを食べに行こうという提案だったところを、僕は「二十四日なら」と渋々妥協案を提示し、二十四日になったというわけである。
しかし、二十五日に予定が入っているというのは、全くの嘘だ。
本当は、その日に予定なんて入っていない。
けれども、僕はそのことを愛野さんに話すつもりはない。
いや、話す必要がない。
「愛野さんは、どうして僕なんかにそんなことを聞いてきたんですか?」
愛野さんは、僕の言葉を聞いて眉を下げたままだったので、思わず理由を尋ねてしまった。
すると、愛野さんは頬を染めながらこう口を動かした。
「えと、明日と明後日ってクリスマスイブとクリスマスでしょ?だからね、その…川瀬とお出掛けできないかなぁって思ったのっ」
愛野さんの姿は、足湯のところで「好意」を伝えられた時と重なって見える。
愛野さんは、僕なんかと外出がしたかったらしい。
それは、何とも不可解な話である。
…僕なんかと外出しても、意味なんてないのに。
「折角のクリスマスなんですから、僕なんかよりも他の人たちといる方が楽しいですよ」
僕は、愛野さんには「他の人たち」と一緒に楽しい時間を過ごして欲しい。
愛野さんは、あんなにも沢山の「友だち」がいて、人気者として「愛されている」のだから。
しかし、愛野さんは表情を曇らせる。
そして、愛野さんは僕にこう言ってきた。
「…私は、川瀬から僕『なんか』なんて卑下する言葉、聞きたくない…っ」
そのまま彼女の目には涙が浮かび始めた。
まただ、また「違和感」が体の中を駆け巡る。
愛野さんが、どうしてそんな顔をするのか、僕には分からない。
分からない、分からない…っ。
「分からないんだよ!」
もう何も分からない。
何だ?
何なんだ?
愛野さんを見ると、「二人」の記憶が掘り返される。
「俺」は、父親だった人との記憶も、母親だった人との記憶も、全部、全部捨てたんだッ!
「…川瀬っ?」
俺は愛野さんに背を向け、その場から離れたい一心でただその足を走らせた。
愛野さんが追ってくる気配はない。
それでも尚、俺は「何か」から逃げるようにひたすら走った。
自転車の元にたどり着き、呼吸を整えた後、俺は自転車に乗り込み学校の外へと飛び出した。
周りに見える景色が、いつもより寂しく目に映る。
何だ?
俺は何でこんなことをしてるんだ?
もう自分が何を考えているのか、俺には何一つとして自分自身が分からない。
ただあるのは、俺は「いなくなった方が良い」という、もはや理由すらも分からない強迫観念だけだ。
俺は、僕は、いなくなるべきなんだ___。
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