#61 笑顔
母親「だった」人が言っていた。
『朔、高校生活はとても楽しくて、あなたのかけがえのないものになるはずよ。勉強したり、部活をしたり、友だちを作ったり…好きな人ができるかもしれないわねっ、ふふっ。朔の高校生活が、私は今から楽しみだわ』
それを聞いたのは、中学三年の三者面談を終えた後だっただろうか。
彼女が学生時代に通っていた高校は、「星乃海高校」だった。
そして彼女は、「星乃海高校」での思い出をいつも楽しそうに語っていた。
だからだろうか、当時は彼女と同じようにその高校に入りたいという思いがあった。
今になって思えば、なんて馬鹿なことを考えていたのだろう。
クリスマスにあの出来事があり、僕の中からそんな思いは消えてなくなった。
しかし、何故か僕はそのまま星乃海高校を受験していた。
どうして他の学校を選ばなかったのか、僕には今でも分からない。
僕を裏切った人が通っていた学校なんて、僕は「大嫌い」なはずなのに。
『朔が星乃海高校に通うかもしれないなんて、夢みたい』
進路希望調査に「星乃海高校」と書いた日の彼女の言葉が、今も脳裏にちらつくことがある。
でも、今となってはどうでもいいことだ。
頭の中から、彼女との「記憶」がぼろぼろと崩れていく。
僕にはもう関係ないのだから___。
***
次の日の朝、僕は一睡もできなかったはずなのに、頭はスッキリとして調子が良かった。
昨日のアルバイトで戌亥さんと柄本さんにお土産を渡すと、喜びを見せるかと思いきや、二人は何故か「心配」するような表情を浮かべていた。
欲しがっていたはずのお土産を渡したはずなのに、どうして二人はあんな顔をしていたのだろう。
やたらと僕の顔を見てきていたが、何か顔に付いていたのだろうか?
まぁ別に「どうでもいい」。
今日は昨日に引き続き雨模様だったが、僕の気分は晴れているため、天気は何も気にならない。
それどころか、そもそも雨音すらほとんど耳に入ってきていない。
昨日からなのだが、周囲の「雑音」が聞こえてこないというような、不思議な感覚を僕は味わっている。
心の内にあるのは、ただひたすらの「静寂」だ。
僕は、自分一人の世界にいるようだった。
まだほとんど誰もいない廊下を歩き、教室の扉を開けると、
「川瀬」
と、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。
教室に入ると、そこには愛野さんと南さんの二人がいた。
「おはようございます。お二人がこんな時間から学校にいるなんて珍しいですね」
僕がそう声を掛けると、愛野さんと南さんは「心配」するような表情を浮かべた。
それは、昨日の戌亥さんや柄本さんと全く同じ表情だ。
どうして二人もそんな顔をするのだろうか?
僕が首を傾げていると、
「…昨日、流歌ちゃんからね、川瀬の様子がおかしいっていう連絡がきたの」
と愛野さんは話し掛けてきた。
「だから、『心配』になって、今日は早めに登校したんだ」
どうやら昨日のバイトが終わった後、戌亥さんは愛野さんに「僕のこと」を連絡していたようだ。
その連絡を受け、僕なんかのためにわざわざいつもより早く登校してきたらしい。
益々意味が分からない説明を疑問に思うと同時に、僕の様子がおかしいという言葉に引っ掛かりを覚えてしまう。
「僕は至っていつも通りですよ?なんなら調子が良いくらいですから」
とりあえず僕がそう答えると、反対に愛野さんは沈んだ表情を見せた。
愛野さんより少し後ろにいる南さんもまた、「信じられない」ものを見るかのような目を向けてきている。
「…ねぇ、川瀬?何かあったの?」
愛野さんはそう尋ねてくるが、僕に思い当たる節なんて「一つも」ない。
「どうしてですか?」
逆に僕がそう聞き返すと、愛野さんは、
「川瀬の顔色が悪いから…」
と伝えてきた。
朝に鏡で自分の顔を確認したばかりだが、そんな驚かれるほどに顔色は悪かっただろうか?
更に愛野さんは僕に目を合わせ、「悲痛さ」を感じさせる声でこう指摘してくる。
「…どうして、どうして川瀬は、そんなに『辛そうな顔』で笑ってるの…?」
僕が笑っている?
自分の顔に手を伸ばすも、触っただけでは何とも自分の表情は分からない。
ただ、どうやらそれが、愛野さんや南さんが顔を曇らせている原因であるらしい。
「そうなんですか?自分からは何も分かりませんね」
僕は別に辛くもないし、そんな心配されるような表情を向けられる筋合いもない。
しかし、二人は「心配」の色を濃くさせるばかりであるため、そんな状況に僕は「腹が立ってきた」。
こんな感覚を覚えたのは、本当にいつ振りだろうか?
胸をムカムカとさせるような衝動性に、自分の感情の制御権を持っていかれそうになる。
僕はそれをグッと抑え込み、二人に顔を向けた。
「僕なんかのことを心配してくださりありがとうございます。ですが、本当に僕は何ともないので、これ以上二人が気にする必要はありませんよ?」
僕はいつもの感じを心掛け、ゆっくりと二人にそう伝えた。
暗に、「これ以上関わるな」という意思を込めて…。
それでも尚、愛野さんは「でも…っ」と渋るような反応を見せたので、
「…どうして僕のことを気にするんですか?」
と、僕は声のトーンを下げて愛野さんに問いかけた。
すると、愛野さんは真剣な表情を浮かべ、僕にこう言ってくる。
「『好きな人』が辛そうな顔をしてるから…」
その言葉を聞き、僕は吐き気を催してきた。
あんなに気分が良かったのに、今は胸にこみ上げる不快感のせいで全てが台無しだ。
そして、僕はその感情に流されるまま、言わなくても良いことを口に出してしまった。
「…そんな気持ちは全部『嘘っぱち』だ」
「え…っ?」と愛野さんが固まっている間に、僕は荷物も置かずにそのまま教室を出て、トイレに足を向けた。
後ろから「…川瀬っ!」と呼ぶ声が聞こえていたが、僕が振り返ることはなかった。
そして個室に入り込み、僕は胃の中のものを全て吐き出した。
酸っぱくて気持ちの悪い感覚が口の中に広がるが、吐き出すと同時に怒りによるムカムカも外へ出たような気がする。
やはり、愛野さんにはペースが狂わされる。
その理由は分からない。
だが、それも今ではどうでもいい話だ。
全てが「解決」すれば、こんなことで悩む必要すらないのだから。
トイレの鏡に映る僕の顔には、確かに「笑顔」が浮かんでいた___。
***
昼休みとなったが、今日はあまりお腹が空いておらず、読書をする気分でもなかったので、僕はあてもなく廊下を歩いている。
すると、見覚えのある男子が複数人で会話しているところを目撃した。
その男子というのは、昨日僕に正面玄関で話し掛けてきた男子のことであり、彼が話しているのは坂本くんたちだった。
「やっぱり」と言ったところだろうか、彼の話す内容や雰囲気は坂本くんとほとんど同じだったことからも分かるように、彼らは親しい関係にあったらしい。
まぁそれを知ったところで、何かが変わるというわけでもない。
そして、彼らが話している後ろを通過しようとした時、
「おい、止まれよ」
と、昨日の男子が再び声を掛けてきた。
「なんですか?」
「なんですかじゃねえよ!俺らの前からいなくなれって言ったよな!?」
彼がいきなり大声を上げたことで、廊下にいた周りの生徒たちは一斉にこちらを見てきた。
「チッ…」
彼はバツが悪くなった顔を浮かべ、「ちょっと来いよ」と言いながら僕に付いてくることを強要してくる。
それを面白がった坂本くんたちも一緒に移動し、そのまま僕たちは階段の踊り場へとやってきた。
その直後、僕はどういうわけかその六人の男子に囲まれてしまった。
「なぁ、コイツと何があったんだよ?」
坂本くんは昨日の男子がいきなり声を上げたことに興味があるようで、彼は坂本くんたちに昨日の出来事を説明し始めた。
そして、修学旅行の夜に愛野さんと僕が話していたという内容を聞かされた彼らは、僕のことを強く睨みつけてくる。
また、このグループのリーダー的な立ち位置である坂本くんは僕の胸倉を掴み、
「お前、調子に乗り過ぎなんじゃねえの?」
と「嫉妬」の視線をぶつけてきた。
胸倉を掴まれることは昨日既に体験済みであるため、僕は「ちょっと苦しいな」くらいの感想しか浮かんでこない。
「それで、俺は言ってやったんだよ、俺らの前からいなくなってくれって」
彼は己の武勇伝を語るかのように、鼻を膨らませて昨日の言動を自慢している。
それに対し、坂本くんたちは、
「…なんで愛野さんとこんなヤツが…」
「俺やっぱりコイツのこと嫌いだわ」
「てか、こんなヤツが愛野に構ってもらえてるのとか意味分かんねえよな」
などと、口々に僕を非難し始めた。
随分と「嫌われ者」になってしまったことに対し、僕は思わず嗤いそうになってしまうが、彼らの言葉に感情が揺さぶられることは何一つとしてなかった。
しかし、僕が黙っているのを「効いている」と勘違いした彼らは、
「お前なんて『いなくなれ』よ!」
という言葉を僕に浴びせ始めた。
廊下や教室の雑音は耳に入ってこなかったのに、彼らの「非難する声」は耳へと入ってくるため、自分の世界をむやみに干渉されているような気がしてくる。
僕は、彼らからの「いなくなれ」コールを受け止め、「安心してください」と彼らに向けて口を開いた。
「僕は皆さんの邪魔をするつもりはありませんから」
そうして僕は、彼らの囲いを歩いて抜け出し、そのまま教室へと戻ろうとした。
しかし、「ちょっと待てよッ!」と坂本くんが腕を掴んでくる。
すると、僕は朝の時のようにイライラとした気持ちが湧き上がってきた。
今度はその感情の赴くまま、表情を取り繕いもせずに、
「…放せよ」
と僕は声を出した。
僕にギョッとするような顔を向けたまま、坂本くんは腕を放してくれたので、僕はそのまま教室への歩みを進めた。
後ろから一拍遅れて僕の悪口が再び聞こえ始めた気がしたが、すぐにその声も聞こえなくなった。
僕は、ただの「邪魔者」だから。
「邪魔者」は、「邪魔者」らしく、いなくなるから。
…それなのに、どうしてそんな酷いこと言うの?
一瞬変な思考が頭をよぎった気がしたが、すぐに僕は忘れてしまった。
僕に余計な思考は必要ない。
ただ「いなくなること」、それだけを考えておけば良い。
教室に向かっている時、廊下の喧騒はほとんど耳に入ってこず、まるで誰もいないような感じだった。
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