第九章 二年生編 川瀬朔
#59 歪な少年
俺は「家族」が大好きだった。
父親の名前は水本歩。
弟である進さんのようにシュッとしたイケメンというわけではないが、いつも優しい笑みを浮かべている、俺のカッコいい自慢の父さんだった。
父さんが怒ったところを、俺は見たことがない。
いつも「優しさ」を眼鏡の奥に宿し、俺のことを見守ってくれていた。
そして、父さんはいつも俺を褒めてくれた。
『自慢の息子だ』
それが父さんの口癖だった。
そんな父さんの喜ぶ顔が見たくて、俺は勉強やスポーツを頑張った。
「神童」などと言われ始めたのはその時からだが、全ての原動力は、父さん、そして「母さん」なのである。
母親の名前は水本咲希。
栗色の綺麗な髪をゴムで留め、いつも優しい笑顔を浮かべていた。
授業参観などで学校に母さんが来れば、周りの「友だち」が「朔の母ちゃん美人だな!」と言ってくるほど母さんは若々しく、俺の自慢だった。
母さんも父さんと同じように「優しい人」で、俺を怒るなんてことは一度もなく、何かあるたびに優しく頭を撫でてくれた。
年齢が上がるにつれて気恥ずかしさはあったが、それ以上に俺は、その瞬間を心地良く思っていた。
そんな両親が俺にいつも言っていたことがある。
それは、
『人には優しさを持って接しなさい』
という言葉だ。
俺の両親は、それほどまでに「優しさ」に溢れた人たちだった。
以前に進さんはこう言っていた。
「僕は大人になった今でも兄さんには敵わないよ」
それを聞いた当時の俺は、
「でも、父さんは『進は僕よりハンサムだ』っていつも話してるよ?」
なんてことを返した気がする。
「あははっ!朔にも分かる時がくるよ」
その時、進さんはそう言って、俺の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。
そんな二人の「教え」は、それからの俺の生活に影響を与えた。
「困っている人に手を差し伸べること」を自分の目標にし、俺は少しでも大好きな二人の背中に追い付こうと頑張った。
中学校に入り、「友情」というものが信じられなくなった後も、俺のこの目標は変わらなかった。
俺には大好きな「家族」さえいれば、それで良かったのだ。
しかし、中学三年の十二月二十四日―クリスマスイヴの日―、俺の「幸せ」な生活は突如として終わりを迎えた。
___父さんが不倫をしていたのだ。
この日、夜ごはんの時間になっても父さんは帰って来ず、母さんと夜ごはんを済ませて自室に戻っていると、一階から二人の言い争う声が聞こえてきたのだ。
何かまずいことが起こっていると感じた俺は、足音を立てないように階段を下り、リビングへと耳を近付けた。
中の声は途切れ途切れにしか聞こえてこなかったが、「別の女性」や「隠し事」というようなことを母さんが言い放ち、父さんがそれを「違う」と否定しているようだった。
そんな断片的な情報から、もしかしたら父さんが「不倫」をしているのではないかと俺は考えてしまった。
父さんに限ってそんなことはないと信じたい一方で、ここ数ヶ月の間、母さんにほんの少しだけ元気がないことにも俺は気付いていた。
それに、今日だけでなく、ここ最近は父さんの帰りが遅かった。
父さん、嘘だよね?
しかし、どんどん「そうである」という感情に俺の思考は支配されていき、他のことが考えられなくなっていった。
そしてリビングから、『最低』という母さんの声が聞こえてきた。
その直後、リビングの扉が勢いよく開き、父さんだけが廊下へと出てきた。
「…っ!朔…」
俺はそんな父さんとばっちり目が合ってしまい、父さんは驚いたような表情を浮かべた。
リビングの扉を閉めた父さんは、固まったまま動けない俺の目の前までやってきた後、不意に自分の手を俺の頭に置き、こう話した。
「…朔、すまないね」
___その時の父さんの表情は、何だか寂しさを感じさせる、そんな力のない笑みだった。
父さんは僕の頭から手を離し、そのまま家の外へと出て行った。
そして、これが父さんとの最後の会話になった___。
***
次の日、まだまだ日が昇ってもいないような時間に警察の人がやってきて、「父さんが亡くなった」ことを僕と母さんに伝えた。
昨日の夜、家を出て行った後だろう…車で交差点を直進しようとした父さんに、信号を見ていなかったトラックが突っ込んだらしく、そのまま父さんは帰らぬ人となった。
その事実を伝えられた時、母さんは膝から崩れ落ち、ただひたすら嗚咽を漏らしていた。
あんなにも胸が苦しくなるような涙をこれまでに見たことがなく、俺は母さんに声を掛けてあげることすらできなかった。
そこから簡単な事情聴取を受け、しばらくして警察の人は帰って行った。
帰る直前の「事故処理の連絡は日を追って連絡します」という彼らの言葉は、俺には酷く冷たさを孕んでいるように感じられた。
そこからお昼となるも、食欲が湧いてくるはずもなく、母さんは「少しだけ一人にさせてね」と俺に悲痛な「笑顔」を見せ、二階へと移動していった。
テレビのあまりにも「場違いな」明るいクリスマスのニュースをぼんやり眺めていると、上から母さんの泣いている声が聞こえてきた。
しかし、俺は「父さんが死んだこと」に対して涙が流れることはなかった。
胸を締め付けるほどの痛みや、ぽっかりと穴が開いたような空虚な気持ちが大部分を占めていたものの、ほんの少し「因果応報」だと思う冷めた気持ちがあるのもまた事実だった。
この冷たい感覚は、「親友」だった男に「裏切られた」あの時と似ていた。
大好きな「父さん」への思いが、黒い何かに塗り潰されていく。
それは、とても不快で、気持ちが悪かった。
そこから一時間ほど経ち、母さんがリビングに戻ってきた。
目元は赤く、瞳からもハイライトが消えて、とても「大丈夫」な雰囲気ではなかったのに、
「朔、もう大丈夫よ」
と、いつもの「優しい笑顔」を母さんは向けてきた。
「予約しておいたケーキを受け取りに行きましょうか」
十二月二十五日、ちょうどクリスマスのこの日は俺の誕生日だ。
俺の誕生日がクリスマスなこともあり、いつもは三人でクリスマスケーキを食べていた。
しかし、今日はこんな状況だ、ケーキなんて…。
俺は母さんに「ケーキはキャンセルしよう」と言おうとしたが、結局その言葉を伝えることはできなかった。
母さんが無理をしてまで「明るい雰囲気」にしようとしていたこともあり、その言葉を口にしたら、更に母さんを悲しませてしまうと思ったからだ。
「うん、そうだね。準備してくるからちょっと待ってて、母さん」
身支度を整えた後、俺は母さんと一緒に家の外へと出た。
父さんが車を乗って出て行ったため、家の前に車はなく、何だか正面が殺風景に感じた。
目的のケーキ屋は最寄り駅のすぐ近くにあるので、車を使わずに行けるのは幸いだった。
その道中、母さんはまるで「何事もなかった」かのように、「いつもの感じ」で俺に話し掛けてきた。
その状況と雲一つない冬空の「場違い」感に、俺の気持ちは曇っていった。
ケーキを受け取って自宅に帰ってきた後、俺は自分の頭を整理する時間が必要だと感じ、自室の椅子へと深く腰掛けた。
しかし、何を考えれば良いのか全く思い浮かばなかったので、気を紛らわすかのように冬休みの課題へと取り掛かった。
少しすると、階段の下から俺を呼ぶ声が聞こえてきたので顔を出すと、母さんが買い物に出掛けてくるとのことだった。
母さんを一人で行かせることに不安はあったが、母さんにも一人で心を落ち着ける時間がまだまだ必要だと思い、俺は「いってらっしゃい」と笑顔で母さんを見送った。
そして、母さんが家を出てから五分ぐらい経ったところで、俺のスマホが音を鳴らした。
その相手は進さんだったので、「もしもし…」と電話に出ると、
「…朔っ!大丈夫だったかい!?」
というように、焦りを滲ませた進さんの声が聞こえてきた。
それに大丈夫だと答え、少しの間進さんと会話を行った。
警察の方からも進さんに連絡が行っていたようで、今から事故処理に向かうとのことだった。
母さんには既に連絡を取っていたそうで、父さんの事故処理は進さんが全て引き受けてくれるらしい。
何から何までお世話になってしまっていることに申し訳なさを感じていたが、
「今は咲希さんも朔も、ゆっくりと気持ちを落ち着ける時間が必要だからね」
と言ってくれたので、俺はその厚意に甘えることしかできなかった。
進さんも、母さんと同じくらい辛いはずなのに。
父さんと進さんは本当に仲が良く、進さんは父さんのことを一人の人間として尊敬していた。
そのため、そんな進さんに対し、父さんが「不倫」をしていたことなんて伝えることはできなかった。
進さんは、事故処理や諸々の手続きが終わる明日にこっちへ来てくれることになった。
本当は今日中に向かおうとしてくれていたが、進さんには日奈子さん、そしてひまちゃんがいる。
俺の家の都合で、ひまちゃんが毎年楽しみにしているクリスマスの時間を悲しいものにはして欲しくなかった。
なので、ひまちゃんには今日のことをしばらく伝えないようにと進さんにお願いし、来るのも明日にしてもらった。
そうして俺は進さんとの電話を終え、大きく深呼吸をした後、再び冬休みの課題に取り組み始めた。
正直頭はほとんど働いていないが、それでも手は動き続けた。
その解答が合っているかどうかは、また後で考えれば良いだけだ。
とりあえずこの時は、ただ何かに集中していたかった。
そのまま夜ごはんの時間になるまで、俺は課題に向き合い続けたのだった。
***
お風呂に入り、夜ごはんを食べ終えた後、母さんが食後のデザートとして「誕生日ケーキ」を持ってきた。
それを「三つ」机の上に置き、母さんは俺を慈しむような、そんなくすぐったい笑みを浮かべ、
「朔、十五歳の誕生日おめでとう」
と、優しい声で俺の誕生日をお祝いしてくれた。
「ありがとう、母さん」
お祝いの返事をすると、母さんは俺に「一枚のハンカチ」を渡してきた。
そのハンカチは、「五年ごと」に母さんが縫ってくれる手作りのハンカチだ。
母さんの趣味の一つに裁縫があり、「成長を形に残したいから」という理由で、五歳の時と十歳の時にもハンカチをもらっていた。
今回も十五歳の時にもらったとすぐに分かるように、ハンカチの右隅には「15」の数字が縫い込まれていた。
「大事にするね!」
俺が感謝を伝えると、母さんは「朔…大きくなったね」と言いながら、俺の頭をいつものように優しく撫でてきた。
俺が心地良さからされるがままになっていると、母さんはその目に涙を浮かべ、いきなりこう言ってきた。
「朔、生まれてきてくれてありがとう」
脈略のないその言葉に、
「か、母さんっ、いきなり何なのさ」
と、俺は何だか気恥ずかしくなった。
そして、その恥ずかしさを誤魔化すように、「ほら、ケーキの続き食べちゃおう?」と俺は話を反らそうとした。
その瞬間、母さんが俺のことを優しく抱き締めてきた。
いつもの母さんとは違う様子に、「ど、どうしたの?」と俺は困惑を隠せないでいた。
母さんは俺を抱き締めたまま、ひとつひとつの言葉に「想い」を乗せるかのように、ゆっくりと口を開いた。
「朔、あなたは私と『歩さん』の大切な、大切な宝物よ。あなたが私たちの子どもとして生まれてきてくれて、本当に良かった。朔は頭が良くて、運動もできて、優しくて、私たちの『自慢の息子』よ。あなたがこれからどんな人生を送って、どんな人と出会うのか、本当に楽しみ。だからね、朔、これからも私たち二人に、あなたを見守らせてね」
俺にはどうして母さんがいきなり「そんなこと」を言い始めたのかが、全く分からなかった。
母さんからの「愛情」を沢山受け取るにつれ、「嬉しさ」とは別に、言葉にできないような漠然とした「不安」も感じ始める。
しかし、母さんから伝わってくる「温かさ」と、トクトクと一定のリズムを奏でる心臓の「安心感」から、俺は身動きが取れずにいた。
大好きな母さんの温もりに、もっとその身を委ねていたいと思ったからだ。
不安と安心の矛盾した感情に翻弄をされていると、母さんは俺のことをぎゅっと抱き締め、こう言葉を紡いだ___。
___朔、愛しているわ。
母さんから真っ直ぐな「愛情」を伝えられ、流石に恥ずかしさの限界がきた俺は、
「もお、母さんってば、十五歳の誕生日なのに大げさだよ」
と言いながら母さんの腕から離れ、残っていたケーキを口の中に詰め込み、
「俺、もう寝るからね、おやすみっ!」
と伝え、照れ臭さを隠すようにしてリビングを後にした。
(本当に大げさだな母さんは。来年も俺の誕生日はあるっていうのに)
歯を磨き、自室に入ってベッドに寝転がると、すぐに瞼が重くなり始めた。
朝早くから警察が来たり、父さんのことがあったりして、思っていた以上に体は疲れていたようだ。
そう言えば、恥ずかしさのあまり食器を洗わずにここまで来てしまった。
しかし、もう眠気には抗えそうにないので、明日母さんに謝れば良いかと思い、俺はゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏には、リビングを出る時に見えた母さんの「儚げな笑み」が映っていた。
どうしてそんな顔をしていたんだろうと考えてみるも、結局答えを見つけることはできなかった。
それもまた、明日母さんに直接尋ねれば良いだろう。
そして、水本朔は眠りにつくのだった___。
***
朝、目を覚まして体を起こすと、丸一日寝たかのような倦怠感が体を襲ってきた。
時間を見ると普段よりも二時間くらい長く寝てしまっていたようで、「寝過ぎたな」と俺は思った。
どれだけ寝ていても怒られるということはないが、母さんは「家族で一緒にご飯を食べること」に強いこだわりを持っている人なので、朝ごはんをすっぽかしてしまったことに何か言われるかもしれないなと俺は苦笑した。
とりあえず、昨日の食器のことも含めて謝ろうと思い、「おはよう、母さん」と言いながらリビングの扉を開けると、そこには誰もいなかった。
「あれ?母さん、いないの?」
昨日の食器は綺麗に片付いていたが、台所に誰かがいたような痕跡はなかったため、
(母さんも昨日の疲れがあって寝ているのかもしれない)
と俺は考えた。
しかし、母さんが起きてくるまでリビングで待っておこうと思ったのだが、何だか急に嫌な予感がし始めたため、俺は母さんの部屋をこっそり覗きに行くことにした。
母さんが眠っているならそれで良い…。
俺がただ勝手に勘違いをしたというだけだから…。
二階の母さんの部屋にたどり着き、俺はコンコンと小さくノックをした。
中から反応はないので、試しにドアレバーを下げてみると、扉に鍵が掛かっていないことに気が付いた。
「母さん、部屋入るからねー」
一声掛け、そのまま扉を開いて中に入ると、そこにも母さんの姿はなかった。
リビングにも自室にも母さんがいないことを知り、俺の心臓は何故かドクドクと心拍数が速くなった。
「母さーん!どこー?」
そのまま俺は、焦る気持ちに背中を押されながら、家にある部屋を一つずつ確認していった。
父さんの部屋、いない。
和室、いない。
トイレ、いない。
リビング、やっぱりいない。
そして、残すところはお風呂場だけとなった。
シャワーの音は聞こえていないが、母さんが珍しく朝からお風呂に入っているという可能性もある…玄関には鍵が閉まっており、鍵もリビングにあったため、もうここしか選択肢はなかった。
「母さん、入るからねー」
もし母さんが入っていたら…ということを想像し、お風呂場に突撃することは若干気が引けたが、それでも確認しないわけにはいかなかった。
脱衣所の扉を開け、中に誰もいないことを確認した後、俺は浴室の扉をゆっくりと開いた。
すると、そこに母さんはいた。
右腕を浴槽に入れながら、ぐったりとした状態で___。
「…あ、ぁえ?か、母、さん…?」
俺はそんな母さんを見て力が抜けてしまい、そのまま浴室に尻もちをついてしまった。
「な、なんで…?」
浴槽には水が張られており、その水は赤く、ただただ赤く染まっていた。
次第に俺の頭は、この赤色の正体が、母さんから流れ出た血だということが分かった。
そして、そんな母さんは、ピクリとも動かないでいた。
「な、んで…なんで、なんでッ!?」
俺は、自分の胸の奥の大切な何かが、音を立てて崩れていくのを感じた。
母さんをこのままにしておくのはまずいと本能が訴えてきたため、俺は体勢を崩したまま、母さんの腕を浴槽から出そうとした。
そのまま母さんの体に触れると、母さんが驚くほど冷たくなっていることに気付いた。
「うぁ…っ!?」
俺は驚きの声を上げ、母さんから手を離してしまった。
昨日はあれほど温かかったのに、今は温度を一切感じさせないほど冷たかった。
その理由を考えてしまった俺は、
「うそだ、うそだうそだうそだッ!!」
と、自分が「思い浮かべてしまったその理由」を受け入れないために、必死に頭を掻き毟った。
しかし、俺の頭は、残酷にもその理由を受け入れようとしてしまっていた。
___母さんが、死んだ。
俺が猛烈な頭痛を感じ始めた時、家のインターホンが音を鳴らした。
誰がインターホンを鳴らしたのかすぐに気付いた俺は、ただがむしゃらに玄関の方へと走っていき、扉を開けてこう言った。
「進さんッ!!母さんが…母さんがッ!!」
インターホンを押したのはやはり進さんであり、進さんは俺の様子がおかしいことに気付いたのだろう、
「…!?朔、咲希さんはどこだ!?」
と血相を変え、俺に母さんがどこにいるかを聞いてきた。
そうして俺がお風呂場の方を指差すと、進さんは靴を履いたままその方向へと走って行った。
俺もその後を追おうとしたが、頭痛が酷くなってきたせいで、その場で立っていることができなかった。
必死に痛みを抑え込もうとするも、痛みは増すばかりで体は動いてくれそうにない。
そのまま俺は、その痛みを我慢することができずに玄関で倒れ込むのだった___。
***
目を開くと、ここは俺の自室だろうか、見覚えのある天井が視界に入ってきた。
部屋の電気は付いておらず、辺りは真っ暗であることから、夜になっているとすぐに分かった。
妙に重たく感じる頭を上げ、ベッドから起き上がると、「ついさっき」目の前で起こった出来事がフラッシュバックし、思わず吐きそうになってしまう。
そのまま苦しむ胸を必死に抑え込んでいると、俺の自室の扉がゆっくりと開いた。
「あっ!朔くん、目覚めたのね!ちょっと待ってて、今進さんを呼ぶからね!」
部屋の扉を開けたのは、まさかの日奈子さんだった。
どうして日奈子さんがここに…?という疑問を抱いているうちに、日奈子さんは進さんを連れて俺の部屋へと戻ってきた。
「朔!…良かった、目が覚めたんだね」
進さんが部屋の電気を付けたため、俺はその眩しさで目を細めた。
徐々に目が慣れてくるに従い、俺は改めて進さんと日奈子さんの顔を見ることにした。
そうして進さんの顔を見た途端、俺は母さんのことで頭がいっぱいになった。
「進さん!母さんは、母さんはどうなったの!?」
姿勢を下げていた進さんの肩を掴み、妙にカラカラになっている喉を震わせ、俺は進さんに母さんのことを問い詰めた。
すると、進さんやその隣にいた日奈子さんは「悲痛な表情」を浮かべた。
「母さんは大丈夫だったんだよね!?ねぇ、そうでしょ、進さん、日奈子さん!?」
俺はその表情の意味を知るのが怖くて、進さんの肩を揺らしながら馬鹿みたいに声を張り上げた。
そして、進さんは「良いかい、朔。よく聞くんだ」と真剣な表情を浮かべた後、俺に「本当のこと」を告げてきた。
「朔、咲希さんは…亡くなった」
「は…?」
「君のお母さんは、『二日前』に自殺したんだ…」
進さんは、一体何を言っているのだろうか?
母さんが死んだ…?
そんなわけないじゃないか。
進さんからの話を聞き、俺は現実が受け止められないでいた。
しかし、本当はそうじゃないかって薄々分かっていた。
ただ俺が、その事実を認められないだけだ。
「…っ!朔くんっ!」
俺の様子を見た日奈子さんは、涙を流しながら俺のことを抱き締めてきた。
「咲希さんが亡くなったのは、二十五日の深夜。つまり、朔が発見した時にはもう…」
日奈子さんに抱き締められながら、俺は進さんの話をどこか「他人事」のように聞いていた。
「朔はあの後すぐに倒れて、丸一日以上眠っていたんだ」
進さんの話から、今は二十七日の夜ということが分かった。
俺が眠っている間に、警察が自宅に来たりなどしたらしいが、それもまた進さんが対応をしてくれたらしい。
本当に、進さんには頭が上がらない。
それから進さんが事の詳細を色々と伝えてくれたが、どれも頭には入ってこなかった。
そんな中、進さんが俺にこう尋ねてきた。
「朔は、どうして咲希さんが自殺を図ったのか、その理由に心当たりはあるかい?」
残念ながら、俺にはその心当たりはなかった。
…いや、本当は一つだけある。
それは、母さんが父さんの後を追ったという、何とも「くだらない」想像だ。
母さんは、孤児院の出身だった。
母さんは物心ついた時には施設にいたらしく、自分の両親が誰なのかも分からないと言っていた。
そして、高校卒業後、母さんは父さんと出会い、二人は結ばれた。
しかし、その結ばれる過程にも困難があり、父さんは実家と絶縁することになった。
父さんや進さんの父親、俺で言うところの祖父に当たる人物だが、その人は身寄りがない母さんのことを良く思っていなかったらしい。
それに怒りを見せた父さんは、実家と絶縁するという形で家を飛び出し、母さんと結婚するに至ったそうだ。
だから、俺は父さんの実家には行ったことはないし、祖父や祖母に当たる人たちの顔を見たこともない。
そんな理由もあり、母さんが無条件で頼れる人間というのは、父さんしかいなかった。
そんな父さんが、理由はどうあれ死んでしまったのだ、母さんは生きる意味をなくしてしまい、父さんの後を追ったのだろう。
俺の中では、自殺理由はこれしか考えられないという「確信」があったものの、それを進さんに説明する気にもなれなかった。
それに、二人の諸々の事情を知っている進さんも、俺と同じような推測をしている可能性がある。
そのため、俺はゆっくりと首を横に振った。
「そうか…、つらいことを聞いてしまったね」
そうして、俺に話さないといけなかったことを話し終えた進さんは、続けて俺に深く頭を下げてきた。
「すまない、朔。私が一日早くここを訪れていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに」
進さんの声色から、本当に「後悔」をしていることが感じられたが、次の日に来て欲しいとお願いしたのは、他でもない俺だった。
だから、進さんに何一つとして悪い点はなかった。
俺は日奈子さんに腕を離してもらい、その場で立ち上がった後、
「…トイレに行くね」
と二人に伝え、階段をゆっくりと下った。
そしてトイレに到着し蓋を開いた後、俺は胸を押し上げていた不快なものを全てトイレの中に吐き出した。
それに合わせ、目から涙も流れ始める。
この涙は一体なんだ…?
どうして俺は泣いているんだ?
もう俺には、「悲しみ」の理由が分からなくなっていた。
俺の心は粉々になり、真っ黒な感情が胸の内を支配してきている。
大好きだった父さんは、死んだ。
大好きだった母さんも、死んだ。
二人とも死んだんだ、俺を残して。
母さんは言ってたじゃないか、「これからも私たち二人に、あなたを見守らせてね」って。
全部、全部、全部ッ、嘘じゃないかッ!
何が自慢の息子だ!
何が「愛している」だ!
俺のことなんて、二人にとってはどうでも良かったんだろッ!
ぽっかりと空いた胸の穴に、黒くてどろどろとした何かが満たされ始め、新しい自分に「生まれ変わろう」としている気がする。
その感覚は不愉快なもので、痛みも伴っているはずなのに、何故かスッキリとした清々しさがあった。
俺は、二人に愛されてなんかいなかったのだ。
そう認め始めると、今の今まであった頭痛がすっと消えていった。
父さん「だった」人にとって、この家庭は「どうでもいい」ものであり、母さん「だった」人にとって、この家庭は「都合の良い」ものでしかなかった。
そんな二人からしたら、俺なんていう存在は、まるで「無駄」な「邪魔者」でしかなかったのだろう。
あの人は「宝物」だなんだと言っていたが、そんなものとは正反対じゃないか。
もう俺は、人を信用しない。
もう俺は、「愛情」なんて信じない。
そんなものは全部が「偽り」だ。
___もうどうでもいいや。
トイレを出ると、進さんと日奈子さんが心配そうな表情でこちらを見つめ、
「朔、大丈夫かい?」
「朔くん、大丈夫?」
と声を掛けてきた。
それに対し、
「はい、『僕』は大丈夫ですよ」
と言いながら、僕は不自然なほどに曇りのない「笑み」を浮かべてみせた。
二人は驚いた顔をしていたが、僕はどうして二人がそんな顔をするのか「分からなかった」。
こうして、「愛」を信じることができなくなった「歪な少年」が生み出されたのだった___。
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