#58 宣戦布告
愛野さんは、真っ直ぐ僕のことを見つめてきている。
しかし、僕は頭が真っ白になったまま、何も言うことができないでいた。
それは、昨日桐谷さんから告白をされた時と全く同じような感覚だった。
二日連続で、桐谷さんと愛野さんの二人から告白をされるなんて、誰が予想できただろう。
しかも、この二人はとんでもないほどの美少女だ。
美少女から告白されて喜ぶ…なんて余裕はあるはずもなく、「どうして?」という気持ちがひたすらに大きく膨れ上がっている。
どうして僕なんだ…。
またしても僕は「告白」を受け、黙り込むことしかできなかった。
すると、愛野さんはぷるぷると小刻みに震えだし、
「やっぱり恥ずかしぃ…」
と言って顔を両手で隠した後、声にならない声を出しながら身悶えし始めた。
どうやら我慢をしながら僕の方を見ていたようだったが、僕が何も答えないせいでその限界がきたようだ。
お湯をパタパタと跳ねさせる勢いも強まっており、僕にも愛野さんの「恥ずかしさ」が伝わってくる。
___そんな愛野さんの様子を見て、僕は一瞬「可愛い」と思ってしまった。
しかし、僕はすぐにかぶりを振り、気の迷いだと自分の心を納得させる。
愛野さんは学校一の美少女であり、「可愛い」なんてことは誰にでも分かることだ。
僕は一般的な判断に基づいて、一般的な感想を思い浮かべただけである。
だから、うるさ過ぎるほどに音を鳴らす心臓のことなんか、僕は何も知らない。
しばらくして愛野さんは落ち着きを取り戻し、
「ご、ごめんっ、急に恥ずかしくなっちゃって…えへへ」
と言いながら、変わらず肩が触れ合う距離で僕のことを見上げてきた。
僕もようやく頭が動き始めたところだが、それでも何を話せば良いのか「適切な言葉」を見つけられないでいる。
すると、
「川瀬、少しだけ私に時間をくれる…?」
と愛野さんが尋ねてきたので、僕は黙り込んだまま頷きを返した。
「ありがとっ」と笑顔を見せた愛野さんは、「本当に大切な宝物」を僕に教えるかのように、特別な感情を音に乗せてこう話し出す。
「川瀬はさ、星乃海高校を受験した日のこと、覚えてる?」
どうして愛野さんがそんなことを聞くのか分からなかったが、あの日は朝から色々なことがあったため、今でも僕の「記憶」にはあの日のことが残り続けている。
そのため、僕は「覚えてますよ」と愛野さんに返事をした。
その瞬間、愛野さんは本当に嬉しそうな表情を浮かべた。
そして、愛野さんはその表情のまま話を続ける。
「星乃海高校の受験日にね、私は一人の男の子に出会ったの」
話がいまいち見えてこないので、僕は続きに耳を傾けた。
「その日、私は電車を降り損ねちゃって、もう受験には間に合わない…って、全てを諦めそうになっていたの。そんな時、その男の子が私の前に現れて、声を掛けてくれたんだ。私が落ち込んでいる時も、彼は一生懸命受験に間に合う方法を考えてくれて、自分も間に合わないかもしれないのに『大丈夫』って声も掛けてくれて…。そしたらねっ、駅員さんが自転車を貸してくれて、私たちはその自転車に二人乗りをして学校に向かったの。ふふっ、その時にはもう受験に間に合わないかもしれないっていう不安はなくなってた。それで、私たちは無事に学校に着くことができたの」
愛野さんが懐かしむようにそう語るのを聞き、僕は驚きで愛野さんから目を離せなかった。
語られる内容のほとんどを知っていた僕は、その「男の子」というのが誰なのかを瞬時に理解した。
いや、でもまさか、こんな近くにあの時の「女の子」がいたなんて…。
愛野さんは、僕が「理解」したことに気付いたようで、茶目っ気のある表情を浮かべながらこう告げた。
「私はあの日、男の子の名前を聞きそびれちゃって、次会った時は名前と感謝を伝えようって決めてたの。少し遠回りしちゃったけど、今からそれを果たすねっ」
愛野さんは両手を自分の胸の前で重ね合わせ、咲き誇るような笑顔を浮かべた。
「改めまして、私の名前は『愛野姫花』だよ。久しぶりっ♪」
___あの日、私に声を掛けてくれて、諦めない「希望」をくれて、そして、受験会場まで連れて行ってくれて、本当にありがとうっ!!
…今この瞬間だけは、告白をされたことに対する動揺や胸の違和感などは全て忘れ、あの時の女の子が「合格」をしていたことに、本当に良かったという「安堵」だけが広がるのだった。
***
まさか、あの時の「女の子」が愛野さんだったとは…。
あの日、愛野さんはマスクも付けていたし、何より髪色がピンク色ではなかったので、僕は今の今まで気付くことはなかった。
「いつ、愛野さんは僕だと気付いたんですか?」
「あの時の男の子が川瀬だって気付いたのは入学して二日目かな?名前を知ったのはもう少し後だったけど」
「それはその…気付かずに申し訳ないです」
「ふふっ、全然良いよっ。そもそも、気付いてるのに声を掛けなかった私が悪いんだもん」
「でも、まさかこんな近くにあの日の『女の子』がいたなんて、思いもしませんでした」
「まぁでも~?川瀬から気付いてくれるかなぁ~って期待もしてたけどねっ?」
「返す言葉もありません」
「えへへ、怒ってないよっ。これは、その…ちょっとした『乙女心』だからっ」
そこから、何回か僕にネタバラシをしようとしたという愛野さんの話を聞く一方で、どうして愛野さんが最初からあんなに話し掛けてきたのかが僕には理解できた。
愛野さんは、二年生の最初の時点で僕のことを知っていたのだ。
だからこそ、以前に話したことがあるような距離感で接してきていたのだろう。
それに…その時から既に、僕に対して「好意」を持っていた。
そのことを理解すると同時に、僕の心は痛いほど強く締め付けられていく。
僕は、愛野さんの気持ち「は」知ることができた。
「私は、川瀬の『優しい』ところが、その、好きだよ?」
恥ずかしそうにしながらも、愛野さんは僕の目を見て、はっきりとその想いを口にしてくる。
そんな言葉を聞いて、「嬉しくない」なんてことはなかった。
それは、桐谷さんが理由を話してくれた時も同じだ。
しかし、「嬉しい」とも思えなかった。
二人の女の子から、こんなにも真っ直ぐで「眩しい」想いをぶつけられているのに、僕の胸の奥に蠢くモヤモヤ感は、ただひたすらに大きくなるばかりだ。
奥の方から体を圧迫するような苦しさすら感じ始め、頭もじんわりと痛み出してくる。
桐谷さんはもちろん、愛野さんにも僕は釣り合わない。
どうして、こんなにも眩しくて素敵な女の子たちが、僕なんかのことを「好き」になるのだろうか。
僕はクズで、どうしようもない「欠陥人間」なのに。
昨日の夜にも沢山考えて思ったことだが、「釣り合っていない」などと僕以外の要因を盾に考えてしまう思考そのものが、僕自身の矮小さと醜さをはっきりと表している。
けれど、僕にはこの方法しか取ることができない。
その理由だって、本当はとっくの前から気付いているはずだ。
僕には「愛」が分からない___。
愛野さんが僕を「好き」だということは分かった。
けれども、その「好き」という恋愛感情に対し、僕は何も感じない。
いや、「愛」に関わるあらゆることに対する忌避感とも言えるだろうか、僕は「愛」などという「嘘に塗れた汚い感情」を、もう受け付けないのである。
『…朔、愛しているわ』
うるさい。
うるさい、うるさい。
頭に語り掛けてくる「あの人」の声が、うるさくて仕方がない。
「愛」なんて、人を傷付けるためのまやかしでしかない。
「俺」は、愛なんて絶対に信じない。
僕の心が音を立てて砕けていくような、そんな錯覚を味わう。
そして、真っ黒な何かが僕を飲み込もうとするような、そんな感覚もあった。
こんな「どうしようもない」僕といても、愛野さんを不幸にするだけだ。
やっぱり愛野さんは、こんな僕と関わるべきではない。
今の恋心も、僕が声を掛けてしまったがために抱かせてしまった、「間違った感情」だ。
だから、僕の胸を締め付ける謎の痛みは、早く消えてくれ。
僕は愛野さんと目を合わせ、告白の返事をしようと決めた。
もう二度と、僕には関わるべきじゃないと伝えるために…。
「愛野さん、告白してくれてありがとうございます。返事ですが…」
そうして返事を返そうとすると、
「待って…っ!」
と愛野さんがその返事を止めてきた。
「告白の返事は、今すぐに出さないで欲しいの」
愛野さんはそう僕に告げ、更に言葉を重ねてくる。
「多分、この告白は…上手くいかないよね?でも、私はそれで良いの。だって、これは『宣戦布告』だから」
「宣戦布告…ですか?」
「うんっ。ちょっと想定外の告白にはなっちゃったけど、川瀬にあの日のことを伝えることができたし、えと、私の想いも知ってもらった。だから、私はもう遠慮しないことに決めたの。これからは、私を『好き』になってもらえるように、川瀬にいっぱいアプローチするからっ♪」
そうして、愛野さんは僕の右腕を掴み、僕の耳元でこう宣言してみせた。
「私頑張るから、覚悟してよねっ♪」
冷たくなっている僕の心とは対照的に、右腕からは柔らかくて、それでいてとても温かい愛野さんの気持ちが流れ込んでくる。
僕はそれを必死に否定し、
「そんな価値、僕にはありませんよ」
と自嘲気味に愛野さんへと伝える。
しかし愛野さんは首を横に振り、
「私は川瀬がどうしてそんなに悲しくて、苦しそうな表情をしているのかは分からない…。だけど、その理由を川瀬は話してくれない、よね?」
と僕に問い掛けてくるので、僕は小さく頷きを返す。
愛野さんは、それでも尚心が折れている様子はない。
「だけど、私はこの気持ちを『諦めない』って誓ったから」
「私って、意外と図々しい女の子なんだよ?」と、舌をちろっと出しながら伝えてくる愛野さん。
受験の時に比べて、見違えるほどの「成長」を果たしている愛野さんに対し、
「…愛野さんは、本当に強くなりましたね」
と、僕は思わず呟いた。
あの時は「泣き虫な女の子」という感じだったのに、今ではしっかりと前を向き、自分の行動にも迷いが見られない。
…あの日から何も変わっていない僕とは大違いだ。
僕の周りにいる人たちは、どうしてこんなに「眩しい」のだろう。
僕の呟きを聞いた愛野さんは自慢げな表情を浮かべ、
「川瀬のおかげだよっ♪」
と返してくるのだった。
結局、愛野さんへの告白の返事は、「保留」ということになった___。
***
足湯を後にし、僕と愛野さんはそれぞれの部屋に向かうため、一階のエレベーターへと向かっている。
その道中で、
「修学旅行が終わったら、一学期みたいに話し掛けても良い?」
と愛野さんに聞かれたが、僕はゆるゆると首を横に振った。
愛野さんの気持ちを知った今、「僕が一人でいるのを見かねて愛野さんは話し掛けてくれていた」という坂本くんたちの主張は、言いがかりなのだと僕は分かった。
それでも、僕は愛野さんの提案に頷くことはできない。
再び愛野さんが話し掛けてくるようになれば、また彼らから嫉妬の視線をぶつけられ、同じような流れとなるだけだ。
こうして周りを気にしている時点で、自分の弱さを露呈しているようなものだが、僕はこれ以上、愛野さんと関わるのが怖いのかもしれない。
それに、愛野さんには僕以上に相応しい人がいるという思いは今も全く消えてはいない。
愛野さんのためにも、そして周りのためにも、僕は邪魔をしない振る舞いをする方が良いに決まっている。
色々な思いがごちゃ混ぜとなり、結果として「できない」という反応を返すしかなかった。
僕が首を横に振るのを見て、愛野さんはほんの少し眉を下げたが、
「よしっ、それじゃあ朝とか放課後のちょっとした時に挨拶したり話し掛けたりするねっ♪」
と、すぐに「邪魔にならない範囲」でのコミュニケーションを申し出てくれた。
告白までしてもらった上に、気まで遣わせてしまっている状況に罪悪感がこみ上げてくるが、愛野さんは「全然大丈夫だよっ」と笑って返してくれる。
やっぱり、こんなに「優しくて」魅力的な女の子は、僕なんかに縛られるべきではない。
エレベーターを待つ間、どうしたら愛野さんが「僕を忘れてくれるか」、ただそれだけを考えた。
エレベーターが男子のフロアへと到着し、僕はエレベーターから降りた。
女子のフロアはもう二階ほど上になるため、ここで愛野さんとはお別れである。
後ろを振り返ると、愛野さんが笑顔で手を振りながら、
「川瀬っ、おやすみっ♪」
と言ってきたので、僕も「…おやすみなさい、愛野さん」と返事をする。
そうしてエレベーターの扉が閉まり、僕は静寂に包まれたフロアの廊下を、力のない足取りで一歩ずつ進んでいく。
エレベーターが閉まる直前、愛野さんは声を出さずに口だけを動かして、何かを伝えてきた。
僕はその言葉をしっかりと読み取っていた。
___大好き。
今日もまた、一睡もできそうになかった___。
***
修学旅行最終日、この日は旅館で朝食を食べた後、新幹線で帰るだけの日程であった。
そしてこの日、僕は気付いたら新幹線へと乗り込み、そのままバスと電車を経て、自宅へとたどり着いていた。
結局夜は一睡もできず、頭も全く働いていなかったため、帰るまでに何があったのかすらほとんど覚えていない状態だ。
僕は荷物を玄関に置いたまま、ふらふらとした足取りで自室のベッドへと倒れ込む。
バスが星乃海高校の最寄り駅に着き、解散となった後、何やら愛野さんが話し掛けてくれたような気がするが、僕はなんて答えただろうか。
今はもう、このまま横になっていたい。
目を瞑ると、修学旅行のことが色々と頭をよぎる。
しかし、脳裏にこびり付いて離れないのは、桐谷さんのこと、そして愛野さんのことだった。
僕は、一体何がしたいんだ。
分からない。
分からない、分からない、分からない___。
俺には、二人が見せた恥ずかしそうな顔も、嬉しそうな顔も、そして「恋」するような顔も、全部、全部、分からないッ!
俺には、「恋」も「愛」も必要ないのにッ!
それなのに、どうして俺は「眩しさ」を覚えてしまうんだ。
ベッドで一人蹲るも、俺にはその答えを見つけることができなかった。
___もう、どうでもいい。
四日にも渡る星乃海高校の修学旅行は、こうして幕を下ろした___。
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