#27 先生、酔う
大学の食堂で昼食を済ませた後、櫻子先生による大学見学ツアーが始まった。
櫻子先生の授業を受けた文学棟とはまた別の校舎を覗きながら、帝東大学の雰囲気を見て回る。
「大学によって感じる印象というのはもちろん違うわよ」とは四宮先生の言葉だが、確かに高校でも学校見学が催されたりしているくらいだ、事前にその場所の空気感というものを知っておくのは大事なことなのかもしれないと実感する。
東大に入るか入らないか以前に、「大学」の空気感を知っているか知っていないかだけでも、大きなアドバンテージとなるのだろう。
星乃海高校は見学もせずに入学を決めたため、学校を見学するというのは初めての経験だったが、ぜひ他の人たちは僕のようにならないことを祈るばかりだ。
大学図書館を見学している時の櫻子先生は、
「このコーナーは熱い、オススメだぞ少年!」
と小声ながら変なテンションとなっており、四宮先生が呆れた顔をしていたが、本だけでなく、調べ物をするためのパソコンや自習室の完備など、イメージできる学校の図書室とは似て非なるものであり、大学って色々とすごいんだなという、イリーナ先輩のお家に行った時のような浅い感想がぶり返してくる。
大学図書館を出た後は、外や校舎内で活動している部活やサークルの活動をいくつか見物しつつ、ラグビー部に何故か猛勧誘されるという珍事件にも出くわしながら、僕たちは一日かけて東大のキャンパスツアーを終えたのだった。
「ぷっ、あははっ!川瀬少年がラグビー部の学生に絡まれたのは傑作だったな!」
「櫻子先生が笑って何も言わなかったせいであんなことになったんです」
「ふふっ、でも川瀬くんが困惑したような顔を見せるところなんて見たことがなかったから、私も新鮮な感じがしたわよ」
「…四宮先生まで」
「いやぁ、良いものを見せてもらったよ、少年」
四宮先生が運転席、櫻子先生が助手席、僕が後部座席に座りながら、今は櫻子先生の自宅アパートまで向かっている最中だ。
東大からはほとんど離れていないらしく、車で数分の距離にあるとのことだ。
東大を出た後、時間も気付いたら五時を回っており、帰ろうということになったのだが、
「ご飯に行かないかい少年?」
と櫻子先生に絡まれてしまったことで、僕たちは夜ご飯を食べに行くことになった。
生徒とその担任の先生と大学の先生という意味の分からないメンツだが、こうなってしまった以上は仕方がない、後は流れに身を任せるしかないのである。
目的地に着いたようで、「ちょっと待っててくれ給え」と言い残し、櫻子先生はアパートの方へと歩いて行った。
しばらくすると、荷物を置きに行った櫻子先生が出てきたので、良いお店があるとオススメをしてくる櫻子先生の後を付いていくことにした。
「ここだ!」と櫻子先生が立ち止まり、そのお店を見てみると、
「居酒屋ですか?」
「うむ、少年。居酒屋といっても、少年はまだ未成年だからお酒は駄目だぜ?」
「…なんで居酒屋なのよ、もう」
「だ、だって、料理も美味しいし?個室になってるから話しやすいかなぁと思った次第で…」
「…川瀬くん、あなたが嫌なら別の場所にもできるし、ここはやめておく?」
櫻子先生の首根っこを掴みながら、四宮先生が心配そうな表情で僕にそう尋ねてくる。
しかし、櫻子先生がオススメと言って連れてきてくれたお店でもあるし、担任の先生がいる前でお酒を飲むなんてことは絶対にありえない(四宮先生がいなくても当然飲まない)ので、
「いえ、僕は構いませんよ」
と頷き返すことにした。
四宮先生は優しい笑みを浮かべ、「分かったわ」と口を開く。
「全部サクラの奢りだし、好きなものを頼んでちょうだいね」
「えっ、ちょ…」
そうして僕たちは店内へと入り、個室へと案内された。
「えぇい!今日は好きなものを食べ給え、少年!お姉さんが奢ってあげようじゃあないか!」
櫻子先生がやけくそになっているのを見て、四宮先生が
「…本当にサクラは東大でしっかりとできているのかしら?」
と頭を抱えていたのが印象的で、僕は思わずくすりと笑ってしまった。
***
現在、大変なことが起こっている。
「わたしはぁ~よってにゃんかぁ~ないんだからぁ」
四宮先生が酔いまくっているのだ。
僕と櫻子先生は、顔を真っ赤にしながら「おきゃあり!」とお酒をおかわり注文している四宮先生を見て、何とも言えない表情となっている。
どうしてこんなことになってしまったのか、僕はついさっきまでの出来事を思い返すのだった。
個室へと入り、タッチパネルで料理を注文している時に、
「あたしは飲んでも良いかい?」
と、櫻子先生はお酒を飲んでも良いか尋ねてきた。
四宮先生はジト目を向けていたが、僕は別に何を飲み食いしようが気にしないので、「どうぞ」と返した。
「私は川瀬くんを送らないといけないし、飲まないわよ?」と櫻子先生に伝えていた四宮先生は、言葉の通り水を注文していた。
すぐ近くに駅はあるし、その駅から出る電車でも最寄りの駅まで帰れるので、四宮先生にも気を遣わないで大丈夫だと伝えたのだが、
「大事な生徒をきちんと送り届けるのも担任の仕事だから、川瀬くんは気にしないで良いのよ?」
と、四宮先生は責任感のある「学校の先生」としての表情をしていた。
そうして、「かんぱーい!」という櫻子先生の音頭と共に食事が始まってしばらく経った頃、「そう言えばさ…」と櫻子先生が僕に話し掛けてきた。
「どうしましたか、櫻子先生?」
僕がそう尋ねると、櫻子先生はにやりと口角を上げ、こう言ってきた。
「川瀬少年はメグの高校時代の話を聞いたことはあるのかい?」
櫻子先生がそう言った途端、四宮先生が「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ!?」と急に慌て始めた。
四宮先生が担任となって二年目に突入しているが、そう言えば四宮先生が自分のことを話している場面は少ないなと思い、
「いいえ、聞いたことはありませんね」
と答えると、「これを見給え、少年」と櫻子先生がスマホの画面を見せてくるので、僕はそれに目を向けた。
「川瀬くん、だめよ、見ちゃだめだわ!」
と四宮先生は制止の声を上げているが、止められるよりも先に、僕はその画面に表示された画像を見てしまった。
「これは…どなたですか?」
「あ、あぁ…」
四宮先生が赤くなった顔を両手で隠してしまった一方で、
「これは高校二年の時のメグだぞ、少年」
と、櫻子先生は楽しそうな表情でそう告げた。
その画像に写っているのが四宮先生と聞き、もう一度その画像へと視線を向けると、今の四宮先生からは想像できないほどの大きなギャップに、僕はとても驚いた。
僕が知っている四宮先生は、「クール」で落ち着きのある大人な女性というイメージだが、画像に映っている高校二年生の時の四宮先生は、一言で言えば「ギャル」という見た目をしていた。
切れ長でクールな目元は変わっていないものの、今の髪よりも短いショートボブに赤いメッシュを入れ、制服を着崩しルーズソックスを身に付けている画像の中の四宮先生は、今の四宮先生とは別人のようであった。
「この時のメグは『一匹狼』、いや『女王』って感じで、とにかくめちゃくちゃ尖ってたねー、にゃはは!」
「今の四宮先生との、その、ギャップがすごいですね」
「そうだろう?まさかこのメグが今のそこにいるメグだなんて、少年には信じらんないだろう」
櫻子先生と会話をしている裏では、「…生徒に知られてしまうなんて、終わったわ」と四宮先生の魂が抜けかけている。
何かを言わないと四宮先生が真っ白な灰になりそうだったので、
「ギャップで驚きはしましたけど、幻滅するなんてことはありませんよ?」
と、フォローになっているのか、なっていないのかよく分からないことを伝えると、
「…川瀬くん、ありがとう。少し落ち着いたわ」
というように、四宮先生は少しだけいつもの調子を取り戻したようだった。
しかし、櫻子先生はまだまだ楽しそうな表情を浮かべており、
「少年はどうしてこの画像のメグから今のメグになったのか知りたくないかい?」
と僕の方に尋ねてきた。
四宮先生は首を横にぶんぶんと振っているが、少し、ほんの少しだけ、僕はその理由に興味があった。
ごめんなさいと心の中で謝罪をしつつ、
「興味がないと言えば嘘になります」
と言うと、櫻子先生が「実はね~その時の教育実習で…」と話し始める。
その瞬間、四宮先生はバッと立ち上がり、櫻子先生が注文したばかりのジョッキを手に取って、いきなりぐびぐびと飲み始めた。
「えっ?メグ?」と櫻子先生が声を掛けるも、四宮先生はそのお酒を飲み続け、飲み終わった後にドカッと席に座ると、
「えぇそうよ!?辻先生が理由だけど!?」
と口を開き、自分のお酒を注文した後、いきなりその当時のことを話し始めた。
四宮先生の隣に座っていたのだが、僕は前の櫻子先生の方へと座席を移動し、櫻子先生と顔を見合わせた。
櫻子先生は「あちゃ~…」という顔をしており、僕も何となく面倒臭いことが起こるのではないかという雰囲気を感じ取った。
どうやら、四宮先生はお酒に弱いタイプらしい。
ここまでの経緯を思い返し、今も愉快に当時のことを話している四宮先生を横目に見ながら、僕は櫻子先生に話し掛ける。
「つまり、四宮先生はその辻先生という方に憧れて、教師になったということですよね?」
「うむうむ、そういうことだ少年」
四宮先生の口から説明された内容はというと、
高校二年生の時に、教育実習生として一人の大学生がクラスにやってきた。
その人は辻翔吾(つじしょうご)と言い、当時大学三年生で、数学の授業を担当していた。
実習としてやってきた初日、クラスで一匹狼の女王として君臨していた四宮先生に、辻先生は声を掛けた。
当時の四宮先生は、勉強をほとんどしておらず、勉強というものを強要してくる教師というものが苦手だったそうで、いきなり声を掛けてくる辻先生のことをそっけない態度であしらったそうだ。
しかし、辻先生はそこから何故か毎日話しかけてくるようになり、放課後も勝手に勉強会を開いて、一々四宮先生に関わってきた。
そうして毎日辻先生が関わってくるようになってから一ヶ月が経ち、最後の実習日、ちょうどその日は数学の確認テストがあったらしく、そこで四宮先生は初めて高得点を取った。
そのことを、辻先生は自分のことにように喜んでくれて、そこから四宮先生は勉強にしっかりと向き合い始めたらしい。
実習期間が終わった後も、放課後の時間が合う日は辻先生が勉強を教えてくれたらしく、大学受験では見事辻先生が通っていた大学に合格できたそうだ。
そうして、四宮先生は辻先生のようになりたいと思うようになり、大学で教育について学んだ後、今の星乃海高校で教員となった。
というわけだ。
その辻先生は別の高校で数学を教えているらしく、今でも交流はあるらしい。
四宮先生の話を聞き、僕はこの感じに既視感を覚えていた。
(そうだ、柄本さんや戌亥さんが恋愛トークをしている感じと一緒だ)
どうにも四宮先生からそんな雰囲気が感じられたため、
「櫻子先生、もしかしてですけど、四宮先生ってその辻先生のことが…」
と櫻子先生に尋ねてみると、櫻子先生は四宮先生を優しい目で見つめながら、「そうだよ」と頷いた。
「メグはね、辻先生のことを十年片想いしてるのさ」
そして、「ここだけの話なんだけど…」と櫻子先生が僕の耳に顔を近づけてくる。
「多分というか、ほぼ間違いないというか、辻先生もメグのことが好きなんだぜ?」
僕も声を小さくしながら、櫻子先生に問い掛ける。
「それなら、どうして二人はお付き合いしていないのですか?」
「それが…揃いも揃って二人とも恥ずかしがり屋でお人好しなんだ。きっかけを掴めずに十年間この感じで、ずっと隣で見せられてるあたしの気持ちも分かってくれって感じさ」
「この前三人でご飯に行った時も大変だったんだぜ?」と言う櫻子先生の愚痴に、僕は相槌を打つ。
そうしていると、「にゃにふたりではなしてるのよぉ~」と四宮先生に絡まれてしまったので、
「辻先生はどんな方なんですか?」
というように、咄嗟に思い付いたことを口に出すと、
「ちょっとまってねぇ~」
と、四宮先生はニコニコしながらスマホを取り出し、一枚の画像を見せてくれた。
「このみゃえ~いっしょにごはんいったときにとったのよ~」
スマホごと渡されたので、そのスマホに表示されている画像を近くで見てみると、少し恥ずかしそうにしている四宮先生の隣に、こちらも少し恥ずかしそうな顔で笑顔を浮かべている男性が写っていた。
この笑顔を浮かべている男性が、噂の辻先生なのだろう。
爽やかで人当たりの良さそうな印象を感じさせる男性で、話したことはないが、きっと「優しい人」なのだろうということが伝わってくる。
「さっき言ってた、三人でご飯に行ったときの写真さ」と、櫻子先生も隣でその画像を覗き込んでいた。
すると、「少年、頼みがある」と言われたので、顔を櫻子先生の方に向けると、櫻子先生から「きっかけ作り」の手助けを頼まれた。
「きっかけ」というのは、話の流れ的に四宮先生と辻先生の中を深めるためのきっかけということに違いない。
当人同士の関係に口を挟んでも良いものなのかとは思うが、恐らく櫻子先生もそう考えながら十年間二人を見続けてきたのだろう。
しかし、今日その話を聞いた僕に、そんな劇的に距離が縮まるような方法が思い付くのだろうか?
僕は恋愛ごとには関わりたくないという気持ちがあるのだが、珍しく今は何か方法はないかと頭を悩ませている。
柄本さんや戌亥さんの時のように、四宮先生にも借りがあるからなのか、あるいは…。
ふと手元を見ると、僕は四宮先生から渡されたスマホをまだ手に持っていたことに気付き、一つの案が浮かんできた。
正直あまり褒められた手段ではないのだが、今の四宮先生相手には有効な手段であるとも思った。
そうして僕は、その内容を櫻子先生へと説明する。
「あはははっ!それは中々に強引で、尖った作戦だが…悪くない。よしっ、責任はあたしが取るからそれでいこうじゃあないか」
「流石秀才くんだ」と背中を櫻子先生に軽く叩かれながら、櫻子先生はその作戦を実行し始めた。
「メグ、辻先生の良いところを少年が教えて欲しいそうだ」
櫻子先生は、そう言うと同時に四宮先生のスマホの録画ボタンをポチっと押した。
四宮先生がスマホで見せてきた辻先生との画像は、緑のアイコンのメッセージアプリから表示させた画像であり、画面左上の「×」のところを押すと、二人のトーク画面へと切り替わった。
そのメッセージアプリでは、その場で撮った写真や動画を直接そのトーク相手に送信ができる仕組みとなっているため、四宮先生に辻先生のことをどう思っているか話してもらい、それを直接動画に収め、そのまま辻先生に送ってやろうという何とも強引な作戦だ。
今の四宮先生は酔いに酔いまくっており、さっきから惚気のようにしか聞こえない話もしていたので、上手く作戦には乗ってくれるはず。
「しょうごはね~やさしいしぃ~かっこいいしぃ~わたしのあこがりぇのひとなのよぉ~。であったときからずぅっとやさしくてぇ~わたしがきょおしになるきっかけもくりぇて~もうほんとうにだいすきぃ~ってかんじなのぉ」
さっきまでは「辻先生」と呼んでいたのに、いつの間にか「翔吾」と下の名前呼びになっているのだが、恐らく高校時代はそう呼んでいたのだろう。
自分の担任のこんな赤裸々な告白を聞くのは中々にハードなものだが、作戦を立案したのは僕自身のため、甘んじて受け入れよう。
カメラをこっそりと構えている櫻子先生は、必死にニヤニヤとするのを我慢しながら相槌を打っており、
(実は自分が楽しみたかっただけなのでは…?)
と思わないこともないが、まだ作戦中のため、口を噤んでおく。
「でもぉ~もとをたどせばきょおしとせいとのかんけいだし~しょうごにはもっとすてきなあいてがいるかもしりぇないとおもったらぁ~きもちをつたえりゅこともできなくてぇ~じゅうねんもたっちゃったぁ~えへへっ」
どんどん言葉遣いも怪しくなってきているが、これが四宮先生の偽らざる本心なのだろう。
櫻子先生は二人のことを「お人好し」と言っていたが、辻先生も同じようなことを考えているのかもしれないなと僕は思った。
今はこんな状態だが、普段の四宮先生はクールで美人な先生であり、学校内でも人気の高い先生である。
そんな四宮先生には、もっと自分よりも相応しい人がいるのではないかと考えてしまう辻先生の気持ちも、僕は何となく分かるような気がした。
もちろんこれは僕の憶測にしか過ぎないが、もしそうだとしたら、やっぱりお似合いな二人ではないかとも思う。
お互いがお互いを尊重し合える関係性というものが、とても尊いものであるということを僕は知っているからだ。
…あれ?
…どうして?
…どうして僕はそんなことを知っているのだろう?
少し余計なことを考えてしまったが、すぐにかぶりを振り、僕は目の前の状況に意識を集中させた。
「でも、メグは辻先生のこと、好きなのだろう?」
そう尋ねる櫻子先生の瞳は、授業をしていた時のような真面目なものとなっており、そこには期待をするような、そして「がんばれ」と応援するような、そんな前向きな色があった。
そんな櫻子先生の気持ちを知ってか知らずか、四宮先生は満面の笑みを浮かべ、こう答えた。
「すきよだいすきぃ~ふたりでいっしょにいられたらなぁ~っておもうわぁ」
櫻子先生は満足そうな笑みを浮かべ、録画停止ボタンを押した。
「少年、作戦は成功だ」
***
色々と大変なことになった夕食の時間が終わり、僕たちはお店を出た。
「おーい、メグー、しっかりしろー」と、四宮先生に肩を貸しながら櫻子先生が声を掛けている。
「はぁ、あたしが居酒屋に誘ったのも悪いが、まさかこんなことになるとは。すまない少年」
「いえ、ご飯はご馳走になりましたし、色々とお話が聞けて良かったです」
「にゃはは、少年がそう言ってくれると助かる」
四宮先生が酔い潰れてしまったため、当初の予定は変更となり、僕は電車で自宅に帰ることになった。
櫻子先生が「少年を一人で帰らすのも悪いし、泊まってくかい?」と提案してくれたが、流石にそれは丁重にお断りをしておいた。
「それじゃあメグをあたしの部屋まで連れて行かないといけないから、ここで解散だな、少年」
「はい、今日は一日お世話になりました」
ほとんど目が閉じかけで眠そうな様子の四宮先生にも、聞こえているかは分からないが一応頭を下げておくことにする。
そんな四宮先生を支えながら、櫻子先生が僕の肩に手をポンと置いた。
「今日初めて会ったばかりだが、川瀬少年は本当に優秀な生徒なんだろう。恐らく少年なら東大にも合格できるはずだ。ただ、焦って進路なんてものは決めなくても良いと、あたしは思っている。メグも実際はそう思っているはずさ。少年は、少年が思う道を進めば良い。何か強い思いや理由というものが自分の中に芽生えた時、その時に初めて将来というものが見えてくるだろう、とはあたしの持論だ。だから、少年は『少年らしく』あると良い。自分のことが分からなくても、きっと少年の周りの人、もちろんメグやあたしも含めよう、その人たちが少年の分からない『少年』のことを教えてくれるはずさ。少し説教臭くなってしまったかな、まぁとにかくだ、沢山悩んで、そして前に進み給え、少年。少年とまた話す時を楽しみにしているよ」
そうして僕の肩から手を退け、「それじゃあな、少年!」と櫻子先生は四宮先生を支えたまま、光に照らされた夜の道を歩いて行った。
その背中をしばらく見送った後、僕はすぐ近くにある駅へと歩いていき、切符を買って帰りの電車へと乗り込んだ。
そうして座席に深く座り込みながら、僕は最後の櫻子先生の言葉を反芻する。
「『少年らしく』か…。僕にも分からない『僕自身のこと』が、他人になんて分かるもんか…」
櫻子先生の言葉を思い返し、どうにもその言葉を否定したがっているような自分がいることに気付いてしまい、窓に映る姿がひどく滑稽に見えたのだった___。
次の日の朝、四宮先生から「本当にごめんなさい!」という謝罪の電話が掛かってきたが、全く気にしていないという旨を伝えた。
同時に「この動画は一体何!?」と、声からでも顔を真っ赤にしていることが分かる様子で四宮先生はそう尋ねてきたが、「櫻子先生から聞いてください」と僕は伝え、責任を取ると言ってくれた櫻子先生に責任転嫁しながら、電話をそれとなく良いタイミングで切るのだった。
焦った様子の四宮先生と、今頃詰め寄られている櫻子先生の二人を想像し、僕は少し面白くなって笑みがこぼれた。
昨日は確かに四宮先生のおかげで滅多にない経験をしたのは事実だが、僕の知らないところで勝手に進さんたちと連絡を取ったり、根回しをしたりしていたことには、ほんのちょっとだけ不満があったので、これは僕からの「お返し」であった。
そうして、少しだけ気持ちがスッキリとした僕は、毎週の家掃除に取り掛かるのだった___。
ちなみに、あの動画が「きっかけ」となり、二人の十年分の想いと距離がぐっと近づいたのは、また別のお話である。
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