#11 仲直り
バスケ部の男子がラフプレーをした際に、ボールがちょうど顔に当たったようだ。
ぽつぽつと血が体育館のフローリングに落ちているが、これは恐らく僕のものだろう。
鼻の辺りに手を当ててみると、手の一部分が赤く染まったので、どうやらボールが当たったことで鼻血が出てしまったらしい。
そうしていると、急いでやってきた体育教師が「大丈夫か!?」と声を掛けてきた。
「大丈夫です。それよりも、下を汚してしまったので何か拭くものをいただいても良いですか?」
「分かった、今ティッシュを持ってくるからな」
そのまま体育教師は外に出たと思いきや、すぐにティッシュペーパーの箱を持って戻ってきた。
「ありがとうございます」
教師から箱を受け取り、片方の手で自分の鼻にティッシュを当て、片方の手でフローリングの血を拭き取る。
下の汚れが拭き取れた後、体育教師にコート外へ誘導されたので、僕はそれに従ってコート外に移動する。
その時、僕にボールを当ててきたバスケ部の男子が、引け目のあるような顔でこちらを見てきていたので、隣のコートにばかり気を取られ過ぎるからこんなことになるんだと、含みを持たせた視線を彼に向けておいた。
彼は一歩後ずさって固まっていたようだったが、
「よ~し、他の生徒はゲームの続きをやっておいてくれ!危険なプレーはだめだからな、あくまでも試合形式のシュート練習ということを忘れないように!」
と体育教師が指示を出すと、慌てた様子でバスケのゲームの方に戻って行った。
コート外に移動した僕に、教師が話し掛けてくる。
「一応念のために保健室行っとくか?」
鼻血が出ているだけなので、止まればどうということもないのだが、合法的に授業を抜けられる口実ができたと感じた僕は、
「お言葉に甘えて保健室に行こうと思います」
と教師の言葉に頷くことにした。
しかし、「あっ、そう言えば…」と何かを思い出したのか、教師は言い淀むような素振りを見せる。
「今ちょうど保健室の先生は出張だったか…」
保健室の先生に診てもらうほどのことでもないし、先生がいてもいなくてもあまり変わらないのでは…と僕が内心で思っている一方で、「どうしようか…」と体育教師は頭を悩ませている。
そうすると、そこに「先生っ」と体育教師を呼ぶ声が聞こえ、つられて僕も顔を上げると、そこには愛野さんが立っていた。
「先生、私は『保健委員』なので川瀬の付き添いをしても良いですか?」
愛野さんがそう言うと、体育教師は
「…愛野は保健委員か。それならちょうど良かった。保健委員なら簡単な処置をこの前の集会で教えられているだろうし、出張で先生がいなくても大丈夫だろう。いきなりですまないが任せても良いか?」
と、あっさり愛野さんの同行を認めた。
体育教師に「はい」と返事をした愛野さんが「川瀬、行こ」と言ってきたので、一人でも良いんだけどなぁと思いつつ、僕は渋々その場で立ち上がる。
「それじゃあもし何かあれば体育館に戻ってきてくれ」
そのまま体育教師に見送られ、僕と愛野さんは二人で体育館の外に出た。
体育館の外に出て保健室を目指し二人で歩いている。
僕がティッシュで鼻を抑えている箇所をちらちらと心配そうに見ながら、愛野さんが話し掛けてくる。
「川瀬、本当に大丈夫?他に怪我とかしてない?」
「鼻の辺りが少し痛むだけで、他は何ともありませんよ」
そう言うと、「良かったぁ~」とほっとした様子を見せる愛野さんだったが、どうしてそんな心配そうな顔や安心した顔をするのか、僕には全く分からなかった。
(愛野さんからは、僕とバスケ部の男子が接触したように見えたのか?)
確かに僕とその男子との体格差はそれなりにあったので、そんな僕が吹き飛ばされたら誰でもびっくりはするだろうなと、何となく愛野さんの様子にも僕は納得がいった。
保健室に到着し、愛野さんに「川瀬は大人しく座ってて」と言われてしまったので、僕は椅子の一つに腰掛け、愛野さんがティッシュペーパーや救急箱やらを取り出すのを眺める。
ついさっき体育教師が言っていたように、「保健委員会」に所属すると、最初の集会の時にいくつかの簡単な処置の方法を教わるらしく、恐らくその時に道具の場所を聞いていたのだろう、愛野さんは迷うことなく道具を持ってこっちに歩いてきた。
「はい、これがティッシュと鼻ぽんね。氷の袋も用意できるけど…」
「氷を使うほどでもないので大丈夫です。それと鼻血ももう少しすれば止まると思うので、ティッシュだけ使わせてもらいます」
僕は愛野さんからティッシュの箱を受け取り、今鼻に当てている赤くなったティッシュを丸めて、保健室のごみ箱に捨てる。
そして、新しいティッシュを鼻に当てながら、少し力を入れて鼻を抑えているのだが、今保健室には無言の気まずい空気が流れている。
愛野さんは僕の前にある椅子に座り、何かを話すこともなく、ただじっと僕の方を見つめている。
流石にこの状況が何分間か続くことに耐えられなくなった僕は、愛野さんへと話し掛けた。
「愛野さんは中学校はバスケをしていたんですか?」
僕がいきなり話し掛けてくると思っていなかったのか、愛野さんは少しびっくりしながら
「うぅん、バスケ部じゃないよ」
と答えた。
「そうでしたか、愛野さんの動きを見ていたら経験者なのかなと思ったので」
僕がそう言うと、愛野さんは耳を赤くさせ、
___やっぱり私のこと見てたんだっ
と僕の聞こえない声で何やら呟いているが、はっとした顔で「んんっ」と咳ばらいをし、
「それは多分朱莉の影響かも」
と愛野さんは言うのだった。
「朱莉が中学の時にバスケ部に入ってたから、自主練によく付き合わされたの。だから少しだけバスケの経験があるって感じかな」
愛野さんの言葉に「なるほど」と頷いていると、
「川瀬はバスケをしていたの?」
と愛野さんにも同じことを聞かれ、僕は首を傾げた。
僕の様子をみて、愛野さんはさらに言葉を重ねる。
「えと、さっきのゲームの時のパスが狙ってやったように見えたから…」
どうやら愛野さんは、僕がバスケ部の男子の股下を狙ったパスを見ていたらしく、あのパスから僕が経験者であると思ったようだった。
恐らく「あかり」さんの応援かなにかで試合を観に行った時、同じようにバスケの経験者の人たちが股下のパスをしているところでも見たのだろう。
ただ、僕はバスケ部ではないし、ほとんどバスケをしたことのないズブの素人であるため、そのことを愛野さんに説明する。
「いや、あれは本当にまぐれですね。たまたまパスを出したらああなったというだけです。それに僕はバスケの経験者でもないですからね。運動は苦手なので、もうあんなパスは出せないと思います」
愛野さんは「そっかぁ」と、僕の言葉を疑うことなく、納得したようだった。
「でも…」と小さく言葉を吐いたのが聞こえたので、愛野さんの方を見ると、愛野さんは頬を赤くしながら、
「…川瀬のパス、カッコよかった」
と僕に伝えてくるのだった。
僕はどうして愛野さんがそんなことを言うのか全くわけが分からなかったが、とりあえず「ありがとうございます」と返事をしておいた。
愛野さんは恥ずかしくなったのかそわそわとし出し、僕の顔を見たり見なかったり視線を右往左往させていたのだが、
「あ、川瀬、おでこにも血が付いちゃっているよ?」
と僕のおでこに付いた汚れに気付き、僕の方に近付いてくる。
そのままティッシュを手に取って、僕のおでこの汚れを取ろうと愛野さんが手を伸ばした。
その瞬間、僕の頭に『ある光景』がフラッシュバックし、思わず僕は愛野さんの手を払い除けた。
「…えっ?」
愛野さんは僕のいきなりの行動に呆然としているが、僕自身も今の咄嗟の行動に理解が追い付かなかった。
ちょうどその時、タイミングが良いのか悪いのかは分からないが、授業の終わりを告げるチャイムの音が聞こえてきたので、僕はティッシュを鼻から離し、鼻血が止まっているのを確認した後、
「チャイムが鳴ったので先に戻ります」
と愛野さんに告げ、僕は保健室を出て行くことにした。
そうして、僕は近くの男子トイレまで移動をし、鏡を見ながら顔の汚れを取る。
水道から水の流れる音だけが聞こえ、トイレの中は異様なほど静かだった。
『朔、こっちおいで』
『どうしたの、母さん』
『よしよし~』
『うわぁ!もう子どもじゃないんだから頭を撫でるのはやめてよ~』
『私にとってはまだまだ子どもよ~ふふっ』
あまりにも静かなせいで他の物事に意識が向かず、頭の中の思い出さなくても良いことばかり考えてしまう。
それもこれも、愛野さんがこっちに手を伸ばしてくる光景が、母親だった人がいつも頭を撫でてきた時の光景と似通っていたのが原因だろう。
(いつもは思い出すこともないのにな)
ボールに当たるという非日常な出来事が起きたせいで、普段考えないことが頭によぎったのだろうと、僕は一度大きなため息を吐き出す。
そのため息が、トイレ中に響いたと感じられるほど、この場は静寂に包まれていた。
☆☆☆
ガラガラと扉の音を立てながら外へと出て行く川瀬を眺めながら、私は立ち上がったまま動けずにいた。
突然払い除けられた私の手。
そのことで彼が足早に部屋を去ったのは、誰が見ても明らかだった。
「私、何かしちゃったのかなぁ…」
直前に自分の発言で自爆をしてしまった結果、私は恥ずかしのあまり思わず慌ててしまった。
そして、落ち着きを取り戻そうとした時に、ふと目に入った彼の顔の汚れを取ろうとして、彼の許可もなくむやみに顔に触れようとしたのが恐らくいけなかった。
ついこの間も、私の髪に偶然手が当たってしまっただけで、彼は誠意のこもった謝罪をしてきたのだ、「頭に触れる」という行為に忌避感のようなものがあるのかもしれない。
そんなことを考え始めると、考えなしに行動した自分自身が嫌になってくる。
「もし、嫌われちゃってたらどうしよう…」
最悪の事態にまで思考がたどり着き、私は胸が痛くなる。
とにかく今の私ができることは、さっきのことで彼の気分を悪くさせてしまったのに対し、許してもらえるまで頭を下げることだけだ。
「よしっ」
と自分で気合いを入れ直し、私は道具を片付けた後、保健室を出て更衣室に向かった。
***
結局その後、体育の次の授業が終わって放課後になると、愛野さんが「ごめんなさい」と頭を下げてきたが、僕にはどうして謝る理由もない愛野さんが頭を下げてくるのか分からなかったので、
「僕は愛野さんに対して怒ってなんていませんよ」
と伝えたが、愛野さんの表情は依然として暗いままだった。
そのまま何となく気まずい状態のまま、僕は学校を後にした。
そして次の日の朝、僕は「あるもの」を愛野さんの机の中に入れておいた。
これで愛野さんの誤解が解ければ良いのだが…。
☆☆☆
朝、私はいつものように学校へと登校をしてきたが、顔には出さないものの、そのテンションは低いものだった。
もちろん原因は昨日の出来事だ。
結局あの後、帰ってからも後悔の二文字が頭をよぎり、昨日はよく眠ることができなかった。
川瀬は怒ってないと言ってくれたが、私にはそれが本心なのかどうか判別できなかったため、自分でもどうしたらいいのか分からないという感じになってしまった。
私の今日の様子に違和感を持ったのか、朱莉だけは心配するような声を掛けてくれたが、私は笑って誤魔化すしかなかった。
どうしたら仲直りできるのかなと考えながら、自分の席に座り、引き出しの中を見ると、個包装されたお菓子と小さな紙切れが入っていた。
なんだろうと思いながら、紙を見ると
『愛野さんへ。川瀬です。昨日は僕の方こそ手を払ってしまい、申し訳ありません。あれはちょっと恥ずかしくなって思わず手と手が当たってしまっただけなので、本当に愛野さんに対して怒ってなんていません。それよりも、昨日は保健委員とはいえ、わざわざ僕のために道具の準備をしてくれて、ありがとうございました。一緒に置いてあるのは、一応昨日のお礼です。知り合いが美味しいと言っていたので、良かったら貰ってください。要らなかったら捨ててくれて大丈夫です。川瀬』
という内容の文章がそこには書かれていた。
恐らく、今の私は嬉しさで顔がにやけているだろう。
ついさっきまでどうしようかなんてことを考えていたのに、今あるのは彼の優しさに対する胸の高鳴りだけだった。
川瀬がくれたお菓子は、ほんの数日前に朱莉が「コンビニでめっちゃ美味しい期間限定のお菓子があったの!」と言っていたものだった。
パッケージには、真顔の白いひよこ?のイラストが描かれており、こんな可愛いデザインのお菓子をあの川瀬が手に取ったと考えるだけで、そのギャップに思わず笑みがこぼれてしまう。
「…ふふっ、仲直りできちゃった」
お菓子と紙をカバンの中にしまい、私は席を立っていつものように本を読んでいる川瀬の元に向かう。
私が近づいてきたことに気が付いたのか、川瀬が私の方に視線を向ける。
彼の顔を見ると、いつものように頬が熱くなっていく感覚がある。
そんな心地の良い気持ちに包まれながら、私はいつものように彼へ声を掛けた。
「川瀬おはようっ♪」
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