#5 「神童」と呼ばれた少年







 少し昔の話。


 一人の少年がいた。


 少年は「神童」と言われていた。


 勉強は、テストを受ければいつも百点。

 少年に小学校で解けない問題はなかった。

 運動も、同じ学校に少年以上にスポーツが得意な者はいなかった。

 目立つようなタイプではなかったものの、しかし周囲からは「羨望」の眼差しを向けられていた。

 少年は優しい性格で、困っている人を見過ごせない人間だった。

 そんな優しい人間だったからこそ、少年は自分のことを周りにひけらかすこともしなかった。


 そんな少年には「親友」がいた。


 「親友」は、地域の少年野球チームに入っていて、丸坊主が特徴的な同級生だった。

 少年は野球チームに入っていなかったが、休日は「親友」を応援するために何回か試合に足を運んだりもした。

 少年は何かに興味を抱くことが少ない人間であったが、「親友」の野球をしている姿を見て、野球というものに興味が湧いていた。

 そんな少年には、「親友」と交わした「約束」があった。

 「親友」は、少年が野球に興味がありそうな様子に気付いていたのだ。


「中学校に行ったら、一緒に野球部に入ろうな!」


「うんっ!」


 中学校で「野球」をすること、少年は「親友」と野球ができることを心待ちにしていた。




 中学校に入学し、少年は「親友」とともに野球部へ入部をした。

 少年は野球を遊びでしかやったことはなかったが、すぐに野球で必要な「動き」をマスターしていった。

練習にも慣れ始めたひと月後には、少年は見違えるほど野球が上手になっていた。

小学校から野球をしていたと錯覚させられるほど、少年の動きは経験者の「それ」であった。

 その一方で、「親友」はどこか焦っているように見えた。


「野球って上達が実感できるし、やっぱり楽しいね!」


「お、おぅ、そうだな」


「…?」


 部活動が始まって一ヶ月、二ヶ月と経つたびに、「親友」の様子に違和感を覚えることが強くなっていた少年だったが、毎日いつも通り会話もして一緒に帰っていたので、特に気にすることもなかった。




 そうして、夏の暑さを感じ始める七月の始め、夏の大会に向けたレギュラーメンバーがミーティングで発表された。

 少年たちの中学校の野球部は、それなりの人数が所属しており、ポジションによっては熾烈なレギュラー争いも起きていた。

 それでも、基本的には三年生がレギュラーとなる雰囲気というものが部内にあり、少年も二年後には選ばれるようにがんばろう!と、どこか他人ごとのようにミーティングを聞いていた。

 しかし、少年がいつも練習で守っているポジションの発表になった時、


「一年、『水本朔』。このポジションは水本に任せるぞ」


 と野球部の監督は言い放った。


「え…?『俺』ですか?」


 監督が自分の名前を呼んだことに実感が湧かず、少年は突然の発表に思考を停止させた。

 周囲も突然の一年生レギュラーの発表に驚き、ミーティングをしていた教室が少し騒がしくなりながらも、監督のレギュラー発表は続いていった。




「メンバー発表は以上。選ばれた者は選ばれなかった者たちの分も頑張って試合に臨むように。選ばれなかった者は選ばれた者たちのサポートに回って欲しい。メンバーに関して気になることもあるだろうが、これが最良の形だと判断した。今日はもう解散で、明日からは大会に向けての練習をやるからそのつもりをしておくように」


 そうして監督が教室を後にし、ミーティングは解散となった。

 しかし、教室から出て行く部員はおらず、彼らの視線は少年へと向けられた。

 そんな中、少年の元に一人の三年生がやってきた。

 その三年生の先輩は、少年と同じポジションを守っていた。


「水本ッ!お前空気読めねぇのかよッ!」


 いきなりその先輩が少年の胸倉を掴み、怒号を上げた。


「ど、どうして先輩はそんなに怒ってるんですか!?」


「お前が調子に乗ったせいで、俺がレギュラーじゃなくなったじゃねぇか!」


「でも、それは監督が判断したことで、俺は何もしてません!」


「その『俺は何でもできます』みたいな顔がウザいんだよ!お前ッ!」


 少年は体を押され、しりもちをついた。


 少年には、その先輩が言っていることが分からなかった。


 実際のところ、これは自分がレギュラーに選ばれなかったことに対する少年への八つ当たりであり、その三年生の言っていることは支離滅裂なのだが、その場は「少年が悪い」という空気が蔓延し始めていた。

 少年は教室中の雰囲気を感じ取り、自分を助けてくれる者に縋るような視線を向けた。

 「親友」なら、荒唐無稽なことを言う先輩から、僕のことを擁護してくれると信じていたからだ。

 少年は「親友」と目が合った。




 しかし、「親友」は少年から目を反らした。




___えっ、どうして?




「先輩、コイツは『野球は上達できるから楽しい』とか言って、上達していない周りの人間を馬鹿にするようなヤツなんすよ。どうせ、今も心の中では俺たちを馬鹿にしてるんだろ!?」


 「親友」は怒鳴ってきた先輩の横に並び、先輩と一緒になって少年を罵倒し始めた。

 同じ三年生の仲間が選ばれなかったことに不満を持つ者や、自分よりも年下の少年がレギュラーを取ったことに良く思わない者たちも参加し始め、教室で少年の味方をする者はいなかった。


(どうしてみんな俺のことを悪く言うの?俺は何も悪いことなんてしてないのに!)


 少年には、次第に心が黒く濁っていくような感覚があった。

 それは、今までに感じたことがないような暗く、そして深い、出口が見当たらないような真っ黒な感情だった。


(「親友」だと思っていたのに…)


 少年には、「親友」だと思っていた人間が、今は得体の知れないナニカにしか見えなかった。


(もう、どうでもいいや)


 少年はその場でのそりと立ち上がった。

 突然立ち上がったことで驚きを見せる周囲の反応をよそに、少年は最初に怒鳴ってきた三年生の前まで近づいた。


「な、なんだよ!何か文句あんのかよ!?」


 先輩が何かを言ってきているが、少年にはどうでもよかった。


「分かりました。皆さんがそこまで言うなら、『僕』も喜んでこんな部活辞めさせていただきます。今までお世話になりました、それでは」


 少年は、後ろでごちゃごちゃと色々言っている部員たちのことを無視し、そのまま教室を後にした。

 そして職員室に向かい、少年は野球部の顧問兼監督を呼び出した。


「今日で野球部を辞めさせていただきます。お世話になりました」


「…お、おい、水本!どういうことだ!?」


 監督の制止も無視し、少年は一人でそのまま帰った。


 いつもなら「親友」と二人で並びながら自転車を漕いだ帰り道。


 少年はふと隣を見るも、そこにはもう誰もいなかった。


 しかし、悲しさや寂しさ、そして怒りなどの感情は何一つ感じなかった。


「友情なんてものを信じたからこんな面倒臭いことになったんだ」




 少年は決意した。


___もう二度と、友情なんて信じない。










***










 次の日、登校をすると朝から監督に呼び出され、昨日のことについて聞かれたが、一貫して「辞める」ということを押し通した結果、最後は野球部の退部を受理してくれた。


 教室に戻る途中、廊下で他の生徒と談笑をしている「親友」だった男の姿を見つけた少年は、


「ちょっといいかな」


 と声を掛け、強引に誰もいないトイレ前へ彼と移動をした。


 彼に視線を向けると「…っ」と唾を飲み込むような音だけが聞こえ、彼の目には「恐れ」や「怯え」のような色が浮かんでいた。

 彼のその様子は、昨日先輩たちと一緒に罵声をぶつけてきた時とはまるで別人だった。

 「親友」だった人間の、一人では何もできず、何も言えないような心の矮小なさまに思わず、


「こんな小物だったんだな」


 と、これまで出たことがないような冷え切った低い声が口から出た。


「僕はもう君とは一切関わらないし、関わって欲しくもない。君みたいなヤツを『親友』だなんて思っていた僕が馬鹿だったよ。あ、でも『友情』が『つまらない』ものだってことに気付かせてくれたことだけは感謝しているよ」


 高圧的な態度をとってみると、彼は萎縮し、案の定何も言い返せないような様子だったので、「こういう相手には高圧的にいけば良いのか」なんてことをぼんやりと考えつつ、少年はその場を後にした。




 そこから少年の学校での様子は一変した。

 周囲との関わりを絶ち、教室では殻に籠るようにいつも一人で本を読むようになった。

 体育も本気で取り組むというようなことはなくなり、次第に少年は「一人」になっていった。

 しかし、少年自ら望んだ状況のため、少年は何とも思ってはいなかった。


 そんな少年だが、家では以前と変わらない少年のままだった。


「母さん、ただいまー」


「おかえり、朔。今日はお父さんも早く帰れるそうだから、どこかお店に食べに行こうって言ってたわ」


「ん~寿司も良いけど、やっぱりハンバーグが食べたいかなー」


「ふふっ、朔はハンバーグが好きだものね。そう言えば、今週の土曜日は日葵ちゃんがうちに遊びに来るそうよ」


「おっ!ひまちゃん来るんだ。何をして遊ぶか考えておかないと」


「進くんと日奈子ちゃんが、日葵ちゃんが朔に会いたいっていつも駄々をこねて困ってる~なんてことを冗談で言ってたわよ」


「あははっ、それは二人にも謝らないと。でもひまちゃんは賢い子だから、『駄々はこねちゃだめ』って言ったら聞いてくれると思うけどなぁ」


「ふふっ、朔のことを『お兄ちゃん』として信頼してくれているのよ」


「それなら土曜日は『お兄ちゃん』としてちゃんとひまちゃんの信頼に応えないとね」


「「あははっ」」


 少年には大好きな『家族』がいた。

 自分の両親に、いとこ家族。

 身内のこの「五人」さえいれば、他の人間のことは少年にとってはどうでもいいことだった。


「…土曜日が楽しみだなぁ」


 少年は週末の楽しみができたことで、笑みを浮かべていた。










***










 朝の時間を告げる目覚まし時計の音が部屋中に響き渡る。

 普段はアラームが鳴る前に起きるのだが、今日は珍しく寝入ってしまっていたようだ。

 何か夢を見ていたような気もするが、思い出せないでいる。


「まぁ、どうせつまらない夢だろう」


 朝の支度をするため、階段を下りて洗面台に移動する。

 物音一つしない静かな家で、歯を磨く音だけが微かに聞こえる。

 鏡で自分の顔を見ると、何ともやる気のない人間の顔が映っていた。


 その目には、何かに取り憑かれているような、そんな言葉にできない異様さが浮かび上がっている。




 ___少年、『川瀬朔』の瞳は、今も尚濁り続けた真っ黒のままだ。






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