柊の夜

カリーナ

第1話


「どうしてここに……」

ホリーは手に持っていたジントニックをうっかり落としそうになりました。

跳ねる鼓動を、ぎゅっと固く結んだ左手の拳で感じながら、深呼吸をしてもう一度よく見てみますと、そこにはよく見知った彼女がいました。

「やっぱり、ジェーンじゃない……」

ホリーの心は、走馬灯のように、懐かしい思い出となった修道院での日々を思い出していました。


ホリーは少女時代を、田舎の外れにある修道院で過ごしました。世の中が混沌としていて、物資もままならなかった時代、それは質素な少女時代でした。

ホリーは殊更大人しい性格で、いつも人目を気にして生きていました。

自分でもおどおどしていた自覚はあります。

同い歳くらいの修道女たちに、あるいは年配のシスターたちと上手く話せたかしら、なにか自分の挙動におかしなことはなかったかしらと、ことある事に振り返っては、そんな臆病な自分に嫌気がさしていました。

ホリーと同室だったのは、そんな自分とは真逆の、快活で美しいジェーンという少女でした。

胸まである豊かな、深い栗色の髪。

安っぽい自分の赤茶色とは随分と違うものだといつも魅入ってしまいます。



ある日の夜のことです。

月が綺麗な夜でした。

「ホリー、食堂へ行かない?私お腹がすいたわ」

「けどもう、こんな時間に……。食堂は閉まっているわ」

「あら、そんな事ないのよ。私、何回か夜に食堂へ行ったことがあるわ。夕方のお掃除の時、床に磨き残しがあったからもう一度掃除をさせてくれって頼むの。そしたら入れてもらえて、運が良ければその日の残りのお菓子か何かを分けて貰えるのよ」

「まあ」

そんなこと考えたこともありませんでした。

食堂は夕方5時に閉まります。

その時間までに修道女達は一斉に簡素な食事を摂ると、あとはお掃除とお祈りの時間でした。

「だからまあ、行ってみましょう」

にこっと、華が咲いたように笑うジェーンに誘われて、ホリーは16年生きてきて初めて夜の食堂へと向かいます。

「ごめんください!あら、誰もいないのかしら」

「そ、そんな大声出したら……」

「ごめんください!」

ホリーがジェーンの袖を掴むのにも構わず、ジェーンは声を張り上げて人を呼びました。

「誰だこんな時間に!」

「や、やっぱり帰りましょう……?」

ホリーなんかはもう半分、腰が抜けています。

きっと今夜の見回りのシスターに叱責され、明日なんかはご飯を抜かれるのだわ。

ぎゅうっと目を瞑っていると急にまぶたの外が明るくなりました。

「なんだお前たち、もう就寝の時間では無いか」

「はい、マダムジェリー。私はジェーンというもので今日の夕方食堂の掃除を担当したんですけれど、部屋の角にカビが生えていたのを見つけたんです。掃除の時間だけでは除ききれなくて……」

「それでわざわざ部屋を抜けてきたというのか?」

「はい。こちらは友人のホリーです。私たち同じ部屋で、ええ、お祈りの後もその話をしていました。どうしても気になって、だってカビが生えている食堂なんて不衛生ですもの。神様に生かされている、有難く尊い命をあくる日もあくる日もそんな場所で……」

「もう良い、分かった。1時間だけだ。そしたら部屋に帰りなさい」

「マダムジェリー、ああ、感謝致します。本当にありがとうございます。神の御加護が私たちにあらんことを」

ジェーンは美しい顔を伏せ、仰々しくお辞儀をしました。

ホリーもたどたどしくそれに見習い、ふたりは食堂に入ります。

夜の食堂は寒く、修道女達が寝泊まりしている部屋よりも格段に冷え込みます。

「ね?上手くいったでしょう?」

口元の前で華奢な手を小さく握りしめ、ジェーンは可憐に笑います。

「私、怖かった……。マダムジェリーが怒り出すんじゃないかって」

「だいたいシスターたちはいつもピリピリしているのよ。堂々としていること、それが肝心よ」

やはり満開の花の如く笑う、強い芯のあるジェーンのことが大好きでした。

「にしてもケチね、お菓子のひとつもくれやしない。こんなに寒いんだわ、お湯くらい沸かしたって平気よ」

「怒られない?」

「カビをとるのに熱湯を使ったことにしましょう。本当は紅茶のためのお湯だけれどね」

ペロッと舌を出して笑うジェーンを、なんてお茶目なんだろうとハッとしました。

みんなの憧れのジェーン、みんなが大好きなジェーン。

少女らしく可愛くて、お茶目で、それでいて毅然としていて。

私が何も持っていないものをジェーンは全て持っている、ホリーはそう思いました。

「さ、お湯を沸かすんだから手伝ってちょうだい!」

ふたりは小さな小鍋を取り出すと井戸から水を組んできてお湯を沸かしました。

「こんなご時世なんだから、少しくらい贅沢をしないと……」

「都心では空襲があったそうよ。今週、もう2度も」

「まあ……私たちは幸せね、修道院という場所だけで空襲を免れて」

「そうね……」

ホリーは、本当にジェーンの言う通りかどうか、考えました。

こんなふうに戦争がひどくならないうちは月に何度か都心へ施し活動へと出向くことがありました。

とかく人は早歩きで、とても奇抜なファッションに雑多すぎる風景が続いていたのを覚えています。

目まぐるしいその様子に、興味を惹かれないこともありませんでしたが、他の歳頃の修道女たちほど都心への憧れは強くなかったように思います。

真っ赤なリップにゴージャスなキセル。そんなものを持っている都心の女の子たちよりも、質素な制服を身に纏った同室のジェーンの方がずっと綺麗だと思いました。



ホリーは自分の顔が好きではありませんでした。

そばかすだらけの肌に、退屈そうに下を向いた唇。

なにか疲れているわけでなくても、自分の顔を見たらため息が出てしまうのです。

「ホリー、またため息ついてるわよ。あなた、可愛いんだからしゃんとしないと。歳頃の女の子がそんなだとボウイフレンドも出来ないわ」

ジェーンはそんなことを言って微笑みかけます。

ふっくらとした頬には夕焼けのように健康的な赤が差していて……。

「可愛いって言うのはジェーン、あなたみたいな事を言うのよ。私、自分の顔が大嫌い」

「まあ!ホリーったら!」

部屋にある鏡で自分の顔を見ながらホリーは正直に話しました。

どうしてもこのそばかすが好きになれない、と。

「けれど、それでいいのよホリー。あなたは無理に自分を好きにならなくても。私にだってわかるわ、その気持ち」

「ジェーンに、この気持ちがわかるの……?」

嘘だ、と思いました。

ジェーンのようになんだって持っている子が、本当にそんなふうに思うのかしら。

「ええ、分かるわ。私も、自分のことが大嫌いになる時あるもの」

「まあ、ジェーンにも……」

ホリーは心底驚いたのを覚えています。



「ホリー?ね、どうしたの、ボーっとして。もしかして寒いの?」

「いいえ、都心で住んだらどんなかしらと考えていたの」

「そうねぇ、都心はたいがい忙しそうだから、こんなふうにゆっくりお紅茶も頂けないんじゃないかしら」

手際よく沸騰したお湯に茶葉を濾しながらジェーンは話します。

なんと美しい所作なのかしら。

「そうね、きっとそうなんだわ」

「ホリーは?都心へ行きたい?」

「……分からない」

「さ、これで完了。十分味が出ているわ。お茶にしましょう。」

食堂のキッチンの端で、行儀も気にせず立ったまま紅茶をいただきます。

少しまだ、今あの食堂の扉からマダムジェリーが飛び出してきて怒られやしないかとドキドキはしていましたけれど、もうそんなにいつものようにおどおどとした自分はいませんでした。

きっとジェーンがいるおかげで強くいられるのだと思いました。

「あつっ……」

「ふふ、気をつけて。今夜は冷えるわ、食堂は特に……」

「紅茶、美味しいわ、とっても。ジェーンが淹れてくれたから。」

「あら、ありがとう。素敵な真夜中のお茶会ね。ほら、今週末はクリスマスよ。クリスマスくらい楽しみたいじゃない。はいこれ、あげる」

「これ……」

「お掃除の時間にね、庭師さんが来てらしたのを見たのよ。それで、今日もヒイラギを切ってきたって言うから少し分けてもらったの。あなたにあげる、Hollyさん」

小さな、綺麗なヒイラギの飾りでした。

2本の小さな枝を、綺麗なリボンで纏めています。

「リボンだなんて、ジェーンこんなものどこで……」

「ふふ、ちょっと貰ったのよ。ちょうどいいわと思って使ってみたの。ここは都心では無いし、世の中が安定していないからこんな物しか渡せないけれど」

「ジェーン、本当に……」

「ふふ、赤い実が可愛らしいでしょう?私、好きよヒイラギの木。トゲがあって可愛いわ」

「トゲが可愛いの?」

「ええ、ヒイラギの木はトゲで自分を守っているんだわ。自分を守れるなんて、素敵じゃない。少し早いけれど、メリークリスマス、ホリー」

「メリークリスマス、ジェーン。本当に、ありがとう……私、私なんにも持っていないわ。」

「いいのよ、なにか欲しくてあなたに渡したわけじゃないわ。たまにこうやって、お茶に付き合って貰えればそれで十分よ」

この小さなヒイラギの飾りを貰って、ホリーは胸がいっぱいになりました。

なんて美しいんだろう、自分の顔も名前も好きになんてなったこと一度もありませんでしたが、今日だけは、今日だけは自分のことが少し好きになれるような気がしました。

「そろそろ1時間になるわね、帰りましょう。ここ、すごく寒いもの」

ふたりはそそくさと鍋やコップを片し、食堂を後にしました。

本当に月の綺麗な夜でした。

マダムジェリーに怒られるのでは無いかということや、部屋に入る前に見回りのシスターと出くわすんじゃないかとかいった不安はどこかに消え失せていました。

飲んだばかりの淹れたての紅茶が、小さなヒイラギの飾りがホリーの心を芯から温めてくれていました。

寒い月明かりの下、ふたりは談笑しながら急いで部屋に戻ったのです。

小さな手を口元に当ててくすくす笑うジェーンを、ずっと隣で見ていたいと思いました。



一段と冷え込む日のことでした。

院長が全修道女たちを講堂に集めます。

いつものように朝のお祈りを済ませたら、院長はこんなことを言い出しました。

戦火の炎がここ田舎町の修道院にも降ってかかる可能性があると言うこと。

明後日までに、他所へ行くあてがあるものたちは荷物をまとめて出ていくこと。

それが無いものたちは、神に祈りを捧げてここで安寧の地に導かれることを願うということ。

ホリーはハッとしました。

恐れていたことです。

自分に身寄りなんてありません。

行く宛てなんて無いのです。

カメリアは遠い親戚に電報を打つためにロンドンへ向かうと言っています。

リリーは更に南に下って別の修道院を探すと言っています。

(私、私はどうすれば……ジェーンは?ジェーンはどうするのだろう……)


昼食の後、ジェーンから話を聞いてびっくりしました。

ジェーンはここに残るというのです。

「ジェーン、どういうこと?どこかに行かなくちゃ。ここに残るって言うことがどういうことか分かっているでしょう?」

「ええ、分かっているわホリー。けれど、私行く宛てなんて無いもの」

「ああジェーン、私もよ、私にも行く宛てなんてどこにも……」

ホリーはパニックになりました。

こんな時、どうすればいいのだろう。

僅か16歳のホリーに賢い考えなんて浮かびません。

毎日を、質素倹約を守りながら今までここで生きてきて、それでも明日を生きたい、死にたくない、またクリスマスを迎えたいと強く願っていました。

「ジェーン、逃げましょう。都心に、ロンドンへ向かえばいいのよ。そうすれば何とかなるわ」

「ふふ、ホリー。私には無理よ。いいえ、お誘いありがとう。魅惑的な誘いね、それは」

ジェーンは微笑みを浮かべながら、床の履き掃除をやめません。

「ね?悪くないじゃない、私たちふたりで、掘っ建て小屋でも何でも、寒さをしのぎましょう。なんとかして生きていくのよ、なんとかして」

「ふふふ、あなたが羨ましいわ、ホリー。」

「ジェーン!」

ホリーには分かっていました。

どんなに自分が強くジェーンに話しかけても、彼女を説得させることは出来ないんだと。

心で感じていました。

ジェーンはよく自分を素敵な散歩に誘ってくれました。

修道院での生活では知り得なかった、尊いジェーンとの思い出たち。

走馬灯のように蘇ります。

ジェーンは自分を真夜中のお茶会に誘ってくれました。

食堂で飲んだ紅茶の美味しかったこと!

「ジェーン、どうか、どうか今夜までに考え直してね……」

希望は薄いと感じましたが、それでもそう言わずにはいられなかったのです。

ホリーは込み上げてくる涙を飲み込み、部屋にかけ戻りました。


がむしゃらに荷物をまとめます。

そんなに私物は多くありません。

修道院を去るものは持っていってもいいと言われた毛布やら簡易食料を布にくるみました。

せかせかと、ジェーンのことなど考える暇も無いように必死になって荷物をまとめました。


あっという間に夜になりました。

明後日まで待とうかとも思いました。

ジェーンは眠っているのか、向こうを向いてベッドに横たわっています。

あれから一度も口をきいていません。

もう一度誘ってみようかしら。

きっとふたりならなんとかなる、そう説得を試みようかと。

次第にホリーはうとうとし始めます。

院長の話が本当なら、一刻も早くここを離れてどこか遠くへ、例え行く宛など無くても遠くへ行った方が良いのです。

今夜発とう、そう心に決めていました。


「ふふ、可愛いホリー。どうかあなたらしく、あなたのトゲで身を守って生きてね。私はこの外では生きていけないわ。生きたいとも思わないの。この修道院であなたと出会えてよかった、ありがとう……」


ホリーははっと目を覚まします。

眠ってしまっていたのでしょうか。

隣を見るとやはりジェーンはベッドの上で眠っています。


「……さようなら、ジェーン」


夜中に修道院を抜け出すと、ホリーは数人の修道女達とロンドンに向かいました。

間もなくして寒さが身に染み込み出しました。

それでも歩くのをやめませんでした。

新月の夜でした。

空には月明かりが一切なく、手持ちの明かりを頼りに少女たちは歩みを進めます。

ホリーはもう、振り返らないと決めていました。

ひたすらに、前を向いてロンドンを目指そう。

小さな体で、胸ポケットに縫いつけたヒイラギの感触を確かに必死に歩みを進めました。


やがてひとり、またひとりと別れていきました。あるものは西へ、あるものは東へ。

途中で老農夫の馬車に乗せてもらったりもしました。

寒くてお腹が減っていて、大変惨めでしたがジェーンはロンドンへ行くことだけを考えました。


満月の夜は一弾と辛かったのです。

ジェーンを思い出しそうになりましたから。

頭上で輝く、綺麗で完璧な満月を見ているとジェーンを、あの食堂でのささやかなお茶会を思い出さずにはいられませんでした。

(ジェーンは、どうしているかしら……寒い思いをしていないといいのだけれど……今どこで……)

それ以上考えるのをやめました。

ホリーはロンドンではきっと、美味しいパンや温かいココアがあると信じて眠りにつきました。


それから何週間かして、やっとの思いで苦労してロンドンに着きました。

ロンドンへ来てからも、楽なことなんてひとつもありませんでした。

街は所々戦火に焼かれボロボロで、身を寄せてくれるようなところはありません。

戦争孤児院に辿り着きます。

ホリーは自分は修道院から来たから、子供たちの世話ができると思うと孤児院の責任者にかけよってみました。

そんなこと人生でしたことがありません。

掃除洗濯、料理に子供の世話、なんでも出来ます、ここに寄せてくださいと精一杯頼み込みました。

責任者は、渋々といった様子で明日から来れるかい?と聞きました。

それからホリーは来る日も来る日も精一杯、身を粉にして働きました。

幸い、やることは沢山ありました。

掃除洗濯、ホリーは器用な方ではありませんでしたが修道院での生活が役に立ちました。

忙しくしていると辛いことを忘れられる、そう信じてせっせと働きました。

寒い冬の間は洗濯をすると手がかじかみました。

孤児たちは昨日の夜まで元気に走り回っていてもあくる日には冷たくなっていることもありました。

悲しい別れを何度も繰り返し、それでも修道院を出た時の、身を引き裂かれる思いに比べれば耐えられるとホリーは思っていました。

厳しい1年半でした。

やがて戦争がおさまり、物資も少しずつ豊かになってきました。

お茶を飲むのも忘れ働き詰めだった時、ホリーは院長の知り合いが新しいビジネスを立ち上げ、秘書を探していると聞かされました。

院長はホリーに、よく働いてくれたからそっちで雇ってもらってはどうかと言われます。

ホリーは秘書という仕事が一体どういうものなのか検討もつきませんでしたが、ずっとこうして孤児院でお世話になっているわけにもいきません。

今が離れ時なんだと、院長に丁重にお礼を伝え知り合いのジャックさんの元へと行きました。

「あの、ごめんください。セントラル孤児院からの紹介で来ました、ホリーと申します」

「さあ、上がって上がって。君がホリーだね?仕事は沢山あるんだ、よろしく」

ホリーの他に同じ秘書として雇われている女性が3人いました。

持ち前の人見知りで最初はぎこちなくしていましたが、やがて気さくな3人とも仲良くなりホリーは平穏な毎日を送っていました。

「ねぇ、ホリーさん。今日こそは行くわよ、あそこのバー最高なの。新米のバーテンダーがイケメンなのよ!」

「まあアリスったら、あなたもう新しい人に目移りしているの?この前はカフェーの彼だって」

「やぁだ全然タイプが違うじゃないの!それにロマンチックじゃない?バーで出会うだなんて。ねぇ、ホリーさん、今日は来てくださるでしょう?お願い」

「私、そんなにお酒も飲めないし……」

「1杯だけでいいのよ、今日は金曜日でしょう?どこかからシンガーだかミュージシャンだかを呼んできて毎週演奏してくれるのよ。なかなか悪くないわ、それも。さあ、行きましょう!」

そうして仕事が終わって、人で賑わう金曜日のロンドンの夜をホリーたちはアリスたち行きつけのバーへと出向きます。

「私、スコッチで!ホリーさん、あなた何を飲む?」

「じゃあ、ジントニックで……」

小さなバーの中は葉巻の香りと香水の香りが充満していました。

暗く妖艶な混雑した雰囲気は、ホリーが少女だった頃感じていた"都会"のイメージそのものでした。

(ああ、私苦手だなこういう場所……早く帰りたい……)

アリスたちはお目当ての、甘いマスクのバーテンダーと楽しくおしゃべりをしています。

私はどうもそう言う性格じゃないな……そんなことを思っていると、中央にある小さなステージに派手な衣装を纏った女性が歩いてきました。


「さあ皆さん、今夜のお目当て、東の地からおいでくださった芳香漂う今をときめく歌手、ローズ・ルーナです!」

あちらこちらで拍手が起きます。

支配人らしき人がローズと呼ばれた彼女の説明を始めました。

話し声の喧騒の中、何が始まったのかしらと、ホリーがステージに目を向けますと

「嘘でしょ……」

そこにいたのはあの、よく見知った彼女でした。

美しかったブロンドはやや草臥れたように見え、腰まで伸びていました。

少しふっくらしたようにも思います。

それでも、あの時の面影を確かに残していました。

派手に胸元と背中を開けた紫色のショードレスに、黒いレースの手袋をつけています。

真っ赤なチークに、真っ赤な口紅。

まさか、まさかと思いましたが支配人の説明を、口元に手を当ててくすりと笑うその仕草はやはりジェーンそのものでした。

「ジェーン、どうしてここに……」

ローズと呼ばれた旧き友人は、ピアノの伴奏に合わせてバラードを歌い上げます。

伸びやかに、そして朗らかに。

(ジェーンは本当になんでもこなせるのね……)

呆気に取られていると、1曲目が終わり拍手がちらほらと起こります。

そのまま続けて2曲ほど歌い上げました。

ホリーはずっと恍惚と、夢見心地なままでした。

はっと我に返ると、ローズは深々とお辞儀をして、観客にひとつ投げキスをするとそのまま奥の階段を降りていきました。

ホリーは慌てて同僚たちに、先に帰っていてねと言い捨てると、ローズの後を追います。

「ちょっと君、ここは関係者だけだよ」

「私、私ホリーって言います。今日の歌手の、ジェーン……ローズ・ルーナと知り合いなんです!」

「アポは取っているかね?ホリー、さんでしたっけ?」

「はい!あ、いえ、あの、ちょっとでいいので会わせて下さい!」

「ちょっと!全く強引な子だなあ……」

黒服に呼び止められるのも構わずホリーは地下に駆け込みました。

「ジェーン、ジェーンよね!私、私よ、ホリーよ!」

「誰かしら、ノックもしないで……っ、ホリー……?」

「ああ、会いたかったわ、ジェーン、ジェーンよね?良かった、生きていたのね、良かった、本当に良かったわ……」

ホリーは思わず泣き崩れてしまいました。

「ローズさん、支配人がお待ちです。来週の予定を……ローズさん?この人は?」

「私の友人よ。支配人には明日の朝予定を話すわ。ちょっと出てくる」

「ローズさん、困ります今日中に予定を」

「私ひとりいなくても代わりの歌手はたくさんいるでしょう?ちょっとだけよ、ね?ホリー、さ、外に出ましょう」

ホリーは言われるがまま、ジェーンと外に出ました。

公園に向かって、夜風に当たりながらホリーは少し冷静になって考えます。

(思わず押しかけてしまったけれど、本当に良かったのかしら。ひと目会えただけでも良かったじゃない、それをこんな……今のジェーンの事情も知らないで私ったら……)

「ふふ、あんなに押しかけておいて、今になって無言になるなんて本当にあなた、変わってないわね」

「ジェーン……」

「良いのよ、今はローズ。もうその名前、何年も聞いていなかった……元気してた?Hollyさん」

「ええ、私は、苦労もあったけどなんとか……」

「そ、良かったわね」

素っ気なく、キセルをふかしながらスキップでもするように歩くジェーンにホリーはとぼとぼと着いていきます。

(何を話せばいいのかしら、話したいことは山のようにある、聞きたいことも、何から、何を聞けばいいのかしら……)


しばらく川沿いを歩いて、ようやくホリーは口を開きます。

「ジェーンあのね、私と、」

「私、ダメなの。環境に染ってしまうのね。修道院に来る前私の家族や仲間たちは泥棒みたいな事をしていたの。ダメなことだってわかっていたけれど、周りがやるんだもの、仕方ないじゃない。私だってやったわ、罪悪感なんてのもそんなに……感じてなかったように思う。誇らしささえ感じた、私の獲物が1番大きかった時にね。事故で両親が死んでからは修道院に預けられた。本当に良かったわ、あの間は私にとって最高の時間だった。あなたとも出会えて。あなたはずっと私を慕ってくれていたけれど、私、ずっとあなたが羨ましかった。どんな時でも、どんな環境でも周りに左右されずに自分の軸があるあなたのことが」

「そんな、ジェーンはいつだって私たちの……」

「憧れ?いいえ、頭の中でいつも理想的なシスターや修道女をイメージしていたの。それだけよ。私が聖人君子だったわけでも、神に使える淑女だった訳でもないもの。ただ、それを真似ていただけ。ヤダヤダ、本当に、私って本当に……」

ついにジェーンは鼻を啜って泣き出してしまいました。

こんな時どういう言葉をかけたらいいのかホリーには分かりませんでした。

「……ジェーン、私来週も来るわ」

「ええ、待っているわね」

「何かあったら話してね」

話してもらったところで今夜のように気の利いた慰めひとつかけれない、と自分に嫌気がさししましたが、それでもそう言わずにはいられなかったのです。

帰るまでの間、そして帰ってからも色々と考え込みました。

寒い、ロンドンの夜空の下で、もうあの頃とは全て変わってしまっています。

戦火はおさまり、物資や食べるものだってあの頃に比べれば困りません。

しかしホリーは目まぐるしく回る毎日に、いつしか紅茶をゆっくりと飲むひと時も忘れてしまっていたのです。

(本当に、本当になんだったのかしら……)

ホリーは最後に、ジェーンが何を言いたかったのか考えました。本当にダメ、本当に環境に左右される、本当に……本当にの後がどうしても埋まりません。

(ああ、ジェーン、私はあなたのことをなんにも分かっちゃいなかったのね……)


ホリーは1週間を忙しく過ごしました。

周りの仕事も手伝ったりなんかして、考え事を無くすには忙しくするのが1番だと知っていたからです。

あっという間に金曜日になりました。

結局、何を話すのか上手くまとまりませんでした。

それでもバーに行きます。

ジントニックを頼んで、ジェーンを待ちました。

暫くして先週と同じ、支配人が出てきます。

「え〜レディースアンドジェントルメン!今夜のスターはこちら、なんとロンドンきってのハープ演奏者……」

(えっ、ハープ……?)

支配人がハープ演奏者についての解説をしていたがホリーの耳にはもう入ってきませんでした。

喧騒の中、辺りを見渡します。

夜の暗いバーの中で目を凝らします。

どこにもジェーンはいない、もしかしたらこの次の人がジェーンなのかしら。

心臓が高鳴るのが分かりました。

ポロロン、とゆったりとしたハープの演奏が始まったがホリーはそれどころではありませんでした。

額の汗を拭きながら、カウンターの中に入っていく支配人の後を追い、問い詰めます。

「あ、あの、先週のジェーン……ローズさんはもういらっしゃらないんですか?」

「あら、お嬢さん。そうなんですよ、今週も出ていただく予定だったんですがね、急に予定が合わなくなったとかで。おそらく友人が来てるだろうから手紙を渡してくれって頼まれたんですけれどそれがどなたなのか……」

「わ、私です。私が彼女の、ローズさんの友人です」

「あら、あなたが。じゃあこちらを渡せば伝わりますか?」

支配人が胸ポケットから出したのは、丁寧に折られた紙の切れ端と、ヒイラギの枝でした。

「まあ、ジェーン……」

「では、私はこれで」

まだ半分しか飲んでいなかったジントニックをカウンターに返すと、ホリーは先週ジェーンと歩いた公園へ向かいました。

もうジェーンはいない、また居なくなってしまった。

せっかく会えたのに、もっと話したいことがあったのに……。

ベンチに腰かけ、ホリーはジェーンの手紙を読みました。

涙が膝に、はらりはらりと落ちて止まらなくなりました。



"私、もう2度とあなたと会うことなんてできないと思っていたの。修道院が戦争で焼けて、多くのシスターたちが死んだのに私が生き延びてしまった時、ジェーンの名前は捨てて違う人生を歩もうと思ったわ。あなたの知るジェーンはもういない、私ももうホリーと友達じゃないってね。

けれど会っちゃったんだもの、こんなところで。会うわけないと思っていたわ。

けれど、今も変わらないあなたを見ていると元気が湧いてきちゃった。ローズって名前にしたのも、自分の武器が欲しかったのかもしれないわね、自分を守れる小さな武器が。

私は南に発つけれど、いつかきっと遊びに来てね。クリスマスにはきっと、また会いましょう。


ジェーンより"


小さな紙の裏には、これからジェーンが行く場所でしょうか、アドレスが記されていました。

ホリーはジェーンとあの日修道院で別れて以来初めて、ここロンドンの空気がこんなにも美味しかったのだと感じ、胸いっぱいに吸い込みました。



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