街に潜む黒い影

 エル歴千年五月十七日、午前。


 飲み明かした翌日、目が覚めたときには時計の針が十を示していた。クレイはぼんやりとした頭のまま、安宿のベッドから起き上がる。いつもなら先に起きているはずのルネが、まだ隣でスゥスゥと寝息を立てていた。


「飲みすぎたな……」


 冷蔵庫というらしい異世界の漂流物を模倣した水冷庫の扉を開け、中に入れていた陶器入りの水を飲む。寝起きの粘ついた喉を水が洗い流していく感覚に心地よさを覚えながら、ベッドのそばに備え付けられているデスクに向かった。


 大陸の地図を取り出し、現在地に丸を付ける。


 水の都ロタンは、ナーランプでも最東端の街。すぐ東に行けば、イーラン・コパとの国境がある。国境を超えるとすぐに、イーラン・コパ最西端の街である精霊街ウンディがある。クレイはこの先、ロタンからを西に進むべきか、北に進むべきか、はたまた東に進むべきか迷っていた。


 北には大陸で最も大きな国・プイヤーレ、東にはイーラン・コパ、西にはルノエ自由国家がある。南には自由都市群があり、その先には断崖と呼ばれる巨大な崖があり、さらにその先には魔人領。一番近い世界の大壁は南だが、断崖を超えるのは至難の業だ。


「しかし、まあ、このまま壁を目指すのも厳しいか」


 どちらに進むにしても、魔人領とかち合うことになる。現魔王が城を構えるのは、ルノエ自由国家の西側の大壁付近だ。魔王城の付近を避けるとしても、現魔王になってからというものの強い魔人がそこかしこに配備されるようになっている。現在の戦力では、あまりにも厳しい。


「追放以外にも強くなる方法を見つけないとな」


 (追放自体……俺がそう信じたいだけなんだから)


「そのためにも、まずは情報だ。街に出ないと」


 幸い、しばらくは仕事を何もしなくても困らないほどの金がある。貯蓄分に加えて、彼も想定していなかったほどの大金が手に入った。それにまだ、金に変えられるルビーが手元には残っている。金を使ってでも、情報を集めるのが得策だとクレイはペンを置いて手を打った。


 ベッドに向かい、珍しく花を閉じずにベッドで眠っているルネの体を揺さぶる。


「起きろ! 朝だぞ!」


 ルネが「うーん」と唸りながら、一瞬目をぎゅっと閉じた後、ゆっくり目を開いた。


「あれ、私ベッドで?」

「本当、どうなってんだそれ」

「だからわかんないってー」

「ベッドで寝るのと花で直立して寝るの、どっちが快適なんだ?」


 クレイはつい、長年の疑問を口にしていた。アルラウネは基本的に、下半身の花を閉じ、体をすっぽりと覆って直立で眠る。足と呼べるようなものは花に埋もれていて、外からは見えないが、あるにはある。ルネはアルラウネ本来の生態から少し外れ、たまにクレイの隣でベッドで寝ていた。


「うーん、ベッドかなー」

「じゃあずっと俺の隣で寝ればいいんじゃないか?」

「へへー、そうするー」


 ルネがのっそりと起き上がり、シャワー室に入っていった。


 クレイは財布など必要な手荷物だけまとめて、小さいポーチに詰め込んでいく。ポーチをベルトから提げ、カーテンを開けて大きく伸びをした。穏やかな陽の光が体中に降り注ぐ。地上の陽の光はミナスのと違い、程よい強さに感じられた。


 流れたシャワーの音がすぐに止み、ルネがタオルで体を拭きながら出てきて窓辺に立つ。


「こら、全裸で窓辺に立つな」

「はーい」


 体を丁寧に拭き、ルネが服を着終えるまで待った。


「おまたせー!」

「おう、行くぞ」


 ルネにショルダーバッグを渡し、靴を履いて部屋の外に出た。客室のある二階から一階に降りて、フロントに挨拶をする。気の良さそうなおばちゃんが「出かけるのかい?」と声をかけてきた。


「はい、今日は観光にでもと」

「じゃあまずは商業区に行ってみな、おばちゃんおすすめのハウルって喫茶店があるから」

「あー、朝ごはんにちょうどいいかもねー」

「ありがとうございます。行ってみます」


 フロントの女性に向かって会釈をし、宿を後にした。


 外に出ると、昨日の昼間と変わらない活気が目に飛び込んでくる。人々がしきりに往来し、何事かを喋りながら通行していた。観光案内の冊子を手に取り、商業区への道を探る。宿屋のあるロタン北通りを南に少し進むと、商業ギルドがある。そこを境にロタン中央通りに通りの名前が変わり、中央通りから東西南北に道が伸びる。


 商人ギルドの南側の地区が、商業区らしかった。


 昨日は西通りに進んだため商業区に足を踏み入れることはなかったから、クレイにとってはちょうどよかった。


 観光案内の冊子をルネに預けると、ぐるる、と腹の虫が鳴る。


「早く行くか」

「ハウルってお店だったよねー、楽しみだなー!」

「わかってると思うが……」

「遊びと情報収集! だよね? わかってるよー」


 二人は適当に談笑しながら、北通りを南に歩く。丁寧に舗装された石畳がコツコツとした音を奏でるのが、耳に心地よい。鳥型魔物たちの高いさえずりや、風を受けてサワサワとした擦れ音を出す街路樹。


 それらに似つかわしくない風体の男が、突然視界に現れた。


「なんだろー、あの人」


 真っ黒なローブに身を包み、フードを深く被る妙に体格のよい男。百九十はあろうかというほどの長身に、クレイよりも広い肩幅が嫌でも目に入る。白と青、そして緑という優しい色に包まれたこの街の風景からハッキリと浮き出るようにして、自己主張している。


 まじまじと見つめながら歩いていると、突然、目があった。金色に鋭く光るその眼光に射すくめられ、一瞬だけ体がこわばり、躓きそうになるのをルネの蔓が支える。


「おっとー、大丈夫?」

「ああ、ありがとう」


 (なんだ、今の感じ)


 威圧感とも嫌悪感ともまた違う、薄暗い路地を歩いているときに突然胸に沸き起こる薄らぼんやりとした痛みのような感覚だった。それはあの男と目が合った瞬間唐突に胸に現れ、みるみるうちに血液を伝うようにして体中を駆け巡り、病原菌のようにクレイを支配していく。


 嫌な感覚に寒気を覚えながらも歩いていると、また唐突にクレイの心身が自由になった。振り返ると、あの男の姿は無い。


「なんだったんだろうねー、不審者かな」

「不審者ではあるだろうけど」


 (ただの変質者や不審者なんて類いじゃ、なさそうだな)


 何より気になったのは、すれ違いざま見えたあの男のローブの背中の刺繍。二匹のヘビが絡み合う金色の十字模様だ。少年時代のクレイの愛読書である『女神ノエルの冒険譚』に出てきた三神教という宗教組織のローブのそれと、酷似している。


 創世の女神の冒険譚、すなわち神話に登場するものだった。


「見たか? 今の紋章」

「んーん?」

「女神ノエルが敵対した宗教組織……核世界と全ての枝世界を崩壊の危機に陥れた三神教のものと、かなり似てたんだ」


 女神ノエルのいる世界は、核世界と呼ばれている。ノエルが生まれるより数千年も前、核世界からあらゆる可能性が枝分かれした。その可能性が世界を形成し、さまざまな異世界が生まれ、それらは枝世界と呼ばれるようになった。クレイたちの住むエル大陸も、その枝世界の一つだ。


 もっとも、エル大陸は女神ノエルが生み出したものだとされている。


「創世の女神の世界、か……」


 模倣だろうけど、にしても誰が何のために――クレイは思案した。


 しかし、およそ三秒後、彼は頭を振る。


「ま、考えてもわからんことはわからんな」

「それよりさー、朝ご飯! 私お腹ペコなんだけど」

「だな。とっとと行くか」

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