桜菫抄 おうきんしょう

上月祈 かみづきいのり

桜菫抄 おうきんしょう

 春と呼ぶにふさわしい、晴れた日でした。風は気まぐれに、のんびりとした溜息ためいきをつくよう。昼まで寝てしまえば春暁しゅんぎょうそのものでした。

 私は、八幡はちまん様へのお参りに出かけていました。

 丁度、礼をしてくぐった鳥居の先に伸びる参道を左側に歩こうとしていたところでした。

 真ん中は神様の通り道ですから我々の通ってよい場所ではありません。

 左側を進みますと、参道のすぐわきに花が一輪咲いております。思えば、この時期は桜に気を取られて上ばかり見ておりますから、道端を眺めたことなど久しいことないのでした。

 さて、くだんの一輪は紫色の花びらを持っております。おそらくすみれでしょう。私にとって、春の道端はいつも蒲公英たんぽぽでした。

 菫。ぼんやりでも、この花の名を浮かべることができたのは、様々に語り語りて紡がれた幾多数多いくたあまたの言葉のお陰、でしょう。日本に限らず、世界的にも昔から愛でられる花なのです。

 体をややかがめて花を繁々しげしげと眺めると、おもむろにまた歩き出しまして、八幡様にお参りをしたあとで私はまた左側を歩きました。 

 帰りの左手、行きの右手。帰り際もよく見てみましたが、めぼしいものはありませんでした。鳥居の外へ出ると八幡様へ一礼してからその場を後にいたしました。

 

 それから何日かいたしますと、天気は具合が悪いのか、空は昼間でも鈍色にびいろかげりを加えたようにどんよりでした。雨滴うてきは大きく、音はしの突くようで夜を迎えても雨だれの知らしめんとする騒々しさは続きました。

 夜、私は寝床におりました。もうあかりも消して、うとうとしている最中でそのまま寝てしまおうとしているときです。

 玄関の扉が三回、いや四回鳴らされたように聞こえたのです。はっきりしないのは雨音が大きいせいでしょう。

『あぁ、誰だろう。こんな時間に。せっかく眠いのに、体を起こさなければならないのか』

 などと思いながら起き上がろうとしましたが、思いを改めてそのまま寝てしまうことにしました。

『いや、よそう。だって常識的ならば扉を叩いて知らせる必要はない。右っかわにもっと現代的なものがあるのだからそれを使うはずだ。つまり、非常識な人なんだ。こんなときは、居留守を使おう』

 こう思った次第です。

 私はそのまま、ざぁざぁ雨降る夜の賑やかさの中で何にも妨げられることなく眠りました。雨音は多少大きく聞こえましたが、ずっと聞いていると心地の良いものですから、意識はいつの間にかなくなっていたのです。

 いつか死ぬ時もこうやって不明瞭な色合いの境を越えて、死、の一色へと辿りつくのでしょう。死への反復練習こそ眠りなのです。


 夢は、暗がりの中に私を置いたようでした。

 

 不思議なものです。闇の中なら、自分の手足さえ見えないはずなのに、これは確かな輪郭を持っているのです。私の体は明るいのです。

 人の意識は夢に従属するもの。私はここが夢の中だと思うことはできませんでした、ここにいる間は。

 すると、後ろから声をかけられました。

『すみませんが』

 という声は幼く、私が振り返ると着物姿の子が立っておりました。背は私のひざまでか、それよりも少し高いくらい。顔つきも出立ちも、とても中性的。

 しかしながら、節句に振舞われるのは白酒のような気がいたしました。柏餅ではないのです。

 幼子と私は目が合いました。この子はまた口を開きました。

「そちらにある桜をひとつ、とってはくれませぬか。わたくしには手が届きそうにもないのです」

 私はいま一度振り返りました。私の頭を撫でるような具合で、桜の枝々が現れたのです。見れば、桜の花も咲いています。

 様子は色々で、つぼみ、五分咲きに満開、花びらのいくつか散ってみじめなものまで。

 夢心地の私は、この子の願いとは裏腹に、この桜をそっとしておこうと思いました。

 人ひとり枝を手折たおれば諸人もろびとのこぞりてなせば盗人のむれ

 そんな心持ちでした。

 私は少しだけ、しゃがむと彼女の目を見据えました。黒くて、光のある目。

「申し訳ないけど、私にはできないよ。人間だって指が折れれば痛いし、枝を折るのは心の中で痛々しく思ってしまうんだ。私はね、痛みを思い出してしまうんだ。だから、桜の枝を手折ることはできないよ」

 返事はこちらを見据えたまま、こくり、と頷きひとつ。

 すると、この子はすっと消えてしまいました。

 でも驚きはありませんでした。それは夢が私の常識を書き換えて、それが当たり前のことのように思わせたからに違いありません。

 また、後ろから声を掛けられました。

『すみませんが』

 という声はやはり幼く、またまた私は身をひるがえしました。

 今度は私の頭上より高いところにしゃがんで、そこから見下ろしていました。彼女の膝元と、私の目元の近さから、着物を細かく見ることができました。紫色で、生地のつややかさに金糸銀糸を織りなすそれは大層高価なものに違いありません。

『お足元に咲いている菫を一輪取って下さい。わたくしには、手も足も出せないところにあるのです』

 私はまた、くるりと身を翻しました。足元のちょっと先の方に、あの時の菫ではないかと思うほどそっくりな花が咲いております。

 でもやはり私は、気乗りしませんでした。

 花摘めばこそはづれ蜜蜂のはたはと問はばいかが答えん。

 それはあまりにも可哀想でした。

「私にはやっぱりできないよ。たった一輪の花を取ってしまうのは。それに、ただ一輪のために飛んでくる者もいる。なのに、あなたはどうして」

 彼女は、くっとうつむいて消えました。

 私はただ、立ち尽くしていましたが不意に後ろから何者かに抱きつかれました。

 私は見ました。

 肩の後ろから回された、真っ白くて、荒れひとつない肌の手指にかいなを。そして金糸銀糸を用いた贅沢な紫色の着物の袖を。

 その格好から大人であろうはずなのに。

 なのに、子供一人よりも軽いような。

 まるで重みがないのです。

 夢というものは我々の常識というものを好きなように書き換えてしまいます。

 その上で、夢の中でやってはいけないことを私の勘が訴えかけました。

 一つだけです。

 ただ一つだけです。


 振り返ってはいけない。


 それが、今までのことが何を意味するのか、薄くぼんやりと照らしました。

「なぜ、わたくしのために動いては下さらぬのですか。とっても他愛のないことなのに」

 声は一人のわらべではなく、一人の手弱女たおやめのよう。そう、声は幼くなどありません。手は柔肌やわはだにして、やおらに私の腕をさすります。何かを確かめるように。でも、何を。

 私は正面を見据えたまま、答えました。

「なぜ、あなたが桜や菫を取らないのですか。今の出立いでたちなら桜の枝にも手は届くでしょうし、菫もあそこ以外を探すこともできるでしょう」

 答えは、だんまりで返ってきました。なので、続けて私は発しました。

「あなたは、生きているものに触れることができないのですね。生きているものを殺めることができるのは、生きているものだけです。天災や天寿などをを除けばですが。あなたは私に一枝いっしと一輪を殺して欲しかったのではないのではありませんか」

 息を吸って、また静かに続けました。

「あなたは死んでいる。だから、花を得たければ同じように死せる花にしなければならないのだ。私は怖い。そのうち、あなたにとって私も、一人ではなく、一輪に思えてならなくなる。それが怖いから、全て私にはできないことなのです」

 これは夢の中の話です。でも、夢の中の話が全く現実に起こらない、というわけでもありません。夢とうつつの繋がりを見失ったときに正夢となれば、『夢にも思わない』のです。

 私の腕を肌白い手は軽く握りました。それでも精一杯握ったかのよう。なのに、ほんとうに弱い力でした。

 しばらく、お互いにだんまりを決めていましたが、むこうが観念したかのように口を開きました。

「きっと、あなたはこちらを振り向かないでしょう。ですから申しますが、わたくしという者は、あなたのご明察の通りの存在です。わたくしはすっかりと色褪せて、ほんとうに白いのです。わたくしの着ているものはお気に入りのもので、共に死にました。あなたの仰った通りです。わたくしは生きた花には触ることができません」

 私は一つ尋ねました。

「もしかして、昨日私の所へいらしたのは」

 そこから先は言葉が詰まってしまい、声にはなりませんでした。

「そのことについては、何も申し上げることはできません」

「なぜ」

「どうか、ご勘弁下さい」

 私の心は何故か焦りの中でした。

 聞かねばならないことがあるように思えました。ですから、この心情の圧に押されて出てきた言葉が、

「もし、生き物ではなくて道具ならば、触れることができるのですか」

 という言葉でした。

 彼女は考えているのか、ひと言も発しません。ようやく、というべきか言葉を発したなら、

「壊れてもなお、修理されることのなかったことは死んだも同然です。壊された姿で現れます。ただ、もし、もし。わたくしのために壊された物があれば、それは壊される前の姿でわたくしの前に現れます。これは、道具だけに限ることなのですが」

 と、述べました。

 私は何か伝えようと思いましたが、叶いませんでいた。

 息が詰まってしまって言葉になりません。

 苦しさがつのって募って、息を大きく吸ったその時。

 目を覚ましました。

 夜が明けたばかりのようで部屋がほのかに明るいのです。

 今までの花も心も手弱女も置いてきたのは夢一夜ゆめいちやの中と悟りました。

 私の体は息ばかりしておりました。きっと、息が止まりかけていたからでしょう。

 息が整うと、次は身も心も急かして、身支度をするとすぐさま八幡様へと出かけました。

 外は晴れ晴れとした朝を迎えております。空気は清く、雲は一つもありません。雨上がりの早朝は、雨の残り香に満ちております。

 私は、お参りをしたかったのと、一輪の菫を今一度見ようと八幡様へ足を運んでいたのです。

 でも、それ以上に。

 あの夢一夜のために、童のようで手弱女のような着物姿の女のために、部屋にあるものを何か壊して捧げてしまうのではないか。

 たったそれだけが、せまってくるかのように恐ろしいのでした。

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