たちあおい②

 高校三年生になったばかりだった椿は、病状が悪化したこともあり、検査をかねてここ、秋雨病院に入院をしていた。学校自体は課題の提出さえすれば出席にはしてくれるということで、その点については安心して過ごすことができた。これも、私立高校ゆえの待遇なのだろう。


 ただ、思い出はどうかと問われれば、それはひどく曖昧なものになってしまう。少しだけ顔を出していた美術部の明るい絵の具の匂い。薬品のつんとした匂いが充満する保健室。行事の思い出も、教室で授業を受けた記憶も。そう言えばあったような気がするというだけで、はっきりとは思い出せそうになかった。


 それでも、彼と出会った日のことはしっかりと覚えている。


 あの日は確か、気温も温暖で過ごしやすい一日だった。たまたまあてがわれた病室から見える桜の花があまりにも綺麗だったから、病衣の上に黒色のカーディガンを羽織って中庭へと足を運んでいた。


 この桜を見るのは椿にとって今年で三度目だった。初めては高校一年生の時。でも、その頃は既に桜の大部分は散ってしまっていて、ちらほらと新芽が芽吹いてしまっていた。二年目は体調の悪化がなかったこともあり、この時期は検査で訪れただけだった。それに、高校に入学するまでは病院独特の空気が苦手だったことも手伝って、この場所に足を運ばなかったこともあるだろう。


 だから、こうしてまじまじと眺めることができたのは、今年が初めてだった。


「綺麗……」


 病院の中庭いっぱいに広がった木の枝には、淡く輝いている桜の花が咲き誇っていて。その花々に見とれている間は自分の病気を忘れることができた。


 スリッパを通して伝わる、土の軟らかさが椿を笑顔にさせた。そっと幹に触れるとひんやりと冷たくて。無機質ではないそれが、命の温度なのだと思えた。


「うわぁ……」


 その声に驚いて振り返ると、一人の小さな少年が桜を見上げて立っていた。椿は女子にしては身長が高いこともあってか、自分よりも低い身長の彼が一瞬中学生かと思ってしまった。しかし、見慣れた紺色のブレザーに赤のネクタイから、彼が自分の通っている高校の一年生なのだと推測できた。まだ馴染んでいない真新しい制服が初々しい印象を椿に与えた。入学したばかりの頃は自分も先輩たちから、このように見えていたのだろうかと苦笑いを浮かべてしまう。


「あなた、古山高校の一年生?」


 無意識だった。ふと口をついて出た言葉に、椿は驚いて口を両の手の平で覆う。自分が知らない人に声を掛けてしまったことにも驚いたし、何より、質問が自分にとって身近な物であったことに驚いた。


「えっと……」


「ご、ごめんなさい……」


 少年の困惑した表情によっぽど逃げ出そうかと思ったが、この狭い箱庭のような中庭には逃げ道が彼の後ろにしかなく、椿は諦めて謝罪の言葉を口にした。


「あっ、気になさらないでください! まさか一目見ただけで自分の高校と学年を言い当てられるとは思わなくて……」


 それから照れたように笑う彼を見て、椿は小さく吹き出して柔らかく笑った。


「実は私もあそこの生徒なんです。学年はあなたとは違うけれど」


「あぁだから……」


 少年は納得がいったように、息を吐き出した。それから少年ははにかんで椿を見た。


「俺、砂川悠介すながわゆうすけって言います。今年の四月に古山に入学しました」


 彼の爽やかな印象と、これから続くであろう暖かな未来がまぶしく見えた。一瞬目をそらしたくなったが、それでも椿は軽く微笑んだ。


「私は浜鳥椿はまどりつばき。三年生だから、ちょうどあなたの先輩に当たるはず」


 他の説明は不要だと思ったから、あえてしなかった。自分の病気のことだとか、家が旅館を営んでいることなど、今この瞬間には限りなくどうでも良いことに思えたから。

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