たちあおい

たちあおい①

 ――我が宿に 雨つつみせよ さみだれの ふりにしことも 語りつくさむ


そっと触れた窓は、雨の温度でひんやりと冷たかった。呟いた詠は幼い頃から家の旅館を継ぐためにとたたき込まれた教養の一つ。


 この町の住民に浜鳥旅館はまどりりょかんと尋ねれば、大抵の人はあそこかとすぐに納得できてしまうような古くから続く旅館。瀬戸内海を一望できるほど近くに建てられているという好立地なこともあり、毎年様々な人が訪れている。その一人娘である浜鳥椿はまどりつばきは、来年の四月には旅館経営を学ぶために大阪の専門学校へ進学することを親から言い渡されていた。


 椿はふっと胸に溜まった空気を吐き出した。そのとき、腰まで伸ばした黒髪がさらりと揺れたのが服越しに伝わってくる。


雨粒でぼやけてしまっているけれど、うっすらと見える窓の向こう側には大きな桜の木が一本だけ生えている。今はもう鮮やかな緑色の葉をその両手に広げているが、少し前までは見ているだけで幸せになれそうなほど美しい桜の花が咲き誇っていた。


 来年、もし生きていたら、見ることができるだろうか。


 そんなことを考えてまた重い息を吐き出した。


 この町の名を借りて建てられた秋雨病院。それが椿の閉じ込められている牢獄の名前。二年ほど前に特発性心筋症という未だに原因が不明な病を煩ってしまったせいで、入退院を繰り返していた。


 高校生になったら、おしゃれをしよう。勉強をしよう。友達と遊ぼう。そして、恋をしよう。そう決めていたのに。中学生のときの無邪気な自分を思い出して、椿は唇を噛んだ。


「椿さん……?」


 背中から控えめな声が聞こえてきた。振り向かなくても分かる。今年の四月、まだ桜が咲き誇っていたころに出会った少年、砂川悠介すながわゆうすけだ。


「こんにちは、悠介」


 椿が後ろを振り向いて笑いかけると、彼は照れくさそうに微笑む。


「こんにちは、調子は良いんですか?」


 お見舞いの品であろうビワが詰め込まれたビニル袋を机の上に置きながら悠介が尋ねる。一瞬だけ視線を腕に繋がれている点滴に移し、目をそっと閉じて嘘を吐く。


「今日は不思議と気分が良いから」


 本当は今だって身体が気怠くて、息さえも何かが詰まっているかのように、肺いっぱいに吸い込むことができない。


 彼にベッドわきの椅子に座ることを勧め、椿自身も柔らかくベッドに腰掛ける。その時、点滴の管が微かに揺れ、その動きでズレた針の、わずかな痛みにそっと顔をゆがめる。


「なら良かったです」


 椿の表情には気が付かず、悠介は少しだけにこやかな笑みを浮かべると、外に視線を移す。つられて椿もそちらを眺めるが、あるのは暗い色に染められている空間だけで、この角度からでは何も見えはしなかった。


「どうかした?」


 たまらず声をかけると、悠介がぼんやりとした表情のまま口を開く。


「いえ、俺らが出会ったのもあそこだったなと思って……」


「そうね……。あのときはまだ桜が咲き誇っていたっけ」


 椿も過去を懐かしむように視線を遠くに投げた。

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