第3話 文字

「うーんっ……たはっ」


夜明けと共に目が覚める。

店主に連れてこられた物置小屋には様々なものが置いてあった。「勝手に色々触るなよ」と言われていたが、あれこれと探るほど余力もなく、布と麻袋の積み重ねを枕に昨日はすぐに寝た。

どうやらまだ店主は起きていないらしい、店内を覗いても、昨日の喧騒が嘘だったかの様な静けさが満ちていた。

早く起きたところで何もする事がないし、かと言って何もしないと、漠然とした不安に押しつぶされてしまいそうで、調理場に積まれた食器を洗い始めた。家事は兄妹が多く慣れていた為、手慣れた手つきで皿を洗い終え、それでもまだ時間が余った為乾いた布で拭き上げる。


「ピカピカだ」

「おい、ここにいたのか」

「ッ!」


急に声がかかり驚く。声の主は店主だった。眠たげなまなこを擦りながら声をかけてきた。


「あ、おはよう」

「おはよう、じゃねぇ。何やってんだ」

「その、暇だったから、皿を……」

「勝手な事すんじゃねぇ……ったく」


カツカツと近づき、吹いていた皿を取り上げられた。そうだ、昨日した約束は今晩のご飯と寝床のみ。今日からまた、不安と恐怖に満ちた放浪が始まるんだ。そう思うと自然と表情は暗く、肩が重くなった。

しばらく俯いていると、ふと何も言わない店主が気になり顔を上げる。店主は先ほど取り上げた皿をまじまじと見つめながら、また眉間にしわを寄せていた。


「……おいガキ」

「……?なに?」

「お前どうせいく場所ないんだろ?」

「うん……」

「……無給だ、賃金はない。ただし余り物の飯と物置小屋なら貸してやる」

「えっ……!」

「ただしその代わり、店の手伝いと早朝の皿洗い、その他細々とした雑用をしっかりとこなせ、それでいいならしばらく置いてやる」

「ほっ、本当に!?」


願ってもない申し出だった。

元よりお金なんて求めてなかった。仮にもらったとしても、使った事がないからその価値についてもよく知らないし、保管する場所もない。ただご飯さえあればよかった。その点で店主がくれた条件は雨風を凌げる、元々住んでいた丸太小屋より狭いがしっかりとした作りの寝床まで付いてくる。断る理由なんてなかった。


「やるよ、おじさん、僕やるよ!」

「わぁったから朝からデケェ声出すな。あとおじさんじゃねぇ、メルゲンだ」

「メルゲンさん、ありがとう!あ、あと、昨日言いそびれたんだけど……」

「あ?なんだ?」

「ご飯、とっても美味しかった!」

「………はっ、そうかよ」


僕の感想なんてどうでもいい様で、メルゲンさんは蹴伸びをして皿を棚に運び始めた。それに倣い僕も手伝う。

始まる。

僕はあの子みたいにはならない。

毎日たくさん働いて、美味しいご飯をたくさん食べる。

ここから始めるんだ。

僕の人生を。


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2年の月日が経った。

身長もすっかり伸び、机をギリギリ覗けた頃が嘘の様に、店内を見渡せた。


「よしっ」


袖をグイッと捲り、途方もなく積み重なった皿を洗い始める。仕事に慣れたのもあるが、背が伸び、また身体つきも良くなったためか、以前よりも機敏に動けることを実感していた。


「おはようさん」

「メルゲンさん、おはよう」


そんな仕事ぶりを評価してか、メルゲンさんのあたりもキツくなくなり、今では飲み物の提供を任されるほどに信頼を得ていた。相変わらず無給だが、メルゲンさんのつくる賄いはどれも美味しく栄養もあって、ここまで成長できたのも全て彼のおかげだった。感謝の気持ちでいっぱいだった。


「そうだロイ、皿拭き上げたら買い物頼めるか?野菜類が心許なくてな」

「え?……分かった」

「ここにメモ置いとくぞ」

「うん、ありがとう」


早々に皿を拭き上げ、メモと置かれたお金を持って中央の市場に向かう。このお金を盗むなんて気は起きもしない、買い物を頼まれるくらいの信頼に嬉しさを覚え、家族の様に勝手に思っていた。

しかし、市場に来て早々に困ったことになった。時々メルゲンさんについて市場の買い物の手伝いをしたことはあっても、一人で来ることは初めてだった。何も考えずメモを持ってきたが、僕は文字が読めない。


「なんて書いてあるんだろう……まぁ、お店の人に渡せばいいか」


そんなこんなで、いつもの野菜売りの露店に向かい、メモを店の人に渡した。毎度同じ店だから僕のことも覚えてくれてたみたいで、ありがたいことにメモに書かれてあるものを一式まとめてくれたみたいだ。代金は丁度渡された額と同じだったために、勘定でもたつくこともなく、早々に帰路に着く。最初は重たくて大変だった野菜達も、今となっては軽々と肩に下げて歩ける。

帰路の途中、開店にまだ時間があったため、少し寄り道をした。適当にぶらついていると、2年前に立ち寄った広間に出た。嫌な記憶がよみがえり、土を頬張る少年の姿が脳裏に浮かぶ。


「うぅ………帰ろう」


頭を振り払い、今ある僕の真っ当な生活に戻る気持ちでメルゲンさんの元へ帰ろうと歩を進めると、すぐそばに落ちていた紙を見つける。


「これ……新聞?」


お店の常連のおじさんがよく読んでいたため、気になって聞くと『これは新聞だよ』と教えてくれた。最近起きたことや、*けいざい*とか*せいじ*について書かれてあるものらしい。難しいことはわからないけど、おじさんは毎晩熱心に読んでいるから、彼にとっては面白いものなんだろう。とは言っても、紙面を見ても文字ばかりで、何について書かれているかは挿絵を見てなんとなく察する程度しかできなかった。


「うーん、文字か……読めたら面白いのかな」


新聞片手に、今度こそお店に向かって歩き始めた。



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今日もお店は大繁盛だった。常連はいつものこと、あたらしいお客さんも時々来てくれるくらいにこのお店の評判はよく、何皿提供したのか数え切れないほどだった。それにもかかわらずメルゲンさんは『金がねぇよぉ』と良く口にしていて、お金を稼ぐことの大変さを他人事ながら感じていた。

ともあれ営業も終え、お店はには売り上げをまとめるメルゲンさんと僕の二人だけになった。お客さんのはけたこの静けさは今もまだ慣れない、ピーク時の喧騒とのコントラストで、寂しさを感じる。

ただ今日は特別だった。閉店後の掃除を終え、朝持ち帰ってきた新聞を広げて、印字された文字の羅列を眺めていた。何が書かれているのかわからないが、中にはよく使われる文字があることや、文字と文字を区切る様な点が上側にあったり、下側にあったりとして、それらにどんな意味があるのか、妄想するだけで楽しんでいた。


「なんだロイ、新聞読んでんのか?」

「いや、読めないよ、眺めてるんだ」

「ははっ、どっかで拾ってきたのか?読めもしねぇのに眺めて何になる」

「まぁ、確かに」

「というかお前、文字読めないのか。まぁそうか、元は浮浪児だもんな。じゃあ買い物はどうしたんだ?」

「メモを店主に渡したんだよ」

「なるほどな。……これ、お金って読むんだ」

「へぇ……じゃあこれは?」

「これは我々、だな。自分達って意味だが、新聞だとこの街に住む住民って感じだ」


メルゲンさんは僕の読んでいた新聞の紙面に指を刺し、読み方を教えてくれた。いくつか質問をして、5〜6個の文字列の読み方を教えてもらった。メルゲンさん曰く、『お前が文字を読める様になったら、頼める仕事が増える』らしく、面倒くさそうではあったが嫌味なく教えてくれた。


「お金、我々、食べ物………」


教えてくれた言葉を反芻しながら、忘れてしまわない様に新聞には爪で彫りを入れ、どの言葉を教えてもらったかを忘れないようにし、物置小屋で何度も寝返りを打ちながら、自然と眠りについた。

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