第2話 仕事

息が切れ、流石に走り続けることができなくなるほど遠くまで来てしまった。呼吸を落ち着かせてあたりを伺うと、どうやら比較的賑やかな場所に来たみたいだ。

音もなく暗い場所に居ると、不安で押しつぶされそうになってしまうから、自然と賑やかな場所に足が向いたのだろうか。

少しでも現実から目を逸らしたくて、耳に入る音に意識を全て向けていた。すると近くの家から、何やら大きな声が聞こえてくる。


「こっち注文頼む!」

「おい、ビールはまだか!?」

「おやじ、この皿早く下げてくれよ!」

「だぁーっ!!うるせぇな!こっちは一人なんだよ、テメェで下げてくれ!」

「はぁ!?客に下げさせんのかよ!」


カンコンと鍋のならす甲高い音と、大人達の叫び声が頭に詰まる。ここは家じゃなく、昼に父親と行ったような大衆食堂だろう。

それにしても、どこの大人も叫んでばかりで怖い。

そそくさと別の場所に行こうとしたが、少しだけ開かれた窓から香る料理の匂いが僕を引き止めた。


「美味しそう.......いい匂い........」


なんの料理かな、お肉を焼いてるのかな。それとも僕の知らない何かだろうか。

夢うつつにそんなことを考えていると、気づけば店内に足を運んでいた。自分でも無意識の行いに驚いてしまった。


「あ?なんだこのガキ」

「あっ.......!」


当然、すぐに店の玄関からいちばん近い席の大男に見つかった。

声からして、さっき店主に「皿を下げろ」だのなんだのと、言い返してた男だろう。

焦りと緊張から訳も分からず、テーブルの端に置かれた皿を掴んで店主の近くのテーブルへと運んでいった。するとその姿を見た他の客達が、僕を給仕か何かと間違えたのか、僕に声をかけてきた。


「お、坊主、こっちも頼む!」

「えっ、うんっ」


言われるがままに、次々と呼び止められてはすでに平らげられた皿を店主の元へと運ぶ。

それは2分にも満たない短い時間だったし、お客さんとの会話も何も無かったけど、僕を呼び止める声や、お皿を下げた男達から感謝の言葉をかけられることがとても嬉しく、僕もその空間の一部になれたようで、先ほどまで沈んでいた気持ちが嘘のように消えて行った。


しかし、2往復程したところで、店主と目が合っってしまった。

調理場でフライパンを振るっていたからか、顔は熱気を帯び赤らんでいて、眉間には皺が寄っている。大人は皆背が高いが、特に店主は座席に座っていたわけでもないから、一歩近づくたびに大きくなる顔に恐怖を感じる。


「なんだテメェ、何してやがる」

「あ、う、その……」

「チッ」


店主は舌打ち一つうち、僕は首根っこを掴まれ外に投げ出された。大人はこんなにも軽々と僕を持ち上げられるのか、と全くもって関係のない感想を持ちながら、すぐに考えを切り替え、店へと戻ろうとする店主の足にしがみつく。


「お願い!ここで働かせて!僕、なんでもするから!たくさん頑張るから!」

「てめっ、離せクソガキ!うちに人を雇う金なんてねぇんだよ!」

「お願いっ!お願いっ!!」


後先考えず、必死に足にしがみついて叫んだ。

広間から離れてずっと、気を抜くとすぐ自分に似たあの男の子の姿が目に浮かぶ。

怖かった。自分もすぐにああなってしまうのがなんとなく分かっていた。その恐怖から逃げる一心で、なんとしても食事にありつきたくて、振り払おうとする足を離すことができなかった。


「離せってんだよ!くそッ!」

「おぃ、旦那ぁ!ビールはまだ来ないのかよ!」

「っるせぇ!それどころじゃ……!」

「雇ってやりゃいいじゃねぇか、店も回ってねぇんだし」

「そーだそーだ!」

「他人事だからって好き勝手言いやがって、うちにそんな余裕ねぇっつの!」

「たかがガキ一人だろ?数ダルク渡しときゃ済む話だろうよ」

「その数ダルク稼ぐのがどれだけ大変か、お前も分かってんだろ!」

「お金なんていらない!いらないよ!ご飯だけでいいから!余ったの少し分けてくれれば僕頑張るから!」

「ほら、ガキもこう言ってるしよ」

「雇ってやれよ!」

「そんなんどうでもいいから早く飯持ってきてくれよ!」

「おじさんお願い!!」

「あぁぁぁもうっ!クソッタレ!」


そう吐き捨てると、店主は振り回してた足をやっと落ち着けた。僕のためではなく、ただ自分の食卓にご飯が早く運ばれることを願ってのお客さん達の要望に、ついに店主が折れた。


「ガキ!今晩だけだ!どうせ泊まる場所もねぇんだろ?物置小屋かしてやらぁ、その代わり死に物狂いで働けや!早朝には追っ払うからな!」

「………!!本当!?ありがとうおじさん!!僕頑張るから!!」

「分かったからもう離せってんだよ!ったく邪魔くせぇ」


すぐに店主の足から手を離し、服についた砂埃を払ってピンと立った。もう先ほどまでの焦りは消え、胸の内にあるのは安堵と希望で、なんとか食べ物にはありつける事態に胸が躍る。

『お前は客の食い終わった皿を持って帰ってこい、注文を受けたら漏れなく俺に伝えろ、俺が作り終えたらそれを持ってけ、それだけだ』、と仕事内容を簡単に説明され、僕は深く頷き、了承の意を伝えた。

それからはとてつもなく忙しかった。皿を下げては提供し、注文を受けては伝え、てんやわんやと目まぐるしく店内を駆け回った。思いの外注文を取り違えることなどもなく、迷惑という迷惑をかけずに夕飯時のピークを乗り切った。我ながら初めてにしては上出来だった様に思う。最後のお客さんがお店を後にし、静まり返った店内でやっと仕事を終えた開放感から、全身の筋肉が緩み、大きなため息が出る。


「ふぅ.......終わった.........」

「おうガキ、おつかれさん」

「おじさん、お疲れ様です!」

「ほら、約束の飯だ。ぼさっとしてねぇでとっとと食え」


コトンと音を立て、テーブルに店主が置いた皿には湯気がたちのぼる野菜炒めと、日替わりで提供しているらしい、くず野菜を煮込んで作ったスープが入っていた。

ほら、っと店主が厨房から投げたパンを慌てて全身で受け止める。一般的には固い粗悪なパンらしいが、いつもカビて青くカチカチになった教会のパンしか知らない僕からすれば、それは夢のような柔らかさで、汗でぐちゃぐちゃになった顔など気にもせず、ムギュッとパンに顔を押し当て、目一杯匂いを嗅いだ。


「すーッ………はぁっ!いい匂い……!」

「何やってんだテメェは、汚ねぇ。いいからさっさと食え、余りもんだ」


恍惚な表情を浮かべる僕とは裏腹に、店主は疲れた顔で吐き捨てる。

言われるまでもなく料理の置かれたテーブルに走り、大人用の大きな椅子になんとかよじ登って置かれた料理を見渡す。不揃いだが色とりどりの野菜と、小さな肉片が入った野菜炒め。もやしと溶かれた卵がゆらゆらと動く薄黄色のスープ。それから手に持つ小麦の香り漂うパン。まさに夢のような光景だった。


「いただきます!」


マナーも何も無かったが、ジト目で見つめる店主をよそにとにかく口に詰め込んだ。パンをかじればスープで潤し、野菜炒めの濃い味を堪能した後、またパンをかじる。これだけお店が繁盛しているのが、余り物の食事を食べるだけでしかと身に染みて分かる。心の底からただ美味しいと思うばかりだった。


「うまぁ………!」

「食ったらさっさと寝ろよ、物置小屋には布くらいあるから、適当に使え。朝になったらちゃんと出てけよ」

「ありがとうございます!」


あまりにも美味しい料理に、店主の言葉はほとんど聞き流していたが、たくさんの意味を込め、とにかくそう答えた。大きさはとっても小さいけど、初めての肉料理の感動は、きっとこの先一生忘れることはないだろう。

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