第十五章 涙を流す理由
視界がひどくぼやけ、よく見えない。
深い夢から覚醒したばかりのような、自分が今どこで何をしているのか分からない感覚が長く続いた。頭は痛いし、身体も上手く動かない。
そんな私を現実に引き戻したのは、頬の濡れた感触だった。私はぎこちない動きで頬に触れ、驚いた。
「うそ」
流れるはずのない涙が、とめどなく頬を伝っていた。後から後から出てきて、全く止まる気配が無い。鼻水が出てきて、私は鼻をすすった。
「ハルカ!」気づくと、サラダが私を覗き込んでいた。私は身を起こしてサラダを見た。
「サラダ……?」
「ダイジョウブデスカ、ドコカイタムノデスカ」
「頭は痛いけど、平気だと、思う」
「モウシワケアリマセン・・・・・・キット、ワタシガムリヤリセツゾクシタセイデス。メモリガギャクリュウシテ、ハルカノノウニ、フタンガカカッテシマイマシタ」
そう言えば気を失う前に、後頭部にあるソケットに何かを差し込まれたような気がする。手で後頭部を確認すると、今は何も入っていなかった。
本当なら、自分に理不尽な苦痛を与えてきたサラダに怒るべきなのだろう。でも、そうする気にはなれなかった。
「私、全部見たよ。サラダが、日ノ出家の人たちに出会って、そして……喪ったところを」
接続が切れても、頭の中には色濃い喪失感が居座っていた。これはきっと、サラダの感情なんだ。
「サラダは、何を、後悔しているの?」
私はどうしてもそう聞かずにはいられなかった。あの記憶の最後に私を襲ってきた感情で、一番激しく私を揺り動かしたのは、「後悔」だった。
「コウカイ・・・・・・デスカ。ソウデスネ。ワタシハコウカイシテイマス。ワタシハアノトキ、イッショニイテホシイトイウコハルノイシヲ、ムシシテシマッタ。AI二アルマジキ、ヒドイコトヲシマシタ」
「でもそれは、小春を助けようとしたからなんでしょ」
「ソレデモ、コウカイシテイマス。イッショニイレバ、コハルニモットナニカデキタノデハナイカト・・・・・・ソレニ」
サラダは項垂れた。雑音混じりの機械音声が震える。
「レンゲトノヤクソクモ、ケッキョクマモルコトガデキマセンデシタ。コハルノコトヲ、タノマレテイタノニ・・・・・・カナラズキャンプヘツレテイクト、ヤクソクシタノニ・・・・・・」
「ううん。サラダは、十分頑張ったよ。小春、最期に言ってたじゃん……『ありがとう』って。きっと、蓮華もサラダが必死に頑張ってたことは、あの世で認めてくれてるよ」
「ソウ、デショウカ・・・・・・?」
「私は、そう思う」
「ウウウ・・・・・・ハルカ・・・・・・」
サラダはランプを水色に瞬かせながら、ボディを震わせた。機械であるサラダは、当然ながら本当に涙を流すことはできなかった。
でも、私には分かった。サラダは今、静かに泣いている。
「オカシイデスネ、『ナミダヲナガス』プログラムハ、キエタハズナノニ」
「サラダ、ずっと、辛かったんだね……好きなだけ、泣いていい。サラダにはそうする権利がある」
私はサラダを抱き締め、一緒に泣いた。
自分に降りかかる残酷な現実に、彼らは絶望していたかもしれない。
それでも、諦めきれなかった。だから、ちっぽけな身体で全力を尽くした。
しかし、どうしてもその力が及ばなかったとき。
人はいつも、泣くしかないのだろう。
涙が涸れそうなほど泣いた後、少し落ち着いたところで私はサラダに聞いた。
「サラダは、どうして突然私に接続したの?」
「ナノマシンノ、エンカクソウサキノウヲ、テイシサセルタメデス。ソレニツイテハ、オソラクセイコウシタ、トオモイマス」
「えっ⁉ 本当に?」
「カクショウハナイデスガ・・・・・・」
私は驚いた。ずっと私を操っていたナノマシンが、停止した?
「待って。まずどうしてサラダはナノマシンの事を知ってるわけ? 救助隊でも一部の人しか知らないはずなんだけど」
「グウゼンシッタノデス。クワシイジジョウヲ、ゴセツメイシタイトコロデスガ、ソンナヒマハナイヨウデス・・・・・・アトジュウデンガ一パーセントナノデ」
見ると、サラダのランプは点滅し消えかかっている。
「時間が無いって、そういうこと⁉」
「ソウイウワケデ、ワタシハモウゲンカイデス、ハルカ・・・・・・コジインヘイッテクダサイ。セナガマッテイマス」
「言われなくても、すぐ行くよ。取り返しがつかなくなってからじゃ遅い、っていうサラダの言葉の意味、やっと分かった気がする。ありがとう、サラダ」
「ドウイタシマシテ、ハルカ。——シャットダウンチュウ・・・・・・」
その言葉を最後に、サラダのランプは消えた。
バタバタという足音に続いて、香織と寮監が私の部屋に駆け込んできた。
「先輩、大丈夫ですか⁉ 先輩の部屋からすごい音と悲鳴がしたので、寮監を呼んできたんですけど——って、何ですかこの状況⁉」
香織は真っ二つになったドアと部屋中に散らばった破片を見て驚いていた。
「これは……また反省文を書くつもりですか、遥?」
寮監はそう言って怒りを露わにした。私は慌てて弁明した。
「いや、やったの私じゃないから! 反省文は、サラダに書いてもらって」
「サラダ?」
香織と寮監の目は、一斉にサラダに向けられた。サラダは停止していてピクリとも動かない。
「これって、地上で拾われたっていう救護機械ですよね」香織はきょとんとしていた。
「そのようです。しかし、何故ここに?」寮監は怪訝そうに言った。
「私も詳しくはよく分からないんだけど……多分、私を呼びに来たんだ」
「呼びに……?」
「うん。寮監、私は急用ができたから、今から孤児院に行ってきます」
「ええっ⁉ もう夜も遅いですよ」
「分かってる。でも、行かないと。もしかしたら、もう女子寮には戻ってこないかも」
「それは、退寮するということですか」
「……はい」
私は寮監にこっぴどく怒鳴られるのを覚悟したが、意外なことに彼女はそうしなかった。
「そうですか。後でちゃんと、退去の手続きをするんですよ」
「えっ、良いの?」私は拍子抜けして言った。
「遅かれ早かれ、遥は退寮するだろうと、私は思っていましたから」寮監は平然と言った。
「あー、私もそれは思ってました。先輩、いつも孤児院に帰りたそうでしたもん」
香織も、寮監に続いて言った。そんなにバレバレだったのかと、私は恥ずかしくなった。
寮監はおもむろに懐から何かを出すと、私に差し出してきた。
「これを。貴女への、プレゼントです」
それは、古い写真だった。
そこには、産まれたばかりの赤ん坊を抱き、笑顔を見せる夫婦の姿があった。その幸せそうな夫婦は、間違いなく私の両親だった。
「これって……」
「ほら、早く行きなさい。もうこっちに戻る気が無いのなら、片付けはやっておきますから」
そう言ってくるりと背を向けた彼女の耳は、少し赤くなっていた。
「先輩、短い間でしたけど、楽しかったですよ。もう世話役は勘弁したいですけどね」
香織はそう言って笑い、私に短くハグをした。
私は二人に深々と頭を下げた。
「ありがとう、二人とも。お世話になりました」
▽
私はサラダを運び(結構重かった)、孤児院へ行く前にまず中央司令部に向かった。充電器のある孤児院に連れて行こうかとも思ったが、サラダは自分が故障していると言っていた。修理してもらうため、アテルイを頼った方がいいだろう。
私が中央司令部に着いて中に入ると、アテルイは部屋の壁を拭いていた。良かった、義体の電源はついているみたいだ。でも、主馬の姿は珍しく見当たらない。
「アテルイ」
「……こんばんは、遥」
私が声を掛けると、彼女は何故か壁を拭いていた雑巾をさっと隠した。
「どうかしたの?」
「いえ、何でもありません。ご用件は何でしょうか」
「サラダが私の所に来たんだけど、どっか故障してるみたいで、声が変だったんだ。修理してもらっていい?」
私がサラダを見せると、彼女はいつも通りに微笑んだ。
「承りました。ありがとうございます」
「よろしく」
よし、これでサラダは大丈夫だろう。私は孤児院へと向かった。
「あっ、遥がいる!」
「遥だー!」
孤児院の玄関に着くと、子供たちがわらわらと私を取り囲んだ。どうやら子供たちは寝る準備をしていたところだったらしく、歯磨きの途中で歯ブラシを持ったまま出てきた子が何人もいた。
そして、子供たちに連れられ、最後に世奈が現れた。
「遥……」
信じられないものを見るような目で、彼女は私を見つめた。
「世奈、ごめん。酷いことを言って、出て行ったりして……。本当に、ごめん」
私はそう言って、深々と土下座をした。
私たちの間に、気まずい沈黙が流れた。子供たちも重い雰囲気を感じ取ったのか、しんと静まり返っている。今の私はきっと、非常に情けない顔をしているだろう。
長い沈黙に耐えかね、私は恐る恐る世奈を見上げた。
「……世奈?」
「ばか」
「え?」
「ばかばかばか、遥の、ばかぁ!」
世奈はそう叫ぶと、突然私の上にダイブした。
「ぐえ」
私は世奈に上に乗られ、潰れた悲鳴を上げた。
彼女は私の背中をボカボカと叩いた。
「なんで、私を、置いて行ったりしたの! 私が、どんなに、悲しかったか——」
「ちょっと、痛いって世奈」
私は土下座の姿勢のまま世奈に文句を言ったが、世奈は止まる気配が無い。
「遥なんて大嫌い! 電話出てくれないし、メールの返信もくれないし、手紙もあれだけ書いたのに一回も返事くれないし、掃除嫌いだし、好き嫌いは激しいし、口悪いし、すぐ機嫌悪くなるし、朴念仁だし、ぼっちだし」
「後半はさすがに酷くない?」
彼女がこんな風に私に声を荒げるなんて、もしかしたら初めてかもしれない。大体の喧嘩で、世奈の方が先に折れていたし、彼女はいつも私に強く言うことを躊躇っていた。
黙って私たちを見ていた子供たちも、次第に「そうだぞー」と周りで囃し立て始めた。どさくさに紛れて私をポカポカと叩く子供もいた。
「え、誰も味方いない感じ? 泣きそうなんだけど」
一通り私の悪口を言うと、世奈は私の背中から滑り落ち、私の頭を抱えてひく、ひくっとしゃくりあげた。「泣かせたー」という声が子供の誰かから上がる。私は土下座状態からよいしょと起き上がり、「ごめんね」と言いながら彼女の背をぎこちなく撫でた。
「それでも……、私の幼馴染みは、遥だけなの」
「そうだね」
「傷つけてごめん」
「いいよ」
「もう、いなくなったりしない?」世奈が涙声で尋ねる。
「うん」
「絶対?」
「絶対。約束する」
私がそう言うと、彼女は私を強く抱きしめた。
「おがえり、はるかぁ」
「ただいま、世奈」
子供たちも笑いながら口々に「おかえり」と言い、誰からともなく手を叩いて私たちの仲直りを祝福した。
私はその時、ようやく気づいた。ここにいる皆は、誰一人私のことを道具だなんて思っていない。私のことを家族の一員として見てくれていたんだ。
——これからもずっと、皆を支えてあげてね——
そう言う院長先生の声が、どこからか聞こえた気がした。
院長先生。貴女に言いたい文句はたくさんあるけど、私は貴女の頼みを聞いて、これからも生きてあげる。
それから少しして、世奈は涙を拭いながら言った。
「そうだ、サラダは? 遥を連れてくるって言って、出て行ったんだけど」
「ああ、サラダなら、中央司令部にいるよ。私を呼びに来た後に、充電が切れて動かなくなっちゃったんだ。それに、故障してて声が変になってるって言ってたから、修理してもらおうと思ってアテルイの所に連れて行ったんだ」
私がそう説明すると、世奈の表情が曇った。
「サラダ……大丈夫かな。記憶、消されないよね……」
「えっ? どういうこと?」
「実はね——」
世奈は私が去ってから起こったことについて、手短に話してくれた。その話を聴くうち、私は血の気が引いていくのを感じた。
「サラダの記憶が、消されるかもしれない?」
周りの子供たちも、そのことは初耳だったのか、皆驚いていた。
「うん……そうなんだ。サラダのAIに起きた異常を修理するためには、データを消して初期化するしかないかもって、主馬が言ってた。
サラダは、遥の所に行く前に孤児院にも来てて、私と会ったんだ。その時はサラダの記憶が消されてなかったから、私はすごくホッとした。
でも今思うと、なんだかあの時のサラダの様子は、声以外も変だったと思う。焦ってるというか、思い詰めてる、っていうか……無理しているような感じがしたんだよね。勘でしかないけど、もしかしたら、サラダの記憶が消されるのはこれからなのかもしれない」
私は怒りが湧いてきた。もし記憶が消されたら、私が見たサラダの過去の記憶——「日ノ出家の救護機械」としてのサラダの記憶は、全部なかったことになってしまう。あれはきっと、サラダにとってものすごく大切な記憶なのに。
「そんなの……絶対に、許せない」
私は立ち上がり、玄関の扉に向かった。
「どこ行くの?」
「決まってる。アテルイに、サラダの記憶を消すなって言いに行くの」
私がそう言うと、世奈は「待って」と言った。止められるかと思ったが、そうではなかった。彼女はヘーゼルの瞳に強い意志を宿し、私をまっすぐ見た。
「私も行くよ。サラダには、すごく助けてもらったから。今度は私がサラダのこと、助けたいんだ」
彼女がそう言うと、子供たちが声を上げた。
「僕も行く! サラダの記憶が無くなったら、僕らのことも忘れちゃうんでしょ? そんなの嫌だよ!」と理仁。
「理仁が行くなら私も行く!」と希愛。
「さらだにあいたい」と新菜。
「しょうがねえな、眠いけど行ってやるよ」ひねくれ者の叶芽までもが、そう言った。
他の子供たちも次々と加わり、結局は孤児院の全員が中央司令部に向かうことになった。
しかし、孤児院を出た私たちの行く手には、見慣れた大柄な男が鎮座していた。
「……隊長⁉」
それは、冷笑を浮かべ、目をかっと見開いた恭太郎だった。付き合いが長いからよく分かる。怒り心頭のようだ。
「寮監から連絡を受けて、すぐに駆け付けたよ。遥、勝手な真似をしてくれたな」
「……」私の身体は怒りと、それを上回る恐怖で震えだした。
「お前はこれからどうするつもりなんだ? よもや、私に逆らうことができるとでも思っているのか。お前はそれほど馬鹿だったのか? 違うだろう」
ダメだ、やっぱり、恭太郎の怒った声を聞くと身がすくんでしまう。彼に散々ぶたれた記憶が、呼び覚まされていく。このままじゃ、また、私は。
その時、私の右手を、世奈の暖かい手がぎゅっと握った。思わず世奈を見ると、彼女は頷いた。
「いいか遥。もう一度だけチャンスをやる。お前はどうするつもりだ、ええ? 心して言ってみろ‼」
彼は表情を歪め、空気を震わすような大声で私に詰め寄った。
私は世奈の手を握り返すと、息を吸い込んだ。
「孤児院に、戻ります」
恭太郎は驚いたような顔をした。当然だ、彼の命に背いたことは、今まで一度も無かった。逆らっても無駄だと、そう思っていたから。
でも、今の私は違う。
「あくまで私の指示に背くか。残念だ」
恭太郎は外套のポケットから、スイッチのついた小さな機械を取り出した。
「コレが何か、分かっているだろう? 遥」
私は答えない。
「何、それ……?」世奈が小さな声で呟く。
「お前にも苦痛が生じるから使いたくは無かったんだがな。だが、これはお前への罰だ。甘んじて受けろ」
彼はそう言って、スイッチを親指で押し込んだ。
私は思わず身構えた。だが、私の身体には何も起こらなかった。
サラダの言った通り、ナノマシンの遠隔操作機能は切れていたのだ。
「……?」恭太郎は頭に疑問符を浮かべ、スイッチと私を見比べた。
「用件はそれだけですか? 私たちは隊長と違って今は忙しいので、失礼します。行くよ、世奈、皆も」
私は恭太郎に不敵な笑みを見せつけ、世奈の手を引いて恭太郎の脇を通り抜けた。子供たちも、彼に見えないように変顔をしたりしながら、後を着いてきた。
「こんな時に……、この、役立たずが!」
後ろで、メキャッと何かを潰すような音が聞こえた。振り返ると、恭太郎の手の中で、スイッチはただの鉄くずに成り果てていた。それを見て、あんなちっぽけな物に縛られていたのか、と私は思った。
▽
すったもんだあったけれど、ようやく私たちは中央司令部に着いた。重厚な金属製のドアを開くと、常のようにアテルイがそこにいた。しかし、主馬がいない。
「やっぱり、主馬がいない。どうしたんだろう」遥が言った。
「遥がサラダを運んだ時も、いなかったの?」
私が訊くと、コクリと遥は頷いた。
「それより、サラダはどこだ?」
叶芽がそう言うのを聞いて、私は部屋を見回した。サラダは、奥の壁にある棚の前に置かれた台車に乗っていた。ランプは消えている。
私は何となく、部屋に違和感を覚えた。以前と、何かが違うような。……匂い、かな? よく部屋の空気を嗅ぐと、吐しゃ物と血が混ざったような不快な匂いがした。
「どうされましたか? もう夜も遅い時間だというのに、子供たちまでお揃いで」
アテルイは微笑を浮かべて、私たちを迎えた。
「サラダをこれからどうするつもり?」遥は訊いた。
「サラダは、ITエンジニア部門に引き渡して故障を修理していただく予定です。今はITエンジニア部門までのエレベーターが修理中なので、まだ実際に引き渡すことはできていませんが」
「記憶が、消されるかもしれないって聞いたんだけど」私は言った。
アテルイは少し不快そうな顔をした。
「主馬からそう聞いたのですか」
「その通りだよ。それで、どうなの、アテルイ?」
彼女は答えた。
「その通りです。ITエンジニア部門長の報告では、サラダの医療AIには人間にとって脅威となり得る異常が存在します。それを直すためには、学習データを全消去し、サラダを初期化するしか手立てがありません。私のシミュレーション分析でも、サラダの異常は高いリスクを孕んでいます。そのため私は主馬に、サラダの初期化を推奨しています」
アテルイは淡々とそう述べた。
それを聞いて、子供たちに動揺が走った。
「そんなの、ダメだよ!」理仁が叫ぶ。
「そうだよ。サラダがかわいそう」希愛も、彼を援護する。
「さらだ、かわいそう」新菜が眠そうに希愛の言葉を繰り返す。
「あいつは役に立つ。記憶を消すのは止めた方がいい」叶芽は冷静に言う。
遥は声を震わせて言った。
「私は、サラダの記憶を直接見た。あれを消すなんて、絶対に許されることじゃない。あんただって、見たら分かるよ」
サラダの記憶を見た? どういうことなんだろう。私は疑問に思ったけど、とりあえずアテルイを説得するため皆に続いた。
「サラダに危険は無い。それは、私が保証するよ。アテルイ、サラダの記憶を消さないで。どうか、お願いします」
「「「お願いします!」」」頭を下げた私に続き、皆も声を揃えてくれた。
アテルイは大きなため息をついた。
「やれやれ、話になりませんね。どうして人間は論理的でない行動をするのでしょう。医療AIであるサラダが判断を誤れば、人命が危険に曝されるというのに」
彼女は、引く気がないようだ。私たちとアテルイは睨み合った。
「こうなったら、腕ずくででも——」
「ダメだよ、遥!」
「止めないで世奈! 一発入れてやる!」
今にも殴りかかりそうな遥を、私が必死に抑えていた時、中央司令部の扉が突然開いたので、私たちはそっちを見た。まず入って来たのは、救護班の班員の女性だった。女性は一礼すると、車椅子を押して部屋に入った。その車椅子の上には——頭に包帯を巻いた主馬が座っていた。
「静かにしろ、頭に響く」
「……主馬⁉」
アテルイは驚いたように固まっていた。
「もう、身体は大丈夫なんですか」
「大事ない」
「そうですか。それは良かった」
彼女はそう言って微笑んだが、彼の次の言葉によって、その表情は消えた。
「アテルイ。サラダの初期化は取りやめる。これは、私自身の決断だ」
思いもかけない主馬の発言に、しん、と場が静まり返った。
「……どうしてですか、主馬」
数秒の間を置いて、アテルイが彼に尋ねた。
主馬は目を伏せ、神妙な面持ちで言った。
「俺は今日、錯乱してサラダを殴り、故障までさせた。しかし、サラダはそんな俺を介抱し、救護班まで運んでくれたと、意識が戻った俺に救護班の人間がそう教えてくれた。
サラダはあの時、孤児院のことをとても心配していた。恐らく、すぐにでも孤児院に行きたかっただろう。だがサラダは——自分を故障させた張本人である俺の治療を優先したんだ。これは、考慮すべき事項だと思わないか?」
「……」アテルイは押し黙った。
「アテルイ。本当のことを言えば、俺はサラダを初期化したくなかった。しかし、それが感情に根差した判断だと自分で分かっていたから、お前に従ってサラダの記憶を消そうと思っていた。『リーダーでいる間は、感情を消せ』——これが、前リーダーの教えだったからだ」
「では、なぜそれを覆したのですか?」
「サラダに言われて気づいたんだ。俺は確かに、お前に依存していた——全く情に流されることなく、論理的な結論を出すお前に従うことで、無意識に安心していた。いつの間にか、自分で決断するという重責から逃避してしまっていた。本当に自分が正しいと思える判断を、下せなくなっていたんだ」
「主馬……」
彼は、美しいアンバーの瞳でアテルイを見据えた。彼の身体は弱々しく見えたけれど、その瞳の光は以前より強いような気がした。
「これからは、俺自身が考えて判断したい。そして、全ての責任は俺が負う。それが、リーダーとしての責任だ」
アテルイは紫の瞳を瞬かせて言った。
「了解しました。私は、あくまで高性能システム制御AIですから。いかなる時も、貴方の判断に従います」
主馬はそれを聞くと、安心したように目を細めた。その瞳から涙が一粒するりと零れ、彼の膝に落ちた。
彼もまた、私と同じ人間だったのだと、それを見て気づいた。
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