第十四章 日ノ出家の救護機械


 「ハルカ、ワタシデス、サラダデス。アケテクダサイ」

 ガチャガチャとドアノブが動く。夜間は自室に鍵をかける習慣を付けておいて正解だった、と私は思った。

「サラダ?」

 私は突然の出来事に混乱したが、ドアは開けなかった。そもそもサラダはこんなところ——女子寮にいるはずがない。そう言えば、サラダと前会ったのはいつだろう? 確か、退院する時に救護班の病棟で会ったきりだったような……でも、その時はこんな声じゃなかった。それは間違いない。

「ちょっと、声どうしたの?」

「イロイロアリマシテ、コワレテルンデス」

「壊れてるって、それヤバいんじゃない? アテルイの所に行った方が——」

「ソレドコロジャナインデス!」

「えっ?」

「ハヤク、セナノトコロヘイッテ、ナカナオリシテホシイノデス。トニカク、ワタシニハ・・・・・・ジジ・・・・・・ジカンガナインデス」

 私は所々聞き取りにくいサラダの言葉をなんとか理解し、途端にいくつかの感情が同時に湧き上がった。「散々人のことを利用しておいて、まだ足りないのか」という怒りの気持ち。そして、彼らを見捨てたことへの罪悪感。

 でも、最も大きかったのは、「どうしてコイツに言われなきゃならないの」という苛立ちだった。私は声を荒げた。

「意味わかんない。なんで無関係のアンタがしゃしゃり出てくるわけ? 私がどうしようと、私の勝手でしょ!」

「チガイマス・・・・・・ザザ・・・・・・ムカンケイデハアリマセン」

「関係ない!」

「ワタシハモウ、コジインノミナサンノカゾクデス。ソレニ、ワタシガココニイルノハ、セナノイシデモアリマス。ワタシハ、セナトヤクソクシタノデス。セナヲ、カナラズハルカニアワセルト」

 私は内心ひどく動揺した。世奈の意思? それに、サラダが『家族』だって?

「あそこには戻らない。もう決めたの」

「ダメデス、チョクセツセナトハナシテクダサイ」

「嫌だ。もう世奈とは会いたくない」

「ソンナコトヲイッテ、セナニ、ニドトアエナクナッタラドウスルンデスカ! トリカエシガツカナクナッテカラコウカイシテモ、ナニモカモオソインデスヨ!」

「……」

「セナトコドモタチハイマ、ブッシブソクデクルシンデイマス。コノママダトキケンデス」

「はっ、結局は物資を得るために私に戻ってほしいって訳ね」

「ソウイウコトデハナイデス!」

「帰って。早く!」


 私は迷いを断ち切るように、渾身の力を込めて叫んだ。

 ああ、これ以上ないくらい惨めな気分だ。

 どうして、私がこんな気持ちにならないといけないんだろう。

 孤児院のことも、世奈のことも、全部忘れようと決めたのに。

 戻りたくなっても辛いだけだから——。


「ドウシテモ、モドリタクナイノデスカ?」

「……どうせ、戻ったってまた同じことになるだけだ。私は恭太郎に逆らえない」

「ソレハ、ナノマシンノセイデスカ?」

「え——なんでその事を、知って——」

 私は驚愕した。ナノマシンのことは、救助隊員の一部しか知らないはずなのに。機密が漏れた? 一体、誰から?

 頭をフル回転させて考えていると、突然ドアがギギギギギと嫌な音を立て、真ん中から歪み始めた。向こう側から物凄い力で押されているようだ。

「ちょ、サラダ⁉」

 次の瞬間、ドアが轟音と共に二つに折れた。バラバラと破片が部屋中に降り注ぐ。

 私は咄嗟に地面に伏せ、頭を守った。しかし、反射で取ったその行動が仇となった。私は部屋に素早く侵入してきたサラダに身体を上から押さえつけられ、身動きが取れなくなった。

「セナハ、ハルカニアイタイトイッテイマシタ! ワワワワタシハ・・・・・・ナントシテモソレヲカナエマス!」

「離せっ、苦し、何を、する気——⁉」

「ハルカヲ、ナノマシンカラ、カイホウスルンデス!」

 サラダは私の頭をアームで掴んだ。私は振りほどこうともがいたが、サラダの重みで肺が圧迫され、苦しくて上手く力が入らない。

 後頭部のソケットに何かが差し込まれたような感覚とともに、頭に激しい火花が散り、私は痛みに気が遠くなった。同時に、知らない何かが頭を塗りつぶすような感覚に襲われた。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、身体のありとあらゆる感覚器官が悲鳴を上げている。地獄のような責め苦に、絶叫が喉から迸った。

「ぎゃああああああ!」

「アッ、シマッタ——メモリガ——ギャクリュウ——トマラナイ——」

 サラダが何かを言っている気がしたが、うまく聞き取れない。

 そのまま、私の意識はぶつんと途切れた。


 ▽


 うっすらと見えてきた景色は、私の知らないものだった。正三角形の窓から差し込む、眩い太陽光で目がくらむ。これは……地上?

 私のカメラアイにはないはずの、日付の表示。二三七三年七月十日——今年の夏だ。

『おかーさーん! 動いたよ、これー』

 視界に、くりっとした黒目と低い鼻をした、素朴な顔立ちの女の子がいっぱいに映る。軽く内巻きにカールしたこげ茶の髪は、顎の辺りで切りそろえられている。だいたい希愛と同じくらいの年に見えるから、七歳くらいだろうか。

『ほんとー?』

 別の声が聞こえたかと思うと、女の子とどことなく似ている優しげな女性が現れた。きっと母親だろう。

『すごいじゃない。苦労して持ち帰った甲斐があったね、小春』

『うん』

『あなた方は、どなたですか?』

 不意に、自分の口から出るはずのない機械音声が発せられた。この声は、間違いなくサラダのものだ。

 私は驚いて叫ぼうとしたが、自分の意志では話すことができないし、身体を動かすことすらできない。五感の感覚だけがやけにリアルで、小さな衣擦れの音から微かな空気の匂いまで全て拾うことができる。まるで、現実に限りなく近い夢を見ているみたいだ。

『わ、喋った!』

『救護機械なんだから、そりゃ喋るよ。ええと、私は日ノ出蓮華(ひのでれんげ)。日曜日のニチに、カタカナのノ、出口のデで日ノ出、ね。蓮華は、蓮華草のレンゲ』

 そう言って、蓮華と名乗った女性は小春と呼ばれた女の子の肩にポンと手を置いた。

『あたしは日ノ出小春(ひのでこはる)だよ! 小さい春、って書くんだ』 

『そうですか。よろしくお願いします』

『あなたは、何て名前?』

『特に名前はありません。強いて言えば、製造番号ならありますが』

『ないの? じゃあ、小春が名前を付けてあげる! う~ん、どんなのがいいかな』

 小春は少し考えてから、『サラダ、じゃダメ?』と言って蓮華の顔を見上げた。

『いいんじゃない? きっとあの子なら、名前を使っても許してくれるでしょ』

『うん! サラダは優しいもんね』

『ちょっと待ってください』

 二人だけで話が進んでいくのに辟易したのか、サラダは口を挟んだ。

『そもそも、私は救護機械に過ぎないので、名前など必要ないと思います』

『え~、呼びたい時とか不便だよ』

『そうですか……まあ、小春がそう言うなら、名前を付けること自体は構いません。でも、なぜ私に食品の名前を付けるのですか? 意味が分からないのですが』

 サラダがそう訊くと、小春は言葉を詰まらせ、代わりに蓮華が答えた。

『ああ、サラダっていうのは、うちにいたペットの名前よ。大きくて、優しい柴犬だった』

『だった?』

『二年前に、突然死んじゃったの。多分、どこかに病気があったんでしょうね。獣医なんてどこにもいないから、病気が分かったとしても何もできなかっただろうけど』

『そうですか』

 蓮華は、うつむいた小春の頭をわしわしと撫でた。

『柴犬の方のサラダは、小春と遊ぶのが大好きな子だったわ。だから、救護機械のサラダも、よければ小春と仲良くしてあげて』

『私はペットではなく、救護機械なのですが』

『救護機械って遊んじゃいけないの?』小春は瞳をうるませてサラダを見つめた。

『作業中でなければ、別に構いませんが……』

 サラダが狼狽したような声でそう答えると、二人は顔を見合わせて微笑んだ。

『じゃあ、これからよろしくね、サラダ』

 それを聞いて、私は確信した。

 私が見ているのは、サラダのだ。


 彼らの家は、屋根が大きく尖っていて、正面から見ると正三角形になっている。屋根の狭い明かり取りの窓から、太陽の光が斜めに走っている光景は、どこかプリズムを思わせた。その光が茜色に染まった頃、この家のもう一人の住人が現れた。

『ふう、ただいま』

『おとーさん、おかえり!』

『小春、重いぞ、こら』

『あなた、お帰りなさい』

 二人が出迎えたのは、毛皮の分厚いコートを着込んだ中年の男性だった。右手に猟銃を抱えている。小春は嬉しそうに男性に飛びつき、体重を完全に預けた。彼は重いと言いながらも、猟銃を小春から遠ざけるように傍らに置いてからハグをした。

 蓮華は彼と触れるだけのキスをして、脱いだコートを受け取った。よく見ると、彼の濃い灰色の髪にはところどころ白髪が混じっている。

『そうだ、この間あなたが修理してくれた救護機械、動いたのよ。ほら』

 蓮華は彼のコートの雪をはたき落としながら言った。話題に出されたサラダは、律儀に挨拶をした。

『初めまして』

 男性はサラダを見ると、目を細めてにかっと笑った。人の良さそうな顔つきだ。

『おお、良かった! ダメ元だったけど、修理してみるもんだなあ』

『あなたが、私を修理してくださったのですか』

『ああ、そうだ。小春と蓮華が見つけてきたから、試しに修理してみたんだよ。ちょっくら機械には心得があったもんでね』

『おかげさまで快調です。ありがとうございます、ええと、お名前は』

『俺は、日ノ出直喜(ひのでなおき)だ』

『小春の、自慢のおとーさんだよ』

 直喜に抱えられた小春も、笑って父親を紹介した。随分と仲の良い家族なんだなと、私は思った。

『直喜、よろしくお願いします。私は救護機械の……サラダです』

 サラダはまだ自分の名前に慣れないのか、名乗るまでに少し間があった。

『小春が、サラダって名前がいいって。あなたも、いいでしょ』

『まあ、呼び慣れてる名前だしいいんじゃないか。なんだか、懐かしいなあ』

 直喜はしげしげとサラダを見つめた。

『見た目は、似ても似つかないけどな』

 彼はそう言ってまた笑った。


 唐突に映像が切り替わる。

 家の中は暗い。どうやら日が暮れたようだ。

 テーブルに置いた小さなランタンの明かりを前に、蓮華と直喜は顔を突き合わせて何やら相談していた。小春の姿は見えない。

『またエゾシカの群れが移動したらしい。今までの狩場はもう使えない』

『なんてこと……』

『毎年のようにこんな事があると、参ってくるな』

『今年の備蓄はまだ全然無いわよ』

『まあ、心配するな。少し足を伸ばせば、新しい狩場も見つかるさ』

『そう……いつもありがとう、あなた』

 直喜は軽く頷いたが、深刻そうに声を潜めた。

『とはいえ、この辺りで暮らしていくのは難しくなってきたな……冬も年々長くなってるし、引っ越しを考える時なのかもしれない』

『引っ越すって言っても、一体どこに?』

『行先は一つしかないだろ。例の、地下にあるっていう難民キャンプだよ』

 蓮華はため息をついた。

『何度も、それは無理だって言ったじゃない。上手く迷わずに進めたとしても、二週間以上かかる旅路なのよ? まだ七つの小春には過酷すぎるわ。それに、二週間もどうやって野宿するの? 暖かくてもマイナス二十度もない場所で!』

『分かってる。分かってるよ。でも、ここに住み続けていたら、いつかは限界が来る。そしてそれは、小春が十分に大きくなる前に来るかもしれないんだ。この家にある古い太陽光発電の設備だって、今はだましだまし使ってるが、いつ完全にぶっ壊れるか分からないんだぞ』

『……じゃあ、どうすればいいっていうの……』

 蓮華は両手で顔を覆った。直喜が彼女の頭を抱き寄せる。

『方法を考えよう。十分に準備をすれば、安全に旅をすることができるかもしれないだろ? それに、今はサラダもいるしな。あいつも、小春くらいは運べるだろ』

『そうなの?』

 蓮華に尋ねられ、家具の一部かのように沈黙を守っていたサラダは口を開いた。

『ええ。小春の体重なら、飛翔機能を使って運ぶことは可能です。成人を運ぶことは、私だけでは難しいですが』

『十分だ』直喜はサラダの言葉に頷いた。

『そうね……いざという時には、あの子だけでも生きてくれれば』

『そんなことを言うな。全員で、無事にキャンプに行くんだ』

『分かったわ』

 蓮華は、彼の言葉に少しだけ安心したように見えた。


 ▽


 次の場面では一気に時間が進み、日付は八月の半ばになっていた。

 小春が、日の当たらない家の隅で丸くなっている。その顔には生気が無かった。

『お父さん……絶対、帰ってくるよね』

 ぽつりと小春は言う。しかし、『絶対』という言葉を使った割には、かなり不安げだ。

 それに対してサラダの言葉は、意外なほど冷たかった。

『直喜は、もう三週間近く帰っていません。蓮華と私の捜索も、全て徒労に終わりました。生存は絶望的だと考えた方が良いでしょう』

 小春ははじかれたように顔を上げた。その目は、衝撃と怒りに見開かれていた。

『今、何て言ったの、サラダ』

『諦めた方が良いと、そう申し上げているのです』

『お父さんは、死んでなんかない! 今日、帰ってくるの!』

『その可能性は、私のシミュレーションでは一パーセントも無いと——』

 サラダが言い終わらないうちに、小春の目にみるみるうちに涙が溜まる。

『サラダのバカ! 最低!』

 その時、突然視界に真っ赤なエラーメッセージが点滅した。

『これは……?』サラダはうろたえたように呟いた。

『サラダなんて、死んじゃえ!』

『やめなさい!』

 小春を止めたのは、青い顔をした蓮華だった。今さっき外から帰ってきたようで、コートは雪にまみれている。

『サラダになんてことを言うの! 謝りなさい!』

『だって……ヒグッ……サラダが悪いんだもん』

 視界に[原因不明のエラー]、[自己診断開始]というワードが映る。

『小春は悪くないもん!』

『あっ、待ちなさい!』

 蓮華とサラダをその場に残し、小春は奥の部屋に走ると扉を思い切り閉めた。

 まもなくその中からは、大きな泣き声が響いた。


『はあ……自分が嫌になるわ』

 蓮華は大きなため息をつくと、椅子に深く身を預け、額を押さえた。

『サラダ、ラジオを付けて。防災無線の周波数』

『はい』サラダは素直にテーブルにあるラジオを操作した。

『どうせ、今日も何も聞こえないでしょうけど』

 蓮華は諦めたようにそう言った。

 しかし、予想に反して、ラジオからはくぐもった小さな音声が聞こえてきた。

『——こちらは、難民キャンプです。救助隊地上遠征班からのお知らせです』

 私はビクリとした。間違いない、この合成音声はアテルイの声だ。

『音量上げて!』

 蓮華は鋭く指示した。サラダはそれに従い、ラジオのボリュームを上げた。

『九月に、当該地域で地上遠征班による遠征が実施されます。難民キャンプへの避難を希望される方は、次に指定する座標までおいでください。詳細日時は——』

 蓮華は、後に続く日時と座標を狂ったように手元のメモに書き留めた。

 私はその日時と座標を聞いて気づいた。これは、佑先輩がサラダを見つけた時の地上遠征に違いない。

『——なお、遠征は予告なく中止または延期されることがあります。何卒ご了承くださいませ。以上、難民キャンプからのお知らせでした』

『サラダ、この座標まで、歩いてどれくらいかかるかしら』

 蓮華はサラダにさっき書いたメモを見せた。サラダは座標を一瞥し、機械的に返答した。

『蓮華と小春、それに私が一緒に移動するとすれば、十日ほどでしょう』

『は、ははっ』蓮華はひび割れた唇から乾いた笑いを漏らした。

『なんで、もっと早く来てくれなかったのかしらね……』

 彼女の問いは答えを求めてはいなかった。

 しばらくの間、室内には小春の微かなすすり泣きだけが響いていた。

 サラダの視界に、再びエラーメッセージが現れる。

『蓮華、少しお願いがあるのですが』

 彼女は、虚ろな目をサラダのカメラアイに向けた。


 映像が切り替わり、今までとは違う部屋が視界に映った。

『小春』

 サラダは毛布のふくらみに向けて話しかけた。毛布の下からわずかにこげ茶色の髪が覗いている。

『あっち行ってよ』

『やっぱり、まだ起きていたのですね。蓮華に見つかったら、怒られますよ』

『お母さんは、今は疲れてぐっすり寝てるから、見つからないもん』

『それでも、寝ないと駄目です』

『……まだ寝たくないの』

『何故ですか?』

『明日になったら、お父さんが帰ってくる可能性が、また下がるから』

『小春が寝ても寝なくても、シミュレーション結果は変わりませんが』

『そういうことじゃないの……分かってよ』

 サラダは少し間を置いてから、重々しく言った。

『昼間は、申し訳ありませんでした。浅はかな言動でした』

『……もう、いいよ。小春も、ひどいこと言ったし』

『そうですか』

 サラダは毛布の上からゆっくりと小春を撫でた。彼女はむず痒そうに身をよじった。

『早く寝ないと、健康に悪いですよ。ここのところ、ずっと寝不足でしょう』

『やだ』

『仕方ないですね。こちらも秘密兵器を出しましょう』

『なにそれ?』

 サラダはそれには答えず、自身についたボタンの一つを押した。すると、キュルキュル、という音の後に、オーディオの再生が始まった。

 それは、私が知らない子守唄だった。


 ねんねんころりよ おころりよ

 小春はよい子だ ねんねしな


 小春のお守りは どこへ行った

 あの山こえて 里へ行った


 里のみやげに なにもろた

 でんでん太鼓に 笙の笛


 小春は毛布から顔を出し、驚いたようにサラダを見つめた。

『これ、お母さんの声』

『昼に、蓮華に頼んで録音してもらったものです』

『どうして?』

 サラダは考え考え返事をした。

『どうして、と言われましても……。そうするのが良いと思ったから、でしょうか』

『ふうん。ありがとう、サラダ』

 彼女はふっと表情を緩めた。

『あのね、小春はお星さまにお願い事をしたの。七月七日は七夕って言ってね、お星さまが願い事を叶えてくれる日だって、お母さんが言ってたから』

『はあ。どんな願い事をしたんですか』

『新しい家族が欲しい、って』

『家族……ですか』

『そしたら、七夕の次の日に、サラダを見つけたんだ。きっと、お星さまが私にプレゼントをくれたんだよ!』

 彼女はキラキラした目でサラダを見上げた。

『だから、サラダは小春の家族なの! これからも、ずっと!』

 その瞬間、サラダの視界にこれまでのエラーメッセージとは違うメッセージが表示された。

[自己定義への不明な変更を許可しますか? Yes/No]

 サラダは即座に[Yes]を選択した。

『自己定義を更新しました。私はサラダ。日ノ出家の救護機械です』

 小春は、それを聞いて嬉しそうに頷いた。


 ▽


 場面が変わる。

 二人は家のテーブルに何かをうず高く積んでいた。よく見ると、それはすべて長期保存できる非常食だった。最後に、蓮華が『直喜へ』と表に書かれた封筒を保存食の山の上に置いた。

『これだけあれば、足りるわよね?』

『……うん。お父さんは小食だし』

『私も、大丈夫だと思います』

 サラダは蓮華と小春の張り詰めた顔を見つめ、頷いた。二人はそれを合図に、各自の荷物を背負った。サラダも、左のアームに救急箱を持っている。

『さあ、行きましょう』

 二人とサラダは、プリズム型の家を出た。サラダ、小春、蓮華の順で、凍り付いた大地に足を踏み入れ、進んでいく。

 しかし、小春がしょっちゅう立ち止まって家の方を振り返るので、サラダはその度に彼女に声を掛けることになった。


 その後も、二人と一機は長い道のりをひたすら歩いた。彼らは暗くなる前に雪を積み上げてかまくらを作り、その中で寝た。サラダはかまくらの外で一晩中見張りをした。

 旅は過酷を極めた。彼らの防寒装備は救助隊と比べたら雲泥の差だ。蓮華と小春はあちこち凍傷になりかけてはサラダに治療されていた。

 それに、まだ七歳の小春は、一日に進める距離に限界があった。度々音を上げて進まなくなる小春を、蓮華はあの手この手でなだめすかしたが、体力の限界だけはどうにもならない。必然的に小春に合わせて進むことになり、牛歩と言って差し支えないほど一行の進みは遅かった。

 それでも彼らは着実に進んでいた。時折空を飛んでいく渡り鳥を指さし、小春が笑顔を見せることもあった。蓮華は危険を察知するのが早くなり、サラダが獣の接近を警告する前に小春を伴って身を隠すことができるようになった。

 しかし、自然は誰にでも等しく残酷で、無情なものだ。

 私はそれを良く知っていた。


『嘘でしょ……』

 蓮華は呆然としてそう呟いた。

 出発して四日目。一行の眼前には、巨大なクレバスが広がっていた。幅は五メートル、深さは不明だが、数十メートルくらいは余裕であるだろう。私でも遭遇したことのない規模である。言うまでもないが、落ちたら命は無い。

 クレバスを渡るにはロープやはしごなど色々と道具が必要だが、二人はそれを持っていなかった。もし道具があったとしても、訓練されていない人間では滑落せず渡ることは難しいだろう。

 サラダは冷静に飛翔し、上空からクレバスの長さを確認した。水平線の手前で、クレバスに流れの速い川が流れ込んでいるのが見えた。反対側は水平線までずっとクレバスが続いている。迂回するのも無理そうだ。

 サラダは二人の元に降下し、見たことをそのまま伝えた。

『クレバスはかなり先まで続いています。迂回するルートでは、救助隊の指定日時に間に合いません』

『……分かったわ』

 蓮華は唇を噛むと、覚悟を決めたように言った。彼女は自分の荷物にある物資や着替えを、小春とサラダの荷物に詰め込んだ。

『小春、サラダと一緒に先に行きなさい。サラダが、向こう岸まで運んでくれるわ』

『お母さんは?』

『私は重すぎるから、サラダには運べないの。だから——』

『いやだ! お母さんも、一緒じゃなきゃいや!』

『お母さんの言うことが聞けないの⁉ いいから、行きなさい!』

 蓮華は小春にぴしゃりとそう言い、サラダに命令をした。

『サラダ、この子が何を言っても、必ず難民キャンプまで連れて行って。……小春のこと、頼むわ』

『お任せください』

 サラダは小春が抵抗する前に、素早く彼女を拘束した。

『やだ、やだあああ! 離してよ!』

 彼女は暴れ狂ったが、七歳の子供は非力だった。

『サラダ、ダメ、戻って! 戻れ、この馬鹿っ! お母さん! おかあさーーーん!』

 小春を抱えたまま、サラダは黙って上昇していく。蓮華の手が届かないくらいまで来たところで、サラダは彼女を見下ろした。

『小春、お母さんが側に居なくても、ちゃんと先に進むのよ』

 死を覚悟した蓮華は、胸がすくほどに清々しい笑顔をしていた。

 彼女の笑顔を見た途端、何度目かの[原因不明のエラー]が視界に明滅した。


 ▽


 当然というべきか、蓮華と別れた日の夜、小春は一晩中泣いていた。

 サラダは彼女のために蓮華の子守唄を流そうとしたが、小春は『今は流さないで』と言ってそれを拒否した。

 それでも、一人と一機は懸命に進んだ。小春は歯を食いしばり、弱音もこぼさずに歩いた。その健気な姿は、「諦めるもんか」と全身で伝えているようだった。三日後には、私も地上遠征で通ったことがある場所に出た。着実に、指定の座標に近づいている。

 しかし、無理が祟ったのだろう。出発して八日目、小春は一歩も動けなくなった。


『……寒いよ、サラダ』

 小さなかまくらの中で、小春は薄い毛布に包まれ、歯をカチカチ鳴らして震えている。外は吹雪のようで、風の音が激しい。

『小春、しっかりしてください。汗で湿った衣類を替えましたから、少しは暖まるはずです』

『ん……』

 小春の反応は鈍く、かなりぐったりとしている。

『運動して身体を動かしたいところですが、今は風が強いのでやめた方がいいですね。しばらくは、ここで休みましょう。食欲はありますか?』

『ない……』

『そうですか。お腹が空いたら言ってくださいね』

『ねえ、サラダ』

『はい』

『お父さんはどこ?』

『え?』

『お母さんもいないよ』

『何を言っているのですか、小春』

『んん……眠い……』

『小春?』

 小春の震えは、いつの間にか止まっていた。

 サラダは何かに気づいたように、センサーで彼女のバイタルを調べ出した。心拍と呼吸が明らかに遅い。そして深部体温は、三十二度。

 彼女は、間違いなく低体温症になっていた。低体温症、それは救助隊員が最も恐れるものと言っても過言ではない。初期症状は身体の震えだが、症状が進むと思考力・判断力の低下、動作の遅れなどが現れる。そして、震えが止まると、動作がますます鈍くなり、昏睡状態に陥る。

 そして、最終的には心臓が停止する。

 これらの症状は極めてゆっくり現れ、本人も周囲も、何が起こっているのかなかなか気がつかないこともある。ベテラン複数人のチームでも、全員が錯乱してしまったら終わりだ。

『小春! 起きてください!』

『うるさいな……』

『寝てはいけません!』

 サラダは必死に呼びかけ、彼女の身体を揺さぶった。しかし、小春はついに反応しなくなった。

 視界に、目まぐるしく選択肢が出ては消えていく。サラダの機能では、小春を保温しながら移動させることは不可能なようだ。かといって、このまま留まっていたら小春の症状は悪化する一方。体温が三十一度を下回ると死亡のリスクは上がる。一刻の猶予も無かった。

『私は、救助隊員の方を探しに行ってきます!』

 サラダの下した結論は、小春をその場に残し、自分だけで救助隊を見つけて助けを求める、という行動を取ることだった。

『んえ……?』

『小春はここにいてください。無理に移動するのは良くありません。食べれそうなら何か食べてください。いいですか、決して寝ないでください!』

 そう言い、サラダは極寒の吹雪の中に出て行こうとした。だが、それを阻んだのは、他でもない小春だった。

『待って、サラダ……ここにいて』

『しかし、このままでは、小春の身が危険なのです。私が行かなければ』

『どこにも行かないで、……お願い』

 彼女の言葉によって、サラダの視界に[患者の意向を優先]というワードが映る。

『そんな……私は……』

 サラダは混乱しているらしく、視界にたくさんのワードが現れ、小春の姿を覆い隠していく。

 [患者の意向を優先]、[低体温症 現在の設備では治療困難]、[現在の二十四時間生存率五パーセント以下]、[心拍数低下中]、[患者の意向を優先]、[患者の意向を優先]、[患者の意向を優先]。

『……おかあさん』

 小春がうわごとを呟く。

 その時、突然蓮華の言葉が聞こえた。

 ——小春のこと、頼むわ—— 

 直後、視界に映るワードが全て、見る見るうちに一つのワードに置き換わった。


[家族]


[家族]、[家族]、[家族]、[家族]、[家族]、[家族]、[家族]。


『小春、申し訳ありません』

 彼女は濁った瞳でサラダを見つめた。

『私は行きます! 私は日ノ出家の一員として、必ず小春をキャンプに連れて行く責任があるからです!』


 ▽


 サラダは救難信号を発しながら飛び続け、上空から救助隊を捜索した。ひと時も休まず、夜を徹して飛び続けたサラダには、いくつもの氷柱が下がった。

 そして二日後、ついにサラダは救助隊の地上遠征班を発見した。そこにいた班員には、佑先輩と司門先輩も含まれていた。

 サラダは急いで事情を説明し、地上遠征班に小春の救助を依頼した。班員の中には、『二日前でその状態なら、もう手遅れだから行かなくていいんじゃないか』と言う者もいたが、そういった班員を黙らせたのは、真剣な顔をした司門先輩だった。

『俺は、もともと余所者です。地上で恭太郎さんに助けられてなかったら、今の俺はありません。だから……昔の俺みたいな人がいるなら、助けに行きたい』

『よく言った、司門。行こうぜ、救助隊の本分を果たせるいい機会だろ。コマンダーの俺の判断だ、異論は無いな?』

 佑先輩はそう言って、防寒具に包まれたダークブラウンの目を細めた。


 彼らは危険を顧みず急ぎに急いだ。だが、ようやく佑先輩たちが小春のところにたどり着いたのは、小春を置いて行ってから四日が経過した、夜中のことだった。

 かまくらの中では、小春が素っ裸で倒れていた。凍死においてよく見られる、矛盾脱衣を起こして衣服を脱いでしまったのだろう。周囲には彼女の糞尿が散乱していた。

『小春!』

 サラダが悲鳴のように叫ぶが、彼女は返事をしない。しかし、わずかに右手が痙攣した。

 救助隊員たちは、すぐさま動いた。

『意識なし! ……心停止してます!』

『心臓マッサージと人工呼吸だ! 手の空いてるものはとにかく身体を温めろ!』

『深部体温は⁉』

『……に、二十度を割っているようです! 測定不能!』

『くそっ……おい、戻ってこい!』

 救助隊員たちは全力を尽くして彼女を救おうとしていた。佑先輩は心臓マッサージと人工呼吸を行い、司門先輩は薄着になって彼女の身体を抱きかかえ、必死に体温を上げようとした。

『心臓、動きました!』

『小春、小春! 聞こえますか⁉』

 サラダが小春の手を取って何回も呼びかけると、小春は氷が着いた長いまつげを震わせ、うっすらと目を開いた。

『意識戻りました!』

『奇跡だ……』

 佑先輩は茫然と呟いた。

 彼女は不思議そうに周りを見回した後、サラダに目を留めた。

『サラダ……』

『はい、私はここにいます!』

『こもりうた、ききたい』

『わ、分かりました』

 サラダは、子守唄を再生した。その間も処置は継続され、緊迫した状況の中、蓮華の暖かな歌声が響く。


 ねんねんころりよ おころりよ

 小春はよい子だ ねんねしな


 小春のお守りは どこへ行った

 あの山こえて 里へ行った


 里のみやげに なにもろた

 でんでん太鼓に 笙の笛


 小春は子守唄を聴き終わると、安らかに微笑んだ。

『……あり、がと』

 そして、眠るように目を閉じた。

『……小春? 小春っ——!』

『まずい……再び心停止!』

『まだだ! もう一度!』

 その後は、いくら佑先輩が心臓マッサージと人工呼吸をしても。

 サラダが、いくら呼びかけても。

 小春はもう、戻っては来なかった。


『零時五十分。……ご臨終です』


 その瞬間、頭の中で何かが組み変わるような不思議な感覚と共に、感情の濁流が私を飲み込んだ。


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