第十三章 君の大事なもの
「遥先輩って、」
朝食の席で、香織はそう口火を切った。
「意外とだらしないですよね」
突然失礼なことを言われ、私は思わず香織を軽く睨んだ。
「……何、いきなり」
「先輩、昨日ベッドの上でクッキー食べましたね。そして、散らばったカスを片付けないでそのまま寝たでしょ」
私は食べかけのジャーマンポテトをぐっと喉に詰まらせた。どうにか飲み込めたが、むせそうになって慌てて水を流し込む。
「そ、そんなわけないじゃない」
「クッキーのカス、髪についてますよ」
「……」私は黙秘した。
「あーあ、憧れの先輩の私生活なんて知るもんじゃないですねー」
「別に、香織には迷惑かけてないでしょ」
「クッキーの件はそうですね」
「なら、別にいいじゃん」
「でも、他にも言いたいことはあるんです!」
香織はショートの赤毛を振り乱し、バンっと机を叩いた。朝食を取っていた女性隊員たちが、数人驚いて振り返る。
「まず先輩、お風呂長すぎなんですよ。女子は人数が多いから、お風呂は一人二十分までだって、先輩が女子寮に来た初日に私そう言いましたよね?」
「う、うん」
「で、先輩は初日、お風呂に何分入ったんですか?」
私はうつむいた。……これは長いタイプの説教かもしれない。
「……五十分」
「どうしてそんなに長くかかったんですか?」
「孤児院では、そんなに急いで風呂に入ってなかったから、間に合わなくて」
「じゃあ、百歩譲って初日はセーフとしましょう。でもその翌日、先輩はまた時間オーバーしましたよね?」
「うん……」
「それはどうしてですか?」
「風呂で寝てたから」
「どうしてお風呂で寝たんですか?」
「疲れたら眠くならない?」
「そういうことを聞いているんじゃないです。時間が二十分までって決まっていることを知っていながら、どうして寝たんですか?」
そう聞かれて私は困った。どうしてって言われても、好きで寝たわけじゃないし。私が黙っていると、香織はますます額に青筋を立てた。
「反省してませんね」
「……孤児院では、風呂で寝ててもそのうち誰かが起こしてくれたよ」
「ここは、救助隊の女子寮です!」
彼女から怒りの波動(のようなもの)がぶわっと広がった。私は机の下に避難しようとしたが、女子寮の食堂の机には孤児院と違って隠れるスペースが無かった。結果として、私はその波動をもろに受けることになった。
「遥先輩、寮生活になかなか慣れないのは仕方ないですけど、集団生活にはルールってものがあるんです! 孤児院にいた頃とはもう違うんです。女子寮に入ったからには、ここのルールを守ってください!」
「はい……」
私は身を縮こませ、かすれ声で返事をした。三歳下の後輩に正論で叩きのめされ、返す言葉も無い。
「遥先輩は救助隊の中でもエリートなんですから、それ相応の振る舞いをしてください! 遥先輩に直接強く言えない他の先輩方がそのせいでイラついてるの、分かってるんですか? 気を遣わされる私の身にもなってください」
「ごめん……」
「分かったなら良いですけど。反省する気があるなら今日からは絶対お風呂で寝ないでくださいね」
「はい」説教が終わる気配を感じ、私は顔を上げかけた。
「それと」しかし、香織はまだ話を続けた。再びサッと下を見る。
「その服装、何とかなりませんか?」
「え?」
「そのタンクトップです。先輩、気づいてないんですか?」
「何に?」
私が訊くと、香織は呆れと困惑の入り混じった表情を浮かべ、私の耳にそっと口を寄せた。
「乳首、浮いてますよ」
「……!」
私はバッと羽織っていたパーカーの前を掻き合わせ、猛然とジッパーを上げた。
「薄着がいいなら、せめてブラトップにしてください」
「持ってない」
「救助隊協同組合に言えば貰えますから」
「なにそれ」
「はあ~。しょうがないですね、後で連れて行ってあげますから」
「ごめん……」
「謝らなくてもいいです。遥先輩の面倒を見るって言い出したのは私ですし」
「香織……」
私は感謝の目で香織を見た。
「正直、言い出したことを後悔してますけどね」
「…………」
私は頭に雷が落ちたようなショックを感じ、五秒ほど思考が停止した。
五秒後、思考を取り戻した私は、一人になって傷ついた心を癒やそうと思い、フラフラと立ち上がった。このまま香織の側にいたら、取り返しのつかない所までプライドが折られそうだ。
「ちょっと、どこ行くんですか、先輩? せんぱーい!」
香織が何か言っている気がしたが、私はそのまま部屋に戻った。
私は自室のベッドに寝転び、深い自己嫌悪に陥った。
寮生活がこんなに辛いなんて、予想外だった。ルールも孤児院とは全然違うし、何より他の救助隊員たちの目が怖い。
先輩方は私に目くじら立てて怒ったりはしないけど(彼らは私より実力が下だからだろう)、私がルールを破る度に寮監に言いつけるのだ。おかげで寮生活を始めてから、既に反省文を十枚は書いた。
ああ、いくら自由に振舞っても、全く怒られなかった孤児院が懐かしい。それに、孤児院では朝食のメニューなんかも世奈が希望通りにしてくれたし……。そこまで考えて、私は頭をぶんぶん振った。世奈のことは考えないって決めたのに、寮生活を始めて早々に思い出してどうする。まだ一週間しか経ってないのに。
それにしても、香織にああまで言われたことは本当にショックだった。彼女は私が女子寮に引っ越すと聞いたときにはとても喜び、自ら私の世話役を買って出てくれたのだ。その恩を仇で返すような真似をしている自覚は……正直少しある。
だけど、彼女が几帳面すぎるのもいけないのだ。世奈は私が何をしても文句なんて言わなかった——あっ! また世奈のことを考えてしまった。素早く思考を打ち切る。
その時、背後のドアがそっと開いた。ドアから廊下の照明が室内に漏れ、そこに背の低い影が差す。きっと香織だ。
「先輩? 大丈夫ですか?」
「……」
「もう、拗ねないでください」
「……拗ねてない」
「拗ねてますよ」
香織はそう言うと、部屋の電気を点けて私のベッドの側に移動した。私が壁を向いたままじっとしていると、彼女はベッドに乗り上げて私の顔を覗き込んできた。私が迷惑そうに彼女の方を見やると、香織は金色の目を丸くした。
「もしかして、寂しいんですか?」
彼女にそう言われると、なぜだか突然恥ずかしくなり、私は顔を枕に押し付けて隠した。
「寂しく、ない」
香織はふふっと笑って、ベッドに座って私の頭を撫でた。
「先輩、可愛いところあるんですね。佑先輩の気持ちがちょっと分かった気がします」
「なんで、そこで佑先輩が出てくるの……」
「分かってるくせに~」
「……」
「あ、耳赤くなった。図星ですか? もー、早くくっついちゃえばいいのに」
「う、うるさい!」
私は跳ね起き、頭に乗った香織の手を払った。
「香織だって、司門先輩の誘いに乗ったのに、まだ付き合ってないじゃん!」
彼女は一瞬にして顔を髪の色と同じくらい真っ赤に染め、怒涛の勢いで反論した。
「誤解を招く言い方は止めてください! スナイパーの訓練するのもいいかなって、そう思っただけですぅー! 別に、そういう関係じゃないですから! 遥先輩は別に頼まれてもないのに、しょっちゅう佑先輩のお見舞いに行ってるじゃないですか!」
「それとこれとは別!」
私と香織はそのまま、訓練の時間までずっと押し問答をした。
▽
「遥隊員、いい加減にしなさい」
香織とそんなやり取りをした数日後、私は寮監に呼び出されていた。
「だって……」
「だってじゃありません。貴女もう十九歳でしょう、子供みたいな態度は止めなさい」
「……」
「どうして、野乃子隊員の顔を蹴ったりしたのですか?」
「あの人が、私の義足を死角から触ってきたから」
彼女は長い指で額を押さえ、大きなため息をついた。
「確かに、野乃子隊員が貴女の身体を許可なく触ったのは良くないことだと思います。しかし、物事には限度というものがあります。彼女は顎の骨にヒビが入ったんですよ」
「咄嗟だったから、加減できなくて」
「それでも、流石にやりすぎです。貴女の蹴りはヒグマにさえダメージを与えたのでしょう? 彼女はしばらく流動食で過ごす羽目になるかもしれません」
「悪かったとは、思ってます……」
「思っているだけでは駄目です」
「じゃあ、どうすればいい?」
寮監は紙とペンを出して私の前に置いた。
「今回は、反省文の前に詫び状です」
三十分後、私は詫び状の前に突っ伏していた。
「もう無理です」
「二行しか書けていませんが」
「これ以上書くことないんだけど」
「見せてみなさい」
私は突っ伏したまま、手だけを動かして寮監に詫び状を手渡した。
「『野乃子隊員へ 今日は、顔を蹴って顎の骨にヒビを入れてしまい、本当に申し訳ございません。早く良くなることを祈っています。 遥より』……何ですかこれは!」
「詫び状ですけど」
「貴女って本当に、戦闘とサバイバル知識の他はポンコツですね」
「失礼すぎませんか?」
「この詫び状を読んだら、野乃子隊員は貴女に殺意を抱くと思いますよ」
「そこまで⁉」
寮監は諦めたように言った。
「もういいです。貴女にまともな詫び状を期待した私も馬鹿でした。仕方ないので、私の言う通りに文章を書いて下さい」
「最初からそうすればいいのに……」私は小声で呟いた。
「何か言いましたか?」
「いえ」
「ハア……それじゃあ、行きますよ。用意は良いですか?」
「はい」
「『前略 野乃子様におかれましては、その後お怪我の具合はいかがでしょうか……』」
私は一言一句違わぬよう注意しながら文章を書いていった。
「『……この度のことは、一切の非は私にあり、弁明の余地も無く深く反省している次第です……』」
「触ってきた彼女も、少しは悪いと思うけど」
「貴女が九割九分悪いでしょう。たとえ彼女に少しは非があったとしても、詫び状というのはこういうものなんです」
「納得いかない」
「我慢してください」
「『……野乃子様のご配慮で、この度の件は内々に収めてくれるとのことで、心から感謝いたしております……』」
「寮監に怒られたから、内々に収めてないんじゃないの?」
「野乃子隊員は、『私も悪かったから』と言って、貴女に謹慎などの重い処分が下らないように取りなしてくれたんですよ。心から感謝しなさい」
「……」
私はようやく事の重大さに気づき始めた。
「『……療養のお邪魔をするのは本意ではございませんので、書中にてお詫びとお見舞いを申し上げます 草々』」
「会って謝ったら駄目なの?」
「彼女が喋れる状態ならそうすべきですが、今の野乃子隊員は口を動かすことすら難しいでしょうから、直接会って謝ることは療養の邪魔になります」
「そっか……それは思いつかなかった」
「彼女が回復したら、ちゃんと直接謝罪するんですよ」
「はい」私は素直に頷いた。
「書きましたか?」
「書けた」
「それじゃ、後は日付を書いて——最後に相手の名前を書いて、完成です」
私は書き終わった詫び状を寮監に託し、大きく伸びをした。
「やっと、終わった……」
「詫び状はね」
私はその言葉にギクリとし、寮監の方を恐々と見つめた。
「ま、まさか」
寮監は口端を吊り上げ、新しい紙を取り出した。
「まだ、反省文が残っていますよ」
ようやく反省文を書き終えた時には、寮監に呼び出されてから二時間以上が経過していた。
「お疲れ様です」
「……限界超えた」私はぐったりと椅子の背にもたれた。
「反省しましたか?」
「しました」
「なら、私もこれだけ付き合った甲斐があります。これに懲りたら行いは慎むように」
「はいはい……」
「はい、は一回!」
「はい」
「全く、誰に似たんだか……貴女の親御さんはお二人とも、きちんとした生活をされていたのに」
「そうだったんですか?」
寮監は面食らった顔をした。
「貴女も知っているでしょう」
「そんな事、知らないです。両親は隊員の仕事で忙しくて、幼い頃はあまり家にいなかったし。救助隊で訓練をするようになってからも、訓練中しか会ってないので」
「そう、ですか。貴女の世話は誰が?」
「主に祖母ですね。あと医療拠点の方が時々診察に来て、健康状態とかを確認していました」
「……お祖母様が」
「はい」
「それは、大変でしたね」
そう言われ、私は反応に困った。義体化する前の幼い頃は車椅子だったとは言え、大抵のことはすぐ一人でできるようになったし、むしろ祖母の仕事を進んで手伝っていたくらいだった。別に、その生活が大変だったと思ったことはない。
私が何となく黙っていると、それをどう受け取ったのか、寮監は静かに口を開いた。
「今日は長い時間お疲れ様でした。詫び状は私から野乃子隊員に渡しておきますから、後はゆっくり休んでください」
「はい」彼女のいつになく優しい声音に戸惑いながらも、私は頷いた。
礼をして部屋を出ようとすると、寮監がぼそぼそと独り言を呟くのが聞こえた。
「何が大事かは人による、ということなのかもしれませんね……」
意味はよく分からなかったが、とにかく早く寝たかったので、私は彼女の部屋を後にした。
▽
「遥先輩」
その翌々日、地上遠征班の受付の前を通ると、受付担当の男性隊員に呼び止められた。彼は仏頂面で、束になった手紙を乱暴に寄越した。
「お手紙ですよ。孤児院から」
私は手紙を見て眉をひそめた。ざっと十通以上はありそうだ。
「何でこんなに沢山?」
「僕に聞かないでください」
私はへたくそな字が書かれた封筒を一枚一枚確認した。……全部、孤児院の人間からだ。世奈からの手紙を見つけ、私は反射的に手紙の束を彼に突っ返した。
「これ、要らないから。捨てといて」
「嫌です。ご自分で捨ててください」彼はそう言って私の手に再び手紙を押し付けた。
「……」
私はあっけに取られて手紙と彼を交互に見つめた。彼は既に受付の業務に戻ろうとしていた。
「ちょっと」
「まだ何か?」
彼は迷惑そうに私を見た。私はふと、救護班の受付担当の女性隊員のことを懐かしく思い出した。彼女の表情はいつも明るかった。同じ受付担当なのに、えらい違いだ。
「受付の中にゴミ箱あるでしょ。今すぐそこに捨ててよ、一秒もかからないでしょ」
「嫌です」
「なんで?」
彼は一瞬目を逸らし、癖毛の金髪をいじった。しかし、すぐに何かを決意したように私を睨みつけた。
「それは、僕が先輩のことが嫌いだからですよ」
「えっ? 私、何かした?」
「しましたよ。僕に、ではないですけどね」
私は、自分が何をやらかしたのかについて考え、最近したことで目の前の隊員と関連しそうなことが無いかと記憶を漁った。だが、何一つ覚えがない。
「ごめん、覚えてない」
私が正直にそう言うと、彼は顔を歪めた。
「有名なのに、知らないんですか? 僕と野乃子先輩、付き合ってるんです」
「あ……」
そう言えば、香織がそんな話をしていたかもしれない。興味ない話だったから、詳しくは覚えてないけど。
「僕は遥先輩を尊敬はしています。でも、今回の件で嫌いになりました」
「そう」
私が特に何の感情を込めずにそう言うと、彼は少し狼狽えた。
「怒らないんですか?」
「嫌いになって当然だよ。別に、私が怒る理由は何も無いと思うけど? それに、私が何を言ったって、手紙捨ててはくれないんでしょ」
「……そうです」彼は認めた。
「手紙届けてくれてありがとう。それじゃ」
「待ってください」
「何?」
踵を返しかけていた私は、驚いて振り返った。もう話は済んだとばかり思っていた。
「野乃子先輩は、とても不器用な人なんです。ボディタッチは、彼女なりの意思表示だったんですよ。彼女は、遥先輩と仲良くしたいだけだったんです」
「ふーん、そうだったんだ」
「……興味ないんですか?」彼の唇がわずかに震えた。
「それは、人の身体に許可なく触れる理由にはならないと思うかな」
「そうかもしれません。でも、突然触られたことも、乙女の顔を蹴っていい理由にはならないと思います」
「そんなこと言われなくても分かってる。彼女が元気になったら、土下座して謝るよ。もう謝罪文も送って——」
「謝って済む問題じゃないでしょう!」
彼は突然叫んだ。
「びっくりした」
私は思わずそう呟いていた。ここ最近、いろんな人に怒鳴られてばかりいるような気がする。すごく不本意だ。
「もし、彼女の顔に傷が残ったりしたら、どうしてくれるんですか」
私は困った。どうしてくれるんですかって言われても、私が彼に何をすればいいと言うんだろう。十数秒考えた後、思いついたことをそのまま口に出した。
「じゃあ、彼女の顔に傷が残ったら、私の顔にも同じ場所に傷をつけていいよ」
私の言葉を聞くと、彼は表情を凍りつかせた。
「遥先輩、何を言ってるか分かってるんですか?」
「分かってるけど。別に君が付けても、彼女が付けてもいいよ。私の顔に痕が残るまで、何回やってもいいから」
「……」
「あ、付けるのが嫌なら私が自分で同じような傷を——」
「もういいです!」
「そう?」
「遥先輩は、顔に傷が残ることが嫌じゃないんですか⁉」
「全然」
「どうしてですか?」
「私の全身に、どれだけ傷があると思ってるの? 手術痕も無数にあるし。今更一つや二つ増えても気にしないけど」
「……でも、顔ですよ? 周りの人に気味悪がられてもいいんですか?」
「気味悪がられても、普段と何も変わらないよ」
私は義体化手術前も、手術後も奇異の目を向けられてきた。気味悪がられることには慣れている。彼女が義足を触ろうとしたのも、きっと義体を触ってみたかったんだろう。
彼は何故か悔しそうに黙り込み、そして嫌な笑みを浮かべて言った。
「佑先輩はどう思うでしょうね」
そう言われ、私は想像してみた。彼らとのいざこざの結果、私が顔に傷を作って佑先輩のお見舞いに行ったら、彼はどんな反応をするだろうか。
「……多分、『馬鹿だな』って言いそう」
男性隊員は一瞬あっけに取られたが、きっぱりと言った。
「違います」
「はあ?」
「彼はきっと、すごく怒りますよ」
「どうして分かるわけ?」
「遥先輩が自分のことも、野乃子先輩のことも何一つ真剣に考えていないからです」
それを聞いた時、私の脳裏に佑先輩の言葉が蘇った。
『——君が利き腕に怪我したって聞いた時も、気が気じゃなかったよ。もし後遺症が残ったりしたらどうしようって——』
「……あ」
「どうしたんですか?」
「分かった。いや、本当のことを言うとまだ分かってはいないんだろうけど、何となくは理解したよ」
「何がですか?」
「いや、こっちの話。そうか、そうだよね……」
「僕は何も分からないんですけど」
私は彼に頭を下げた。
「ごめんなさい」
「何に対してか分からない謝罪をされても、意味ないんですけど」
「……いや、何というか……私みたいに、救助隊に貢献することだけが存在意義って人ばかりじゃないってこと、忘れてた」
「はっ?」
「私は、野乃子先輩のことはあまり良く知らないけど、彼女はたぶん顔を大事にしてたんだろう。で、君も、野乃子先輩の顔が大事だから、怒ったってことだ。だから、大事な彼女の顔に傷を付けて、ごめんなさい」
私がそのまま頭を下げていると、彼はさっきまでよりは幾分か落ち着いた声で言った。
「……部分的に違いますが、まあさっきよりは良いでしょう」
「どっか違った?」
「僕は野乃子先輩の顔も大事ですが、顔以外も全部大事です」
「なるほど。覚えておく」
私がそう言うと、彼は呆れたようにため息をついた。
「……遥先輩を許すか許さないかは、野乃子先輩が決めることです。ただ、僕はこれからもずっと遥先輩を嫌いなままでしょう」
「そっか」
「でも、僕は遥先輩の顔に傷を付けたいとは思いません」
「どうして? 私の顔は、別に君にとって大事じゃないよね。私自身も、いいって言ってるのに」
彼は疲れた顔で、曖昧に笑った。
「そんなことをしたら、佑先輩に殺されますから」
▽
それからしばらく経ったある日、私はいつものように佑先輩の病室を訪れていた。
「ほら遥、また手紙来てるぞ」
佑先輩が指さした先は、彼のベッドサイドテーブルに積まれた手紙の山。私はそれを見るなり憂鬱な気分になった。
「またですか」
「それはこっちのセリフだ。遥、どうして毎回手紙の受け取りを拒否するんだよ。お前が受け取らないから、全員俺の所に来て『遥に渡しといてくれ』って頼んでくるんだけど」
「佑先輩には関係ない事です」
「迷惑をかけられているんだから、関係はあるんじゃないか?」
「文句なら世奈に言ってください。私だって迷惑してるんです」
「俺はまだ歩くのも難しいんだぞ? お前が世奈ってやつに直接『迷惑だ』って言えばいいだろ。直接が無理なら電話でもメールでも、いくらでも方法はある」
「……」
「どうして、そうしないんだ?」
「……それこそ、佑先輩には関係ないですよ」
彼は怪訝そうな顔をした。
「まあ、無理には聞かないけど。とにかく、手紙はお前が持っていってくれ」
私はしぶしぶ手紙の束をテーブルから取り上げた。佑先輩はふと心配そうな顔で私を見つめた。ダークブラウンの瞳が揺れている。
「なあ遥、お前……前は孤児院のことが好きだって言ってただろ。なのに、最近は一体どうしたんだよ。お前が言いたくないっていうから、女子寮に引っ越した理由については聞かなかったけどさ。なんだか、全体的にお前らしくないっていうか……」
「余計なお世話です!」ぐしゃり、と手の中で手紙が潰れる音がした。
佑先輩は驚いて固まった。しまった、ついイライラして大声を出してしまった。
私は深く呼吸しながら脳内で六秒数えた(これは救助隊の訓練で教わったアンガーマネジメント法である)。……よし、少し落ち着いた。だけど、このままここに居たら、感情のままに何を口走るか分かったもんじゃない。「何も知らない癖に」なんて子供っぽいセリフ、佑先輩にだけは絶対に言いたくない。
「今日は、顔を見に来ただけですから。じゃあお大事に」
私は素早くそう吐き捨てて立ち上がった。彼が「あ、おい遥!」と呼び止めるのが聞こえたけど、勢いのまま乱暴に引き戸を閉めた。
「はあ~~~」
その夜、私は自室の机に積みあげられた未開封の手紙の山を前にして、長いため息をついた。
最初に手紙が届いてから、もう何日経ったんだろう。たぶん、二週間以上は間違いなく経っている。毎日毎日届く手紙は、世奈からのだけでも二十通弱はある。数えてないけど、孤児院から来た手紙を全部合わせると百通くらいはあるかもしれない。
世奈が誰彼構わず私宛の手紙を託そうとするから、皆が迷惑しているのは分かっている。受付担当の彼には受け取らないよう頼んだけど、全員に受け取らないよう頼むのは……流石に気が引ける。とうとう、療養中の佑先輩にまで迷惑をかけてしまった。今日だって本当は、もう少し話をしたかったのに。
しかも、どうせ読まない癖に、私は手紙を一通も捨てられていない。何度も捨てようとしたけど、どうしてもできなかった。こんな風に身体が自分の言う事を聞かないのは初めてだ——もちろんアテルイに操られた時を除いて、だけど。
「どうにかしないと……」
その時、ガシャン、ガシャンという音が、廊下から私の部屋に近づいてくるのが聞こえた。
「何……?」
私は扉の方を見つめた。じわじわと近づいてくる不審な音に、何となく恐怖を感じる。
音は扉の前でピタッと止まり、私は生唾を飲み込んだ。ザラザラとした雑音を含んだ耳障りな合成音声が、私に呼びかけた。
「ハルカ」
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