第八章 色褪せる季節
玄関の扉が開き、閉まる。
子供より重い足音は院長室を通り過ぎて食堂に向かい、少ししてから戻ってきた。
足音が院長室の前で止まる。
コンコンコン、と遠慮がちに扉が三回叩かれるが、私は返事をしない。
「……世奈?」
がちゃりと扉が開かれた音がする。私は机に突っ伏したままだ。
「……いたなら返事してよ」
「……」
「世奈? 起きてる?」
わずかに腕に力を込めた。
「もう昼食の時間だよ、早くしないと——」
「恭太郎さんが」
突っ伏したままの私の声は、狭い部屋に変な響き方をした。
「孤児院の子たちに、救助隊が訓練を受けさせることを、許可しろって言ってきた」
遥は何の反応も示さない。
「断ったけど、来週また来る、って」
「……断った?」
「当たり前でしょ」
遥は押し黙った。
「知ってたの?」
「……何を?」
返答までにわずかに間があった。
「恭太郎さんが何の話をするか」
彼女は三秒ほど息を止め、その後ゆっくり吐いた。
「その話は後にしない? 時間かかると思うから」
彼女の鬱陶しそうな声色に、私はじりじりと胸が焼け付くのを感じた。
▽
子供たちはいつも通り楽しそうに食卓を囲んでいたけど、私には全ての喧騒が何処か遠くから聞こえるように思えた。どの子を見ても、悪い想像が浮かんでくる。
片付けの時間になっても食欲は出なかった。ちっとも味がしない昼食を、ほぼ手付かずのままコンポストに捨てた。原型のなくなってきた生ゴミの上に、真新しい残飯が散らばる。もったいないとは思うけど、どうせ堆肥になるんだし、いいよねと自分をごまかす。
遥は昼食中、私と一回も目を合わせなかった。
午後の自由時間になってすぐ、遥を連行して自室に入った。彼女は所在無げに視線を彷徨わせた後、私の出方を伺ってきた。
「遥、ここに座って」
私は椅子を指さした。彼女は素直に従う。
「じゃあ、まず……遥の知っていることを、全部話して。何から何まで包み隠さず」
「何について?」
「分かってるんでしょ?」
座っている遥を上から睨みつける。あえて曖昧な言い方をしたのは、彼女がどこまでのことを知っているのか分からないからだ。恭太郎が言ったことがすべて事実なのかも、まだよく分からない。彼女の持っている情報を、できるだけ引き出す必要があった。
遥は困惑した顔で私を見たが、逃げられないと悟ったのか、話し始めた。
「私が地上で怪我をした日の夜……恭太郎が、病室に来たんだ。そして、孤児院の子供に救助隊になるための訓練を受けさせるというアイデアを、私に話してきた」
「……」
「無理に訓練を受けさせるつもりはないけれど、小さい頃から私のように訓練に慣れていた方が、救助隊を志望する人が増えるんじゃないか、って言ってた」
「それで、遥はどうしたの」
「……どうもこうもないよ。恭太郎は私の意見を必要としていなかった」
「それを聞いて、遥は何も思わなかったって言うの?」
私は拳を握りしめた。彼女は表情に怯えを滲ませた。
「そういう訳じゃない。私は、そんなこと許せないと思った……恭太郎の考えは、効率的かもしれないけど、人として最低だ」
私は少しだけ、本当に少しだけホッとした。彼女は、やっぱり子供たちを大事に思ってくれているんだ。それなら彼女はきっと、私の強い味方になってくれる。
「でも、結局何も言えなかった。私が何を言っても、恭太郎は絶対に自分の意見を貫き通すだろうと思ったから」
「だから、今日一緒にいてくれなかったんだ。理由を教えてくれたら良かったのに」
「……ごめん。私は恭太郎には、絶対に逆らえないから、助けにはならないと思って」
「どうして、そう決めつけるの?」
彼女はうなだれるように下を向いた。私は彼女に一歩近づいた。
「遥はあの男の所有物じゃないでしょ? 人間なんだから、全てに従う必要なんかない」
私は彼女の目の前にしゃがみ、自分の手を彼女の手に重ねた。その手は驚くほど冷え切っていた。
「遥、お願い」
黒曜石の瞳をじっと見つめる。その奥にどんな機械が埋め込まれていても、この瞳はいつでも彼女の感情を雄弁に語ってくれた。
「私と一緒に、孤児院を守ってほしい」
遥はそれを聞いて、泣きそうな顔をした。
「……できない」
「え? 今、なんて」
「できない。私には無理」
断られるとは露ほども思っていなかったことを、彼女の言葉を聴いてから気づいた。どくん、と心臓が強く跳ねる。
「どうして? 救助隊の仕事があるから?」
「違う」
胸が刺すように痛み出す。でも、構っている場合じゃない。私にはどうしても遥の協力が必要なんだ。恭太郎の指示に逆らってでも孤児院に住むと、彼女がそう主張するだけで、あの男の計画に大きな狂いを生じさせることができるのだから。
「遥が難しい立場にいるのも理解してる。だから、できる範囲で構わないから」
「そういう問題じゃない」
「じゃあ、どういう問題なの⁉」
「……」
私は恐る恐る訊いた。
「本当は、遥は子供たちのこと、大事だと思ってない、とか……?」
彼女はひどく傷ついた顔をした。
「そんな訳ない! かけがえのない家族だと思ってる」
「それなら……」
言葉を続けようとした私を、彼女は遮った。
「ただ……、私はもう、疲れたんだ」
「疲れた?」
遥はゆっくりと頷いた。その顔には、全てを悟ったような、それでいて投げやりになったような表情が浮かんでいた。
「救助隊員は、キャンプの皆のために頑張っているはずなのに、仲間は日々死んでいく。新たな人員も補充されない。去年流行り病があった時なんか、ただでさえ少ない救護班のメンバーが数人熱を出したりして、全員過労死寸前だった。とにかく人手が足りないんだよ。命の危険はある上に激務で休みも少ない。こんな状況じゃすぐに私も——」
必死に反論を考え、今度は私が彼女の言葉を遮る。
「人手が足りない? そんなの、どこも同じでしょ。孤児院の運営だって、私ひとりじゃ到底足りないのは知ってるよね。私は先代の院長が亡くなったあの日からずっと休みなんて無いよ、たったの一日も! それでも、子供たちの親代わりだからって思って、熱が出ても、倒れそうでも、薬飲んで頑張ってきたのに……なのに、そうやって育てた子供たちを危険に晒すなんて、絶対にできない!」
遥は勢いよく立ち上がった。立ってしまえば、彼女の方が私よりずっと背が高い。
「だったら世奈は、救助隊員がいくら死んでもいいってわけ? 私がこの怪我をした時、もしメンバーが一人でも欠けてたら、全滅もあり得たんだよ。地上遠征班の人数が少なくなれば危険は増える一方だし、救護班が足りなくなったら治療が間に合わなくなる。物資だって不足する、今だって皆ギリギリでやってるのに——」
「遥たちが死んでもいいなんて、一言も言ってない!」
「言ってるも同然でしょ。放っとけば私たちが死ぬ可能性はどんどん高くなるんだから」
「違う!」
「違わない!」
遥は怒りで真っ赤になって私の胸倉を掴んできた。彼女の顔が目と鼻の先まで近づく。私たちはそのまましばし無言で睨み合った。おかしい、こんなことになるはずじゃなかったのに。
「……私が十歳で手術を受けた時、目が覚めた私に、お母さんはこう言った。『産んでしまって、ごめんなさい』って。絶望に押しつぶされそうになった時には、涙が涸れるまでお母さんと抱き合って泣いた。でもその後すぐ、私はうまく泣けなくなった。訓練中に涙がこぼれる度、恭太郎にぶたれるようになったから。涙が頬をつたう直前に、殴られる! っていう恐怖が全ての感覚にシャッターを下ろして、何も感じなくなるの。お母さんが事故で死んだときも泣けなかった。お父さんが死んだときも!」
彼女は無言の私に、独白するかのように感情をぶつけた。彼女の美しい瞳からどっと感情が流れ込んできて、私の胸をぐちゃぐちゃに荒らしていく。
「私は十歳の時から、痛みにも、人形扱いされることにも、ずっとずっと耐えてきた! その頃世奈は何をしてたって言うの? この平和な孤児院の中で、ぬくぬくと可愛がられてたんでしょう? 私の気持ちなんて全然知らないで!」
遥は必死に息を整え、悲痛な声であえぐように言った。
「……皆のために、死ぬまで身を捧げることだけが私の役目だって分かってる。産まれた時から、そう決められていた。それでも、こう思わない日はないんだ。私がただの子供だったらって。障害が無くて、皆といくらでも自由に遊べる人生だったらって」
突然遥の瞳孔が大きく開く。間近でそれを見た私の心臓は嫌な跳ね方をした。
「時々すべてを壊したくなる。『どうして私がこんな目に合わないといけないの? 他の子も私と同じくらい不幸になればいいのに』って思って、そのたび自己嫌悪で死にたくなる……その繰り返し。こんな人生なんてもう沢山なんだ。早く楽にしてほしくてたまらない」
胸倉を掴む手にギリギリと力が籠る。
「……っ遥、苦しいよ」
「だから何? 私の方が、その何倍も苦しい」
彼女の口が動く。
あんたも、苦しめばいい。
私と同じように——
「やめて!」
私は遥の頬を叩いた。苦しくてあまり力は入らなかったが、彼女は手を離した。
「ゲホ、ゲッホゲホッ」
「あ……」
遥はハッとしたように表情を変え、狼狽えて言った。
「ごめん。そんな、つもりじゃ」
私は足りない酸素を必死にむさぼりながら、何とか声を絞り出す。
「ゲホッ、ひどい、酷いよ、遥」
「本当にごめん。でも……とにかく私は協力できない」
彼女は私の背をさすりながら、疲れきったような声で言った。私は浅い呼吸を無理やり落ち着かせた。頭がひどく混乱している。心臓の動悸がやかましく脳に響く。
「世奈。恭太郎には逆らわない方がいいと思う……何をされるか分からない。それだけは幼馴染みとして、伝えておくよ」
「ハア、ハアッ……逆らわないなんて、私には無理。私は子供たちを、早死にさせるために育ててるんじゃないのに……かわいそうだよ、そんなの」
ぴたりと、背を撫でる彼女の手が止まった。
「世奈は」
その声は、さっきまでと違い、まるで機械のように感情が無かった。
「私のことを『すぐに死ぬかわいそうな子』だって、そう思ってたんだ?」
反論するべきだと頭が警鐘を鳴らすが、私は一つも言葉を見つけられなかった。
遥の言う通りだったから。
▽
それから遥は、私と一切口を利かなくなった。顔を合わせるのも嫌なのか、連日タスクさんの病室に入り浸っているようだ。孤児院の中にいる時も、私が視界に入ると踵を返す。その度に、私の心は深く傷ついた。
サラダに相談しようと思って救護班本部に連絡したが、不在だった。間が悪いことに、サラダは急患の対応のため、昨日から医療拠点の方に行っているらしい。タスクさんの容体は安定してきたので、今は一般病棟に移っており、別の担当者がついているそうだ。
さらに悪いことに、恭太郎が来た翌日から、私が最も恐れていたことが現実になった。孤児院へ届く物資がごっそりと減ったのだ。以前の半分、いやそれよりも少ないかもしれない。電力も大きく制限され、遊びの時間に子供たちができるゲームの数は激減した。非常電源を使ってライフラインはどうにか維持しているけれど、長くは持たない。食糧や医薬品だって、今ある備蓄を使い切るのに一ヶ月もかからないだろう。
物資にまぎれて、一通の手紙が入っていた。一行だけの短すぎる手紙だが、そのメッセージはナイフのように鋭く私の胸を刺した。
『これはあなたの正しさを貫いた場合の結果です』
私はすぐに恭太郎からだと分かった。あの男が最後に告げた言葉を、私はよく覚えている——『私とあなたのどちらが正しいのかは、すぐに解ることになるでしょう』。
あの言葉は、そういう意味だったんだ——。私は改めて、恭太郎は返答次第では本気で支援を打ち切るつもりなんだと思い、恐ろしくなった。
子供たちにとって、ゲームができないことは非常に深刻な問題だった。狭い空間に押し込められている彼らにとって、数少ない娯楽が奪われたのだから。もちろん子供たちは驚き、戸惑い、憤った。私はそれらを一身に受け、毎日とても疲弊した。でも、もし救助隊からの支援が今後完全に断たれてしまったら、私が直面する事態はこんなものでは済まないだろう。
どうすればいいのか全然分からないまま、あれよあれよという間に六日が経った。明日には恭太郎がやってくる。私はちっとも進まない書類仕事を前に、院長室の椅子で鬱々としていた。
電話がけたたましく鳴りだしたのは、ちょうどそんな時だった。
「もしもし! サラダ⁉」
私はてっきりサラダだと思って電話に叫んだが、聞こえてきたのは合成音声ではなく人間の声だった。
「いや、私は主馬だ。夜分に申し訳ない」
「えっ……し、失礼しました」
私は失望したが、同時に驚いた。リーダーである主馬が孤児院に直接電話してくるなんて、かなり珍しいことだ。
「構わない。少しいいか」
「は、はい」
「先週の件——カナメ、という子供の申し出だが」
それを聞いてようやく思い出した。そうだ、先週に叶芽から出された『交換条件』をクリアするため、一応主馬に連絡を取ったんだっけ。
「受理されることになった」
「はい。って、ええっ⁉」
てっきり一も二もなく拒否されるだろうと思っていたので、一瞬反応が遅れてしまった。
「本当ですか?」
「ああ。アテルイとの協議の結果だ」
つまり、アテルイと主馬の両方がゴーサインを出したということだ。
「急になってすまないが、明日の午前にカナメを中央司令部に一人で寄越してくれ。他の者は同行させないように。アテルイの義体は事前にこちらで起動させておく」
「一つ、訊いていいですか」
「なんだ」
「どうしてリーダーのお二人は、叶芽とアテルイが二人きりで会うことを許可したんですか?」
無言。
「答えられないんですか?」
「機密保持の観点から、回答を差し控える」
どういうことなんだろう。私は言いようのない不安を感じた。叶芽の考えていることも、主馬とアテルイの考えていることもまるで分からない。このまま叶芽とアテルイを二人きりで会わせてしまって、いいのだろうか。
「私はあの子の保護者です。詳しいことを聞く権利があると思います」
「我々の協議内容については、世奈の管轄外だろう。その子がアテルイに会いたい理由については、私にも伝えられていない。詳しい事はその子に直接訊いてくれ」
それができれば苦労しないんだよな……。主馬と話すと、いつも機械と話しているような気分になる。むしろ、機械であるサラダの方がよっぽど人間らしい。私は大きなため息をついた。
でも、これは好都合なんじゃないか、と私は思い至った。明日の午前と言えば、恭太郎が来る時間と重なっている。先週、あの男はやけに叶芽の進路について気にしているようだった。恭太郎があの手この手を使って、叶芽を救助隊員に引き込もうと企んでいる可能性は十分にある。彼を孤児院の外に一時的にでも避難させることができるなら、それに越したことはない。
「世奈、聞こえるか」
「あっ、はい! ……分かりました、叶芽に伝えておきます」
「よろしく頼む」
そうだ、良い事を思いついた。主馬が電話を切ってしまう前に急いで呼びかける。
「ちょっと待ってください。私からも、リーダーのお二人にお願いがあります」
「なんだ」
「孤児院のことで……その、相談したいことがあります。できれば、直接会ってお話したいのですが」
「分かった。予定の確認をするので、少し待ってくれ」
十秒ほど保留音が鳴った後、再び主馬の声がした。
「できるだけ早くということなら、明後日の午後なら空いている」
「分かりました。十三時頃に、そちらにお伺いしてもいいですか」
「ああ。——っ」
突然、ガタン! という音と共に、ザザザッというノイズが耳を襲った。
「あれっ、どうしました?」
何かあったのかと思って問いかけたが、返事が無い。荒い呼吸音だけが聞こえる。
「あの、聞こえますか? 大丈夫ですか⁉」
「大丈夫だ。少し……眩暈がしただけだ」
焦って呼びかけると、やっと主馬の声がしたので、私は内心ホッと胸をなでおろした。
「どこか具合でも悪いんですか? お大事になさってください」
「大事ない、気にするな。では、明後日」
「はい。おやすみなさい」
電話を切った後、私はほんの少し気が楽になった。これでとりあえず恭太郎と叶芽は、少なくとも明日は顔を合わせずに済むだろう。それに、恭太郎がどんな行動に出たとしても、明後日には主馬やアテルイに相談できる。そうすれば、事態を打開する方法が何かしら見つかるかもしれない。こういう大変な時ほど、ポジティブに考えていかないとね。
私は叶芽に主馬の言葉を伝えるため、院長室を後にした。
▽
ついに恭太郎が来る日の朝になり、私は孤児院の玄関で彼を待ち受けていた。
叶芽は、既に中央司令部に向かった後だ。昨日の叶芽は、知らせを聞くと狂喜乱舞していた。あそこまで喜ぶとは正直思わなかったけれど、彼の心からの笑顔を久しぶりに見ることができて、私は嬉しくなった。
一応、アテルイと何を話すつもりなのか聞きだそうとしてみたものの、案の定取り付く島もなかった。私の質問攻めにうんざりした叶芽は、『年明けまでには教えてやる』と約束したが、なんで今すぐ教えてくれないんだろう? 彼の考えることは元々よく分からないけど、ここ最近は輪をかけて分かりにくい。気がかりではあるけれど、とにかく今はそれどころじゃない。孤児院全体の危機なのだ。
恭太郎にどう返事をするか、昨夜はずっとそればかり考えて眠れなかった。恭太郎の要求を飲む方が、院長として賢いやり方なのは間違いない。先代の院長がどういう考えで恭太郎と契約を交わしたのかは今となっては分からないけれど、きっと子供たちのことを想っての選択だったに違いない。それだけは確信できる。
それでも、私はものすごく迷った。この選択は、今いる子供たちだけじゃなく、孤児院の今後をも決定づけることになるからだ。訓練がずっと任意のままなら、まだいい(私個人としては不本意だけど)。でも、恭太郎が支援を盾に要求をエスカレートさせてきたりしたら、話は全く違ってくる。もし子供たちに訓練を強制させるようになったら。それどころか、子供たちを強制的に救助隊員にしようとしてきたら——。この孤児院は、子供たちが安心して住める場所ではなくなる。そう考えると気が気ではなかった。
私は、できるだけ要求を飲むのを先延ばしにすることを第一目標にすることにした。悔しいけど、支援の大部分が恭太郎に握られている今の状況では、彼の要求を完全に拒否することは孤児院にとって自殺行為だ。孤児院を彼の言いなりにさせないためには、なんとか孤児院の経営を、救助隊の支援なしでも立ち行くようにしないといけない。
それには、主馬やアテルイといったリーダーたちの助力を得られる目途が立つまで、時間稼ぎに徹することが重要だと私は考えた(足りない頭を一晩中絞って得た結論だ)。賭けにはなるけど、恭太郎だって人手不足で追い詰められているのは間違いない。簡単に私との交渉を打ち切ることは無いだろう。
それに、今はまだ遥は孤児院に住んでいるのだ。彼女は恭太郎には逆らえないと言っていたけど、彼女が本心ではここに住み続けたいと思っているのは、たぶん間違いないと思う。彼女に詳しい事情を話せば、説得はできるかもしれない。
でも、私は結局、遥に救助隊の支援のことを詳しく話せていない。彼女が口を聞いてくれなくなって話すタイミングを失ったというのもあったけれど、本当の理由は、それを話すのが怖いからだ。
遥が孤児院に残りたいと言った時、先代の院長を始めとして、孤児院の皆はとても喜んだ(もちろん私も)。私には今でも、あの時の院長先生の笑顔が、偽りだったとはとても思えない。でも、支援の話を遥に打ち明けたら……彼女は、院長先生から与えられた愛は、全て偽物だったんだと感じるかもしれない。
いや、違うな。本当は……私自身に彼女の疑いの目が向けられるのが怖いのだ。私がいくら知らなかったと言っても、もし彼女がそれを信じてくれなかったら。彼女から嫌われて、いわれのない非難を受けたら。想像するだけで、目の前が真っ暗になりそうだ。
その時、唐突にベルが鳴り、私は扉を開けた。
「では、お邪魔しますよ。」
「……どうぞ」
喉に不安がいっぱいに詰まったまま、私は恭太郎と相対することになった。
「またお時間を取らせてしまって、誠に申し訳ない。できるだけ短く済ませますから」
「……」
「では、単刀直入に——。世奈さん、お考えは変わりましたか?」
私は唇を噛んだ。どうやら向こうは、さっさと話を済ませる気だ。話を引き延ばすことはできそうにない。こうなったら、私だって考えがあるってところをこの男に見せてやる。
「考えは変わりません。私は、孤児院の子供たちに訓練を受けさせることはできません」
「ほう」
彼は少し驚いたようだった。
「私の送ったメッセージは、しっかり受け取ってもらえなかったようですな」
「……受け取りました」
恭太郎はわざとらしく大きなため息をついた。
「あれを受け取っておいて、まだお分かりにならないのですか。私は、私が言ったことは全て事実だということを、あれできっちり伝えたつもりですがね。その上で、私のお願いを拒否することの意味を、どう考えていらっしゃるんですか? くれぐれも慎重にお答え願いたい」
お前は決して俺に逆らえないと、ダークグレーの瞳が言っている。きっと遥も、こうやって何度も追い詰められてきたんだろう。
「それでも……私は泣き寝入りなんてしません。恭太郎さん、あなたのやり方は、私にはどうしても気に食わないんです。あなたは子供たちのことも、遥のことも、人間ではなく人形か何かのように扱っている。私にはそれが許せない」
彼の表情に、初めて微かに動揺のようなものが伺えた。
「あなたの判断のせいで、子供たちが物資不足に直面しても構わないと?」
「そうではありません。私が絶対にそうはさせません」
恭太郎は笑い出した。すごく嫌な笑い方だ。
「世奈さん、あなたに一体何ができるっていうんです? ただの孤児院の院長でしかないあなたが、救助隊地上遠征班の班長である私に対して、何ができるんですか」
「私には何もできません。でも、主馬やアテルイなら、できますよね。私は明日、リーダーの二人に相談の約束を取り付けてあります。もし今日の話し合いの結果、孤児院への支援が打ち切られるようなことがあれば、私にはリーダーたちに直訴する用意があります」
私はそう言い切って、恭太郎の様子を伺った。恭太郎はしばし無表情になったが、その後すっと目を細めた。一見笑っているように見えなくもないが、目の前に座っている私には違うと分かった。彼は、怒っている。
「いやはや、どうやら私はあなたに見くびられていたようだ」
私はそれを聞いて耳を疑った。見くびっていたではなく、見くびられていた?
「いいですか、世奈さん。あなたは大きな勘違いをしている」
「勘違い?」
私は喉がからからに乾くのを感じた。
「そう、勘違いです。まず、あなたはリーダーらに何を訴えるつもりなんですか? 私は、キャンプの決まりに反するようなことは何一つしていないんですよ」
「……え?」
「私たちがしているのは慈善事業なんかじゃありません。遥の孤児院に住みたいという個人的な要望を叶えたのも、そのために孤児院に莫大な資源をつぎ込んだのも、先代の院長との契約だけが理由じゃあない。全ての費用は、遥の人並み外れた優秀な仕事に対する正当な報酬——正確には福利厚生として、公的に処理されているんです。彼女はそれほどに救助隊にとって貴重であり、手放すことのできない人財なのです。まあ、彼女はそのことを全く知らされていないので、無茶ばかりしてしまうんですがね……。これが何を意味するか分かりますか?」
私は押し黙った。
「遥がもしここを出て行けば、孤児院に支援をする正当性はその時点で失われるということです。彼女が住んでもいない孤児院の福利厚生を充実させるというのは、辻褄が合わないですから。つまり、私どもが支援を中止しても、リーダーらにはそれに異議を唱えることはできません」
「そんな……でも、孤児院の子供たちはキャンプの未来を担う大切な存在なんですよ⁉ リーダーたちが黙ってるわけが、」
「それが、違うんですよ。ご存知の通りこのキャンプでは、命というものには優先順位があります。一番に優先されるべきは、子供の命ではなく——」
「救助隊員の、命……」
「そうです。孤児院への支援は、救助隊員への報酬より優先されることは決してありません。救助隊に割くリソース量を考えれば、リーダーらは恐らく孤児院の逼迫を容認するしかないでしょうね」
私はへなへなと全身の力が抜けるのを感じた。そんな、そんな馬鹿な。
「さて、あなたが思うほど私は浅はかではない、ということがお分かりいただけましたか?」
恭太郎は変わらず目を細めてこちらを見ている。私は叫びだしたくなるほどの恐怖を感じた。自然と声が荒くなる。
「でも、遥は孤児院を出る事なんて望んでないはず! あなたは無理やり遥をここから追い出す気でしょう⁉」
「そんなことはしませんよ。彼女は自分の意思でここを出ていくんです」
私は乾いた笑いを漏らした。
「遥が、私の言う事より、あなたの言う事を聞くとでも思ってるの⁉ そんなはずない。私たちはずっと一緒に——」
「彼女がいくつの時から訓練を受けていたか、ご存知ですか?」
「……!」
私はあることに気づき、脳天を殴られたような衝撃を受けた。
彼女が義体化手術を受けて救助隊の訓練を受け始めたのは、十歳の時。
私と出会うより、二年も前だ。
「あなたより、少しですが付き合いは長いんですよ。ですから、彼女のことはようく知っている。もちろん、扱い方もね」
私が何も言えないでいると、彼は何かに気づいたように顔を上げた。
「ちょうどいい、どうやら彼女が帰ってきたようですよ。あなたの答えはもう決まっているようですし——交渉決裂、でよろしいですね」
「え……?」
「どうせ、あなたはこれだけ言っても考えを変えないつもりなのでしょう? 強情なことだ。最終手段は使いたくなかったですが、こうなれば仕方ない」
恭太郎はどこか嬉しそうにそう言うや否や、院長室を出た。私は狐につままれたような気分で慌てて後を追った。
▽
遥は玄関近くにいた。まだ靴を脱いでいるところのようだ。彼女はやってきた恭太郎を見て、露骨に嫌な顔をした。
「遥——」
「遥。孤児院から出なさい」
私が恭太郎に追いつき、遥に呼びかけると同時に、彼の野太い声が響いた。
彼女はビクリと身体を硬直させ、怯え切った顔をした。恭太郎は遥に近づくと、その肩に手を置いて私を見た。彼女は困惑した顔で彼を見上げた。
「遥、世奈さんはずっと、お前に隠し事をしていたんだ」
「は? 隊長、一体何の話ですか……?」
「お前が孤児院に残りたいと言った時に、私と先代の院長は、遥が孤児院に住んでいる間は救助隊が孤児院に支援をする、という契約を結んだ」
「やめて!」
私はなりふり構わず叫んだ。恭太郎が何をしようとしているのか理解したからだ。彼は私の声を気にすることもなく、遥の耳元に口を寄せた。
「分かるか、遥。お前が救助隊員として働くことと引き換えに、孤児院は潤っていたんだ。院長先生も、孤児の子供たちも、世奈さんも……お前が命を削ってくれたおかげで大助かりだったわけだ」
彼女の目が大きく見開かれた。
「世奈さんは、このことをずっと知っていたんだ。知っていて、ずっと黙っていた。酷いと思わないか?」
「違う! その男の言う事なんて信じちゃダメ!」
「お前はずっと騙され、利用されていたんだ。家族だと思っていた人間達から」
遥はガクリと膝をついた。私は急いで駆け寄った。彼女と目線を合わせる。
「嘘だ……ねえ、全部嘘だよね、世奈? 嘘だって言って」
「私は、支援のことなんて全く知らなかった! 知らなかったの、信じて……」
「支援のことも、嘘なんでしょ? 院長先生が、契約をしたなんて、嘘だよね……?」
私は少しの間ためらったが、首を振った。
そのとたん、彼女の顔は、今まで見たことが無いほどの絶望に染まった。
「嘘……そんなはずない。院長先生が、あの人が——私のことを、ずっと騙してた……?」
彼女はガクガクと震え出した。瞳孔が開いている。
「遥、これだけは信じてほしい……院長先生はあなたのこと、心から愛してたよ」
私は遥の身体を両手で抱きしめようとしたが、彼女は私を荒々しく振り払った。
「触らないで! 世奈の言う事なんて、もう信じられない! 私をずっと哀れんでいた奴の言葉なんて聞きたくない」
そう吐き捨てると、遥は私から顔を背けてしまった。
私は心臓に杭を差し込まれたような痛みを感じた。振り払われた手が力なく落ちる。泣いている場合ではないのに、堪え切れない涙がボロボロとあふれた。恭太郎が勝ち誇ったような笑みを浮かべているのが、滲んだ視界にうっすらと見えた。
「遥……行かないで……お願い」
「ここはもう、私の居場所じゃない。孤児院の人間なんて、誰も信じられない」
「……私だけじゃ、子供たちを守れないよ」
私は涙声で訴え、みっともなく縋りついたが、彼女は冷ややかに言い放った。
「支援が無くなってそんなに困るなら、もう全員救助隊に入れちゃえば? きっと楽になるよ」
その言葉は、私の淡い期待を完膚なきまでに打ち砕いた。彼女は立ち上がり、くるりと背を向けて歩き出した。
「バイバイ、世奈」
▽
私は泣きながら、小さくなっていく遥の背中をいつまでも見つめた。
「いかないで……遥」
彼女は振り向かない。もう、声が届く距離ではなかった。
「ほんとうは……本当は、私のために残ってほしかったの……」
その本心は誰にも届かず、むなしく消えていった。
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