第七章 幸せ探し


 人気のない早朝、私は街灯が無機質な明かりを投げかける大通りを一人歩いていた。

 私は右腕を上げ、光へかざしてみる。もう動かしても痛みはほとんどないし、訓練だってあと数日すれば参加できるだろう。身体が鈍っていないかだけが心配だった。

 私は孤児院に恭太郎が来ると知ったとき、彼の魂胆がだいたい分かった。だから、今日の午前の間は孤児院に帰らないつもりでいる。恭太郎と万が一にでも顔を合わせたら、世奈の説得を頼まれるかもしれない。そう思うと吐き気がした。

 恭太郎のやり口は良く知っている。彼の言うことは完璧なほどに正論だ。救助隊でも、厳しい指導をする反面、隊員のした失敗は自分の責任だと言ってのけ、周囲からの信頼を勝ち得ている。

 彼は昔から優秀だったらしく、救護班の地上遠征帰還時におけるトリアージ手順を改善し、負傷者の生存率を向上させた。今でもよく隊長を務めていることからも分かるように、戦闘能力や統率力にも秀でている。あの司門先輩ですら、恭太郎の狙撃は神業と評するほどだ。

 でも、恭太郎には人間として重要な何かが欠けている。彼は、相手の一番大事なものを即座に見抜くことができる。そして、救助隊の利益のためなら、それを交渉の道具にすることに何の躊躇いもない。

 私は彼の本質をよく知っている訳ではないけれど、これだけは言える。彼は下手な悪意よりも性質の悪い正義をその芯に持っている。そして、どんな人間でも自在に駒として操るだけの明晰な頭脳がある。

 ——だからこそ、私は彼が嫌いなのだ。


 気づくと、救助隊本部の前に着いていた。私は救護班の病棟に向かい、やや眠そうにしている受付担当の女性隊員に話しかけた。

「佑先輩に、面会に来ました」

「おはようございます、面会ですね……って、遥さんじゃないですか! もう外に出られて大丈夫なんですか?」

 突然名前を呼ばれて面食らう。彼女の顔をじっと見つめると、次第に記憶がよみがえってきた。確か、彼女は私が退院する時にも受付にいて、退院の手続きをしてたっけ。

「あ……おかげさまで」

「それは良かった! 腕の方の調子はどうですか~?」

 女性隊員は手早く面会手続きの処理をしながら、私に世間話を振ってきた。

「もうほとんど治っていて、痛みはありません」

「そうですか、何よりですね~。そしたら、こちらのカードに記入お願いします」

「はい」

「佑さんは少し前までは面会謝絶の状態でしたけど、数日前から面会が許可されてます。グッドタイミングでしたね」

「はは……」

 適当に返事をしながら、名前や所属、面会時間、現在時刻などをカードに記入していく。

「でも、まだ時間が早いので、面会開始時間まで少し待って頂きたいのですが、よろしいですか? 時間になりましたらご案内しますので」

 受付の時計をちらりと見ると、確かに面会開始までにはまだ三十分以上あった。

「分かりました」

 私は頷き、面会者を示す名札を受け取った。休憩室にでも行って時間を潰そう。

 待合室の隣にある休憩室は無人だった。私は長椅子に腰かけ、朝食用に持ってきたオートミールプロテインバーの袋を破った。齧りつくと、ザクっという大きな音が静かな休憩室に鳴り響いた。

 佑先輩、ゼリー食べるかな、と私は心配になった。お見舞いに行くという事自体が久しぶりなので、手土産に何を持っていくかについてはかなり迷った。彼はまだ意識が戻ってそんなに経ってないし、ものを食べられる状態なのかも分からない。結局、ゼリーにした。日持ちもするし、ゼリーなら嚙む力が弱くても飲み込めるだろうと思ったからだ。

 お見舞いなんて、先代の院長のところに行った以来かもしれない。そう言えばあの頃もゼリーをよく持っていったっけ。二つゼリーを持っていくと、彼女は「一緒に食べて」と言って必ず一つ私にくれたものだ。二人で食べるゼリーは、いつもより美味しかった。

 私はあまり普段は彼女のことを思い出さない。それは、穏やかな思い出だけでなく、辛い思い出とも避けようがなく結びついているからだ。それでも、こうして薄っすらと消毒液の匂いがする休憩室にいると、あの頃の安らかな記憶だけが戻ってくるような気がした。

 私が孤児院に残りたいと言ったとき、彼女はとても喜んでくれた。

『本当に⁉ 嬉しいわ、遥が救助隊の寮に入ってしまったら寂しくなるなって思っていたところだったの。もしそうなったら、私も子供たちもなかなか会いにいけないもの。寮はこことそんなに離れていないけれど、一般人が好き勝手に入ることはできないから。……きっと世奈も、遥がいるならとても心強いはずだわ』

 彼女はそう言って私を抱き締め、こう頼んだ。

『これからもずっと、皆を支えてあげてね』


 ▽

 面会開始時間になると、救護班員の若い男性に呼ばれ、佑先輩の病室に案内された。彼は順調に回復しているようで、検査結果が良かったため一般病棟の個室に移ったばかりだそうだ。とはいえ重症患者だったこともあってか、彼の病室はナースステーションのすぐ隣だった。

「彼の意識が戻って本当に良かった。一時は本当に危なかったので」

「……皆さんのご尽力のおかげです」

「私どもの力だけではありません。地上遠征班の方々の応急処置は適切でしたし、救護機械のサラダさんも、慣れない設備にもかかわらず全力を尽くしてくれました」

「そう、ですか」

「でも、最後は彼自身の力によるものでしょう。佑さんは生きることを諦めなかったのだと思います」

「……」

「きっと、彼の帰りを待っている人は多いのでしょう。佑さんのお見舞いには既に数人の方が見えられました」

 それを聞いた私は、何となく司門先輩を思い浮かべた。

 男性は引き戸のついた個室の前に着くと、立ち止まって私の方を向いた。

「こちらの病室です。朝早いので、まだお休みになっているかもしれません。でも、彼はもともと朝型みたいなので、すぐ目覚めると思いますよ」

「分かりました。ありがとうございます」

 男性は笑顔で会釈をすると、姿勢よく歩き去っていった。


 音を立てないよう、そっと中に入ると、男性の言った通り佑先輩はまだぐっすり眠っていた。点滴や心電図の機械など、色々な管が繋がれた彼は普段より小さく見えた。首元までぐるぐると巻かれた包帯と、鼻に装着された酸素吸入器を見れば、彼がまだ完全回復には程遠いことは一目で分かった。

 ベッドに近づいて、彼の顔をじっと見てみる。彼の顔色は死体のように白く、ライトブラウンの髪の毛が数本まとわりついていた。よく考えると、こうやって彼の顔をつぶさに見ることなんて、今まではあまり無かったかもしれない。私が見かける彼はいつも、誰かとふざけ合って笑っていて、こんな顔はしていなかった。

 彼が起きるのを待つ間、手持ち無沙汰になった私は病室を見回した。そこまで広い部屋ではないが、清潔にされている。全体的に調度品は少なく、その代わりというように医療機器が所狭しと並んでいて、かなり殺風景だった。ベッドサイドのテーブルに置かれているパッド型端末は多分、彼の私物だろう。その隣に、ストローが刺さった飲みかけのパック飲料が一本。

 部屋の隅に目をやると、椅子が二脚並んでいた。私はその内の一脚をベッドの近くに移動し、腰を下ろした。ゼリーの入った袋はとりあえず膝の上に置いておく。

 一通り部屋を見終わるとまたヒマになってしまった。私はそこでふと思った。佑先輩といったい何を話せばいいんだろう……? 佑先輩とは、この間までろくに会話したことも無いような仲なのだ。共通の話題なんて救助隊のことと、この病院のことくらいしかない。

 悶々と考えていると、佑先輩が身動ぎした。まずい、もう起きた!

「ん……ふあ~、朝か……。あれっ⁉」

 佑先輩は眠そうに欠伸をした後、私を見てダークブラウンの瞳をまん丸にした。

「遥じゃないか! びっくりした。もう、腕は大丈夫なのか?」

「あ、その、はい。もう痛くもないので、大丈夫です。佑先輩こそ、身体の調子はいかがですか」

「うん、前より大分良くなった。まだ起き上がったりはできないけどな」

「そうですか……」

 佑先輩が飲みかけのパック飲料に手を伸ばそうとしたので、私はそれをテーブルから取って彼に手渡した。彼は「ありがとう」と言って受け取り、横たわったままで中身を残らず飲み干した。空になったパック飲料をぽいっと渡され、とりあえずテーブルに戻す。

「そういや、俺を助けるために怪我したんだって? 無茶するなあ」

「……ああしなければ先輩が死んでましたから」

 私がそう言うと、佑先輩は「違いない」と笑い、少し真顔になって言った。

「助けてくれてありがとな、遥。君は命の恩人だよ」

「いえ、そんな……」

 私は先輩の顔をまっすぐ見れなかった。もともと、私がエゾシカの傷のことをもっとちゃんと考えていれば、彼がこんな大けがをすることも無かったのだ。

 佑先輩は私から視線を外し、天井を見つめた。

「……皆生きていて良かった。もし俺を助けたせいで君や、他の奴が死んでいたら、申し訳が立たない。君が利き腕に怪我したって聞いた時も、気が気じゃなかったよ。もし後遺症が残ったりしたらどうしようって」

「……」

「でも、そんなことは無さそうで安心した」

 私は、佑先輩は凄いなと思った。彼の身体はボロボロで、今のところはまだ分からないけど後遺症だってあるかもしれない。救助隊に復帰できるかも定かでない。私だったら全てに絶望して、周囲に当たり散らしてもおかしくないのに。彼はそんな時でも、真っ先に仲間のことを心配することができるのだ。

「……佑先輩。先輩が怪我をしてしまったのは、私の責任もあります。私は、先輩たちと合流する前に、エゾシカの背に傷があるのに気づきました。それが、肉食の動物に襲われた傷だということだって、気づいていた……」

 声が勝手に震えた。私は拳を握って話を続けた。

「なのに、私はそのことを真剣に考えなかった! あの廃墟に行ってやっと、この辺りは凶暴な動物の縄張りかもしれないと思い至りました。でも、……遅かった」

 私は唇を噛んだ。そして、椅子から立ち上がり、額を床にこすりつけた。

「申し訳ございません」

 佑先輩は一瞬あっけに取られたように私を見つめたが、我に返ると慌てて大声を出した。

「止せ、頭を上げろって! う、ゲホッゲホ!」

「先輩!」

 彼は急に大声を出したせいか、盛大に噎せこんだ。私は即座に立ち上がり、先輩の背中をさすった。

「ゲホッ、エホッ。お前なあ……怪我人に無理させんなよ」

「す、すいません」

「いいから、椅子に座れ」

 私は躊躇いながら椅子に座った。佑先輩は呼吸が落ち着くと、口を開いた。

「いいか遥。別に、俺が怪我したのは君のせいじゃない。あの場での指揮官は俺だったのに、その俺が真っ先にやられてんだぞ? どう考えても、一番悪いのは警戒を怠った俺だよ。むしろ、指揮官が真っ先にやられたのにも関わらず、遥も皆もよくやった。……あの場にいた全員が全力を尽くしたからこそ、誰も死ななくて済んだんだろう」

「……でも」

「いいか、俺に対して罪の意識なんざ持たないでくれ。遥は、強いからって何でも背負いこみすぎじゃないか? そんなんじゃ早死にするぞ」

「……分かり、ました」

「ん。それでいい」

 佑先輩は満足そうに頷いた。私は申し訳ないような照れくさいような気分になり、目線を逸らして小さく呟いた。

「……最後のは一言多いと思いますけど」

「先輩がせっかく心配してやってるんだから、忠告くらい聞いてくれよ」

「善処します」

 そう言うと、彼はホッとしたような表情をした。その顔は、私が孤児院に帰ったときに世奈が見せる表情と全く同じだった。


 ▽


 それから、私と佑先輩はそれぞれの近況について話した。話が続かないんじゃないかと心配していたが、彼が病院での生活を非常に事細かく話してきたので、私は聞き役に徹するだけで良かった。

「そうだ、先輩ゼリー食べられますか?」

 私はゼリーが入った袋を、先輩にも中身が見えるように差し出した。

「なんだ、わざわざ持ってきてくれたのか」

「はい」

「ありがとう。まだ朝飯も食ってないから、食後にでも食べるわ。って言っても、毎食流動食だから、ずっとゼリーみたいなもんだけどな」

「食事できるんですね」

「まあ、数日前からだけど。意識が無くて絶食期間が長かったから、最初はペースト状のものから食べないといけないらしい」

「それは、大変ですね」

 思ったより喋れているから結構回復しているのかと思ったが、そうでもないらしい。大手術をした上に二週間も意識不明の重体だったのだから、これでもまだマシな方なのかもしれない。

「もうすぐ朝食だと思うから、その時にゼリー食べてもいいか聞いとくか」

「それがいいと思います」

 私は強く頷いた。無理に食べて調子が悪くなっては、元も子もない。

 少し経つと救護班の男性が食事を持って部屋にやってきた。男性はペースト状のとうもろこし粥をひとさじずつ佑先輩に食べさせ、先輩はかなりの時間をかけて茶わん一杯分の粥を食べ切った。

 先輩がゼリーを食べてもいいか男性に訊くと、

「消化にいいものなので大丈夫です。でも、喉につまらないように細かくして、少しずつ食べてください。まだ腕の力が弱いですから、食べるときは誰か呼んで下さいね」

 とのことだった。どうやらゼリーにして正解だったようだ。


 その後は、先輩に訊かれてヒグマと闘った顛末を話した。先輩は詳しい話を聴いてとても驚いたようだった。

「マジか……そこまでヤバい状況だったとは」

「あの時のこと、聞いてなかったんですか?」

「ああ、あまり詳しくは聞いてないんだ。司門が見舞いに来たから簡単には聞いたけど、司門はあの時廃墟の外にいただろ? あいつも中で起こったことはよく知らないみたいだったんだ」

 確かに司門先輩は窓の外から狙撃していたのだから、廃墟内の状況は少ししか見えなかったはずだ。その状態で正確に狙いを定められたのは奇跡的だと思う。

「それにしても、よく狙撃できましたよね、司門先輩」

「ああ、凄いよな……。あいつは『賭けだった』って言ってたけどな。何でも、香織からの連絡を受けてすぐ、窓を狙える位置に移動したらしい。接近戦には自分は不向きだから、すぐに援護に回った方が効率的だと思った、ってさ」

「さすが司門先輩ですね」

「いや……俺は……」

 突然、背後から司門先輩の声がしたので、私は驚いて引き戸の方を振り向いた。そこには、私服姿の司門先輩が立っていた。心なしか、表情が暗い。

「司門!」「司門先輩!」

 私たちは口々に言った。噂をすればなんとやらだ。

「また来てくれたんだな」

 佑先輩は司門先輩に向けて手を上げた。司門先輩は軽く会釈したが、どうも様子がおかしい。ふらふらとベッド脇の壁にもたれかかると右手を壁につけ、その上に額を乗せるようにしてうなだれている。こんな司門先輩は初めて見た。

「ど、どうしたんだ司門。具合でも悪いのか」

 佑先輩が心配そうに声を掛ける。

「聞いてくれ、佑」

「お、おう」

「俺は……俺は、愚か者だ!」

「へ?」

 どういうことなんだろう? 私と佑先輩は頭の上に疑問符を浮かべて顔を見合わせた。

「何かあったんですか?」

 私が訊くと、司門先輩はようやく私の存在に気付いた。

「遥……来ていたのか。お前が見舞いに来るなんて、意外だな」

「失礼ですね。それより、今の司門先輩の方がよっぽど意外ですよ」

「……」

「よく分からないが、とりあえず座れよ。詳しく聴かせてくれ——」

 その時、タイミング悪く救護班の男性が「回診で~す」と病室に入ってきてしまった。男性は、部屋中に満ちる何とも言えない空気に困惑の色を浮かべる。

 佑先輩は苦笑して言った。

「——回診が終わってからな」


 ▽


 回診が終わっても司門先輩が立ったまま壁にくっついていたので、私はもう一脚の椅子を持ってきて勧めた。彼は「感謝する」と言って座ったが、すぐに俯いてしまった。これから話すのは、そんなに深刻な内容なのだろうか。

「待たせたな。じゃあ、話してくれ」

「ああ……」

「あの、私も聴いて大丈夫なんですか?」

 司門先輩は横目でちらりと私を見た。

「ああ、むしろ、遥もいた方がいい」

「わ、分かりました」

 彼は話し出すのをためらうように視線を彷徨わせたが、佑先輩に何回も促されてようやく重い口を開いた。

「実は……」

 私と佑先輩はゴクリと生唾を飲み込んだ。他でもない司門先輩がこんなに取り乱すなんて、ただ事とは思えない。

「香織に、悪いことをしてしまったんだ」

「えっ?」

 香織の名前を聞くとは思っていなかった私はきょとんとした。悪いことをした? 

 途端、香織の悪い噂を吹聴したり、香織の分のゼリーをネコババしたりしている司門先輩のイメージが脳内に浮かんできて、私は思わず噴き出しそうになった。普段悪事とは無縁なだけに、似合わないにも程がある。

「いや……正確には、良くないことを言ってしまった、というか……。その、うまく説明できないのだが」

「待て待て、順を追って話してくれ」

「順を追って、と言うのは、どの辺りからだ」

「ああもう! 最初から、全部だよ!」

 司門先輩の話は、断片的な上に言葉足らずで非常に分かりづらいものだった。付き合いの長い佑先輩がなんとか詳細を聞き出し、私たちは三十分以上かけてやっと、司門先輩と香織の間に何が起こったかをおおむね理解できた。

「……つまり、司門はスナイパーの人材不足を以前から心配していたんだな。だから中距離担当である香織にもスナイパーの訓練に参加してもらって、ゆくゆくは長距離もできるようになってほしいと思っていた、と。ここまではいいな?」

「間違いない」

「だけど、どうやって言い出せばいいのか分からなくて悩んでいたと」

「そうだ」

「それで、一平に相談を持ち掛けたんですね?」

「ああ……いつもだったら佑に相談するんだが」

 二人のやり取りから察するに、司門先輩は佑先輩と幼馴染らしい。それもあって、司門先輩は普段、何かあれば佑先輩に助言をもらっていたようだ。しかし、地上遠征の時に佑先輩が重傷を負ってしまったことで、相談する相手がいなくなり、やむなく一平に相談したらしい。明らかな人選ミスだと思う。

「で、一平は適当なアドバイスをしてきたわけか」

「具体的には、『そんなん、お前の射撃の腕に惚れたんや、俺と一緒にスナイパーにならんか~とでも言うたらええんちゃいます』と言った」

 私は一平の声真似をする司門先輩に耐え切れずついに噴き出したが、咳をしてごまかした。佑先輩を横目で見ると、強い精神力で必死に堪えていた。塞がったばかりの血管が切れやしないかと、私は心配になった。

「ええと、それで、一平のアドバイスを参考にして香織に話しかけようとしたら、盛大に言い間違えてしまったと」

「……ああそうだ。俺は一平のように話し上手ではないから、緊張して」

 一平は『話し上手』と言うよりは『聞き下手』の方が合っている気がするが、どうやら司門先輩は一平のことを『話し上手』だと思っているようだ。

「で、どう言い間違えたんだ」

 佑先輩に訊かれ、司門先輩は眉を下げてじわりと頬を赤くした。色白な人は赤くなるとすぐ分かるんだなと、私はどうでもいいことを考えた。

「言わないと、駄目か?」

「さっきからそこだけ言いたがらないな……」

「そんなに恥ずかしいんですか?」

「こ、ここには遥もいるんだぞ」

「別にここまで来たら関係ないだろ」

 私と佑先輩は半ば面白がって追及した。司門先輩が取り乱すところなんてかなりレアだし、軽口に慣れていない彼の反応はからかい甲斐がある。

 十五分くらいの問答の末、司門先輩はようやく白状した。彼は顔を手で覆い、聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそぼそと呟いた。

「その……『お前に惚れたんだ、俺と一緒になってくれ』と」

「ヒュー! やるぅ」

「さすが司門先輩、バシッと決めますね!」

 私と佑先輩が口々に囃し立てると、司門先輩は真っ赤になって反論した。

「俺はっ……本当は、『お前の惚れたんだ、俺と一緒になってくれ』と言いたかったんだ! なのに、あんな……うう……」

 司門先輩は頭を抱えて悶絶し始めた。佑先輩が慌ててフォローを入れる。

「分かった、分かった! 司門は少し言い間違えただけだもんな」

「その少しが致命的ですけどね」

「遥、言ってやるな」

「俺は、どうしようもない愚か者だ……」

 再び自責の念にかられた司門先輩は、自分の腕に突っ伏して動かなくなった。

「それで、香織はそれを聞いてどうしたんですか?」

「……走って、どこかに行ってしまった」

 司門先輩はこもった声でぼそぼそと答えた。恐らく、突然司門先輩に告白されたと思った香織はかなりのパニックに陥ったに違いない。ちょっとしたことでも長時間悩んでしまう彼女が、今頃どんなに神経をすり減らしているかを想像し、私は彼女に心から同情した。

「追いかけなかったのか?」

「ああ、言い間違いに気づくまでに少し時間がかかったからな。香織の反応を奇妙に思って、自分の発言を振り返った時には全てが遅かった」

「なるほど」

「でも、その後に誤解を解く機会は無かったんですか? 香織と司門先輩は、訓練でもしょっちゅう顔を合わせる機会はあるじゃないですか」

「解こうとはした、何度も。だが話しかけようにも、近づいただけで逃げられてしまうんだ」

「あー……」

「きっと俺は香織に嫌われてしまったんだ……」

「いや、別にそういう訳じゃないと思いますけど。何と言うか、香織は司門先輩の爆弾発言にめちゃくちゃ混乱してるだけ、だと思います」

「俺もそうだと思う」

「そ、そうなのか?」

「いや、本当のところは香織にしか分からないけど、俺らより香織と親しい遥が言ってるんだから、信じる価値はあると思う」

 司門先輩はようやく普段より情けない顔を覗かせて、困り果てたように言った。

「俺は、これからどうすればいい……?」

 私と佑先輩は目配せして頷いた。

「大丈夫だ、俺が力になってやるよ。司門には世話になってるしな」

「このままだと香織が可哀想なので、私も手伝います」

「……恩に着る」


 ▽


 私たちは三人で頭を突き合わせ、ああでもないこうでもないと知恵を絞って話し合った。

 結局、直接香織と会って話すのはハードルが高そうだということで、まず香織に電話して誤解を解き、その後直接会って謝る、ということになった。香織に電話する時には話す内容をメモに書いておき、今度こそ言い間違えないようにするという対策も編み出された。

 途中で佑先輩が「ゼリー食べたい」と言い出したが、こんな話を他人に聞かれる訳にもいかない(と司門先輩が主張した)ので、仕方なく私がゼリーを細かく砕いて食べさせる係をした。佑先輩は食べ終えると「悪いな」と言って私にゼリーを一つ渡した。

「これは遥が食べてくれ」

「え、いいですよ。別にそんな大したことはしてないですから」

「そう言うなよ、折角なら一緒に食べたいんだ。ほら、司門にも一個やるよ」

「いいのか? 俺は何もしていないし、むしろ迷惑をかけている」

「そんなややこしく考えるなって。だったら、司門は次見舞いに来るときは何か持って来いよ。三人分な」

「了解した」

「三人分って……どうして私の分も入れるんですか?」

 佑先輩はにやりと悪戯っぽく笑った。

「遥、ここまで首突っ込んでおいて、司門の口から上手くいったか聞きたくないのか?」

「……聞きたいです」

「決まりだな。来週空いてる時に集まろうぜ」

「仕方ないな。まあ、来週の同じ時間でいいんじゃないか。俺は来週の水曜は空いているし、遥はしばらく復帰のための訓練に専念することになるだろうから、時間の都合はつけやすいだろう」

「分かりました」

 私と司門先輩は無言でゼリーをすくって食べた。先代の院長と一緒に食べた時とは全然違う味に思えたけど、悪くない味だった。

「うまいな」

 隣の司門先輩も、少し驚きを滲ませてそう呟いた。

「誰かと一緒に食べた方が美味しいだろ」

 穏やかな顔で私たちを見守る佑先輩は、まるで孫を甘やかすお爺さんみたいだなと、私はこっそり思った。


「そろそろ戻る」

 ゼリーを食べ終えた司門先輩は徐に椅子から立ち上がった。佑先輩が手を上げる。

「ん。それじゃ、また来週な」

「ああ」

 先輩は踵を返して入口の方へ歩いていく。私はその背中に遠慮がちに声を掛けた。

「……司門先輩」

「なんだ?」

 先輩は動きを止めてこちらを振り返った。私は席を立ち、背筋を伸ばした。

「地上遠征の時、私たちの命が助かったのは司門先輩のおかげです。本当に、ありがとうございました」

 私はそう言って最敬礼をした。少し間が空いた後、頭上から硬い声がした。

「あれは運が良かっただけだ。もう無理はするな、次は無い」

「肝に銘じます」

 司門先輩は私の言葉に頷き、きびきびとした動作で引き戸を開けて出て行った。その立ち振る舞いには、さっきまでの親しみやすさはひとかけらも見当たらなかった。

 室内には私と佑先輩が残され、しばし沈黙が下りる。医療機器のピッ、ピッという音だけがやけに大きく響いた。

 先に沈黙に耐えかねたのは佑先輩だった。

「遥は、帰らなくていいのか?」

「帰ってもどうせ暇なので」

「そう、か」

「……」

「……」

 気まずい。

 それもそのはず、お互い近況はもう話したし、ゼリーも食べ終えてしまった。さっきまでは司門先輩の思わぬ訪問のおかげで間が持っていたが、彼が去ってしまった今、これ以上ここにいても正直やることは無い。

 でも、帰るわけにはいかないのだ。今はまだ十時にもなっていない、孤児院に戻ったら恭太郎と鉢合わせてしまう可能性は十分にある。

 私は苦肉の策を取った。佑先輩は頼まれると断れない性格のようだ。申し訳ないけど、今日はその良心を利用させてもらおう。

 香織を参考に『かわいい後輩』を脳内にイメージし、こてんと首をかしげて佑先輩をうるうると見つめる。

「ここにいたら、駄目ですか……?」

「んぐうっ」

 私の言葉を聞くと、佑先輩は呻き声を上げて胸の辺りを押さえ、うずくまってしまった。

「どうしました? 傷が痛むんですか」

「い、いや、大丈夫だ、気にしないでくれ。べ、別にいくらでも居ていいからな。俺は構わないから」

「ありがとうございます」

 よし、これでしばらくは追い出されないだろう。私は表情を元に戻した。

「でも、珍しいな。遥はいつも、訓練が終わったらすぐに孤児院に戻ってるから、孤児院にいるのが好きなんだと思っていた」

「ああ、好きですよ」

「うぐぁ」

「……本当に大丈夫ですか? 誰か呼びましょうか」

「いい、いいから!」

「はあ……」

 佑先輩の様子が、どうもおかしい気がする。何か変なことを言っただろうか。

「じゃ、じゃあ、なんで今日はすぐに帰らないんだ?」

 痛いところを突かれ、私は黙り込んだ。どう説明するべきか迷ったというのもあるし、そもそも彼に言ってどうにかなる問題だとは思っていないというのもある。

「ああ、無理には言わなくてもいいけどな。話すだけでも楽になるってことは、あるだろ」

「……先輩は」

「うん?」

「家族と、救助隊の仲間なら、どっちを優先しますか」

 彼は目を丸くした。そして、「難しいな」と呟きながら考えた。

「うーん、場合による、かな……」

「じゃあ」

 私はずっと救助隊員の皆に聞いてみたかった質問を、彼にぶつけてみた。

「家族が救助隊員になりたいって言ったら、どうしますか?」

「……」

 彼はしばらく考え込んだ後に、ゆっくりと言葉を選びながら答えた。

「やっぱり心配だから、最初は止めるかな。でも、そいつがどうしても救助隊員になりたいって言って聞かなかったら、応援してやりたいと俺は思うよ」

「そうですか」

 佑先輩らしいなと、私は思った。

「遥は? もし家族が救助隊員になりたいって言ったら、どうするんだ」

「……分かりません。だから、訊いたんです」

「そう、か」

 彼は自分の指先に目を落とした。

「そうだな。俺だってその時になってみないと、本当にどうするかなんて分からない。でも」

「でも?」

「大切な相手なら、そいつの幸せってやつを、よく考えてやりたいな」

「幸せ……」

「たとえば遥、お前はどういう時に幸せだと感じるんだ?」

 私は頭がズキンと痛み、顔がこわばるのを感じた。答えならとっくに出ている。

 私の幸せ。それは、もう誰に利用されることもなく、安らかに無に還ること。

 でも、そんなことを言えるわけがない。

「分かりません」

「そ、そうなのか……?」

 佑先輩はなぜか、自分が傷ついたような顔をした。

「じゃあ、今から一緒に見つけないか? 時間もあるしな」

「はあ……」

 無神経な人だ。幸せなんか見つけたって、私の宿命は何も変わらないのに。


 ▽


 結局私が「分かりません」を連発するせいで、佑先輩の自分語りを延々と聞く時間がただ流れていった。唯一共感できたのは「美味しい物を食べた時は幸せ」という意見だけだった。

「それじゃ、私もそろそろ帰りますね。いつの間にか昼近くになってますし」

「あれっ、もうこんな時間か。あっという間だったな」

「今日は、長い時間ありがとうございました」

「いや、こちらこそ来てくれてありがとう。じゃあ、また来週」

「はい」

 椅子を片付けて部屋を出ようとした時、背後から先輩からの視線を感じ、私はつい振り返った。

 佑先輩が、嫌に熱っぽい目でこちらを見ていた。ずいぶん無理をさせてしまったから、熱でも出たのだろうか。

「……俺は、怪我をしたことにある意味感謝してるんだ。こうして遥と一対一で話をするなんてこと、少し前だったらできなかった」

「……」

 私はその声の真剣さに、返す言葉を失ってしまった。

「俺にとっては、遥と話す時間も、幸せだと思うよ」

 私は狼狽えた。

 今の今まですっかり忘れていたことを、突然思い出したからだ。あの時の恭太郎の声が、脳裏にこだまする。

『知らないのか。あいつは、お前のことを気にかけていたぞ』

 あれ、本当だったんだ——。

「し、失礼します!」

 私は引き戸を勢いよく開け、走り出した。

 さっきまでの佑先輩とのやりとりをいくつか思い出し、私は顔にじわじわと熱が集まるのを感じた。

 どうしよう……非常にまずいことをしてしまった気がする!

 これじゃ、来週司門先輩のことを笑えないな。

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