第六章 未来への投資
翌日の朝、洗濯が終わったくらいの時間に遥から電話が来た。
私は寝ぼけまなこを擦りながら急いで受話器を取った。遥の声を聞いたとたん、眠気は一瞬で吹き飛んだ。
『世奈?』
「遥! 良かった、目が覚めたんだね。傷は大丈夫?」
『大した事ない。……昨日、夕飯までに帰れなくてごめん』
「遥が生きて帰ってきてくれただけで、十分だよ」
元気はないけれど、しっかりとした彼女の声を聞いて、思わず目が潤んでしまい、私はずびっと鼻をすすった。
『ありがとう。サラダから伝言を聞いたよ。心配かけて、本当にごめんね』
「いいよ。でも、今は絶対に無茶したらダメだからね。お願いだから治るまでじっとしててよ」
『分かった。実は、一週間は入院しろって言われてるんだ。だから帰るのは来週になりそう。その後も、二週間くらいは孤児院で安静にしてろってさ』
「そっか……」
彼女は大した事ないとか言ってたけど、思ったより治るまでに時間がかかりそうだ。きっと、ものすごく大変な遠征だったのだろう。彼女が帰ってきたらゆっくり休ませてあげないと。
『これから診察だから、一旦切るね。また夜に電話する』
「了解! 電話ありがとう。声が聞けて嬉しかった」
『うん……私も。それじゃ、また後で』
「またね」
受話器を置いてすぐに、再び電話のベルが鳴った。驚いて出ると、今度はサラダからだった。
『セナですか? 朝早くに申し訳ありません』
「びっくりした~。実は、さっき遥から電話が来たばっかりだったんだ」
『そうでしたか! それはそれは』
「遥は一週間くらい入院するんだって。そうだサラダ、遥に私の言葉を伝えてくれてありがとうね」
『いえいえ、お安い御用です』
「ところで、サラダはいつ孤児院に帰ってくるの?」
『それが、まだ何とも言えない状況でして……昨日手術した方の容体がまだ不安定なんです。私は急変に対応できるように救護班本部での待機を命じられているので、帰れるのがいつになることやら……。容体がある程度安定したら、長期入院のための設備が整っている医療拠点のほうに転院される手筈になっているんですが、しばらくは無理そうですね』
「めちゃくちゃ大変じゃん」
『はい。今日明日くらいが峠になりそうなので、孤児院への連絡がしばらく難しくなるかもしれません。何か用事があるときには救護班の方に伝言をお願いしてください』
「分かった……なんとか、その人が持ちこたえてくれると良いね」
『私もそう祈っています』
「そうだ、その人って、何ていう名前?」
『タスク、という方です』
「ふうん」
まるで聞き覚えのない名前だった。もともと遥は他の救助隊員のことをあまり話さない。彼女に懐いているらしい後輩の子のことが、時たま話題に上がるくらいだ。恐らく遥は、救助隊においても親しく話す相手は限られているのだろう。
『いつそちらに戻れるか分かったら、またご連絡いたします。セナの手伝いができず、申し訳ございません』
「謝らなくていいよ! サラダは救護機械だもん、治療の方が本業でしょ。孤児院ではいつも慣れないことばかりさせちゃって、私の方が申し訳ないくらいだよ」
『セナ、その点に関しては気を遣っていただかなくても結構です。私は子供たちと触れ合えることがとても嬉しいですから! むしろ孤児院での仕事の方が楽しいくらいで、色々なことを任せてくれたセナには感謝しています。……おっと、話が脱線しました。もう朝ごはんの準備の時間ですよね? そろそろ切りますね』
時計を見ると、いつもの起床時間を大分オーバーしている。まずい、朝の放送もまだしてないんだった。
「ほんとだ、ちょっと急がないと。電話ありがとう、サラダ!」
『良い一日を』
電話を切ると、私は大急ぎで放送室へ走った。今日の朝食は時短メニューにするしかなさそうだ。
▽
慌ただしく用意した朝食を終え、片付けを済ましてやっと、私は教育係の件を思い出した。いけない、またこの問題を放置するところだった。
遊び場に理仁を見つけたので、事情を話して教育係を理仁にお願いしたいと言うと、彼は意外にもすんなり承諾してくれた。
「引き受けてくれてありがとう、理仁。でも、ずいぶん即決だったね」
「実は……みんなから、読めない字をぼくに読んでほしいって頼まれることがしょっちゅうあるんだ。正直面倒になってきてたから、こうなったら徹底的に教えようと思って」
「なるほどねー、理仁らしいや」
そういえば、彼は他の子の言い間違いなんかに厳しいところがある。反面、頼られるのに弱いところもあるので、子供たちの辞書代わりとして酷使されてしまっていたようだ。……ちょっと気の毒なことをした。
「さっき言ったように、サラダが教育係を一緒にやってくれるからね。それと、もう一人アドバイザーを任命する予定だから」
「叶芽に頼みに行くんだっけ? うーん、望み薄だと思うな」
理仁は孤児院に来てからこの方、叶芽と同室で寝起きしているので、もちろん叶芽のひねくれた性格をよく知っている。
「私もそう思うけど、まあダメ元で頑張ってみるよ。無理そうだったら他の子に頼んでみる」
「よろしく。世奈も苦労するね」
私は理仁の大人びた物言いに苦笑しつつ遊び場を後にし、二階にいる叶芽の所に向かった。
叶芽は他の子と遊ぶのは好まないようで、いつも自由時間のほとんどを自室に引きこもって過ごしている。部屋では、自分の端末を使ってリズムゲームをしていることが多い。
私は部屋の扉をノックし、中に声を掛けた。
「叶芽ー、いるー?」
しかし、少し待っても返事はない。そっと扉を開くと、叶芽はベッドの上で掛け布団を頭まで被ってじっとしている。トトト、という画面をタップするリズミカルな音がしているので、寝ているわけではないようだ。どうやらイヤホンをしながらリズムゲームをしているせいで、全く私に気づいていないらしい。
私は彼に近づくと、ちょんちょんと背中を突っついた。
「うああっ⁉」
叶芽は悲鳴を上げてベッドの上で飛び上がり、イヤホンを引き抜いて背後を振り返った。私の姿を認めると、色白な顔をほんのり赤く染め、不機嫌そうに睨みつけてきた。
「ちょっ、世奈、何すんだよ。今いい所だったのに」
「ごめん、ごめん。そんな驚くと思わなくて。ところで、ちょっと叶芽に話があるんだけど、いい?」
「いいも何も、ゲーム中断してくるってことは聞いてほしいんだろ。もしつまんない話をする予定なら、時間の無駄だからさっさと出てってくれない?」
私はやれやれと思った。叶芽は今、俗に言う反抗期の真っ只中なのだ。四年前、入ったばかりの頃は人見知りが激しくて、何をするにも私について回っていたくせに、最近はゲームばかりして、声を掛けても返事は「そういうの、ウザいんだけど」。男の子の成長って不思議だ。人見知りなところは、今も昔も大して変わらないが。
「叶芽に、頼みたいことがあるんだ」
そう切り出し、さっき理仁に話した内容とほぼ同じ話をする。教育係ではなく、アドバイザーを頼む部分だけがさっきと違う。
叶芽は一通り話を聞くと、めんどくさそうにため息をついた。
「それを俺にやれって? お断りだね」
「ええ~、なんで?」
「なんでって……面倒だし」
「叶芽より年下の理仁は教育係を喜んで引き受けてくれたのに、叶芽はアドバイザーすらしてくれないの~?」
少し意地悪にそう言うと、彼は不機嫌そうに言い放った。
「俺の話と、理仁の話は別だろ」
「そう言わずにさ、やってみれば案外、楽しいかもよ?」
「あり得ねー、俺が世奈みたいに好き好んで人の面倒を見るようなタイプに見えんのか? そもそも、俺は勉強なんて意味ないと思うんだけど」
「そうなの?」
「だって、そうだろ。外は氷河期で、俺たちは一生この穴倉で過ごすネズミみたいなもんだ。ネズミがいくら知恵つけたって、使い道なんてないだろ」
「う~ん……」
すぐには反論が思いつかなくて、私は唸った。勉強する意味なんて、私は考えたことも無かった。ある程度大きくなってからは、院長になるという目標のためだったと思うけど、字を教わったくらいの年の頃なんて、多分何も考えていなかっただろう。
「そうは言ったって、何も知らないままじゃ大人になれないよ。叶芽だって、来年にはここを出ていくんでしょ? 将来のこと、ちゃんと考えてるの? 年明けまでには、進路希望出さないといけないんじゃなかったっけ~?」
「ほっといてくれ、俺には俺の考えってもんがあんだよ」
「へえ? じゃあその考えってやつを院長先生にお聞かせ願えませんかね~」
私が煽ると、叶芽は顔をさらに赤くしてぷいっとそっぽを向いた。遥とよく似た艶のある黒髪がぱさりと跳ねる。
「……そういうの、ほんっとウザいんだけど」
「あ! ウザいって言った~! 叶芽ひど~い」
「話は終わりだ。さっさと出てけよ、俺は昼飯まで寝る」
「そんなあ~」
その後もしつこく食い下がってみたものの、叶芽は布団を被って沈黙してしまった。
「あ~あ、叶芽に断られちゃ誰に頼めばいいんだろうなあ~。アドバイザーが見つからなかったら理仁の胃に穴が開いちゃうかもなあ~」
そんなわざとらしい台詞を吐きながら部屋を出ていこうとすると、彼がぼそりと呟いた。
「……交換、条件」
「え?」
「だから、交換条件。俺に見返りを寄越せって言ってんだよ」
叶芽は布団を跳ね除け、鈍いな、と言わんばかりの目を私に向けた。
「見返りって言っても、あげられる物なんてそんなに無いと思うんだけど……物資には限りがあるし」
「別に、物はいらない」
「じゃあ、何?」
「俺の要求はただ一つ」
叶芽は指を一本立てて、シルバ―の目を細めた。
「アテルイに会いたい。それも、リーダーの主馬にも聞かれないように、二人きりで、だ」
「ええ⁉ なんで? アテルイに何の用があるわけ?」
「秘密」
怪しい……叶芽がこういうニヒルな笑顔を浮かべるときはロクなことがない。彼が興味を持つことなんてゲームくらいだと思うけど、アテルイと関係があるとは考えにくいし。
「……アテルイに会うこと自体は、私が言えば何とかなるかもしれないけど、二人きりってのは……主馬が許してくれないんじゃないかな」
アテルイの義体は、基本的に主馬が許可した時以外は動かせない。これは義体の電力消費が激しいってのもあるけど、主な理由は容易にアテルイに不正アクセスできないようにすることだ。キャンプ全体を制御できるアテルイは、逆に言えばこのキャンプの一番の弱点でもある。悪用されないように、常に主馬がそばで目を光らせているのだ。
「そこは世奈の腕の見せ所だろ。もしこの要求が通ったら、アドバイザーでもなんでもやってやる」
「そう言われても……せめて、目的だけでも教えてくれない?」
叶芽は少し考えてから言った。
「世奈には言えない。主馬にもできれば知られたくないが、教えないとアテルイに会わせられないと言われたら、教えてもいい」
いったい何を考えているんだろう。叶芽にアドバイザーになってほしい私の足元を見て利用しようとするなんて、知らないうちに彼はずいぶんとずる賢くなってしまったようだ。
私と叶芽は五秒ほど睨み合ったが、先に折れたのは私の方だった。
「しょうがないなあ。掛け合ってはみるけど、期待はしないでよ」
「返答が来たら教えてくれ」
叶芽はヒラヒラと手を振り、再び布団を頭から被った。三十秒も経たないうちに、規則的な寝息が聞こえてきた。
▽
そうして、三日が過ぎた。遥もサラダもいない孤児院は、どこか物寂しく感じた。遥からは毎日電話が来ているが、サラダからは三日前の朝を最後に電話が来ていない。
例の、重傷を負った救助隊員の具合が悪いのだろうか。電話してくれた遥にサラダのことを聞いてみたが、どうやら彼女にも分からないらしい。
『サラダがいるのは多分、緊急治療用の病床なんだと思う。そこは私には立ち入れないから、サラダの方から来てくれないとどうしようもないんだよね。一応、私の看病をしてくれてる救護班の人にも聞いてみたけど、そこの担当じゃないからよく知らないって言ってた』
「そうなんだ……」
『せめて、佑先輩のこと、聞けたらいいんだけど』
かなり心配そうな遥の声色を、私はちょっと意外に感じた。
「遥はタスク……さんと、仲が良いの?」
私がそう聞くと、遥は困ったように言った。
『仲が良い……って訳でも、ないんだけどね。地上遠征班で一緒に任務をこなすことは何回かあった、かな』
「そうなんだ」
顔馴染みではある、というところか。そこまで親密ではなくても、仕事仲間が生死の境を彷徨っていたら心配にもなるかもしれない。それに、彼女はもしかしたら……その人が重傷を負った瞬間を目撃したのかもしれない。彼女も怪我を負っていることを考えると、それは十分あり得ることだ。
私は、彼女にそのことについてはあえて聞いていない。もし想像の通りだったとしたら、辛い記憶を掘り起こすことになりかねないからだ。
私と遥の間に、しばし沈黙が流れた。少しして、遥が言った。
『……また、何か分かったら電話するよ』
「うん。ありがとう」
サラダからようやく電話がかかってきたのは、遥とそんな会話を交わしてからさらに三日後、彼女が退院する前日の夜だった。私が受話器を取ると、けたたましい合成音声が耳をつんざいた。
『セナ! やっと電話できました!』
「うるさっ!」
私は反射的に受話器を持った手を目いっぱい伸ばして顔を背けた。
『す……すいません。つい興奮してしまいました』
「サラダ! ずっと連絡が無いから、大丈夫かなって思ってたんだ」
『ええ、大変喜ばしいことに、救助隊員の方は峠を越しました。まだ意識が戻らないことは心配ですが、生命の危機は脱したと思います』
「それは良かった。それじゃあ、孤児院に帰ってくるの?」
『あ、いえ……まだかかりそうです。転院できる状態になるまでには、二週間以上はかかるかもしれないようで』
「そっかあ……残念」
「なかなか帰れなくて、私も残念です。子供たちはどうしていますか?」
「元気だけど、よくサラダに添い寝してもらってた三人——理仁、希愛、新菜が寂しがってる」
『ううう、私も早く会いたいです……』
サラダは電話越しでも伝わるほど悲しそうだった。きっと頭のランプは淡い水色に光っているだろう。もしくは黄色。
「今日はもう遅いから無理だけど、明日とかに三人を電話口に出してあげようか?」
『ほんとですか! ぜひお願いしたいです!』
途端に跳ねあがった声のトーンに、私はフフッと笑った。
「じゃあ、明日はもう少し早い時間に電話して。こっちに帰ってくる日が分かったら、教えてね」
『もちろんです! これからは、毎日電話します』
「了解、ありがとう」
別れを告げて電話を切ろうとした私だったが、三日前に電話した時の遥の様子を思い出し、慌てて言った。
「そうだサラダ、遥にタスクさんが峠を越えたこと、伝えてあげてくれない? 遥が、その人のこと心配してるみたいだったんだ」
『なるほど、分かりました。ハルカはもう寝ていると思うので、明日の朝でいいですかね?』
「いいんじゃないかな。でも、遥は明日退院の手続きがあるから、朝の早い時間に伝えた方がいいかも」
『そうでした。明日、退院のお祝いも言わないといけませんね。何とかハルカが退院する前に山場が終わって良かったです』
「そうだね。きっと遥も喜ぶよ」
『はい。では、また明日電話します。夜分遅くに失礼しました、ゆっくりお休みください』
「ありがとう。色々と大変だっただろうから、サラダもゆっくり休んでね」
『ありがとうございます、そうさせていただきます……。おやすみなさい』
サラダの声は、前に聞いた時よりくたびれているような気がした。集積回路に負担がかかっているんだろうな、と私は思った。
次の日、ついに遥は孤児院に帰ってきた。
玄関で待っていた私は、遥の姿を見つけるや否や走り出した。
「遥ーっ!」
私は勢いのままに彼女に抱き着いた。
「わっ! ちょっと、痛いって」
「あっ、ごめん」
「もう……まだ治ってないんだから、気を付けてよ」
遥はそう私をたしなめたが、その表情は柔らかく微笑んでいた。彼女の左手が私の頭をゆっくり撫でる。
「ただいま、世奈」
「おかえり、遥」
私も満面の笑顔を返した。
「まだ、傷は痛むの?」
「ううん、もうそんなに痛くない。でも、動かすと痛みが出るから、一応固定してあるんだ。これ、シャワーが浴びにくいから嫌なんだよね」
彼女は包帯で吊られている右腕を見つめ、苦い顔をした。治ってきたとはいえ本調子ではないんだろう、顔色は青白い。
「まあ、もう少しの辛抱だよ。退院の手続きとかで疲れたでしょ、部屋でゆっくりしてて」
「ありがとう」
彼女が二階に上がっていくのを見送り、私は昼食の準備に向かった。今日のお昼は遥の大好物のミートボールスパゲッティにしよう。夕食はもちろん鹿肉のソテー、デザートにゼリーも付けちゃおう。きっと、子供たちも久々のごちそうに目を見張るに違いない。みんなの嬉しそうな顔を思い浮かべながら、私はIHコンロで鍋に湯を沸かした。
▽
それから一週間ほどは、とても穏やかで楽しい日々が続いた。
私は孤児院にずっと遥がいるのが嬉しくて、鼻歌を歌いながらスキップしたいような気分だった。
彼女は普段救助隊員の仕事で忙しいから、一日のうち一緒にいられる時間はとても限られている。でも今は、彼女は一日中すぐ会えるところにいるし、何より危険な地上遠征に行くこともない。
こういうのを何て言うんだっけ……確か、怪我の功名? 決して彼女の怪我を喜んでいる訳じゃないけど、大切な幼馴染が安全な場所にいるというだけで、こんなに自分が安心できるなんて思わなかった。
遥の具合も、それなりに順調だった。孤児院に帰ってすぐは熱を出してたから心配だったけど、一週間もするとすっかり元気になって、食欲もいつも以上に旺盛になった。……でも、どうやら食べすぎてしまったらしく、昨日は体重計の上で固まっていた。孤児院で休養してる間に、彼女の体重がこれ以上増えないことを祈る。
サラダは、約束通り毎日電話をしてくれた。電話口に子供たちを出してあげると、すごく喜んでくれた。子供たちも、サラダの声を聞けたことで、多少寂しさはまぎれたようだ。
しかし、そんな平和な時間は長くは続かなかった。
遥が退院して一週間後の夜、サラダから電話があった。
『セナ、嬉しいニュースですよ。救助隊員の方の意識が戻られました!』
「え、ほんとに! それは良かった、後で遥にも伝えないと」
『ええ、ぜひ伝えてあげてください。少しだけお話した感じでは、意識はしっかりされていて、今のところ記憶障害などの後遺症はないようです。身体の方の後遺症については、まだ何とも言えませんが……』
「そう……、でも今のところ後遺症が無さそうなら一安心ってとこだね」
『そうですね。一緒に治療に当たっている救護班の方は、まだ予断を許さないとおっしゃっていましたが、それでも、これで回復に向かってくれればともおっしゃいました』
「うん、意識が戻ったなら食事も食べられるだろうしね」
『はい! 転院を目指すためにも、まずは体力をつけることが一番大事です』
サラダの声は明るく、タスクという人の回復を心から喜ぶ気持ちが伝わってきた。
「タスクさんは、何て言ってた?」
『ええと……怪我をされた時からもう二週間が経っていることをお伝えすると、とても驚いてらっしゃいました。それと、地上遠征に一緒に出た他の仲間がどうしているか、と聞かれました。皆さん帰還されてご無事だとお伝えしたら、安心して涙を流しておられましたよ』
「そっか。……そのことも、遥に伝えておくね」
『お願いします——あ、どうもこんにちは』
突然サラダが挨拶したので、私は「どうしたの?」と言ったが、サラダは答えなかった。よく耳を澄ましてみると、電話口の向こうで、男性がサラダに話しかけているような声が聞こえた。サラダは二言三言その男性と話した後、私に向かってこう言った。
『すいません、こちらに救助隊員の方がお見えになりまして……その方が、私とセナにそれぞれ用があるらしいんです。私への用事はすぐ済むそうなので、セナはその間電話を切らないで待って頂いて欲しいとのことなんですが、よろしいですか?』
救助隊員が、私に用? 何だろう。私は疑問に思ったが、とりあえず「分かった」と返事をした。
『それでは、恐れ入りますが少々お待ちください』
保留ボタンが押され、聞き慣れたメロディの電子音が流れた。これはエルガーの『愛のあいさつ』という曲だと、音楽に詳しかった先代の院長が言っていたことをふと思い出した。
この曲は五百年くらい前に作曲されたの、と彼女は言った。教え子の婚約記念に贈った曲と言われているのよ。素敵でしょう。
懐かしい思い出に浸っていると、保留音がぷつりと途切れた。
『お待たせしました。どうぞ』
サラダの声がした後、男性の野太い声が話し出した。
『お電話代わりました。初めまして、私は救助隊地上遠征班の班長をやっております、キョウタロウと申します。以後お見知りおきを』
私はびっくり仰天した。地上遠征班の班長? それって、遥の上司じゃないか。確かに、恭太郎という名前だった気がしてきた。
班長と言えば、救助隊統括メンバーの一人でもあるはずだ。つまり、キャンプ内でも屈指の権力者。リーダーの主馬ほどではないが、かなり偉い人だ。
「あ、孤児院の院長をしております、世奈と申します。……お噂は、かねがね」
私は緊張でガチガチになりながら挨拶した。
『はっは、遥から何か聞きましたかな。悪い噂でなければいいのですが。……電話中に突然お邪魔して大変申し訳ない、何分多忙な身なもので。なに、身構えなくて結構ですよ』
「は、はい」
『実は世奈さんに、直接お会いしてお伝えしたい大事な話があるのです。もしよろしければ来週あたり孤児院に伺いたいと思うのですが、どうですかな』
大事な話? 私は眉間にしわを寄せた。
「どういったお話ですか?」
『申し訳ないが、今は言えません。会ってからお伝えします。時間は、一時間程度頂ければ事足りるでしょう』
私はその言葉に、ますます怪訝な顔をした(幸い、孤児院の電話はカメラもついていないほどの旧式なので、向こうに見える心配はない)。しかし、どんな話であろうと、私に拒否権なんて無いだろう。他でもない班長がわざわざ出向いてくるなんて、ただ事ではない。
「分かりました……そしたら、午前中の九時頃から十時頃なら、何日でも構いませんが」
『ありがとうございます。ちょっと待ってくださいね……予定を確認しますので。……ふむ、来週の水曜日の九時でどうですかな』
「大丈夫です」
私はすぐに答えた。院長の予定なんて毎日同じようなものだし、何か急な問題が起こらない限り変わることはない。
『では水曜日、九時にそちらにお伺いします。職業柄、滅多と小さい子供に会うことなんて無いですから、今から楽しみにしているんですよ』
「はい、お待ちしております」
『そうだ、遥は退院したそうですね。救助隊のことは気にせずゆっくり過ごすよう、伝えておいていただければ幸いです』
「はい、伝えておきます」
『お忙しい中お時間ありがとうございました。水曜日、よろしくお願いします。それでは失礼します』
「はい、了解しました。失礼します」
雑音と足音がして、再びサラダに電話が代わった。どうやら恭太郎さんはどこかへ立ち去っていったようだ。
『サラダです。キョウタロウが、孤児院に行くそうですね』
「そうみたいだね……あー、心臓がバクバクして死ぬかと思った」
『心臓がバクバクして、死ぬ⁉ 大丈夫ですか!』
「あっ違う違う、今のはもののたとえだから。全然大丈夫だよ」
『なんだ、良かったです』
「なんか、少し話しただけでめっちゃ疲れた……私、敬語とか慣れてないし、来週ちゃんと話せるかなあ。それにうちの子たちが何か粗相でもしたらヤバいよね、しっかり言い聞かせておかないと。そうだ、掃除もしないとダメじゃん……どうしよ~」
『セナ、気持ちは分かりますが、心配し過ぎですよ。落ち着いてください』
「そうね、ちょっと深呼吸するわ……」
私は十秒ほど全力で深呼吸した。やっと少し落ち着いたところで、サラダが言った。
『キョウタロウ、すごく背の高いがっしりとした方ですね。威圧感があるというか……。笑顔でしたが、何か得体の知れない感じがしました』
「やめてサラダ。ますます怖くなるから」
『す、すいません……』
サラダに別れを告げて電話を切ってから、私は遥の語っていた恭太郎の印象をようやく思い出した。
確か、彼女は彼についてこう言っていた——「恐ろしいほど強い」「尊敬はしてるけど、好きにはなれない」。
子供たちに就寝を促し、戸締りをしてから二階に行く間も、ずっとモヤモヤとした不安が黒雲のように私の頭に立ち込めた。別に根拠はないけど、なんだか、漠然と嫌な予感がする。
子供たちを寝室に送ってから自室に戻ると、遥はもう寝る準備をしていた。遥に恭太郎さんの言葉を伝えると、彼女は「隊長から電話来たの?」と言って驚いた。私がさっきの出来事をかいつまんで話すと、彼女は目に見えて顔を曇らせた。
「どうしたの? 上司が家に来るの、そんな嫌?」
私が冗談めかして言うと、彼女は眉をひそめた。
「別に……、休養中まで救助隊のこと、思い出したくないだけ。まったくあの人、『救助隊のことは気にせずゆっくり過ごせ』なんて言った癖に、今度孤児院に押しかけてくるなんて、言動が矛盾してると思わない?」
彼女は不貞腐れたようにベッドに寝転び、そっぽを向いてしまった。だいぶ機嫌を損ねたようだ。
「まあまあ。大事な話があるから私に直接会いたいってことだったから、仕方ないんじゃない? 何の話か知らないけどさ」
「……そう」
壁に向けて小さく呟いた遥の表情は、私からは見えなかった。
「そういえば、恭太郎さんって、地上遠征班の班長なんだよね?」
「そうだよ」
「でも、遥は『隊長』って呼んでない?」
「ああ、任務で一緒になる時にはだいたい彼が隊長を務めてるから、ついつい癖で『隊長』って呼んじゃうんだよね。班長、って呼ぶのが本当は正しいんだけど」
なるほど、納得した。バリバリの現役リーダーって訳ね。
「そうだ、嬉しいニュースもあるよ! タスクさんの意識が、戻ったんだって」
「えっ!」
遥はガバッと起き上がってこっちを向いた。
「うん。今のところは目立った後遺症も無いみたい。身体のほうの後遺症についてはまだ分からないみたいだけど、意識はしっかりしてるみたいだよ。会話もできるって」
「……良かった」
遥は小さな声でそう言い、安堵のため息をついた。私はサラダの言葉を思い出して、一つ一つ彼女に伝えた。
「サラダから聞いた話によるとね、怪我をした時から二週間経ってるって聞いてずいぶん驚いてたってさ。あと、地上遠征に一緒に出た仲間がどうしてるか聞いたらしい。みんな無事だって聞いたら、安心して泣いてたんだって」
「そ、れは……佑先輩らしいね」
そう言う彼女の瞳は、珍しく潤んでいた。
▽
それから水曜日まではてんやわんやで恭太郎さんを迎える準備をした。子供たちにも手伝ってもらいながら院内の大掃除をし、水曜日に来る人は偉い人だから絶対にいたずらしないようにと、子供たちに口酸っぱく言い聞かせた。効いたかどうかは分からないけど。
そしてとうとう、水曜日の朝が来た。私は恭太郎さんが来る少し前に、一番汚れの少ない服を引っ張り出してそれに着替えた。真っ白なシャツに袖を通すと、非常に落ち着かない気分になってきた。遥もサラダもいないし、心細いことこの上ない。
遥は今日、救護班の本部へタスクさんのお見舞いに行くと言って、朝早くから出て行ってしまった。腕はもうほぼ治っているようなものなので心配はないと思うが、まだ彼女だって療養中なのだから、タスクさんのお見舞いはもう少し後にしても良いと思う。
それに、せっかく恭太郎さんがこっちに来てくれるんだから、会ってから行けばいいのに。私はそう言って遥を引き止めたが、彼女は嫌そうな顔をしてちょっと強引に出て行ってしまった。そんなに恭太郎さんに会いたくないのだろうか。
洗面所で身だしなみの最終チェックをしていると、来客を告げるベルが鳴った。
「は、はーい!」
私は急いで玄関へ出た。そこには、サラダの言っていた通り非常に大柄な男性がいた。赤茶色のツンツンした髪型で、黒に近いグレーの瞳は鋭くこちらを見据えている。確かに威圧感のある見た目だ。
「おはようございます。お初にお目にかかります、恭太郎です」
「お、おはようございます、世奈です。あ、そこのスリッパをお使いください」
恭太郎さんは重そうなブーツを脱いで、客用スリッパに履き替えた。
「ハンガー、お使いになりますか」
「ああ、ありがとうございます」
彼は私が恐る恐る差し出したハンガーを受け取ると、私の背丈ほどもありそうな深緑の外套を玄関脇のラックに掛けた。孤児院のハンガーラックが高めに作られていて良かった、あと五センチ低かったら裾が引き摺ってしまうところだ。
「わざわざご足労頂き、ありがとうございます」
これは昨日の夜に必死で読んだ『一時間で身につく! 敬語の基本』という本にあったフレーズである。使いどころ、合ってるよね?
「いえいえ、忙しいところすいません。お邪魔します」
「どうぞ……」
孤児院には応接室なんて気の利いたものはないため、私は恭太郎さんを食堂に通そうとしたが、彼は難色を示した。
「いや、できれば他の人間には聴かれたくないので、個室にしてもらえますか」
「分かりました。じゃあ、院長室かな。でも、だいぶ狭いし、むさ苦しいんですけど……」
「全然構いませんよ。どちらですか?」
「ご案内します」
案内と言っても、院長室は玄関のすぐ隣なので、三歩くらいで着く。中に入ると、普段自分が使っている椅子を勧め、自分は部屋の隅にしまってある折り畳み式の椅子を広げて座った。多分このちゃちな椅子じゃ、恭太郎さんの体重には耐えられないだろう。
恭太郎さんと私は席に着くと、文机を挟んで狭い室内で向かい合った。院長室は普段からある程度片付けているが、大掃除の時にはそこまで手をつけなかったので、目の前にある文机には書類が何枚か乱雑に置かれている。しまった、ここもちゃんと掃除しとくんだった。
「すいません、散らかってて……」
「いえ、お気になさらず。そうだ、遥はどこで休んでいるんですか?」
「あっ……彼女は今朝、タスクさんのお見舞いに行くと言って出かけてしまいまして……私は止めたんですけど」
私がしどろもどろにそう言うと、恭太郎さんはにやっと笑った。
「そうですか。ずいぶんと嫌われてしまったようだ」
「えっ?」
「実はこないだ、彼女に失言をしてしまいましてね。恐らく、それで怒らせてしまったのでしょう」
「はあ、そういう事だったんですか」
あの態度は、怒っていたのか。彼女がああいう風に人を邪険にすること自体はそう珍しくもないので、全然気づかなかった。
「出かけられるくらいまで回復しているなら、私も一安心です。……それでは、早速ですが本題に入ってもよろしいですかな。なにぶん忙しいもので——」
「あっ、少々お待ちください」
私は恭太郎さんを制止して素早く立ち上がると、背後の扉に近づいた。彼は気づいていないようだったけれど、さっき、扉の向こう側から確かにカタリと物音がした。
私は扉の前に立つと、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
「こらーっ! いるんでしょ!」
「うわ」
「やべっ」
扉の向こうから、数人の驚いた声とともにバタバタと子供の逃げ去る足音がした。……やっぱりか。恭太郎さんを迎えた時に全く子供たちの姿が見えなかったから、怪しいと思った。
「お見苦しいところをお見せしました。もう大丈夫ですので」
私はすぐ平静を取り戻し、さっさと席に着いた。恭太郎さんは目を丸くしていたが、豪快に笑い出した。
「いやはや、元気な子供たちですな」
「本当にすいません……、後でみっちり叱っておきます」
恭太郎さんは軽く咳払いしてから、口を開いた。
「私がここに来たのは他でもない、世奈さんにあるお願いをするためです」
来た。私は息を大きく吸って心の準備をした。
「それは、『孤児院で、救助隊員が子供たちにサバイバル技術並びに応急処置の手順を教えることを許可してほしい』、というお願いです」
意外すぎる申し出だった。サバイバル技術と応急処置の手順、と私は頭の中で繰り返した。まさか、それって。
私の微妙な表情の変化に気づいたのか、恭太郎さんは頷いた。
「多分、ご想像の通りですよ。孤児院の子供たちを小さいうちから教育することで、救助隊を目指す子供を増やし、救助隊の人手不足を解消するためです」
「で、でも、どうして孤児院の子を」
動揺で声が裏返る。
「ご存知かもしれませんが、十五歳になる前に救助隊の訓練生になるには保護者の同意が必要になります。しかし、親が救助隊関係者でもない限り、子供が救助隊員になることを望んでも、大抵の親は拒絶します。そのため、訓練生になる子供は非常に稀な上、十五歳になってから救助隊員の道を選ぶ者も少ないんです。……どうしても、親に止められるような職業、というイメージがついてしまいますからね。その結果、救助隊員は年々減少している。酷いときには新人がゼロの年だってあります。若手が圧倒的に足りないんです」
「だからって……」
私は反論しかけたが、恭太郎さんはそれを遮って続けた。
「親のいない孤児院の子供であれば、訓練を受けさせるのに保護者の同意は必要ありません。世奈さん、あなたさえ許可してくれればそれでいい」
名前を呼ばれてどきりとした。息が上手く吸えない、言いたいことは色々あるはずなのに、うまく言葉が出てこない。
「もちろん、子供たちに強制するつもりはありません。いつもやっている『遊びの時間』のように、選択制のプログラムとして訓練を提供する予定です。教育のための人員はこちらで用意します」
恭太郎さんは両手を文机の上でゆっくり組み、私の目を覗き込んだ。
「あなたが望むなら、子供たちに救助隊員になるという選択肢を与えることができるんですよ。それは素晴らしいことだと思いませんか?」
「素晴らしい?」
私は彼の言っていることについていけず、思わず聞き返した。
「知っての通り、救助隊はこの難民キャンプの要です。もし救助隊がいなければ、インフラも食糧も、適切な医療も、何もかもが立ち行かなくなる。それはこのキャンプにいる人間なら、誰もが認めることでしょう」
「……」
「あなたはいつも遥と一緒に暮らしているのですから、私もあなたの懸念は理解できるつもりです。しかし、救助隊の誰もが彼女のように危険にさらされている訳ではない。救護班は地上に行くことはあまり無いですし、地上遠征班だって生存率は上がっています」
「でも、遥の両親は死んだじゃないですか。叶芽の親だって」
「昔の話です。叶芽の親御さんが亡くなった四年前の時点と比べても、我々の技術は格段に進歩しています」
「そんなの……そんなのは、おかしいです。だって、あの子たちの中には孤児になった時、心に大きな大きな傷を負っている子が、とても多いんですよ。それでもみんな、孤児院で寄り添い合い、長い時間をかけて再び前を向こうと、小さな体で必死に生きているんです。そんな子供たちに、あなたは命がけで戦うための勉強をさせるって言うんですか! あの子たちに、また傷つけと、そう言うんですか⁉」
ついに私が声を荒げても、彼は眉一つ動かさずに涼しい顔で言った。
「なぜ、そういう風に思われるのでしょう? 救助隊に入るということは、すなわち安定した生活が保障されるとも言えるのですよ。救助隊員はキャンプで暮らしている一般の人間よりもはるかに良い待遇を得ることができる。遥を見ているならよく知っているでしょう。彼女がこの孤児院でずっと暮らしたいと言ったとき、私はそれを許し、同時にこの孤児院に対して様々な支援を開始しました。それは、遥の生活環境を良いものにするためです。それが無ければ、この孤児院は早々に資源やエネルギーが枯渇していたでしょうね」
私は絶句した。そんな事、知らなかった。孤児院が、救助隊から支援を受けていたなんて。そして、遥ひとりのためにそれが行われていた——?
「おや、ご存知ありませんでしたか。無理もない、さっき言った話は先代の院長と交わした取り決めですからね。遥も知らないかもしれません」
私は、恐ろしい事に気づいてしまった。彼が言ったことが真実だとしたら、彼はこの孤児院の急所を握っているも同然だ。もし彼のほんの少しの心変わりで、支援が断ち切られたら。供給されている資源のうちどのくらいの割合が救助隊の支援によるものかは分からないけれど、とても困った事になるに違いない。
「もうお分かりでしょう。この孤児院だって、遥という救助隊員がいなければ、とっくの昔に立ち行かなくなっていたのです」
かたかたと震える私を見て、恭太郎さんの目がすっと細められる。
「どうか、ご理解いただきたい。このキャンプの未来は、あなたにかかっていると言っても過言ではありません。これは、未来のための投資なんですよ。このままだと近いうちに、救助隊は機能不全に陥る。そうなれば、影響はキャンプ全体に広がります。私は何も子供たちに救助隊になることを強制しようという訳じゃない。しかしですね、この役目は誰かが必ずやらなければならないことなんです。最小限の人数に危険な役目を担わせ、人柱にしながらあなたも私も生きているんです」
「そんな……」
恭太郎さんは最後に、駄目押しのように低い声で告げた。
「そして、この孤児院の運命も、あなたの発言にかかっています。……ここまで話せば、この孤児院の他と比べて格段に豊かな暮らしが、遥ただ一人によってもたらされていることは分かったでしょう。しかし、これはあくまでも仮定の話ですが、もし遥が任務中に亡くなってしまったらどうです? 私は残念ながらこちらへの支援を打ち切らざるを得ない。遥が救助隊を辞めた場合も同様です。そしてもちろん」
恭太郎さんは一旦言葉を切ると、私の右手をすくい上げて強く握った。その握力は万力のように右手を締め上げた。私は、自分の心臓までもが締め上げられるような心地がした。
「私は、あなたの言葉次第で、遥に孤児院から出るようすぐにでも指示できる立場にあるんですよ」
私の全身から、まるで風船から空気が抜けるように力が抜けていった。目の前が、貧血を起こした時のように真っ暗になっていく。
この男は、私の返事次第で、孤児院から、……私から、遥を取り上げるつもりなんだ。そして、その後支援を失った子供たちと私がどうなろうと、何も思わないに違いない。
「おっと。大丈夫ですか? 申し訳ない、少し話し過ぎてしまいましたかね」
「……」
「ご心配には及びません、あくまでもさっきのは仮定の話ですよ。最終手段、と言い換えても良いですが。子供たちへの訓練を許可して頂ければ、支援は今まで通り継続します。もし子供たちの中に、遥のように救助隊に入っても寮ではなく孤児院に住みたいという者が出れば、支援を増やすこともあり得ます。あなたにとっても悪い話じゃあないでしょう」
頭がくらくらした。もしかしたら本当に貧血を起こしたのかもしれない。それでも、私は必死に気力を奮い立たせた。ここで挫けるもんか、この男にだけは決して屈してはならない。身体全体に怒りが漲り、みるみるうちに心拍数が上がって、心臓が血液を無理やり脳に送り込んだ。
私は心の中で、先代の院長の笑顔を思い起こす。その、包み込むように与えてくれた愛情のすべてを。そう、私は子供たち全員の親代わりなんだ、我が子たちをこいつなんかの好きにさせてたまるか。
「……離してください」
「ん?」
「手を、離して!」
私は握られたままの右手にぐっと力を込めて振り上げた。突然の行動に驚いた恭太郎さんは思わず私の手を離す。その勢いのまま、私は彼の左頬へと右手を思い切り振り抜いた。パン、と乾いた音が部屋に響く。
「ふざけるのも、いい加減にしてっ! 私は、たとえキャンプの未来のためでも、孤児院の存続のためでも、それと引き換えに子供を犠牲になんてしない! それが、院長としての努めです!」
はあはあと息が上がる。彼はしばし沈黙した。静まり返った部屋に、どこかで遊んでいる子供たちの声がわずかに届いていた。
「……立派なお心掛けだ。いいでしょう、今日はこの話はここまでにします。来週の同じ時間にまた来ますから、それまでによく頭を冷やしてもらえたらありがたい」
「結構です。もう来ないで下さい」
私が強い口調でそう言うと、彼はやれやれというように頭を掻いた。
「こちらとしては、そういう訳にはいかんのですよ。日を改めさせてもらいます。あ、一つ聞いておきたいのですが」
「まだ何か?」
「さっき少し話に出た叶芽ですが、彼の進路はもう決まっているんですか」
また、ろくでもないことを考えてるんじゃないだろうか。私は全身の警戒を緩めないまま言った。
「……本人は、考えがあると言ってました。詳しくは知らないです」
「ふうむ」
彼は少し考え込むような素振りをした。
「分かりました。それでは、本日はこれで失敬します。お時間頂き大変ありがとうございました」
彼は席を立つと私に一礼し、くるりと回れ右して素早く院長室の扉を開けた。そして、顔だけちらりとこちらに向け、射すくめるかのように私の目を睨んだ。
「一つだけ忠告しておきます。いいですか、綺麗事ってのは大事ですが、それだけでは生きていけないんですよ。まあ、あなたのような常に子供と接する仕事なら、そういった純粋さが必要なんでしょうがね。……私とあなたのどちらが正しいのかは、すぐに解ることになるでしょう」
私が何かを言う前に、彼は扉から滑るように出て行った。
あわてて後を追おうとしたが、知らない間に力が入っていたのか、足が痺れてちっとも言うことを聞かなくなっていた。
ぽつんと一人院長室に取り残されると、私は一気に何年も年を取ったように感じ、両手に顔をうずめた。
「院長先生……」
私はどうなってもいい。
だからどうか、遥とみんなを、お守りください。
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