第四章 動物たちの世界


 重たい扉が両側に開くと、光の洪水が隙間から溢れ出た。キャンプの中では決して見ることのない、眩い太陽光に目を細める。息を吸うと、凍てつく空気が肺をすみずみまで満たしていく。

 目が慣れると、雄大な自然が私たちを出迎えた。

 地平線まで続くギザギザとした氷の大地を雪が覆い、なめらかに起伏を作っている。その大地には、ひび割れたようにところどころ深いクレバスが走っている。空は一面が吸い込まれるような濃い青に染まり、太陽は強い日差しを投げかけて氷の表面を燦然と輝かせている。

 ——綺麗だ。きっと、この世で最も美しい光景だと思う。

 人の住めない過酷で危険な場所だけれど、この美しさだけは大好きだ。

「おい、どうした?」

 私のすぐ前を進む佑先輩がいぶかしげに声をかけてきたので、私は我に返った。

 いけない。ここは地上で、私は地上遠征班のしんがりを務める義体化隊員、遥だ。美しさに油断していたら命が危ない。私は急いで左目のカメラで周囲をスキャンする。

 今のところ、周囲に野生動物の姿は確認できない。差し当たり危険は無いようだ。しかし、ここらにいる危険な野生動物——ヒグマやユキヒョウなど——は長い氷河期の間に人間の欺き方を覚えてしまっている。念のため赤外線カメラでも確認しておく。班員以外の生体反応は、五百メートル以内には一つも無かった。ひとまず安心だ。

 私たちは隊列を組んで進み、深いクレバスを迂回し、時折小休憩を挟みながら、資源未回収エリアへと向かった。今回の対象エリアは十キロほど先にある。

 進む間、自分たちがザクザクと雪を踏みしめる音だけが聞こえる。このあたりの地上は本当に静かだ。時折氷の割れる音や水の流れる音がクレバスに反響し、自然の音楽を奏でる。氷河期以前の時代の大きな建造物の中には、氷の上にまだ頭を出しているものもちらほらと見える。

 エリアに着くと、まずは拠点を作る。今後この場所よりも遠くのエリアに行くことも考えられるので、中継地にもできるように拠点はしっかり作っておくことが重要だ。

 私はその間、周囲を警戒するため、少し高くなっている場所から全体を見下ろし、歩哨をする。とはいっても、一通り周囲をスキャンして危険が無いことを確認したら、あまりやることはない。野生動物が近づいていないかを見張り、時々スキャンし直すくらいだ。

 上からだと、冬眠前の蟻のようにせっせと働く隊員たちが一望できる。佑先輩はロープワークやテント設営なんかが得意分野で、今もスイスイと作業をしている。隊長の恭太郎は各方面に指示を飛ばして全体を統率しているようだ。大柄な彼は距離があってもよく目立つ。

 太陽は南中まではいかないが、だいぶ高くまで登ってきていた。遠くの空には渡り鳥たちが点々と見える。冬に備えて南に移動しているのだろう。

 しばらくすると携帯しているトランシーバーから通信が入った。

『こちら恭太郎。遥、聞こえるか。どうぞ』

 私はすぐトランシーバーを顔に近づけ、返事する。

「こちら遥です。どうぞ」

『視界良好のため、これから十五分ほどはこちらで歩哨を立てる。遥は休憩してくれ。どうぞ』

「了解しました。ありがとうございます」

 私は通信を切り、ふうっと息を吐いた。緊張を少しだけ緩める。休める今のうちにしっかり休憩しておかないといけない。遠征はこれからが本番だ。

 十五分後、私は高台から降り、隊員たちと合流した。


 ▽


「よし、集まったな」

 恭太郎は隊員を見回した。

「これから、班を二つに分ける。部品回収班と食糧確保班だ。俺は部品回収の方に回る」

 目的が二つある場合には、班も二つに分かれることが多い。異を唱える者はおらず、皆が恭太郎の言葉に頷く。

「探知専門の機械屋は、部品回収班に来てくれ。武器は食糧確保班の方に多く回していい。部品回収班の方にも戦える奴が二、三人は要るから、そのくらいは残しておいてくれ」

 班員は慌ただしく二班に分かれた。戦闘能力の高い私は、野生動物との戦闘が起こりやすい食糧確保班に行くことが多いので、今回もそちらの班に加わった。部品回収班の方は屈強な隊長が行ってくれるから、大丈夫だろう。

 食糧確保班のメンバーは、私、佑先輩、一つ上の男性隊員である司門(しもん)先輩、三つ下で新米の香織(かおり)、そして香織の同期である一平(いっぺい)の五人になった。

「遥先輩! 一緒で良かった」

「久しぶりだね、香織」

「はい! 頑張ります」

 香織はこんな私にも懐いてくれる、素直で優しい子だ。少し臆病なところがあって、戦闘でのとっさの判断は大の苦手だが、彼女の応急処置は適切で素早い。彼女曰く、「ケガした後は手当するほかないですから、考えなくてもいいので楽なんです」とのことだ。

 香織は戦闘能力より医療技術を伸ばした方がいいと判断され、ここ最近は救護班の方で研修を受けていることが多かった。そのため、香織と任務をこなすのは久しぶりになる。

「良かったやん。もし遥先輩と班がちゃうかったら、どないしよ~って、昨日さんざん言うとったやんか」

 一平がぽんと香織の肩を叩く。香織は真っ赤になって一平をポカポカ叩いた。

「ちょっと一平! 遥先輩には言わないでって言ったでしょ」

「そんなん聞いとらんわ。暴力はんた~い」

 一平は香織の同期で、新米だが近接戦闘のレベルが抜きん出て高い隊員である。しかし気が散りやすく、大雑把すぎるのであまり信頼できない奴だ。

 今は帽子に隠れて見えないが、金のメッシュが入った黒の長髪を三つ編みにし、背に垂らした特徴的なスタイルをしていることが多い。黙っていればモテそうに見えるのに、はっちゃけた性格と今どき珍しい関西弁のせいでお笑い枠に入ってしまっている。

 司門先輩はちらりとこちらの方を見たが、特に何も言わずに視線を外した。彼がもともと会話しないタイプであることは知っていたので、私は特に驚かなかった。

 司門先輩は主に後衛を担当することの多い隊員だ。色白で端正な顔立ちだが、いつも無表情なので、どことなく機械的な印象を受ける。実際に、彼の決断はいつも機械並みに迅速だ。

 救助隊の中でも背の高い司門先輩は、立っているだけで何となく威圧感がある。無口な性格も手伝って、周囲からは怖がられることが多いらしい。私は彼と個人的に話したことはないので、正直よく分からないが。

 佑先輩が司門先輩に声を掛けに行くが、佑先輩が一方的に話しているように見える。司門先輩は「ああ」とか「いや」とか、短く相槌を打つだけだ。

 話が終わると、佑先輩は食糧確保班の面々に向き直った。

「全員知っているとは思うが、俺は佑だ。今日は俺が一番年長みたいだから、コマンダー(指揮官)を担当させてもらう。みんな、今日はよろしくな」

 私たちはめいめいに頷く。

「そしたら前衛は俺と一平かな」

「まかしといてください」

 一平がビシリと決めポーズをする。耐寒ウェア越しでも、腹の立つドヤ顔が目に浮かぶようだ。

「中衛は遥と香織でいいか?」

「はい。香織は私のサポートをよろしく」

「わっ、わかりました!」

 香織はやや緊張した面持ちで頷く。実戦はまだあまり経験のない彼女にはサポート役をしてもらうのがいいだろう。

「ありがとう。後衛は司門に任せる」

「了解した」

 司門は無表情のまま言った。

「決まりだな。じゃあ用意して出発しよう。武器庫はどこだ?」

「こっちです。おーい!」

 香織は付近に待機していた四足歩行ロボットを呼んだ。これは通称「武器庫」と呼ばれている運搬用ロボで、中に武器を収納して運んでくれる。搭載されているAIは原始的なものなので、受け答えすることはできないが、運搬専用なので別に困ることもない。

 私たちは各自で武器を装備し、携帯保存食を少し食べて力をつけてから、指示通りに配置に着いた。


 ▽


 一時間ほど歩いたが、食糧にできそうな野生動物も、保存食のありそうな廃屋もなかなか見つからなかった。

「何もいないですね……」

 香織は拍子抜けしたようにつぶやいた。もっと派手な戦闘を予想していたのだろう。私も、野生動物がこんなに少ないとは思っていなかった。普段なら、そろそろ二、三匹は獲物と出会っている時分だ。

 違和感を覚えながら探索を続けていると、前衛の二人から通信が入った。

『こちら佑。十二時方向、五百メートル先に群れからはぐれたエゾシカを一頭発見した。接近してから九時方向に追い込み、司門に狙撃させる。遥と香織は標的の誘導を頼む。どうぞ』

 獲物到来だ。九時方向には障害物の少ない開けた場所がある。あそこなら長距離からでも狙いやすい。腕の良いスナイパーである司門なら一撃だろう。私たちの役割は、エゾシカが目的のエリアにうまく入るよう、威嚇射撃をすることだ。

「こちら遥、了解です。標的が私たちに接近しすぎた場合はこちらで仕留めます。どうぞ」

『頼んだ。作戦開始時に一平が合図を送る』

 通信を切ると、香織が嬉しそうに私を見た。

「ようやくですね」

 私たち二人は銃を構えた。

 私のメイン武器はアサルトライフルだが、中距離だけでなく接近戦闘にも切り替えることのできる優れものだ。私は接近戦闘では銃と、義足を使った蹴り技を使う。しかし、義足に負担がかかるので緊急時以外はほぼ蹴り技は使用しないように言われている。基本は中距離での射撃に注力することが多い。

 香織の武器は短めのサブマシンガンだ。精度はあまり良くないが連射性能が高く、小口径で反動の少ないタイプを使っている。過酷な環境でも故障が少ないタフさとメンテナンスの簡単さから、新人が使うことの多い銃でもある。

 五分ほどして、ピーッと鋭い口笛が辺りに響き渡った。来た!

 私は左目のカメラで辺りを確認しながら、右目で照準器を覗く。普通の人間では難しい芸当だが、義眼の性能なら容易いことだ。しばらく待つと、エゾシカの姿が小さく確認できた。作戦は順調のようだ。

「標的、接近中! 撃ち方用意!」

「はい!」

 少しずつエゾシカが近づく。こちらにはまだ気づいていない。

「てーっ!」

 ダダダダダダッ!

 私たちがエゾシカの足元に向けて銃を連射すると、エゾシカは驚いて進路を変え、目的のエリアに一目散に走っていった。

 エゾシカがエリアに入った直後、タアンと大きな音が響き、エゾシカの脳漿が雪の上に飛び散った。

「やった!」

 香織が拳を空に突き上げ、ぴょんと跳ねる。

「お見事。さすが司門先輩」

「いつもすごいですよね~」

 司門先輩の持つ軽量スナイパーライフルの有効射程は一キロメートル前後。なのに、司門先輩は二キロ先の目標の狙撃に成功したこともある。長距離の射撃において右に出る者は、救助隊の中にいないだろう。

「そうだね。香織もお疲れ」

「いえいえ、遥先輩のご指示があったからですよ」

 私たちは軽くハイタッチして、獲物に近寄った。はっきり見える所まで来た時、香織が何かに気づいたようにエゾシカの背中辺りを指さした。

「あれ、このエゾシカ……怪我してます」

「本当だ。この傷は、ヒグマにでもやられたかな」

「怪我してたせいで、群れについていけなくなったのかもしれないですね」

 私たちはエゾシカの足をロープで結わえ、武器庫に乗っけて縛り付けた。武器が収納されていない時には、こうして獲物を運ぶこともできるのだ。

「まだ日が高いから、もう少し探索できますね」

「うん。でも、血の匂いに惹かれてヒグマとか来るかもしれないから、気を付けないとね」

「そうですね」

 私たちは武器庫と一緒に他の隊員と合流した。佑先輩は笑顔で皆の健闘を讃えてから、こう言った。

「実は、さっきエゾシカを見つけた場所の近くに廃屋を見つけたんだ。あそこならすぐ行けるし、ついでに見てっていいか?」

「お、ええやん。今日は大漁になるとええなあ」

「……くれぐれも用心するように」

 浮足立った一平をたしなめるように司門先輩が注意する。一平は口を尖らして呟いた。

「へいへい。わかっとります」

 今日初めて気づいたが、一平はどうも司門先輩に対しては態度が悪いような気がする。堅物で無口な司門先輩とは気が合わないのだろうか。一平の普段のテンションの高さを思うと、無理もないなと感じる。

「まあ、司門の言うとおりだ。獲物を持ったまま移動する間は狙われる危険も増える。皆、十分注意してくれよ」

「了解」

「はい!」

「イエッサー!」

 私の返事に続いて、香織は元気に返事をし、一平は大げさに敬礼して見せた。司門は無言のまま頷いた。


 ▽


 佑先輩の言っていた廃屋は、エゾシカを発見した場所から十五分ほど高台に上がった所にあった。崩れかけたコンクリート製の二階建てで、壁がとても分厚い。もしかしたら、昔は核シェルターみたいな施設だったのかもしれない。今はところどころ壁に穴が開いてしまっていて、雨風すらしのげないような有様だが。

「これは期待できそうですね」

「うん、何かのシェルターっぽいよな」

 香織と佑先輩は期待を込めて建物を見上げた。

「遥、スキャン頼んでいいか?」

「スキャンしても、この壁の分厚さじゃ中のことは全然分からないですよ」

「あ、そっか。赤外線って壁は通過しないんだっけ」

「そうです。私は近くで外の警戒をしときますから、中の調査はお願いします」

「わかった。一平、一緒に来てくれ」

「ええ、まだ働かなあかんのですか~」

「近接できるのはお前と遥だけなんだからしょうがないだろ」

「遥先輩の蹴り技も、一回見てみたいんやけどな」

「トレーニングの時に見せてもらえばいいだろ」

「せやな。また今度頼みますわ」

 一平はそう言ってちらりと横目で私を見たが、私は聞こえなかった振りをした。

 彼はどうやら私の蹴り技に興味があるらしく、事あるごとに絡んでくる。最初は後輩のためと思って付き合っていたが、あまりにも頻繁に練習を邪魔してくるので、最近は面倒になって邪険に扱っている。しかし、全くへこたれてはいないようだ。

「俺は上から見張る」

「お、司門ありがとう。そしたら、野生動物とかが来たら狙撃よろしく~」

「無茶言うな。連絡はするが、撃てるかは地形による」

「分かってるって。冗談だよ」

 司門先輩は佑先輩の軽口に微かに片眉を上げたが、そのままスタスタと坂を上へ登って行った。

「あ、あの、私は」

「香織は出入口付近に待機していてくれ。万が一のために応急処置の用意を頼む。まあ、必要ないとは思うけどな」

「了解です!」

 こうして、私は廃屋の近く、司門先輩は高台、香織は出入口で待機し、佑先輩と一平が廃屋へと入っていった。武器庫(とエゾシカ)はとりあえず私が引き連れた。

 あたりは静かなものだった。スキャンしても生体反応はまるでなく、周囲に獣の巣穴なんかも無い。でも、私はまだ違和感が拭えなかった。

 静かすぎる——。

 今の時期は、野生動物たちはみな冬が来る前に腹ごしらえをしようと躍起になっているはずだ。なのに、このあたりだけ動物の数が異様に少ない。エゾシカを見つけるのにも一苦労だった。

 それに私たち人間も、野生動物にとっては獲物だ。しかも今は死んだエゾシカを連れている。普通なら肉食の獣が数匹は集まってくるのに、その気配も全くない。

 何故だろう?

 私は周囲を警戒しつつ考えた。この辺りの野生動物自体が減っている? いや、前回の遠征ではこんな事は無かった。短期間にそれほど野生動物の数が変動することなんて、あるだろうか?

 もしくはこの地域だけ、何らかの理由で野生動物が近寄らなくなっている——? もしかして、この辺りに動物が少なかったのは、危険な肉食動物に狩られて住処を追われたからではないだろうか。

 そこまで考えて、私はハッとした。武器庫の背に括りつけられたエゾシカを見る。このエゾシカはまだ若い。もしかして、誤って肉食動物の狩場に迷い込んでしまった?

 エゾシカの背の傷からはまだ血が流れている。それは、傷がつけられてからまだそんなに時間が経っていないということ。つまり、エゾシカはこの近くで肉食動物に襲われたが、命からがら逃げ出した。

 これらの事柄が意味することは。

 

 私が急いで佑先輩に連絡を取ろうとしたのと、廃屋の中から二人分の悲鳴が聞こえたのが同時だった。

「うわー!」

「ぎゃー!」

 遅かった。私は唇を噛んで出入口に向かった。香織が銃を構え、張り詰めた顔で中に入ろうとしていた。

「待って!」

「遥先輩!」

 香織は近づいてきた私に気づき、動きを止める。

「香織はここで待機! 私が行く」

「私も行きます!」

「駄目、香織は応急処置に備えて! あと、司門先輩に連絡!」

 彼女は少し迷ったが、頷いた。私は間髪入れずに廃屋に突入した。走りながら銃を近接戦闘用のモードに切り替える。

「佑先輩―! 一平―!」

「遥先輩、こっちや!」

 私が呼びかけると、奥の部屋から一平の切迫した声が聞こえた。声のした方に急ぎ、銃を構えて部屋に飛び込む。

 真っ先に目に飛び込んだのは、血を流して倒れている佑先輩だった。意識がないのか、ピクリともしない。彼の上には二メートル以上はあろうかという巨大なヒグマの前足が乗っている。

 一平は丸い嵌め殺し窓のある壁際に後退しながら、ハンドガンを構えていた。ヒグマは一平に吠え、今にも襲い掛からんとしている。

 その光景を見た時、私は瞬時に決断を下した。アサルトライフルを撃ち、ヒグマの注意をこちらに向ける。そして、地面を蹴った。

「うりゃあああ!」

 体重の乗った飛び蹴りをヒグマの顔面に浴びせる。ヒグマは仰け反り、佑先輩から前足を離した。

「食らえ!」

 私はその隙にヒグマの巨体に銃口をつけ、ゼロ距離でその体に弾丸を浴びせた。しかし致命傷にはならず、私はヒグマに思い切り振り払われた。身体が宙に浮き、強かに壁に打ちつけられる。右腕に鋭い痛みが走る。

「うっ」

「遥先輩!」

 一平が駆け寄ってくる。右腕を見ると、壁から突き出た金属製の棒のようなものが刺さっている。

「くっ、まだまだ……!」

 私は無理やり右腕を棒から抜き、立ち上がろうとした。その時、脳内でビーという警告音がした。

『物理的損傷により左義足との接続にエラーが発生しています』

「っ!」

 しまった。壁にぶつかった衝撃で、神経接続がいかれたようだ。でもまだ、右足があれば!

 私は右足一本で跳ね上がり、天井の梁に左手を引っ掛けてぶら下がると、梁の上になんとか着地した。

「一平! 私が上から援護するから、佑先輩を!」 

「まかしとき! 無理はせんときや!」

 私は未だこちらを威嚇するヒグマに銃を向け、睨みつけた。まだヒグマと佑先輩の距離が近い。もっとこちらに引きつけないとここからじゃ撃てない。

「ほら、ここまで来てみな、デカブツ!」

 私は大声で挑発する。ヒグマの注意が完全に私に向き、一平はじりじりとヒグマの背後に回る。

「グアアアア!」

 ヒグマは大きく吠えると、こちらに近づいてきた。私はヒグマの頭に照準を合わせてタイミングを見計らう。一平は気づかれないように佑先輩に近づく。

 ヒグマが佑先輩から完全に離れたタイミングで、一平は佑先輩を素早く担いだ。一平はそのまま迅速に射線から避ける。

「よし!」

 しかし、私が撃とうと指に力をこめた時、ヒグマは一平に気づき、飛びついた。一平が目を見開く。

「え——」

 ダダダダダ!

 何発かヒグマに弾が命中したが、ヒグマが動いたせいで頭からは逸れた。ヒグマは撃たれたことでますます怒り狂い、その怒りは一平に向いた。

「ひー! 堪忍してえな!」

 一平は一瞬にしてヒグマの下敷きにされ、佑先輩は支えを失って崩れ落ちた。ヒグマの前足が振り上げられる。

「まずい!」

 私は梁にぶら下がり、ヒグマと一平に向けて跳んだ。間一髪、左足を盾にしてヒグマの爪を防ぐ。義足からびきりと嫌な音がした。一平は半泣きで体勢を立て直す。

「すまん、助かった!」

「はや——」

 ピ――――。

 早く逃げて、そう言おうとした言葉は空中で途切れた。血の気がざあっと引いていくのが分かる。全身が細かく震えだす。

『損傷が規定を超えました。班の生存率を上げるため、これ以上の戦闘は許可されません』

 脳内に響く機械音とともに、アテルイの穏やかな声がして、身体の制御が瞬く間に奪われた。

『退避行動に移ります』

「待って! 待——」

 止めようとしても、ナノマシンに操られた私の身体は言うことを聞かない。右足を軸に飛び退り、片足飛びで部屋の外へと向かう。

「駄目!」

 ここで逃げたら、一平が、佑先輩が——!

 私は必死に身体の制御を戻そうと、進むのを止めようとした。だが、その瞬間頭が割れるように痛む。

「うああああ!」

 私はとっさに痛覚をシャットダウンした。

 目の端では、ヒグマが再び前足を一平と佑先輩に振り上げているのが見えた。鋭い爪がギラリと光る。

 この距離じゃ、間に合わない——!


 ダアン!


 ヒグマの巨体が一瞬静止し、ゆっくりと倒れた。

 部屋にいる誰もが、何が起きたのか全く理解できず、時間が止まったような数秒の沈黙が流れる。

 最初に気づいたのは、一平だった。窓を凝視して、彼は茫然と呟いた。

「司門先輩……」

 窓には、一発の弾痕があった。


「大丈夫ですか!」

 香織が応急処置キットを手に飛び込んできたのを見て、私はようやく自分が息を止めていたのに気がついた。肺にため込んでいた空気をなんとか絞り出すと、突然がくりと膝が折れて、私は地面に手をついた。

 さっき痛覚を切ったから痛みは感じないはずなのに、まだ身体がガタガタと震えているのを感じる。

 ハッとしたように一平が叫ぶ。

「佑先輩がやばい!」

「大変!」

 一平が佑先輩に駆け寄り、上体を抱き起した。香織もすぐに気づき、佑先輩のすぐ横に走り寄ってしゃがんだ。

「あかん、右肩んとこの動脈が裂けとる! 出血がむっちゃ多いで!」

「止血しないと!」

 香織は青褪めながらガーゼタオルを出し、素早く佑先輩の鎖骨の上あたりを圧迫する。しかし、タオルはすぐさま赤く染まってしまった。香織は唇を噛み、全体重をかけるようにして圧迫を続ける。

「洒落にならんわ! タオルどこや!」

 一平は自分たちの荷物を漁り、替えのタオルを出しては香織の手に取りやすいところに次々と置いた。私は一歩も動けずに、ただそれを見ていた。

「おい遥、腕出せ」

 ふと気づくと、いつの間にか司門先輩がすぐそばに来ていた。耐寒ウェアを少し裂くと、その裂け目に手を突っ込んで私の右腕を取り、テキパキと止血を始める。腕の傷からは赤黒い血がだらりと垂れていたが、司門先輩がガーゼでしばらく押さえていると止まってきた。

「……幸い、お前は動脈に傷はついてないな」

「あ、ありがとうございます」

「一旦、自分でここ押さえてくれ」

 震える左手で、なんとか人工皮膚の端を持つ。司門先輩は傷を圧迫しながら人工皮膚を腕に巻き、ガーゼを固定した。

「司門先輩! ダメです、血が止まりません!」

 香織の悲痛な声が聞こえて佑先輩の方を向くと、彼の側には真っ赤になったガーゼタオルが何枚も積み上げられ、タオルから流れた血が床を染めていた。佑先輩の顔色はさっきより白くなり、呼吸も弱いように見える。

 司門先輩は佑先輩の近くに駆け寄った。香織が涙目で訴える。

「圧迫止血は続けてますが、もう限界です! いつ出血性ショックが起こるか分かりません!」

「まずいな……一刻も早くキャンプに帰還する!」

「はいっ」

 司門先輩は厳しい顔をして次々に指示を出していく。

「一平、武器庫からエゾシカを降ろして、佑先輩を乗せてくれ」

「おっしゃ。佑先輩、きばりや!」

 一平はエゾシカと武器庫を結び付けているロープを外し始めた。それを手伝いながら、司門先輩がこちらを振り向いた。

「遥、隊長に連絡を頼む!」

「は……、はい」

 私はまだ震えの収まらない左手でトランシーバーを引っ掴んだ。


 ▽


 目を開けると、真っ白な天井が視界いっぱいに見えた。一瞬ここがどこか分からず、身体を起こそうとしたところで、右腕に痛みが走った。その痛みによって、私は全てを思い出した。

 そうだ、キャンプに帰ってきたんだった。

 あれから、私たちは何とかキャンプに帰りつき、佑先輩は緊急手術のために手術室に運ばれていった。私は傷の治療と神経接続エラーの修理、そして義足の修理のため、全身麻酔をかけられた。神経接続をいじるのには激痛が伴うからだ。

 麻酔のせいか、全身がひどい倦怠感に覆われている。時計を見ると、もう夜になっていた。

 右腕を見ると、ちゃんとした処置がされていて、動かすのにも問題は無さそうだった。足の方も、違和感はない。修理はつつがなく完了したのだろう。

 現状を確認し終わると、私は身体を横たえ、左手で顔を覆った。まだ頭が痛いような気がする。考えても無駄なのに、とりとめのない思考が脳内を巡っていく。

 佑先輩は助かったのだろうか。

 大量出血だったから、危ないかもしれない。

 私がもう少し早く、エゾシカの傷について考えていれば。

 私が腕にあんな怪我をしなければ。

 義足を損傷せずに戦えれば。

 もし、司門先輩の弾が外れていたら——。

「う……」

 頭が痛み、わずかに涙が滲んだ。

 分かっている。キャンプのためにはアテルイの判断は最適だった。あの状況で佑先輩、一平、私の全員が生き残る方法はほぼないに等しかった。最悪、全滅もあり得た。だからアテルイは私の脳内のナノマシンに指示し、私だけでも撤退させようとしたのだ。

 でも、私の心は金切り声を上げている。ずっと前からそうだ。

「……くそ」

 私はどこまでいっても、機械に操られる人形だ。機械には感情が無い。だから、私の気持ちなんてこれっぽっちも配慮しない。私が逃げたせいで誰が死んでも、私の行動で見捨てた人がどう思うかも、アテルイは気にしない。

 その時、佑先輩の言葉が脳裏をかすめた。

『サラダには心があるんだ』

 途端に無力感に襲われた。もし、アテルイにも、心があるとしたら。その上で、私を操っていたとしたら——。

「遥! 気が付いたか」

 突然、太い男の声がして、私ははじかれたように顔を上げた。病室にはいつの間にか恭太郎がやってきていた。慌てて居ずまいを正す。

「隊長……」

「寝たままでいい。遥、今回はご苦労だった」

「申し訳ございません、私の浅慮のせいで、隊員を危険にさらしてしまいました」

「お前だけに責任があるわけではない。気に病むな」

「……はい」

「佑は、なんとか一命はとりとめた。まだ危険な状態で、面会はできんが」

「そうですか……」

 私は安堵のため息をついた。

「司門の判断が速く、キャンプにすぐ戻れたのが大きいな。あいつは指揮官の才能がある」

「今回は、司門先輩に命を救われました。あのヒグマを倒せたのは、彼のおかげです」

「そうか……あいつは腕もいいからな。元気になったら礼を言っておくといいだろう」

「はい」

「それと、あの救護機械、サラダとかいったか。あいつが手術に尽力してくれたおかげでもある。あれは中々役に立つな」

「……」

「お前も、腕の怪我が治るまではよく休め」

「……ありがとうございます」

「良くなったら、佑の見舞いに行ってやってくれ。あいつも喜ぶだろう」

 私は少し驚いて、恭太郎を見つめた。恭太郎はにやりと笑った。嫌な笑い方だった。

「知らないのか。あいつは、お前のことを気にかけていたぞ」

「そうですか?」

「お前も十九だ。そろそろ、男女間の心の機微というものを理解した方がいい。いずれは、子供を産むことになるんだからな」

「それ以上、言わないでください」

「すまん、すまん。まだ、遥には早かったか。こんな時にする話ではなかったな」

 恭太郎のさっきの言葉の意味はこうだ。「早く子供を産んで、その子供を救助隊に入れてくれ」。どうも、恭太郎のこういう所は好きになれない。根っからの悪人ではないのだが、悪気がない分タチが悪いのだ。

「そんな目で見るんじゃない。最近、救助隊の人手不足が深刻でな……そのことばかり考えていたせいだな」

「別に、いいです」

「とにかく若手が足りないからな……、孤児院の人間に、救助隊になるためのサバイバル訓練などを受けさせてみる、といったことも考えているんだ」

「……え」

「まあ、無理に受けさせるつもりはない。でも、小さい頃から遥のように訓練に慣れていた方が、救助隊を志望する人間も増えるかと思ってな」

 何を言っているんだ。親を亡くした年端もいかない孤児たちに、危険な役目を押し付けるつもりなのか。それがどんなに非道なことか、分かっているのか。

 私はそう糾弾したかったが、言葉は喉に引っかかったまま出てこなかった。恭太郎の灰色の目には、純粋な正義しか宿っていなかったからだ。

「とにかく、早く体を治せ」

「ありがとう、ございます」

 私は今にも爆発しそうな感情を、できるだけ殺して答えた。恭太郎は私のわずかな声の震えには気づかなかったようで、頷いて病室を出て行った。

 恭太郎が去っていくと、病室は静寂に包まれた。


「は、」

 ようやく、吐き気の正体が分かって、私は乾いた笑いを漏らした。

 そうか、私は、心のある存在に奴隷のように扱われているということを認めたくなかったんだ。だから、にっくき機械には心が無いんだと、そう思いたかった。

 馬鹿だな、私は。

 最初から分かっていたことじゃないか。私を奴隷のように扱うことを決めたのは、そして今もそれを続けているのは、他でもない人間だ。キャンプの全員が、昔からそれを認めている。

 アテルイがナノマシンを通して私を制御できることは、一部の人間しか知らないが、それでも一緒に任務にあたる救助隊のメンバーは全員それを知っている。知っていて、容認している。あの香織でさえもだ。

 私はずっと人形だった。誰かに人間として認められたことなんて、きっと一度も無かったんだ。

 ただ一人、世奈を除いては。

「世奈、心配してるかな」

 私は無音の病室で、ただただ早く死にたいと願った。この願いを自分で叶えることすら、私には不可能だった。

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