④日曜日(前編) 遠回りする少女たち

 里見永遠(さとみ・とわ)。

 白樺高校一年B組、写真部所属。

 印象を一言でまとめるなら、部のマスコット。

 つまり幼く見える方向で可愛らしい一年生だ。

 身長が小柄、というだけではなく身の丈すべてが小さい。

 集合写真でもはっきり抜きんでた小顔に、靴選びに苦労しそうなほど小さな足先。

 それらによって妹扱いが馴染む。そしてその扱いに反抗するでもなく『可愛げがある』振舞いをする。 

 よく同性の先輩たちからはもちろん同学年女子からも頭を撫でられている。そんな写真部員だった。

 

 そして、彼女にはもう一つ部内で目立つことがあった。

 先輩の中でも新入生の眼を引きやすい志波沙央先輩と、始めから仲が良かった。

 前々からの知り合いのように話しているものだから、多くの新入生が仮入部時点で知り合いなのかと尋ねる。

 一学年上に姉がいて、その姉が志波沙央とずっと学校が同じで、十年近く親友を続けているのだと言う。

 昔からお互いの家によく遊びに行く関係で、今でも陸上部を同じくする。そのぐらいの仲良し関係。

 それは距離も近いわけだと皆が納得し、二年生の一人と仲がいいことによって他の先輩ともすっと会話がつながる。

 そういう同学年だから、学校で『志波先輩の事情を知っていそうな生徒』に当たってみるとして、すぐに候補に入れてもいた。

 

 しかし、休日にたまたま偶然なのか違うのかばったりと出会った里見永遠は、まったく違う意味で目を引くことになっていた。


「ごめん、話の流れを斬って訊くんだけど……デンキ屋にその恰好で来たのか?」

 

 そのファッションは、家電売り場で着るべきでないとか、TPO無視とかではなかった。

 しかし、地方都市の家電量販店にいて、とても浮くことは確かだった。


 学校ではサイズの小さな制服を折り目正しく着ている女子高生が、ゴスロリ服を着ていた。 


 いや、ゴスロリに該当する厳密なラインを渡しは知らないけれど、少なくともそれは『黒いロリータ服』だった。・

 ふんわりと膨らんだ漆黒のジャンパースカートに、半袖フリルの黒いシフォンブラウス。

 いかにもディズニーのアリスが履いてるようなロリータシューズもつやつやと黒かったが、タイツやフリルのレースには真っ白な差し色がある。

 小さくとも目鼻の配置が整ったいわゆるお人形さんみたいな顔は、それらのファッションによってすっかり等身大のアンティークドールがいるような凄みを放っていた。

 おかっぱボブの頭頂には大きなリボンの形をしたヘッドドレスが、真っ黒い蝶々のように留まっている。

 そのリボンだけが、学校と休日で共通しているところだった。

 学校でも髪留めだけは大きくてひらひらしたものを好んでいて、リボンやドライフラワーのコサージュを付けて部活に来ていた。

 しかしまさか、元からゴスロリ趣味のある少女が、頭にだけ面影を残して登校していた結果だとは思わなかった。


「私、休日はいつもこういう格好ですよ。カメラを見に来たのは、本命の用事じゃなくて時間潰しですけど」

「いつも?」


 同学年にもですます調で話すのは、いつもの彼女だ。

 昔から後輩にさえ年下と勘違いされることが多く、タメ口によって相手にむっとされるたびに年齢を申告するのが面倒で、常から敬語にしたとか。

 しかし身長差のおかげで見上げて話す目元には、学校では見られないマスカラだかシャドウだかで補正された眼光がある。

 肌の陶人形感を引き立てるメイクに、別人と話しているような緊張感はどうしてもあった。


「もともとは不審者とか知らない人避けを兼ねて始めたやつです。

 昔から、スナ先輩とは違う方向性で目をつけられることが何回かありまして。

 一番騒ぎになったやつだと、中学の時に盗撮されそうになったりとか。

 別にトラウマは無いんですけど、保護者はだいぶ心配性になったんですよね。

 だったら最初っから変な人でも声をかけにくい、一緒にいて目立つ感じの恰好してやろーって。

 黒い路線に行ったのは趣味かもだけど、可愛いーって友達受けは良いんですよ」

 

 ジャンパースカートの膨らみを両手指先で持ち上げて、服飾の良さを見せるようにヒラヒラとさせる。

 志波沙央先輩のことを『スナ先輩』と呼ぶのが当たり前になっているのは、後輩の中でも里見だけだった。

 盗撮という単語に、とてつもなく嫌な記憶がざりざりと脳をこすりながら浮上しかかったけれど。

 とてつもなく飄々と流すような言及に、そのぐらい軽いのだろうかと視界がギャップのブレを生じる。

 目の前にいるのは、そこそこ知っているはずだけれど初めて出会ったような少女だ。


「写真部の友達は皆知ってることだし、休日に会ったりする同級生には周知なんですけど。

 そう言う大宮くんは、電車通学ですよね? カメラを見る為にこっちまで出てきたのかな?」

 

 この規模の家電量販店なら、近隣の市にも似たような店はある。

 わざわざ近所でもない店に電車でハシゴするほど買いたいものがあるのか、というニュアンスだった。

 

「知り合いがこの店ではトイカメラが買えたって聞いたから来たんだよ。

 おもちゃ屋にしか売ってないと思ってたから、確実に買えるとこに寄っただけ」


 何も『昨日、密かに告白されたのがバレていたから学校に現場検証しに来たついでに寄った』とまでは言えない。

 とっさにそう考えたぐらいで特にこれといった危機感はなく、私は答えていた。



「もう同じトイカメラを持ってるのに?」



 だから、そう聞かれてはっきり「え?」と詰まってしまった。

 もう持っていると知られている。

 先輩から貰ったばかりのカメラのことを。

 つまり、告白を知っている人間しか知らないことを。

 外側から叩かれたように、心臓がいやな動悸をした。

 駆け引きをするような心構えなんて無かったから、背筋がすっと冷えた。


「もしかして、なんか答えにくいこと聞いちゃいました?」


 里見は口元にわずかだけ微笑を織り込んだ、人形のするような表情だった。

 涼やかな声のトーンは、風貌に合致してはいても感情を読むことがやりにくい。

 ただ素朴に問いかけているだけのようにも、カマをかけられているようにも見えてしまう。

 どうして知っているんだと聴かずには、話を進められない状況。

 つまり会話のキャッチボールは私の番でも、会話の主導権はこちらを見上げる少女が握っていた。


「……俺は、里見さんに自前のカメラを見せたことないけど」


 かろうじて、「先輩から貰ったこと自体を認めてはならない」という理性は働いた。

 駆け引きごとに自分がまったく不慣れだというのを、ものの数秒で実感してしまう。

 しかし里見は、明らかに私が過剰な動揺をしたことには何も言わなかった。

 私の制服のポケットに、すっと細い人差し指を向ける。 

 

「「見せてないって言うか、見えてる形が同じだなーって」


 ズボンのポケットは、小さく薄い直方体にわずか突起が付いたような、小さなカメラの形に膨らんでいた。

 全く同じ形のストラップ飾りでなければ、確かに商品棚のトイカメラと似たようなサイズ感と輪郭だった。

 しまった、私が勝手に深読みしていただけだったと納得しかけた。

 しかし会話している相手のズボンのポケットまでしっかり観察するだろうかという腑に落ちなさも残る。

 里見はさらにかぶせるように、まったく別のことを言った。

 

 コン、と背伸びするために踏み出されたロリータシューズが硬い足音を鳴らす。


「それはそうと、休みの日に制服で買い物する人も珍しいと思いますよ?

 私は姉やスナ先輩の練習を観に行くこともあるから、そういう時は土日でも制服で出ますけど」


 まず、聴き間違いでは無さそうなぐらいはっきりと。

 スナ先輩、という固有名詞を出す時だけイントネーションが他より強かった。

 もし意図的にそこを強調した場合、そこに含むような意味はシンプルな想像しかできない。


 あなたは、スナ先輩目当てに陸上部に行ってきた帰りなんじゃないですか、私はそれを察してますよと。


 この想像が当たっていた場合、もし告白のことがばれてないとしても私から先輩への好意は認知されている事になる。

 話を聞き出せる第一候補と思っていた女子が、むしろこちらの図星をぐいぐい突いてくるタイプの人だった。


「いや、自分の買い物じゃなくて、人に贈る用として見に来たって言うか……」


 とにかく私と先輩のことは曖昧にしようと、買い物の目的に話を戻した。

 さすがに本当のことは、『彼女からのプレゼントのお返しに、何か渡せないか考えていました』とは言えない。

 たとえ秘密にするよう頼まれてなかったとしても、『同じ部活でたまに話す女子』ぐらいの仲に打ち明けるには照れが大きすぎる。


「俺の姉貴がな。いや、正確には従姉なんだけど。最近、写真に興味を持ちそうな感じで。

 本格的なカメラだと高いし、布教の入り口ならこういうのがいいかなーとか考えてて」


 喋っているうちに『女性の身内宛てにに買うと言うのは、彼女がいる奴のよくあるバレバレ言い訳じゃないか?』と我ながら焦ったけれど。

 いやいや、従姉が写真部の先輩に自分の仲介で仲良くなろうとしてる以上、写真を布教する意思はあると思いなおす。

 それでも言い訳として苦しいことに変わりなかったけれど、里見からの淀みない追求は止まった。


「あれ、大宮くんはお姉さんいないって言ってたような……」


 それも、こちらが予想していなかったポイントをつぶやいた。

 それきり言葉が途切れて、目が泳ぎ始めた。

 焦って考えをめぐらせるような、せわしない眼球運動だった。

 天然だか計算だか分からなかった視線の圧が、すっかりあさってに向いていた。

 一学期に家族構成について訊かれたかは覚えていないが、『いない』とは答えたはずだ。

 さすがに兄弟姉妹はいるかどうかという話になって、従姉を姉として数えたりはしない。


「いや、実の姉はいないけど……そこ、引っ掛かるとこか?」

「ごめん待って…………ちょっと今、会話の前提がひっくり返ったかもしれない……」

 

 右の手のひらをこちらに突き出されて本当に『待った』をされた。

 初めて見る装いから齎される人形のたたずまいが崩れていた。

 都合の悪い話題を振られてもごもごする、ただの女子高生に近づいた。

 店内放送から流れる電器屋の明るい宣伝CMが、ずいぶんと空気を読まずに聴こえた。

 アナウンスで店の名前が楽しげに謳われてCMが終わるのと同時、里見の脳内で驚愕の結論が出たらしかった。



「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」



 人形とか女子高生とか通り越して、人として心配になる絶叫だった。

 そのまま、真っ黒いドレスの膝を負って、真っ黒い髪の毛の頭を抱えて、しゃがみこんでしまった。

 とてつもない晴天の霹靂が起こったのは分かったけれど、どういうことなのかは理解できない。

 あわや他の客や店員がびっくりして駆けつけて来ないかと、私は周囲を見回した。

 

「あの、里見さん? さすがに今の声は店を出た方が良いやつだと思うんだが……」


 たぶんこの状況を他人に見られたら、問い詰めは避けられないどころか下手すれば被害者と加害者だと誤解される。

 黒いロリータ服を着て新種のまっくろくろすけのようにうずくまり、恐慌下にある小さな女の子と、そのきっかけになったらしい男子高校生。

 里見には失礼だが小学生の迷子かとも思われそうだし、さらに自分が怖がらせたと誤解されればかなり面倒になる。

 今度はしゃがみ込んで呼びかけると、里見も我を取りもどしたように顔を上げた。

 

「ごめん、やらかした……うん、立ちます。これ大宮くんは本当に悪くないやつだから」

 

『本当に悪くないやつだから』をかなり周りに向けて言った上で、立ち上がる。

弁解するとしても、この場に居続けるのはまずいという判断力は戻ってきたらしい。


「店を出て、ちゃんと座れるとこで説明します……できればお詫びもさせてください」


 スカートの折り目や汚れをそそくさと確認するや、向き直って頭をさげられる。

 本当にどういうことだとは思ったが、とにかく人目が集まる前に店を出たかったので付いて行った。

 里見は通路を歩いている時は無言だったけれど、入り口の傘立てから少女趣味の黒い日傘を回収する時にぼそりと言った。


「…………従弟のことを『弟』って紹介するのは反則だと思うんですよ」

「紹介のやり方に反則とかあんの? いや待て。弟として紹介されたってことは、従姉に会ってる?」

「会ったことあるのは、私じゃなくてスナ先輩の方です」


 近くに静かでしばらく座れる場所を知ってるから、詳しくはそこでと炎天下に日傘を広げる。

 傘を担いで、即席の小さな日影を背負ったまま振り返り、「きっかけだけ言わせてもらうなら」と前置きを口にした。 


「一学期が始まってすぐ、まだ仮入部ぐらいの時期にスナ先輩に聞かれたことがあるんですよ。

『トワちゃんと一緒に入部しようとしてる子に、一学年上にお姉さんがいる男子はいなかったか』って」 




 スナ先輩……もとい、志波沙央当人からはだいぶ前に聴いた話だから、細かいところは違うかもしれない、と。

 そんな前置きのもとに、私はその『実際にあったらしい出来事』を聴くことになった。


 半年ほど時を戻してのこと。

 まだ冬が抜けきらない3月の前半だったから、ほとんどぴったり半年前らしい。

 当時は高校一年生の志波先輩にとって、その日は学年末テストの最終日だった。

 白樺高校は、テスト最終日までも律儀に部活を停止する。

 つまり、放課後になるとわっとした解放感とともに、校舎は早々に人気がなくなる。


 解放感と言っても、その日は昼前から冷たい雨が降りだし、空気はどんよりとしていたらしい。

 少なくとも、3月としては珍しいほどの最低気温だったのは私も覚えている。

 なぜ『私も』覚えているかというと、全貌を聴けばああその日かと思い当たる日だったからだ。

 その日は本当に寒かった。傘の用意だけでなく、しばらく使わなかったマフラーを巻いて登校したのを覚えている。

 登校後に行き遭った大人も子どもも、春物のコートではまだ寒かったねと、笑いながら震えていたぐらいだ。

 きっと高校の方でも、皆が校庭に出たとたんに「寒い」と震えるような、そんな放課後だったのだろう。

 

 その日先輩は、珍しく一人の下校になるはずだった。

 翌日になる前に提出する課題があったとか何とか、理由については伝聞のさらに伝聞だから曖昧だ。

 ただ、一人だけ下校が遅れる事情があったらしい。

 いつもなら、そういう時でも終わるまで待っているぐらいの付き合いをする親友が一人いる。

 しかしその親友も家族での祝い事があると、先に帰らなければならなかった。

 県下の中学校では高校より一週遅れの卒業式にあたる日で、親友の妹も卒業祝いをすることになっていた。

 

 だから彼女は一人だけで、彼女に遭遇した。


 薄暗く、ざぁざぁと雨音が聴こえてくる正面玄関にたどり着いたところで。

 ふだん利用しない別のクラスの靴箱の列から、咳の音がたて続けに聴こえてきた。

 のどに不調があるとはっきり分かる、ざらついた噎せ方だった。

 自分以外に帰りの遅くなった生徒がいて、しかも体調を悪くしているのかもしれない。

 そんな想像とともに靴箱を回りこんで隣の列に向かえば、その女子生徒がいた。

 

 咳のせいでうつむいて見える姿が、ゆっくりと背中をのばす。振り向く。

 スクールコートの襟元からタイの色が見えて同じ一年生だと分かる、でも面識はおそらくない女生徒。

 おそらく、とつけたのは理由がある。

 たとえ面識があったとしても、記憶と一致しなかったからだ。

 ぶかぶかと厚く巻かれたチェックのマフラーと、大きな不織布マスク。

 それで髪型と、顔の下半分とがすっぽりと隠れていた。

 眼鏡はかけておらず、裸眼同士で目が合ったかと思えば恥ずかしそうに視線をそらされる。

 なぜか焦ったような上ずり方で、『志波さっ……!?』と言いかけていた。

 明らかに地声からは遠そうな鼻声だった。そして向こうはこちらを知っているらしい。

 どちらにせよ、まず気にするべきは過去の面識よりも、いかにも体調が悪そうなこと。

 そして――。


「えっと……いきなり後ろからごめん。もしかして傘、持ってなかったりする?」


 ずばり、気になったことから話しかけた。

 しかし相手にとっては不意をつく図星だったらしい。


「こ、心を読んだ? ESP? 他心通?」

「いや、帰らずにずっと立ってたみたいだったから。あと、何か色々とよく知ってるね」


 気になったのは、この天気のせいで帰りあぐねているのではということ。

 1階の廊下から靴箱にたどり着くまでに、彼女の後姿を見かけたり足音を聴いたりはしなかった。

 つまり彼女はしばらく前から正面玄関にいたことになり、とても寒い雨の日に帰宅を躊躇っている。

 だとしたら迎えが来るのを待っているか、でなければ傘を持ってこなかった為に外に出られなくて困っているか。


「あ、うん……家を出るときに不覚を取ったというか。ここで雨が弱くなるのを待ってたというか」

 

 要するに寒さ対策ばかり気にしながら家を出てしまい、雨が降るのではという備えの方を忘れていたと。

 たぶん、名前を確認するならこのタイミングだったのだろう。

 しかし再び相手が咳き込み始めたので、質問が流れた。

 これ背中をさすった方がいいやつかなと近寄り、ちょうど咳がおさまったところで再び目が遭った。

 彼女がやや見上げ、こちらがやや見下ろす。それぐらいの身長差ができた。

 整髪料の匂いとは少し違う、パン屋のようなあたたかみのある甘い匂いがした。

 湿った寒い日だったけれど、明らかに風邪ひきの少女だったけれど、そんな陽性が印象に残った。

 そして、提案することはすぐに決まった。


「だったら入っていくといいよ。帰り道は一緒にするから」


 父親が重複買いで余らせた結果、おさがりで使っている深緑色の傘を手にして誘う。

 今はおさがりで良かった。男性用らしいそれは二人分入れそうなぐらいに大きかったから。


「えぇ!? そ、そこまではいいよ……電車通学だから、駅まで寄り道させることになるし」

「駅までね。そのぐらい全然行ける行ける」


 まず遠慮されるであろうことは予想済み。

 ただ放っておけない状況だったし、放っておくには気を引かれるところもあった。

 だから、断りにくくなる言い方に切り替えていく。


「もし二人で駅まで歩くのが大変なら、家の人に迎えに来てもらった方がいいと思うよ。

 そのまま病院に行った方がいいぐらいの感じに見えるけど……熱があるか、見てもいい?」


 そう言って彼女のおでこへと手のひらを近づける。


「分かりましたご一緒させてください」


 触られるのを阻止したいかのような早口だった。

 手をあてられるのも避けたいぐらい熱があるんだろうか。そう不安になった。

 なので、『送迎との二択だと迫れば選んでくれるでしょ』ぐらいのつもりで口にした保護者お迎え案が現実味を帯びる。


「もしかして無理してない? ご両親に来てもらうの、難しい?」

「咳は朝より悪化してるけど、歩いて帰るぐらいなら大丈夫。

 病院は降り駅のすぐ近くだし、降り駅の売店まで行けば傘もあるから」


 電車にさえ乗ってしまえば、あとは危険なく病院までたどり着けるということらしい。

『悪化してる』という言葉選びでは安心させるに弱いと気付いたのか、彼女は説明を足した。 


「うちの親はたぶん夜まで仕事。ううん、日中なら送迎をお願いできる人はいるんだけど、

 …………でも、まだ弟の卒業式に出てるかもしれないから」

「弟さん卒業するの? 中学?」


 中学の卒業式なら、普通は午前で終わるんじゃないか。

 そんな疑問もあっての聞き返しに、彼女は屋外時計の時刻に視線を走らせてから答える。


「弟の学校、卒業式が長引く方だから。午後からも最後の学活したりアルバム配ったり。

 だから保護者も、式の後には解散するけど、お昼挟んでから記念撮影に来る人もけっこういて……」


 要するに家族にとって記念すべき卒業式真っ最中かもしれないから、親を呼びつけて水を差したくないと。


「でも、卒業式に気を遣って悪化したら、周りも余計に心配するよ?」

「朝の時点では重くなかったから…………うん、自分の体調を見誤りました。反省してます」


 いくら何でも家族間で気を遣いすぎでは、と思わなくもなかったけれど。

 さすがにのどを痛めている子とさらに問答するよりは、相手の反省を信用することにした。

 校庭へと踏み出しながら傘を広げて、手招きする。


「ほら、濡れないように寄って寄って。しんどかったら、私にもたれかかっていいからね」 

「もたれるって、肩に? ……お、お邪魔しまーす」


 あんまり熱でふらついてるようだったら、電車も一緒に乗ろう。

 そのぐらいのつもりで距離を寄せたけれど、彼女はこちらに寄り掛かることだけは選ばなかった。

 代わりに、差しかけた大きな傘の持ち手を、手が重ならないような位置で掴んできた。

 傘を二人で差すような格好になって驚いたけれど、傘に重みが増したような感覚はなかった。

 女子としては背が高い沙央の差した傘に合わせて腕を持ち上げ、スクールコート同士がそっと触れ合う距離感はそのままに。

 しかし、寄り掛かったり傘にしがみつくのではなく、自力で傘を支えて歩ける状態だと示すような歩き方だった。


「無理してない? だいぶ本気で、もたれかかっていいよって言ったつもりだけど」

「自力で歩くのが厳しいなと思ったらお世話になるから。そのぐらい悪化してたら、電車に乗る前にお母さん呼ぶつもり」  


 今の状態がしんどくなった瞬間が、判断の分かれ目になる悪化ラインだという線引きらしい。

 いつも通りが維持できないと悟る時点まで甘えないのは、責任感もしくは意固地さの発露かもしれない。

 しかし 『これができないと分かったら頼る』という基準をわざわざ設定するところが独特というか、体調が悪い時にこだわるなぁと印象に残った。

 こちらとしては歩きにくくは無かったけれど、傘の引っ張り合いのような歩き方になっても負担が大きいと思って、傘を掴みなおした。

 持ち手をそれぞれ別々に掴むのではなく、彼女の手ごと包みこむような持ち方に。

 彼女が熱いカイロでもあてられたように手をこわばらせたことに、だいぶ馴れ馴れしかったかと思ったけれど。

 傘はしっかりとまっすぐ安定していたし、誰かに見られて何かを誤解されるわけでもないならいいかと彼女を促した。

 掴んだ手を傘ごと前に傾けて『行こう』と示し、彼女に歩幅を合わせて雨中の校庭へと歩き始める。

 彼女の横髪を、斜めに見下ろすような位置関係でゆっくりと。

 傘をぱらららと、乱暴な打楽器のように穿つ雨音を聴きながら。

 今日が卒業だった人達は大変だろうねと、天気の悪さについて呟く。

 返事があったとしても『うん』という頷き一つだろうと思っていたけど、彼女は改めて口を開いた。

 

「弟、卒業するまでに色々あったから……今日ぐらいはしっかり浸らせたいと思って」


 たとえ悪天候だったとしても、記念すべき日にしたかったのかもしれない。

 そう言えば親友も一つ下の妹の卒業を楽しみにしていたな、と思い出して何となく他人事とは思えず。

 あまり喋らせるのは良くないかもと思っていたのに、つい質問した。


「弟さん、もうすぐ白樺(うち)に入るの?」

「うん。あの子たぶん写真部に入ると思うから、その時はよろしくね」


 それまでで一番元気そうというか、弾んだ声の『よろしくね』だった。

 微熱にともなって、気持ち自体はふわふわしていたのかもしれない。

 道中ではそれ以外にも『写真部に入るなら』というのを話題の入り口にして、楽しげに話してくれる。

 のどの痛み自体は継続しているらしく、ぽつりぽつりと、ではあったけれど。

 雨の途切れない音に包まれながら、言葉は途切れがちに二人だけに聴こえる大きさで。

 その弾んだ空気のまま、駅までで大丈夫だという言葉を信じてすっとお別れした。

 不思議な時間が終わってから、やっと彼女の名前その他を聞けてなかったと気付いた。


 そもそも、『部活の見学などで一方的に顔と名前を知られている』という経験は中学の頃から珍しくなかったので、不信感はなかったけれど。

 もしマフラーやマスクその他のせいで分からなかっただけで、過去に話した事がある仲だったのだとしたら。

『傘を貸した女子生徒のことを、名前は知らないけど探している』という探し方をするのはだいぶ相手にとって失礼かもしれない。


 

 それでも、来年度はもうすぐという時期でもあったので。

 次の新入部員から『上の学年に姉がいる弟』を探せば、すぐに特定できるよね、と。

 そう思ってしまったために、志波先輩はしばらく熱を入れて探そうとはしなかった、ということらしい。



 ◆◇◆◇



「いや、そりゃどの生徒か分からなくても仕方ないやつだ」

「ですよね!」


 里見は喫茶店の和やかさを乱さぬほどには小声で、しかし力強く首を縦に振った。

 まだお昼時というにはやや早い時間帯もあってか、数組あるテーブル席にもカウンター席にも他の客はいない。

 私達のテーブルにホットケーキとサンドイッチを配膳し終えた店主のお爺さんだけが、レジ前に腰かけて新聞を広げている。

 全国チェーンの飲食店が並ぶ国道沿いを逸れて、しばらく横道を歩いたところに立地した純喫茶店の長閑さだった。

 木造の広い洋間にテーブルを置いたようなレトロ喫茶は、クラシカルな西洋喫茶というよりは昭和から何十年と続く下町喫茶店の趣きだった。

 それでも電器屋よりずっと、里見の浮世離れした恰好に馴染んでいた。


 落ち着いて話せる穴場というだけでなく、二人で話しているところをデートだと誤認されないようにも配慮したのだろう。 

 そこは市街に住む馴染みの大人が立ち寄りそうな店ではあっても、高校生が喋り場として訪れる雰囲気の店ではなかった。


「それで里見さんは、二年にお姉さんがいる男子部員はいない、って教えたのか?」

「大宮くん以外にも、仮入部していた男子には全員聞いてみたけどゼロでしたから。

 スナ先輩は、『あの子は嘘言ってる感じじゃなさそうだったよ』って残念そうにしてましたけど。

 私は、弟さんの方で気が変わって入部を止めたんじゃないですかって言ってみて、先輩もそれに納得したみたいです」

「その時は、『ちゃんと風邪の子に挨拶したかったけど、機会を逃した』ぐらいの話でおさまったってことか」


 里見の語ったことに対してお互いに溜息をつき、『それは勘違いが起こって当たり前だ』と共感し合う。

 彼女はフォークに刺したホットケーキの一部を、私は食べやすくカットされた玉子サンドをそれぞれ頬張った。

 二人とも半端に時間があったので早い昼食を食べるつもりだったのは、もともとの予定通りのことだ。

 ちなみに社会的な窮地は運よく避けられたこともあり、お詫びをしたいという話はしっかりと断った。

 しっかり焼き目もついたサンドイッチをサクサクと味わって呑み込み、自分から話を再開した。 


「幾つか、補足説明の要りそうなところがあるな」

「そーですねー。体調が悪い時に自分の親じゃなくて従弟さん一家に連絡するあたりは違和感ありましたね」

 

 今度はこちらからあれこれ説明する番になりそうだったので、私は少しだけ水を飲んだ。 

 

「じつは実莉のところは母子家庭で、叔母さん……母親が昔から会社勤めで忙しかった人でさ。

 うちは近所で母親姉妹が仲良かったから、子どもの送迎とかはだいたい我が家の方が任せろって言う関係だった。

 こっちの母親が割と平日に動けるから、小学生の頃から体調が悪くなったりしたらうちの方に連絡することになってる」

「…………だいぶ、ご家庭が複雑な感じでしたか」

「まぁ、姉貴とか弟って呼んでたのは、そんな感じだったせいなのはあるかもしれない。

 小さい頃から叔母さんに用事があったりすると、実莉を預かるのとか普通だったから」


 里見はぱっちりと長い睫毛をこちらに傾けて視線を落とすと、まだ残っていたホットケーキにはちみつを注ぎ足した。

 こげ茶色のホットケーキがこがね色の蜜にだばだばと染まっていく。

 話が踏み込んだところまできたので、糖分を補給したくなったのかもしれない。


「言われてみれば。スナ先輩にも『親の一人は忙しくて難しい。他に呼べる人がいるけど邪魔はできない』って言い方ですね……」

 

 話の整合性を確かめるように呟いて、フォークにさしたホットケーキの欠片をぱくりと口におさめた。


「俺の卒業式だったから遠慮して連絡を控えてたってのは初耳だったけどな。

 あの日は、晩に叔母さんから祝いの電話がきて、実莉は風邪気味だって言われたのは覚えてる」


 中学で不登校騒動が起こって、その翌年に紆余曲折あっての卒業式だったから、我が家の母親は小学校卒業の時の比ではないぐらいに感じ入っていた。

 高校の合格発表が出た日には、『これまで本当にありがとう』と武藤家に報告という名のたいそう手厚いお礼参りをしていた。

 あの感動に水を差したくない、というのは実莉の性格なら考えそうではある。

 さすがにそのせいで体調を悪化されたくないのが本音だけれど。

 当人も反省していたというならくどくど蒸し返すつもりはなく、『ほんとにアイツは……』という後ろめたい納得が最後に残った。

 ともあれ、『ずいぶんと姉弟仲が良いんだなぁ』という方に話が引っ張られても恥ずかしいので、私は話を進めた。


「他に納得いかない所はある?」

「そーですねー。いくらマスクで顔が隠れてたからって、後になって見分けつかないぐらい別人に見えるものかなって引っ掛かりました」


 私は里見から聞いた話を思い出し、そして先輩の記憶力に問題があるようには疑われたくなかったので説明した。


「従姉は元からそんなに濃くないっていうか、目立つ顔をしてない方ではある。

 いつもは眼鏡かけてるんだけど、先輩と会った時はそれも外してたみたいだ。

 風邪が頭にきてる時に眼鏡かけたくない人はいるし、たぶん従姉もそれだから。

 眼鏡の有る無しで目元の印象は変わるし、マフラーで肩が隠れたら髪型も分かりにくい。

 そこに鼻声で声も変わってたなら、挙動とかもあわせて印象はがらっと変わってたと思う」

「改めて言われると、『誰かこっそり尾行するつもりだったの?』ってぐらいに顔の露出を変えてますね……」


 ちなみに志波先輩がうちの従姉を『いい匂いだった』とか言ったことだけど、たぶん飼ってる猫の匂いだと思う。

 猫はシャンプーと日向ぼっこを欠かさなかった場合、パン屋に入ったみたいないい匂いがする。

そして従姉は、全世界の猫中毒がそうするように、よく吸っている。


「どのみち一緒に帰ってる間は、顔はよく見えなかったんじゃないか?

 実莉の頭がちょうど先輩の肩によりかかる感じの身長差だったんだろ?

 先輩視点だと、話してる間は髪の毛しか見えない距離感だと思う」

「大宮くん、だいぶ細かいところに目を付けますよね……それはそうと従姉さんの名前は実莉さん、と」


 フォークの湾曲した部分でパンケーキからこぼれたはちみつを器用に掬い、はちみつ単体で口にしておいしそうに顔を綻ばせる。

 きらびやかな服を着ている時にはちみつが盛大にかかった物を食べるのは普通なら大変そうだけれど、その所作はすっかり慣れた手つきだった。


「下の名前が実莉で、眼鏡をかけてて、先輩との身長差は肩のあたりまでぐらい……。

 それって、もしかしなくてもたまに図書室で受付やってる武藤実莉先輩のことです?」

「里見さんこそ細かいところまで覚えすぎてないか?」


 確かに武藤実莉は図書委員で合っている。

 しかし普通は図書室を使ったとして、当番の名前ひとりひとりを覚えたりしない。


「何か月か前に、探してる本を見つけるのを手伝ってもらったことがあったので。

 それに謎の女子生徒の相談を受けてから、時々それっぽい二年生がいたら気にしてたんですよ。

 見た目は分からないけど、スナ先輩の話からすごく真面目そうな二年生のイメージは持ってたので。

 でも、一年生に武藤っていう名字の男子がいないから、すぐに候補から外してました」


 それだけの目配りをして探そうとしていたにも関わらず。

 『実は弟ではなく従弟でした』という引っくり返され方をしたなら、反則だと言いたくなる気持ちは分かる。

 まさか従姉の方も、風邪で熱っぽいテンションのまま『弟』と呼んだせいですれ違うなんて、予想できなかっただろうけど。


「俺ら、学校では別に『従姉弟です』とか公言してないからなぁ……。

 高校にもなると、学年と男女を越えて学校で絡むことなんて無いし」

「私は姉やスナ先輩の友達グループともカラオケに混ざる仲ですけど……ちなみに午後からの用事もそれです」 

 

 それで先輩たちに陸上部の練習がある午前中の間は、寄り道でぶらぶらしていたのか。

 早く来週のデートに来てほしいと思ってる身としては、幾らか羨ましかった。

 同時に、『その頻度で先輩の友達に会うなら、先輩のことで彼女に相談できるアドはでかい』と打算的な期待も持ってしまう。


 出会ってからこっち、『もしや私が先輩と付き合っているとばれているのか?』と思わせる、意味深言動は引っ掛かるけれど。

 少なくとも『武藤実莉のことを図書委員以外で知らなかった』と話している感触は、とても素直そうで嘘っぽくない。

 これでもしも『従姉と先輩を近づけないようにする一派に加わっていました』という真相だったなら、演技の才能があり過ぎる。

 それに万が一にも『首謀者側として何か知っている』なら、リスクはあるけれどそれはそれで接点を断ってはいけない相手だ。

 

 私はサンドイッチを咀嚼する間を使って、どうにかそこまで頭を整理した。


「それにしたって、さっきは驚きすぎじゃないかとは思うけど。

 先輩からすれば――」


『先輩からすれば、一目ぼれして次に会えたら告白しようと思ってた生徒、っていうほどの話でもないんだろ?』

 ……とでも言えば、『私と先輩がすでに恋人になった』と知っている者はわずかでも表情を変えるかもしれない。

 打算ではそう思いついたけれど、本当にそのカマかけは発言できなかった。 


「先輩からすれば――従姉と話したいのを里見さんに妨害されたわけでも無いし。

 四月に探してみたけど弟がいなかったから諦めた、ぐらいの未練だったんだろ?」

 

 カマかけの為とはいえ、『自分はもう恋人になったけど従姉は先輩に好かれたわけじゃない』と思わせる発言はしたくなかった。

 たぶん探偵行為として真相を明かしたいなら、ハッタリの優越感だろうと使っていくべきなのだろうけど。

 どうしたって私のすることは人生初めての探偵もどきにしかならない。


「えと……驚いて大声出したことは、本当に大宮君にも巻き込み事故でした、うん」


 さすがに自分にとっても恥ずかしいことだったのか。

 里見は食事の手を止めるどころかナイフとフォークも置いた。

 話題をそっちには向けてほしくない意思表示に、げふんげふんとわざとらしい咳払いの声と仕草をする。

 それとなく『話したいのを妨害』というワードも捻じ込んでみたけれど、そちらに動揺した気配はなかった。

 

「私だって、探してたと言っても一学期の間ずっと気にしてたわけじゃないんですよ。

 ただ入学してすぐの頃、ゆー姉が家を空けてる時に先輩とこんなことがあったよーって話になって」

 

 有生(ゆう)という姉の名前を、妹は『ゆー』と緩めの発音で呼んだ。

 しかし、さらっと先輩が里見家に来ていることは前提にして語られているけれど。

 それは説明において省くぐらいには、日常的で普通のことらしい。


「その時は、風邪の人を送って行った話なのに、ずいぶん楽しいことみたいに話すんだなーって、しばらく引っ掛かってました」

「さっき聞いた話も、先輩がだいぶ細かいことまで覚えてるみたいだったからなぁ……」

  

 私としても、『雨の日に一緒に帰った思い出』を先輩の方もしっかり覚えていたことには正直ほっとした。

 実莉はずいぶん前から志波先輩を眼で追っていたように語っていたけれど。

 そんな中、たった一度だけ同じ傘で帰ったという思い出を特別に大事にしていることは明らかだった。

 なんせ、似たような傘を手にしてその日の再現をしながら歩くというのは、かなりの重みを持った体験記憶だ。 


 それが『相手からは個体認識する手段がありませんでした』だけで終わってしまっていれば、さすがに悲しい。

 いや、認識してもらえない恰好をしたのは実莉自身なんだけれども。


「でも、さっきあれだけ驚いたのは、タイムリーに続きがあったからですね」

「待って、さっきの話で終わりじゃなかったのか?」


 ただでさえ『わたしの知らない従姉と彼女の話』が出てきて驚いているところだった。

 そこにまた別のことを切り出され、どういうことだと身構える。


「つい昨日、スナ先輩から言われたところだったんですよ。

『トワちゃん、一年のクラス発表の時の写真残してない?』って……」

「ん……? それは、どのクラスに誰がいるか知りたいってこと……だよな?」

 

 高校には、個人情報の観点から教員以外に向けてのクラス名簿というものは無い。

 しかし白樺校ではクラス発表の時だけ、各自の教室が分かるように扉に座席配置図が掲示される。

 規則上では撮影、公開が禁止になっているけれど他のクラスの掲示も含めて撮影する生徒は多い。

 それ無しにクラスメイトの名前を覚えるのは簡単では無いし、人間関係にまめな生徒は中学が同じだった人のクラス分けを一通り覚えたいので全クラス分撮る。

 その写真をまだ保存していれば見せて欲しいというのは、一年生の名前と在籍をひと通り確かめたいという意図しかない。


「見せたの?」

「さすがに私も他のクラスまでは保存してなかったですよ。でも、何に使うのかは聞いてみたら。

 今になって、『一年男子と二年女子で同じ苗字の人を照合したい』とか言うんですよ。

 いつかの見つからなかった女の子のことが、やっぱり諦めきれないからって」

「え……四月に探して見つからなかった女子のことを、今になってまた?」


 それも昨日だという。

 私が実莉から相談を受けたり、先輩とデートの約束をした前後という事になる。


「しかも『諦めきれない』って……だいぶ強めに会いたさを押し出してる、よな?」


 四月の時点で気になって探していたというのは、そこまでおかしな動機ではない。

 見送りをした後で風邪は本当に大丈夫だったのか心配していたとか、改めて挨拶したかったとか。

 とにかく先輩のコミュニケーション範囲の広さを思えば、他の人にだってそうしたような行動だと思う。


 しかし、夏休みも終わってしまった今になって再燃するのは、タイミングとしてはだいぶ遅い。

 しかも私と付き合うことになった翌日というのは、関係あるのかは分からないにせよ彼氏としては気になる。


「ですよね。私も同感だったので、『実はその人のことが好きだったの?』って言ってみたんですけど。

 めちゃくちゃきっぱり『カノジョにしたいとかそういうのじゃないから』って否定されました。

 付き合いの長い私から見ると、照れて否定したんじゃなく、ガチめに否定しときたいって感じでしたね」


 先輩はカノジョを作ることを本気で否定した、という一点のせいで心臓が跳ねたのもそこそこに。


 続けて気付いたのは、『いや、先輩の方からも実莉に会いたがっていたというなら、だいぶ接触はスムーズにならないか?』ということ。

 どういう心境かは分からなくても、当人同士が会いたがっているというなら話はまったく簡単なことじゃないか。


 巡り巡ってもたらされた事実に、身構えた緊張感がどっとほどけた。

 比喩ではなく座り方がくずれて、椅子からややずり落ちた。

 

 「……じゃあ何か? あの二人は、ずっと両片思いだったかもしれないってことか?」


 私が介入して推理するまでもなく、謎めいた問題の一つはすぐ解決するかもしれない。 

 この時点ではそう認識して、背もたれに体重を預けると大きく息を吐きだした。

 しかし、話はそこで終わりにもならなかった。



「大宮君、『両』片思いって言いましたか?」



 レトロ喫茶の、静謐で洋装をしても馴染みきった空間を味方に付けて。

 里見永遠が聞き逃せないというように、身を乗り出していた。

 訊かずにいられないことを見つけた瞳が爛々としている。


 すぐに言葉のあやだと言いなおすことはできたけれど。

 実莉の『志波さんには』片思いを知られたくないという言及の意味を少し考えて。

 そして、むしろ里見と先輩の親密さを考えれば、隠しごとにして拗らせる方が火種になると思いなおした。

 ここは防御を固めるのではなく、会話で里見を引きこんだ方が良いところだ。


 『先輩との交際を秘密にする』約束を守り、『実莉への妨害をおおごとにしない』という結果は前提にして。

 里見永遠を協力者として見定めることが、まず日曜日の難所になる。

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百合の間に挟まる男が推理をすることになった 夜縫 @8nn_nui

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