第36話 彼女の母親との

 彩花と一緒に暮らすことが決まったのは急だった。最初は春から一人暮らしをするつもりでいたが、ある日、彩花のお母さんから頼まれた。一緒に住んでほしいと。


 頼まれたときはこの年で男子一人で暮らそうとしているところに女子を放り込むのはどうなんだと思っていたが、今は彼女と過ごす生活が楽しくて気に入っている。


 お願いねと頼まれて一緒に暮らしているが、いつか終わりは来る。彩花と過ごすこの時間が永遠に続かないことは自分でもわかっている。


 もし、彩花がこの家を出ていく日が訪れたら俺はどうするのだろう。引き止めるのだろうか。


 3月の終わり。俺は彩花のお母さんに呼ばれてとある喫茶店へ来ていた。このことは彩花も知っていて彼女もついていくと言っていたが、今日は小雪さんと約束があるそうだ。


 俺はドキドキしながら喫茶店に先に着き、彩花のお母さんを待つ。


 呼び出しなんて今までなかったから嫌な予感しかしない。今までお世話になりましたと言いに来るのではないかと思ってしまう。


 何も頼まず居座るのもあれなので、コーヒーを頼み、しばらくするとコーヒーがテーブルへ置かれた。


 まずはそのままを味わい、そして砂糖を入れる。苦いのが好きだが、今日は甘いものが飲みたい気分だ。


 砂糖を入れて1口飲むと後ろから名前を呼ばれた。


「匠くん、久しぶりね」


 声を聞いて、後ろを振り返るとそこには彩花のお母さん、如月琴音がいた。電話で時々彩花のことを話していたことはあっても会うのは1年振りだ。


「お久しぶりです」


 立ってペコリとお辞儀する琴音さんは小さく微笑み、俺の向かい側に腰かける。


 話す前に琴音さんも飲み物を頼み、注文し終えて店員さんがいなくなると琴音さんはニコッと微笑んだ。


「彩花はどう? 迷惑かけてないかしら?」

「心配しなくても大丈夫ですよ。家事は手伝ってくれたりしてますし、仲良くやってます」


 たまに抱きつかれたり、布団に侵入されたりしてます。なんてことは絶対に言えない。


「それなら良かったわ。彩花、昔、匠くんにベッタリだったから甘えてばかりだと思って……任せっきりじゃなくて安心したわ」


 琴音さんはホッと安心したようで届いた紅茶が入ったティーカップを持つ。


 この流れだと俺が予想していた感じの話はなさそうだ。そう思い、コーヒーを飲もうとカップに口をつける。


「そう言えば、彩花とは結婚するのかしら?」

「!」


 急な琴音さんの発言に俺は口に含んだコーヒーを危うく吹き出しそうになった。


 小さい頃にそういう話はしたが、あれは本気で約束したわけじゃないはずだ。


「そんな予定はないですよ。付き合ってませんし」

「そうなの? 千夏さんからいい感じと聞いたからてっきり付き合ってるのかと」


(お母さんは琴音さんに何て言ったんだ……気になるから後で聞いておこう)


「付き合ってませんよ。けど……俺は、彩花のことが好きです」


 好きな彼女の親に娘さんが好きですと告白するつもりなんてなかった。けれど、気付けば口にしていた。


 俺の告白に琴音さんは、嬉しそうに小さく微笑んだ。


「ふふふ、彩花もきっと匠くんのこと好きよ。彩花ったら電話の時、いつも匠くんのことばかり話してるから」


 俺のことばかり……琴音さんに何て話してるんだろう。悪いことじゃないといいけど。


 いや、まさかお揃いの服買ったとか、抱きしめられたとかそんなこと言ってないよな!?


 恐る恐る琴音さんのことを見ると俺に向かって微笑んでいた。その笑みを見ているとそのまさかが本当じゃないかと思ってしまう。


「これからも彩花のことお願いします」


「はい。琴音さんは、またこれから戻るんですか?」


「いいえ、今日はホテルに泊まって明日、彩花と1日、日本でゆっくり過ごすつもりよ」


「そうですか。彩花、今日、俺が琴音さんと会うことを言ったら羨ましそうにしてました」


「明日会えるのにね。けど、私も早く彩花に会いたいわ。今日はお友達と遊ぶ約束があったみたいだからしょうがないけど」


 そう言って小さく微笑む琴音さんを見て俺はずっと見覚えがあるような気がしていた理由がわかった。ある共通点を見つけて俺は心の中で笑ってしまう。


(笑う仕草が彩花と一緒だ……)


「夕方には帰ってると思うんで琴音さんも一緒に夕食どうですか? 彩花、きっと喜ぶと思います」

「……いいのかしら?」

「俺は大丈夫ですよ。彩花の喜ぶ顔見たいですし」


 久しぶりにこちらへ帰ってきた琴音さんに彩花は早く会いたいはずだ。サプライズで今日、連れていったらどんな表情をするだろう。


 俺がそんなことを考えていると同じことを考えて琴音さんがキラキラした目をしていた。


「いいわね。彩花にサプライズしましょ」

「……同じこと考えてますね。彩花に内緒にしましょう」


 この後、軽くカフェで雑談し、琴音さんは一度今日泊まるホテルへ戻るらしく俺の家には夕方頃に来るらしい。


 カフェを出て、琴音さんと別れると俺はこのまま家に帰ろうかと悩む。家に帰っても彩花はいないし、急いで帰る必要はない。


(近くのショッピングモールにでも行って靴でも探そうかな……)


 行き先を決めて後ろを振り向くとそこには雨咲さんがいた。


「うおっ、あっ、雨咲さん!?」

「驚かせるつもりはなかったのですが、永瀬くんが急に後ろを振り返るのでこちらも驚きました」


 胸に手を当てにこりと笑う彼女の笑顔はまるで天使のようで見とれてしまいそうだった。


「ところで、私達、友達と呼べるぐらいの仲だと思うのですが、これからは下の名前で呼び合いません?」

「下の名前で?」

「はい。さんづけだと少し距離がありますし」

「まぁ、確かに……」


 雨咲さんとの付き合いは2年半はあるし、友達ではあるだろう。


「匠くんとお呼びしても?」

「うん、いいよ。じゃあ、雨咲さんのことは、奏さん……いや、奏でいいかな?」

「!」


 奏と呼ぶと彼女は固まってしまった。さんづけの方が良かったのかな。


「奏?」

「……す、すみません。友達には呼ばれますが、あまり男の方に呼ばれたことがないので。男の方で親しいのは匠くんだけですから」


 まだ呼ぶことになれていないのか奏は顔を赤くして、最後になるにつれて声が小さくなっていた。


「では私は行きますね」

「うん」


 奏と別れ、俺は琴音さんが家に来る前にスーパーへ寄ることにした。

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