第4話 もう一回、もう一回
意識が浮上し始めた。
耳に入ってきたのはそれまで何度も繰り返してきた、あの昇降口の静けさではなく、たくさんの人が何かをヒソヒソとなしているような声だった。
次第に視界が開けていく。
肩を叩かれたことに驚いて、無理やり瞼をこじ開けた。
もしかしたら、また光弥がいつものように声をかけてくれているのかもしれない。
朝のホームルームが始まるぞって、早く起きろって、またお節介を焼きに来てくれたのかもしれない。
机にうつ伏せていた身体を勢いよく上げて、その正体に向けて顔を上げた。
「上手くいったな。やっと居なくなってくれたよ」
おれはその顔を見て、その言葉を聞いて、絶望した。
あぁ……あれが最後のチャンスだったんだと気づいた。
黒板に書かれていた日付は9月2日。前の夢からかなりの時間が経ってしまっていた。
もう夏休みが終わってしまっている。
それが意味するのは、二度と光弥に会えないということ。
それはおれだけじゃない。以降クラスメイト全員が、光弥に会うことは出来なかったはずだ。
教室を見渡してみると、クラスメイトたちが各々の定位置で雑談をしている。
ただ、普段は教室内に響き渡るくらい大きな声で話している愛歌は珍しく自分の席に座ったまま俯いていた。
美々果なんかは、おれとはまた別の怯えというか、何かそんな感情を抱きながら周囲を気にするようにキョロキョロと視線を動かしていた。
そうだ。
あの二人がそれまでの様子から少し変わっていったのも、光弥が居なくなってからだ。
「おい、聞いてんのか駿!行くぞ」
「え、行くってどこに……もうすぐホームルーム始まるけど……」
「あ?何お前まで光弥みてぇなこと言ってんだよ。あいつはもう居ない。やっとうるせぇのが消えたんだから、おれらはおれらで自由にやろうぜ?」
剛義くんはおれの返事なんか待たずに、首根っこを掴むように、おれの襟元を引っ張り上げて無理やり席から立たせると、おれのことを教室の外へと連れ出した。
そうだ。
おれがすっかり剛義くんの言うことを聞いて回るようになったのも、光弥が居なくなってからだった。
剛義くんの顔色を窺って、剛義くんが授業を抜け出してサボる時にはついていった。
おかげで授業にはどんどんついていけなくなった。
もうその頃には、不良への憧れなんて無くなっていた。
授業を抜け出してもいいのかな、先生にバレたらどうしよう。親に知られたら?みんなが白い目を向けてくるのが辛い……。
それでもおれは剛義くんに逆らう勇気すら出せなかった。
そして放課後、剛義くんがどっか行った隙におれは学校を飛び出して、光弥の家まで必死に走った。
この時ばかりは、夢の中の身体が再びおれの意思に応えてくれた。
当時のおれは、この時も光弥の行方を知ろうとはしなかった。
けど、今は一刻も早く光弥の家に向かいたかった。
学校には来てないだけで、まだ家には居るんじゃないかって。
息が切れて喉が、胸が痛くなっても、足がどんどん重たくなっても、走り続けることを止めなかった。
学校を取り囲む田園通りを抜けて、その中に浮かぶ島みたいに見える住宅街に突っ込んでいく。
そうしてたどり着いた光弥の家。
けど、やっぱり光弥の家は、おれの記憶の中に残っている光弥の家と同じ、もぬけの殻になっていた。
光弥の両親が乗る二台の車も無い。
ただ呆然と、光弥の家の前で肩を上下させていると、隣の家からおばちゃんが出てきた。
「あら、金魚さんのとこの。駿くんだったね。大変だったねぇ、言われのない罪を押し付けられそうになったなんて。光弥くんがまさかあんなことするなんて思ってなかったから、おばちゃんもびっくりよ。うちの孫の相手も嫌な顔せずしてくれて、良い子だと思っていたけど、裏の顔があったなんてねぇ」
「お、駿じゃん元気か?ほんとうちの娘の相手もしてくれてて助かってたけど、一体どんな目で見てたんだか」
光弥の向かい正面の家からも、若めな男勝りの母ちゃんが出てきて話に参加してきた。
二人はいつも光弥の家の前で井戸端会議をしている奥さんたちで、ここらの奥さん方の中心的な存在だ。
光弥はこの二人の話し相手も上手くこなしていたこともあって、近所からの評判も良かった。
「あんたも残念だったねぇ、一言文句言いに来たのかもしれないけど、一週間くらい前に出ていったっきり、坂比良さんたちは帰ってきてないよ」
若い奥さんの方が、腕を組みながら光弥の家を睨みつけて言う。
やっぱり、もう居なくなってしまっていた。
記憶の奥底に沈んでいたこの時の記憶が呼び起こされる。
おれの弟の
海斗はおれよりも光弥のことを慕っていた。それもおれの劣等感を刺激させていた。
思い出したのは、海斗が光弥の弟が急遽転校することになったと言っていたことだった。
隣町なのか、県内なのか県外なのか。どこの街に引っ越したのかは分からないということだったはずだ。
こうして、光弥たちはおれたちの前から姿を消したのだった。
限界を超えて走ったからなのか、次第に視界が暗くなり、おばちゃん達の話し声も遠くなっていく。
そして、身体の感覚も無くなった。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
頬と胸、お腹の感覚から、身体の前面を床につけて倒れているのが分かる。
その感覚を受けてゆっくりと目を開けて、手で地面を押すようにして起き上がる。
久しぶりの身体の感覚だ。
ちゃんと自分の意思が瞬時に伝わり、手の平の感触が直で届く。
「おれの身体……元に戻ってる」
夢から解放されたんだろうか。
いや、まだ夢の中なのかもしれない。周囲はただの真っ黒な空間だ。
光源が無いのに、自分の身体だけはハッキリと見えることに違和感を覚える。
やはりまだ夢の中なのだろう。きっと身体だけが元に戻されたんだ。
すると、どこからともなくコツコツと靴底が鳴るような音が聞こえてきた。
気づいた時にはそれは姿を現していた。
和服を身にまとい、少し厚めな靴底の黒い靴を一歩一歩踏み出し、ボブヘアの黒髪を揺らしながらこちらに向かってくる。
血色の悪い青白い肌に、血が溜められているような、業火のような赤く染った瞳。そして開いた口から見えた犬歯。
「あっ……」
カラオケのモニター越しに
『君はまた繰り返してしまったな』
冷たく言い放ったその中性的な声に、おれは取り返しのつかないことをしたのだと、本能で悟った。
額や背中にはぶわっと脂汗が滲み出してきている。
夢の中何度も現れた光弥。
繰り返された光弥とのやり取り。
光弥との別れをきっかけに元に戻ったおれの身体。
やっと分かった。
彼が言っていた、彼の元に現れた一人の少年はきっと、光弥だったんだ。
ってことは、光弥は……。
「待ってくれ!!次は失敗しない!!あそこが分かれ道だったのは今ので分かった!!今度こそ――――」
『今ので分かっただと?君にとって、彼との記憶はその程度でしか無かったと?』
彼の放った威圧感に言葉を発するどころか、息をすることもままならない。
『そのもう一度をやらせてあげたじゃないか。彼に対する罪悪感や、後悔を強く抱いていれば、今更気づくなんてことは無かったはずだ。ずっとずっと反芻して、あの時こうしていればと強く悔いている者であれば、同じ結果にはならない。私はこれでも機会を与えた方だよ?当時よりも成長した精神である君を、記憶の中の当時の君の中に入れてあげたんだから』
彼の言葉は刃のようで、身体の奥深いところまでを突き刺され、抉られたような気分だった。
「んな事言ったって……夢の中のおれは、おれの思ったように動いてくれなかった……」
だけど、言われっぱなしは癪だった。機会を与えたとは言うものの、あんなままならない身体で、どうやって当時の光弥とわだかまりを解消しろと言うのか。
『……なるほど。記憶の中の、当時の君の身体に君の指示や思いが伝わらなかったのは、私の不備であると、そう言いたいんだね?』
「それは……その……」
彼は顎に手を当てながら、考えるフリをしている。
『もう一度いうが、私は君の精神を当時の君の身体の中に入れて追体験させてあげただけだ。筋書きを書いた訳では無い。分かるかい?』
「……あんたは悪くないって言いたいんだろ」
『まぁそうだね。だって君の中にある記憶を呼び起こしただけなんだもの。つまり、しっかり言ってやるとするなら、筋書きは全部君の頭の中にあったんだよ』
「は……?でもおれは―――」
『簡単なことさ。今でもまだ、君は心のどこかで自分は悪くないと思いたがっているんだよ』
今度こそ、おれは何も言い返すことが出来なかった。
どこまでも見透かしているような、彼の瞳がおれのことをしっかりと捉えていた。
ずいっと顔を近づけた彼の炎のような瞳は存外透明感があって、もどかしそうに、こんな状況になってもまだ何かを反論しようと口をわなわなと動かしているおれの顔が映っていた。
『まぁ自分を責めることは無いさ。大概の人はそう簡単には変われない。むしろ自分を責めない人の方が生き残ることが多い。君はずっとそうしていればいい』
微笑みかけるでもなく、蔑むでもなく、ただただただ涼しい顔を向けた彼は、くるりと背を向け、また遠くへ歩いていってしまう。
「待って……待ってくれ!!」
当然待ってくれるわけが無い。
「頼む……!!こんなところで一人にしないでくれ!!」
分かってる。
あいつを独りにさせてしまったのはおれだ。
「お願いだ!!もう一回だけ、もう一回だけチャンスをくれ!!」
分かってる。
あいつにはそのチャンスすら無かった。
おれはそのもらったチャンスまで無駄にしてしまった。
「……悪かった。ごめん、ごめん光弥!!ごめん!!!ごめんなさい!!!」
分かってる。
きっと、もうこの声だって届かない。
「光弥、ごめん!!!本当に……ごめん!!!光弥……!!!」
罪記の背中が見えなくなるまで、そして、見えなくなってからもずっと、おれは叫び続けた。謝り続けた。
許してくれるなんて思ってない。
この声が届いているわけが無い。
けれど、届くまで謝り続けるしかない。
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