第4話 一緒にいること
あいりは、
「都合のいい女」
というものになった一番の理由は、
「いつもそばにいてくれる男性」
に憧れていたからだった。
自分を都合よく扱う男は、他のことは別にして、
「いつも一緒にいる」
ということだけは、守ってくれた。
あいりは、今25歳なのだが、今までに何人かできた彼氏は、いつも一緒にいるというような相手ではなかった。
「彼女といるよりも、男友達と一緒にいる方が楽しい」
と思っている男だったり、
「絶えず、女性の影が見え隠れする」
というような、男性ばかりだった。
二十歳前のあいりは、完全に、イケメンしか、男は眼中にないタイプだった。
「相手はビジュアル的にいい男ではないと、ガマできない」
というようなタイプで、どこか、ミーハーなところがあったのだ。
きっと、それは友達の影響が大きかっただろう。
男性のタイプにも、自主性のようなものがなく、
「好きだと思う人は、まるで、イケメンの標本のような男性ばかり」
だといってもいいだろう。
だから、下手をすれば、
「誰もが好きだ」
と思うようなタイプを好きになり、自分の好き嫌いというよりも、自分の目が間違っていなかったということを模索しているかのようであった。
だから、彼女は、
「ミーハーと言われれば喜ぶ」
のであった。
あいりという女は、
「ミーハーだったり、自分が好きな男性を皆が好きになるということに喜びを感じるということであるが、安心したいだけではないだろうか?」
と、あいりのまわりにいる人は、そう分析する。
あいりという女は、まわりから見ていて、
「分かりやすい女だ」
ということであった。
その安心を手に入れるために、
「人と同じということ」
が、その前提だった。
「分かりやすい女だ」
と言われることも、嫌いではなかった。
普通なら、
「ディスられている」
と言ってもいいはずなのに、実際には、皮肉だと思ってもいないようだ。
「分かりやすいということは、人から勘違いされることは少ないだろうが、安心できるところなんだわ」
と感じるのだ。
だから、
「都合のいい女」
となりやすいのだろうし、逆に、
「都合がいい女でも、相手がしっかりしていれば、安心感につながる」
というものだ。
「都合のいい女にしたてるやつに、しっかりなどしているわけはないだろう」
と思えるのだが、あいり自身が、安心感を抱いているのだから、これは、もうどうしようもない。
あいりが付き合った男性は、正直、イケメンばかりだった。それが悪いというのは、語弊があるが、疑いを掛けるくらいに感じてもよさそうなものなのに、なんら、疑いを掛けることもない。
それだけ、頭の中が、
「お花畑」
と言えばいいのだろうか?
気にしているまわりが、バカバカしくなるくらいだった。
そんなあいりのことを絶えず気にしている、幼馴染がいた。名前を、田代清隆という。
田代は、あいりの性格を正直怖がっていた。
相手をバカ正直に信じてしまい、いつもひどい目に遭っているあいりのことを、真剣心配しているのだ。
「何で、お前はいつもそうなんだ」
と言って、呆れている様子ではあるが、心底心配しているのだ。
人から、自分の行動を諫められることを非常に嫌がるあいりだったが、田代から何かを言われると、まるで、
「借りてきた猫」
のようにおとなしくなるのだ。
大丈夫か?」
といつも心配してくれる田代のことを、心の中で慕っているのだろう。
しかし、あいりには、田代という人間を、
「彼氏として見ることはできない」
と思っていた。
あいりは、確かにイケメンであるが、田代もそれなりに、
「イケている顔立ち」
であった。
実際に、田代は人気がある。そんな田代のことを気にしないふりはしているが、ほとんどの人が、
「あいりは、田代のことが好きなのではないか?」
と感じるレベルであった。
田代は、あいりのことを言われると、
「ああ、ただの幼馴染だからな」
というだけで、鼻にも掛けていない様子だが、あいりの方は、
「田代君とは、幼馴染なだけよ。私のタイプじゃないわ」
と言いながら、実は意識しているのであった。
とは言っても、その意識している様子を意外と分かっている人は少ない。
それだけ、
「幼馴染」
という言葉は、その力が強いのだろうか?
確かに幼馴染と言われると説得力がある。
特に、女の子に、男の子のファンがいれば、幼馴染の女の子から、
「ただの幼馴染で、彼とは何でもないわ」
と言われると、それだけで信じてしまうだけのことはありそうだった。
「だったら、私が狙っちゃおうかな?」
と言われたとすれば、
「ええ、いいわよ」
と言いながら、内心では、ビビっているかも知れない。
それまで、他の女性には興味もないというような幼馴染が、ひょっとして、他の女の子に靡いたとすれば、どうなるかということを考えるであろう。
「今までは、私が一人で独占していたのに」
という気持ちが、こみあげてくる。
子供の頃から、
「彼は私のものだ」
と思っていたとすれば、恋愛感情がそれまでなかったとしても、急に何かが不安になることだろう。
その時初めて、
「私は彼のことが好きだったんだ」
と思うかも知れない。
それを思うと、
「幼馴染という言葉は、誰にも犯すことのできない二人だけの世界なのかも知れない」
と感じるのではないだろうか?
田代とは、中学時代に、
「付き合ってみようか?」
という、一種の、
「お試し感覚」
で付き合ってみたことがあった。
二人とも、その時まで、誰とも付き合ったことがなく、ある意味、まわりから見ても、
「なるべくしてなったカップル」
という感じたった。
アニメなどでも、幼馴染が中学時代に付き合い始めるどという話は、ベタ中のベタなくらいに、まるでお約束のように描かれている。
しかし、そんな二人がハッピーエンドになるのを見ると、
「このマンガ家には、幼馴染と付き合って経験なんかないんだろうな」
と思った。
幼馴染との付き合いというのは、実は難しいのではないだろうか?
普通であれば、
「お互いに酸いも甘いも分かっている仲なので、うまくいくんじゃないか?」
と思うだろうが、実際はその逆もあるわけで、特に思春期という複雑な時期であり、お互いのことを分かりすぎているだけに、
「気の遣い方を間違えると、どうなるか?」
ということが分かっているのだった。
だから、お互いにどこか、ぎこちなく、付き合い始めてからの二人はどこか、よそよそしい。
それを思うと、付き合うということが苦痛だと思えてきた。
「別れようか?」
言い出したのは、どっちだったのか、覚えていないが、相手も二つ返事で、その言葉を待っていたかのように、
「うんうん」
と答えたのだ。
お互いに別れることで、足枷が外れたように軽くなるのだった。
なぜなら、
「別れというものは、離別というわけではなく、ただの幼馴染に戻るだけだ」
ということだからである。
しかし、しばらくの間二人はきつかった。お互いに、嫉妬というものを感じるようになった。
それは、一度でも付き合った相手だからではないだろうか?
「だったら、付き合うことなど、しなければよかったんだ」
と後悔してしまったのだ。
付き合うということが、どのようなものなのかを味わってみたいということでの、
「お試しだった」
のだ。
しかし、お試しを行ったツケは、大きかった。好きだと最後まで思うことのできなかった相手と付き合うことは、なぜか、嫉妬という意識だけを残すことになったのだ。
「好きでもない相手なのに、嫉妬心だけは湧いてくるんだ」
という感覚が、実におかしなものだった。
それは、田代の方でも同じようで、大学生になった頃、二人で昔を懐かしがって話をした時に分かったのだが、
「えっ、何? お互いに嫉妬してたんだ?」
と言って、二人で笑ったものだった。
交際が終ったといっても、元の幼馴染に戻っただけで、
「やっぱり、この関係がしっくりくる」
と感じていたのだった。
確かに二人は付き合ったということは確かであろう。
しかし、その意識は、別れると同時くらいに、なくなっていった。
「遠い過去の記憶」
のように、意識に留まることはなく、記憶へと移行していったのだ。
田代は、あいりにとって、最高の、
「相談相手」
だったのだ。
二人の交際はうまくいかなかったが、誰かと付き合うことになりそうな時、必ず、お互いに、報告し合って、相手の意見を聞くのが恒例となった。
「そんなことしてるから、嫉妬心が湧いてくるんじゃないか?」
と言われるかも知れないが、それはそれで悪くないと思うのだった。
嫉妬心は、なるほど湧いては来るが、それ以上に的確なアドバイスを与えてくれることで、嫉妬に苛まれるよりも、アドバイスを与えてくれる方が、ありがたかったのだ。
アニメなどの、
「ベタな付き合い」
が、実際にリアルな関係であるかどうかは、その人たちや環境にもよるのだろうが、アニメとしては、結構人気があり、
「幼馴染同士は、あまりうまくいかない」
ということが、リアルでは、まるで暗黙の了解のように思われているということで、アニメとはいえ、うまくいくのを見るのは、爽快だと思えるからなのかも知れない。
アニメのようなベタなストーリーは、精神状態によって、正反対の効果をもたらす。
「そんなバカなことはない」
というリアルを考えてしまう時と、
「こんな関係になれればいいな」
という、夢見る気分になっている時である。
どちらがいいのか分からないが、ベタな内容のアニメを見てしまうのは、
「そのどちらでも、嫌ではない」
と思うからではないだろうか。
どっちに転んでも、嫌な気分がしないというのは、気が楽なもので、普段から、考えすぎてしまったり、考えが一周まわってしまったりする人には、本当に気が楽だといえるのではないだろうか?
幼馴染がいてくれると思うだけで、あいりの気持ちはスーッと楽になっていくのであった。
「彼のような気分になれる、彼氏ができればいいんだけどな」
とあいりは思うようになっていた。
「だったら、彼でいいんじゃないか?」
という人もいるだろうが、
「幼馴染」
というワードは思ったよりも、自分を締め付けるようだ。
あいりは、
「難しいことは分らない」
と自分で思っていた。
軽い躁鬱症にかかっている。精神的には、躁鬱症の気があるのだろうが、その影響が身体に現れることはないので、病院には行っていない。
本当はいくべきなのだろうが、まわりにバレるということも、自分で認めなければいけないということも、嫌だったのだ。
何と言っても、
「自分で認める」
ということに、すごい勇気がいりそうな気がする。
「躁鬱症ですね。薬を出しておきましょう」
と言われ、大量の薬の山を見せつけられたり、
「これから、治療をしていきますので、定期的に通ってきてください」
などと言われると、病院にくるだけでも勇気がいるのに、
「これじゃあ、症状が出ていなくても、病院にくると、症状が出る」
という、悪循環に陥ってしまうのではないか?
と感じるのだった。
いろいろ調べてみると、実際の躁うつ病、いわゆる、
「双極性障害」
と言われるものは、身体に変調をきたしたりするものだということだ。
そこまでひどくはないが、意識として、躁状態、鬱状態、そして、その混合状態も分かっていることで、
「ああ、自分の中の躁鬱が始まったんだ」
と思うのだった。
鬱状態に陥ると、
「何をやっても楽しくない」
という思いを中心として、
「いつも何かを考えている」
と思っている自分が、鬱状態でも絶えず考え事をしているのだが、それが、空回りして、その先にあるものが何であるか、分かっているはずなのに、敢えて、分かろうとしない自分がいることを感じる時であった。
まるで、奈落の底まで続いている、螺旋階段を、降り続けているように感じる。それこそ、
「負のスパイラル」
ということを感じさせるものだった。
そして、鬱状態の特徴というと、
「色」
だったのだ。
昼間の比較的明るい時間は、信号機の赤い色は、ピンクっぽく見えて、青信号などは、今度は緑色に見えるのだった。
特に夕方の時間の、
「ろうそくの火が消える寸前」
というような時間帯はそうだったのだ。
しかし、これが火が沈んで夜になると、信号機の、
「赤信号も、青信号も、より原色に近づいていき、信号機が鮮やかに見える」
のだった。
夕方の時間は、昼間にたまった疲れが、凝縮されたかのように、色が混じってしまって、混在した状態になり、渋滞している気分になってくるのだった。
信号機の明るさが、自分の中でいかに精神を表しているか?
そして、精神を蝕んでいるかということに、気付くのが、
「躁鬱状態の時だ」
というのは、皮肉なことなのかも知れないと感じた。
確かに、鬱状態の時は、自分でも何ともしがたいことになるのだが、それ以上に、やりたいと思うことが、カオスな状態になるからなのか、
「何をしていいのか分からない」
という、
「負のスパイラル」
に入り込むのだった。
信号機の、
「青と赤」
とは別に、黄色い明かりを感じる時がある。
それは、
「鬱状態から、躁状態に切り替わる時」
だったのだ。
それを感じる時というのは、
「トンネルの中にある、黄色いランプが、その信号機を彷彿とさせるものだ」
ということであった。
トンネルから先を見ると、遠くの方に、出口のようなものが見えた気がする。それが実際に本当の出口なのか、それとも、別のものなのか、分からないのは、一瞬だけだった。
しかし、出口だと思うと、次第に出口が大きくなり、トンネルの中の黄色い空間に、表の明かりが差し込んでくると、爽快さが生まれるのだ。
それが、
「鬱状態からの出口」
となるのだが、鬱状態というのが、本当に普通の状態になるのならいいのだが、それを通り越して躁状態になってしまう。
躁状態は、確かに、鬱状態よりは精神的に楽なのかも知れないが、決して、
「いいことだ」
とは言えないのだ。
躁状態というのは、
「何でもポジティブになり、今まで辛かったと思っていたことでも、できる気がするし、何でもできてしまうというような気分になる」
という意味で、
「いいことばかり」
と言えるのかも知れないが、
「すべてにおいて、いいことだ」
とは、言い切れないだろう。
逆に、
「鬱状態の方が、まだマシだった」
ということが言えるかも知れないくらい、深刻なこともあったに違いない。
それを思うと、あまり余計なことも考えられないだろう。
うつ状態に入ると、
「何をやればいいのか、分からない」
と考えると、前に書いたが、そこに至るまでに、自分の身体が、いうことを聞かないくらいになることもあれば、鉛のように重たい身体を動かそうとして無理が祟って、目がくらんでしまって、動けなくなることで、そんな動かない身体に苛立ちを覚えながら、頭が混乱するからであろう。
さらに、もっとひどいのは、
「人間不信」
であった。
あいりは、友達がそんなにいる方ではないので、今は相談するのは、田代だけだった。学生時代には、結構いろいろな人に、相談したり、話を聴いてもらったりしたが、最初は何とか聞いてくれる人も、何度もになると、だんだん避けるようになってくる。
彼氏ができて、その人に、
「私、精神疾患があるの」
と最初に話をすると、
「大丈夫だよ。そんなことは気にしないから」
と言ってくれたので、それが嬉しくて、ついつい調子にのって相談してみると、どうやら、話が違っているようで、
「そんな病気を持っていても気にしないよ」
というだけのことで、
「気を遣って気を付けてあげよう」
という思いを持ってくれるものだと思っていたが、それは大きな間違いだったようだ。
精神疾患といっても、いろいろあり、前述の双極性障害、統合失調症、健忘症なども、その一つになるかも知れない。
だから、普通の人に話すことと同じ感覚で話をするわけにはいかない。
相手は、
「普通にいつも通りしてくれれば、それでいい」
と言ってくれるだろうが、その時々で精神状態が変わることを考えると、
「話す内容も、気を付けないと、相手を怒らせてしまったり、内に籠ってしまったりして、今度は、自分が何をしていいのか分からず、パニックになってしまうだろう」
相手に、
「パニック障害」
があったりすると、こちらがパニックになることで、最悪な状態になるのではないか?
と言えるであろう。
できた彼氏も、あいりほどひどいものではないが、軽い精神疾患があった。
言い方は悪いが、
「中途半端な疾患」
ということなので、
「自分が一番苦しんでいる」
というような、錯覚をしているようだった。
だから、あいりに対して気を遣っているつもりでも、きっと頭の中で、
「自分の方が、気を遣ってもらうべき人間なのではないか?」
と思っているのではないだろうか?
しかし、あいりはそれくらいのことはわかっていた。だから、彼が、
「せっかく気を遣ってくれているのだから」
と思うのであって、そのために、あいりの方が彼に気を遣うという、ある意味、
「本末転倒」
な状態になるのだった。
あいりにとっては、
「百害あって一利なし」
それでも、気にかけてくれるのは、ありがたいと思うのだが、鬱状態に入ってくると、自分の精神状態を抑えることができない部分は、自分の中で消費できずに、ストレスとして溜まってくるのではないだろうか?
だから、あいりは、
「疾患のある者同士が一緒にいるというのは、難しいことなのだろうか?」
と思うようになっていた。
お互いに、相手への悪影響となり、
「性格を打ち消し合っていうような気がする」
という、泥沼に入り込んでいるように思えるのだった。
今のあいりにとって、一番求めたいのは、
「とにかく、一緒にいてくれる人」
というものであった。
それは、お互いにマイナスの影響を与える人であってもかまわない。そう感じてしまうだけ、不安であり、人に委ねてしまう気持ちになるのではないだろうか?
だが、あいりが鬱状態になった時のことを、中途半端な疾患のある彼に分かるわけもなく、相変わらず、自分のことしか考えていない彼にとって、
「あいりは、自分を補助してくれる相手」
ということでしかなかったのだ。
「同じように疾患を持っている人だから、少々のわがままは聞いてくれる」
という甘い考えを持っているようで、自分よりも、さらにきつい障害を持っている人がいるということすら気づいていないということなのであろう。
だから、あいりが最悪の精神状態の時、彼が、いつもの、
「甘え」
で近寄ってくると、あいりの方は、必死に避けようとする。
そのうちに、相手の顔が化け物に見えてくるという環境で、
「私にとって、やっぱり、彼は、毒でしかないんだ」
としか思えなくなった。
さすがのあいりも、別れを告げることになった。
相手は、
「どうしてなんだい?」
と言って、永遠に理解できないであろう理由を考えるが、当然、分かるはずがない。
そのうちに、気持ちが不安だけに包まれて、被害妄想の気がでてくるのだった。
被害妄想は、
「信じている相手に裏切られた」
という気持ちになるらしい。
あいりは、
「裏切るも何も、信じられていたという意識すらない。慕われているとは思っていたが、それは、孤独と不安を和らげるためだという、自分勝手な考えからだったのだ」
それを考えると、
「二人の間には、外国語くらいの言葉の壁のような結界を感じる」
と思えた。
外国語を、辞書も何もなく、もちろん、知識もないのに、理解しようというようなものである。
つまりは、手掛かりなどというものはどこにない状態で、二人の間にあるのは、まるで、
「ベルリンの壁」
を彷彿させる、
「大きな結界だ」
と言えるのではないだろうか?
結界というものが、どういうものなのかということを考えると、その結界を作っているのは、あいりではなく、彼の方ではないだろうか?
ということは、あいりには、その結界に対しての対応ができるわけではなく、結局は、
「自分が、彼なら大丈夫だと思ってしまったことが、そもそもの間違いだった」
と言えるだろう。
だが、あいりにとって、
「今一番誰かにいてほしい相手」
という人を探しているのに、その人が、結界を持っているということであれば、そもそも、無理難題だったといってもいいだろう。
どちらかというと、自分が相手にとっての、
「今一番誰かにそばにいてほしい」
と思うことで、求められた人物になってしまったのだ。
他の人になられてしまっては、どうすることもできない。
「そばにいてほしいはずの相手が誰なのか?」
最初にそれを考えなければいけなかったのに、考えたことは、
「誰かにそばにいてほしい」
ということを、闇雲に考えることだった。
結局、目標を見失ってしまい、結果、目的が果たせないということになってしまったのだろう。
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