第2話 好きになるということ
実は、三津木自身、
「今までに一番好きだった相手は誰だったのか?」
と言われたとすれば、それは、その時の彼女だったに違いない。
彼女だけは、今まで付き合ったり、結婚までした人にはないものがあった。
それが、
「一目惚れ」
ということであった。
どちらかというと、
「好かれたから、好きになる」
というタイプか、
「嫌いになられずに、長く一緒にいてくれる人なので好きになった」
という、
「相手によって、自分の気持ちを気づかされた」
と思える相手ばかりだったのだ。 前者は、明らかに自信過剰であり、後者は、控えめと言ってもいいくらいであった。
だから、
「自分が本当にその人を好きになって、付き合ったのだろうか?」
と思わさせるのだ。
だが、それもすべてが後になって感じることであり、付き合っている時に訪れる別れに対して、まるで、
「お約束」
のごとく、
「なぜか、いきなり相手に別れを告げられた」
というものであった。
自分を、
「悲劇のヒーロー」
に仕立て上げたいということなのか、結果としては、ショックがかなり尾を引いてしまっていて、それだけ、まわりの目と、自分で感じる思いとの間に、ギャップを感じさせるのであった。
まわりの目は、
「なんと情けない男なのだろう?」
と思いで見ているだろう。
別れを告げられたことで、まわりからの目と同じ感覚をまず感じるのだ。
すると、自己嫌悪に陥ってしまい、そこから鬱状態になってしまうと、今度は定期的な躁状態の転機のその時に、
「俺が、まず好かれたから好きになったと考えることが、まず間違いなのではないか?」
と感じるようになると、
「好かれたから、好きになる」
という感覚を、
「悲劇のヒーロー」
として、仕立て上げることに一役買わせるのは、どこかが違っているのだろう。
だが、三津木は、
「好かれたから好きになる」
というシチュエーションが基本的に好きだった。
何と言っても、先に好かれるということで、相手に対して、
「優位に立てる」
という感覚になるからではないだろうか?
そんな風に感じるのだった。
ただ、この場合の優位というのは、
「自分がフラれてしまったことへの言い訳にするには、せっかくの優位が、まったく違ったものになる」
ということである。
それを思えば、
「今回は一目惚れだった」
と思うことで、
「今度は、絶対に別れなどありえないんだ」
とばかりに感じたのだった。
実際に一目惚れをした時、自分でも衝撃のようなものが走ったような気がした。その衝撃というのは、
「好きだ」
という感覚とは違う気がした。
それまでに人を好きになったのが、
「好きになられたから好きになった」
というものであったが、今から思うと、それすらも勘違いだったような気がする。
別に好きになられたわけでもなかったからで、好きになられたと思ったのが錯覚であり、錯覚からの勘違いが、まるで一周まわって、勘違いの勘違いから、本当は、好きになられたと思ったのは、ただの、社交辞令だったようだ。
「難しく考えてしまう」
ということで、
「辻褄を合せよう」
としてしまうのだろう。
そんなことを考えていると、
「好きになられる」
ということは、
「本当は相手のことを好きになることで、初めて得られることではないか?」
と感じるようになったのだった。
そういう意味で、この時の一目惚れは、最初から、
「これが一目惚れなんだ」
ということが分かった気がした。
そしてその理由が、
「自分の理想とピッタリだ」
と思ったからだが、考えてみれば、
「彼女が自分の理想の相手だと思ったのは間違いない」
と思うのだが、実際には、
「理想の相手」
ということは、この時初めて自覚をしたような気もした。
そうなると、一目惚れの定義として考えられる、
「好きになった相手が、理想の女性だ」
という理由は、辻褄が合わなくなってしまう。
それでも、一目惚れをしたということに間違いない。その女性というのは、雰囲気としてまず感じたのは、
「とにかく、おとなしそうに見える女性」
ということだった。
「物静かな女性が好きだ」
という思いは、何となく自分でも分かっているような気がする、
あれは、小学3年生というから、まだ思春期にも達していない、本当の子供だったではないか?
だから相手を、
「女の子だ」
という意識はあっても、
「異性」
という意識でもないのだから、仲良くなりたいと思っても、それは、
「好きになった女性」
ということでの、
「カウントしてはいけないのではないか?」
ということであった。
ただ、子供の頃に感じたのは、
「彼女が、俺のことを好きになってくれたような気がした」
という思いからだった。
実際に一目惚れをした相手に対しても、一瞬だけだが、
「好きだという意識が彼女にあるのかな?」
と思ったのではないかと思った。
だから、彼女のその視線に気づいたことで、三津木は彼女を初めて意識したのであって、その時に感じたその思いが、間違いなく、
「人を自分が好きになった瞬間だ」
と初めて気づいたからではないだろうか?
大学時代には、何人かの女性と付き合ってきた。そのほとんどが自分からの告白であったが、断られることはなかった。
そして、そのほとんどの女性が、ほとんど狂いないといってもいいくらいに、
「おとなしい女性」
だったのだ。
「おとなしそうな女性に、告白すれば、大体失敗しないだろう」
というそんなおかしな自信めいたものが、三津木にはあった。
確かにその通りだったのだが、それは、
「おとなしい女性が相手だからうまくいったのか?」
あるいは、
「相手が誰であれ、告白すれば、すべてにおいて失敗はないのか?」
ということを考えると、後者はありえないと思った。
その頃の三津木は、自信過剰なところがあり、好きになった相手が、間違いなく、
「断られることはないだろう」
と思っていたのだが、おとなしい子意外に告白しようとは思わなかった。
そもそも、
「告白するというのは、断られることがない。成功だけを求めてすることではなく、交際をしたいという思いからするものだ」
という、
「超がつくくらいに当たり前のことを理解していなかったのではないか?」
と感じたからであった。
「告白したことで、相手が交際してくれるということになれば、そこから交際が始まるのだが、果たして、おとなしくないと思える女性と真剣に付き合っていけるだろうか?」
と考えたのだ。
「おとなしくない女性」
というのは、
「賑やかな女性」
というだけではない。
確かに賑やかな女性もその中に入るのだが、
「自分というものを全面に押し出して、グイグイこちらに迫ってくるような女性」
というのも苦手だった。
賑やかな女性が苦手だというのも、
「相手のことを考えずに、土足で相手の領域に入り込んでくる」
というような相手を感じるからであって、本来なら、そこまでということはないのだろうが、
「賑やかな女性も、相手にグイグイくるところがあり、この場合は、相手が誰であれという理屈が備わるだけで、結局は、相手のことを考えていない」
と言えるのではないだろうか?
柔らかくいえば、
「空気が読めない」
ということになるのだろう。
よく言われる、
「空気が読めない」
という発想も、本当は、
「空気が読めない」
わけではなく、自分が目立ちたいということが前面に出るので、
「空気が読めないから、相手のことを考えられないのか、相手のことが考えられないから、空気が読めないのか」
と考えてみたが、しばらくの間、自分で、その結論は出ないでいた。
しかし、実際に、一目惚れというものをしたと思うようになると、基本は、相手のことが考えられないということになるのだろう。
そうなると、
「相手のことが考えられないから、空気が読めない」
というような気がするのだった。
一目惚れをしてしまうと、正直、相手のことを考えていることができないほど、相手が気になってしまうのだった。
何とも、理不尽な考えであるが、
「人を好きになるというのは、理屈ではない」
と言われることがあるが、まさにその通りだということを、証明するかのような言葉であった。
一目惚れとは、
「空気が読めなくなるほどに、人を盲目にしてしまうものなのかも知れない」
と考えると、
「一目惚れなんて、本当はいいことではないのではないか?」
と思えるようになってくる。
そのことを、無意識に感じるから、
「一目惚れを今までしなかったのではないか?」
と思えるのだ。
だが、本当に、
「してはいけない」
という一目惚れをしてしまったことで、果たして本当に、後悔の念が現れたのかというと、実際にはそんなことはなかったようで、
実際にしてはいけないと思っていることが、本当にしてはいけないことなのかどうか、考えてみれば、怪しいものだった。
人間には、実際に、
「してはいけない」
という概念が、昔から存在している。
いわゆる、
「見るなのタブー」
と言われるものであるが、これは、いろいろな時代に、全世界で言えることであった。
古くは、
「旧約聖書」
から始まった。
本当の最初である、
「アダムとイブ」
の話からであり、
「食べてはいけない」
と言われている、
「禁断の果実」
を食べてしまったことから、人間は、
「恥辱」
というものを感じるようになった。
という考えであった。
「ギリシャ神話」
にもあった。
パッと、
「見るなのタブー」
を感じた時、出てきたお話が、このギリシャ神話における、
「パンドラの匣」
の話だった。
この話は、奇しくも、
「開けてハイいけないものを開けてしまった」
という意味で一致するところで、日本のおとぎ話としての、
「浦島太郎」
の話に酷似しているといえるのではないだろうか?
「パンドラの匣」
という話は、
「開けてはいけないと言われていた箱を開けてしまったことで、その中から出てきた不幸」
というものが、蔓延ることになったが、最後には、
「希望が残った」
と言われるものであった。
「浦島太郎の話」
というのは、
「竜宮城から帰ってきて、知っている人がいなかったことで、落胆してしまい、自暴自棄になった太郎が、箱を開けると、そこから出てきた煙で、お爺さんになってしまった」
というようなお話だった。
この二つ物語の、
「見るなのタブー」
というものは、若干違った発想であった。
状況としては、浦島太郎の話の方が、リアルにつらい話だった。
何と言っても、
「数日しか経っていないと思われた時間が、実際には数百年経っていて、気が付けば、知っている人が誰もいなかった」
という話だった。
自分に置き換えて考えればどうだろう?
夢も希望もまったくなく、後悔だけが残るのではないだろうか?
「では、この場合の後悔とは、何であろう?」
竜宮城に行くきっかけとなった、そして、この物語のプロローグである、
「カメを助けたこと」
であろうか?
それとも、
「ノコノコと、助けた相手がお礼のつもりなのか何なのか、正直分からない状態で、何の疑いもなく、カメの背中に乗って、竜宮城に行ったことなのか?」
ということである。
このお話は、本当はハッピーエンドなのだが、少なくとも、
「陸に戻ってくると、自分の知らない世界になっていた」
ということは、紛れもない事実である。
ラストは確かに、乙姫様が陸に上がって、二人は末永く暮らしたということでのハッピーエンドだというが、果たして、それが浦島太郎にとっての幸せなことだったのだろうか?
自分の生まれ故郷の村で、静かに暮らしていくのが、彼なりの幸せだったのかも知れない。
しかし、この話は、浦島太郎の視線から足掻かれてはいるが、実際に、
「お話の続き」
を見ると、そこからの主人公は、完全に乙姫である。
そう、この話は、
「前半は、浦島太郎の話で、後半は、乙姫の話なのだ」
ということである。
これが、
「おとぎ話ではなく、小説だ」
ということになれば、理屈は分からなくもない。
だからこそ、この話は、最後は、
「玉手箱を開けると、お爺さんになってしまった」
ということで、おとぎ話としては終わりにしたのかも知れない。
そもそも、
「カメを助けるという正しいことをしたのに、最後にはお爺さんになったということで終結してしまうということになれば、これほど理不尽なことはない」
と言えるのではないだろうか。
しかし、結果として、バットエンドになってしまうというのは、
「おとぎ話」
というものの性格上、おかしいのではないかと考えられる。
しかし、ラストが、
「乙姫様の話が中心で終ってしまった」
ということになると、考え方としては、
「最初から乙姫様が計画したことではないか?」
と考えられる。
「乙姫様が、一目惚れした浦島太郎を何とか自分のものにしたくて、仕組んだことだ」
と考えれば、辻褄が合うこともあるのではないか?
最初のカメが苛められていたというシーンだってそうだ。
これも、乙姫の演出であり、最終的に、
「浦島太郎に疑われないように、竜宮城に連れてくるための方法」
として、考えたことだということになれば、
「この話は、実は最初から最後まで、主人公は乙姫様」
ということになる。
だとすると、タイトルも、
「浦島太郎」
ではなく、
「乙姫様」
ということになってもいいのではないだろうか?
おとぎ草紙ではないが、さらに昔の、
「竹取物語」
という話のサブタイトルとしては、
「かぐや姫」
としての通称がいきわたっているではないか。
そういう意味では、
「乙姫様」
と言われても違和感はない。
むしろ、最初から、そういわれていれば、それで正しかったといってもいいだろう。
浦島太郎の話というのは、考えてみれば、どうにもおかしなところが多すぎる。
それは、今の時代から考えるかも知れないが、今の時代であれば、まず、
「カメを苛める」
ということを物語の中に織り交ぜていることが、おかしいということになる。
普通の小説であればいいのだろうが、少なくとも、学校教育の中で、
「教育の場の教材」
としておとぎ話が設定されているのであれば、
「カメが苛められている」
という話は、
「アウトではないか?」
と考えられる。
いわゆる、
「苛め」
という問題に直結していて、
「よく、教育委員会が、許したな」
と言われるレベルではないだろうか?
ただ、そういうことを言っていると、鬼退治に向かう桃太郎であったり、舌切り雀のような、
「舌を抜く」
などというのは、残虐だということになるだろう。
実際に、教育委員会の中で、
「おとぎ話の見直し」
ということに関わっているという話も聞くことがある。
それを考えると、
「どこまでが、その通りなのか?」
ということと、今の時代にマッチするかを考えると、
「難しい解釈になる」
と言ってもいいだろう。
浦島太郎だけに言及すると難しいところもあるが、ここは、浦島太郎だけの話をして考えた時、
「前半と後半で、主人公が違う」
と考えたことから、
「実は最初から、計画されたことだったのではないか?」
と勘ぐってしまうと、
「疑えば疑うほど、奥は深い」
と言えるのではないだろうか?
ただ、これも、
「考えすぎ」
であり、考えすぎると、すべてのおとぎ話の正悪を考えなければいけなくなってしまい、下手をすると、
「学校教育」
ということ自体から掘り下げればいけなくなってしまうのではないかと考えてしまうのだった。
そんなに、
「どこまで考えればいいのか?」
あるいは、
「難しく考えすぎているのではないか?」
と考えてしまうと、
「果たして、何が一体正解なのか?」
ということが分からずに、そのうち、分かろうとする気持ちもないまま、突き進んでいくのではないかと思えてくることだろう。
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