第32話 鎖に繋がれた女


 思えば、私はずっと守られて生きてきた。

 父は厳しかったけれど、私に対しては優しさを忘れない人だった。

 母は私が何かに困ると、すぐに助けてくれた。

 甘えると何でも聞いてくれる人だった。


 家は裕福で、何不自由なく育った。何をしても褒められ、望むものは何でも手に入った。


「アイリには危険だから。」

「こっちの方がいいよ、アイリ。」



 いつもそう言われて、遠ざけられることが多かった。でも、それが当たり前だと思っていた。誰かが私の代わりに決断してくれる。それが幸せだと思っていた。


 それでも、あの頃は心から幸せだった。

 守られている安心感、親の言葉に従っていればいいという甘え。全てが整えられた世界で生きていられることを、何の疑問もなく受け入れていた。



「これからも、このまま生きていけばいい。」



 私はそう信じていた。両親の言う通りに、誰かの言いなりになっていれば、きっとずっと幸せでいられる。そう思っていたのに――。


「どうして……」



 心が重い。胸の奥が痛い。何かが私を締め付けているようだった。


 いつからだろう、この感覚が生まれたのは。

 いつから私は自分の人生を歩むのではなく、ただ流されるように誰かの言葉に従うだけの存在になってしまったのか。



 私の心は、まるで鎖に繋がれているようだった。

 見えない何かに縛られて、自由になれない。両親の愛情も、周囲の優しさも、気づけばその鎖の一部だったのかもしれない。



 レオンに出会った時もそうだった。彼が差し伸べてくれた手に、私は何の疑いも持たずに従った。



「アイリ、俺についてくればいい。」


 その言葉に従えば、自分の中の迷いや不安が消えるような気がしていた。だから、すがるように彼について行ったのだ。


 でも――。


 今、目の前にいるレオンの冷たい目を見て、ようやく気づいた。彼の手もまた、私を縛る鎖の一部だったのだと。


 私は誰かに繋がれることでしか安心できない。自分の足で立つことも、自分で決断することもできない。


「どうして……私は……」


 声が震える。涙が止まらない。

 ジュラークの背中は遠く、彼の目には私が映っていなかった。


 そして、レオンの冷たい声が私の心をさらに深く抉る。


「本当に救いようがない女だな。」




 でも、そんな私の人生に現れたのがジュラークだった。

 彼は私とは全く違う環境で育ち、過酷な状況を生き抜いてきた人だった。


 粗野で不器用なところもあったけれど、その中に垣間見える優しさや、何かを成し遂げようとする強い意志があった。彼の逞しさと力強さ――そして、時折見せる人を大事にする姿勢――それに私は惹かれていった。



 ジュラークと一緒にいる時間は本当に楽しかった。

 けれど、その幸せは長くは続かなかった。


 両親に彼を紹介した時、二人はまるで嵐のように怒りをぶつけてきた。



「アイリ、お前は何を考えているんだ!」


 父は激怒し、母も悲しそうな目で私を見ながら、静かに首を振った。



「あんな野蛮な男など信用できない。アイリにはもっと相応しい相手がいるわ。」


 母のその言葉が、私の胸に深く突き刺さった。


 それでも私は諦めなかった。何度も何度も彼の良さを両親に伝え続けた。



「彼は違うの。優しい人なの。私のことを本当に大事にしてくれるの。」



 何度反対されても、私は彼を諦めることができなかった。


 そして――とうとう両親も折れてくれた。



「結婚するのは勝手だ。ただし……もう何もしてやらないと思え。」


 父の言葉は冷たく、母も悲しそうな顔で私に背を向けた。


 両親の言葉は私を傷つけ、深い孤独を与えた。

 彼らの反対を押し切ったのは私自身なのに、それでも私は心のどこかで不安を感じていた。


(本当にこの先、大丈夫なんだろうか?)


 ジュラークの横で笑顔を見せる自分と、その裏で夜中に一人泣き続ける自分――その二つの顔を私は持っていた。


 両親に愛されて育った私が、彼らから「もう何もしてやらない」と言われた時、初めて「孤独」という言葉が胸に染みた。


 ジュラークには普通を装っていたけれど、心の奥では誰にも相談できない不安と恐れが渦巻いていた。


(どうすればいいの?)


 夜中、目を覚ましては涙を流し、薄明かりの中で一人ぼんやりと考える日々が続いた。


 私が選んだ道――それは本当に正しかったのだろうか。

 それとも、また間違った選択をしてしまったのだろうか――。


 そんな不安が、私の心を締め付けていた。



 誰にも相談できなかった。

 両親には頼れないし、ジュラークにも心配をかけたくなかった。彼は私をとても大切にしてくれた。けれど、そんな彼に余計な負担をかけるわけにはいかなかった。


 結婚の日が近づくにつれて、私は確かに嬉しさを感じていた。


 けれど、同時に心の奥底にある不安が膨らんでいくのも止められなかった。

 本当にこれでいいのだろうか――そんな思いが、夜毎私を襲った。


 そして、そんな私のもとに現れたのがレオンだった。


 彼はジュラークとは全く違うタイプの人だった。

 若いながらもどこか洗練されていて、その瞳の奥には何かとてつもない野望が宿っているように見えた。



「アイリさん、あなたの力はこの国にとって必要不可欠なものです。」



 レオンたちが私の前でそう言った時、私は初めて自分の持つ「天魔」という力がどれほど特別なものなのかを知った。



「国のために、そしてあなた自身のために――協力していただけませんか?」



 その言葉は私の胸に響いた。



 村のこと、天魔の力のこと、そして国の未来のこと――

 レオンたちの話は全てが大きすぎて、私にはすぐに理解できないことばかりだった。



 けれど、その瞳の中にある強い意思と野望に惹かれたのも事実だった。



「1年だけ……それだけでいい。」


 ジュラークと話し合った時、彼は私の決断を尊重してくれた。



「必ず戻るから。」



 そう約束して、私は村を離れることを決めた。


 けれど――戻れなかった。


 いや、正確には――戻りたくなかった。


 レオンと共に過ごす中で、私は次第に彼の存在に心を奪われていった。


 彼の言葉、彼の視線、彼の持つ力――それらが、私を強く惹きつけた。


「ジュラークとは違う……」


 そう思った瞬間、私の心はジュラークの元から離れてしまっていた。


 レオンの横にいることで感じる安心感と刺激。

 それが私を新しい世界に連れて行ってくれるような気がしていた。


 あの頃の私は、そう信じて疑わなかった。


 ジュラークに背を向けた自分が何を失うのかも考えずに――。





 もちろん、ジュラークのことは毎日思い出していた。

 手紙を送って、彼からの返事を待つ――そのやり取りが、唯一心が穏やかになれる瞬間だった。


 彼の言葉はどんなに離れていても温かく、私を支えてくれた。

 そのおかげで、何とか新しい環境での生活に耐えることができた。


 けれど、両親はいつも同じことを言った。


「アイリ、レオンと結婚しなさい。それがあなたにとって一番の幸せよ。」

「ジュラークでは、あなたを守りきれない。」


 その言葉がどれだけ私を追い詰めたか、今でも覚えている。


 洗脳――とまではいかないかもしれない。

 けれど、私はその言葉を聞き続けるうちに、心身ともに疲れ切ってしまっていた。


「本当にこのままでいいのだろうか……?」


 そんな不安が頭を過ぎる度に、私は誰にも言えない思いを抱え、心が沈んでいった。


 そんな中、レオンは優しい言葉を投げかけてくれた。


「疲れた君の姿なんて、僕は見たくない。」


 彼の言葉は、ジュラークのような力強さとは違う――甘い、囁くような響きだった。


 その時、私は彼の言葉に救われた気がした。


 ジュラークとの手紙のやり取りでは埋められなかった孤独と不安を、レオンの言葉が包み込んでくれるように感じた。


 私は、彼に心を許した。


 そして、体も。


 気づけば、レオンとの結婚を約束していた。

 そして、私たちの間に子供が生まれた。


「これでいいんだ……これが幸せなんだ……。」


 そう自分に言い聞かせながらも、どこか心の中で引っかかるものがあった。


 ジュラークとの思い出、そして手紙で交わした約束。

 それらが頭の中に蘇る度、私は目を背けるしかなかった。


「もう遅い……戻ることなんてできない……。」


 私の心はそう呟きながら、前に進むしかないと思い込んでいた。

 けれど、それが本当の幸せだとは、未だに信じきれていない自分がいるのだった――。





 子供は元気な女の子だった。

 レオンがその名を「ハナビ」と名付けた時、私は心から喜んだ。


「これで私も母親になれるんだ……」


 その瞬間、どんなに辛いことがあっても、ハナビだけは私が守ると誓った。


 しかし、レオンは――。


 彼の顔に浮かんでいたのは喜びではなく、何か別の感情だった。


 その瞳は、まるで遠くの何かを見つめているようだった。

 私には見えない、彼だけの大きな目的があるのだと感じた。


「レオン……何を考えているの?」


 そう尋ねても、彼は何も教えてくれなかった。

 彼が私に言ったのは、ただ一言。


「お前は黙って俺の言う通りにしていればいい。」


 彼のその言葉に、胸が冷たくなるのを感じた。


 母親になったはずなのに、私の心はどこか空っぽだった。

 喜びと同時に、どこか孤独を感じていた。


 そして、あの時――ジュラークに再会した。


 レオンと共に龍と戦っていた時、彼が現れた。

 あの堂々とした姿、力強い剣さばき――。


 私は思わず心が揺さぶられるのを感じた。


「ジュラーク……」


 その名を呼びかけたかった。


 しかし、レオンは私に冷たく言い放った。


「ジュラークと会っても、嬉しそうな顔をするな。

 俺の言う通りにしろ。冷たくして、現実を突きつけてやれ。」


 私は逆らうことができなかった。


 レオンに言われた通りに、冷たい態度をとり、ジュラークに事実を突きつけた。


「私はレオンと結婚して、子供もいる」と。


 その瞬間、ジュラークの瞳に浮かんだ悲しみと怒り――。

 あれが私の胸に深く突き刺さった。


(どうしてこんなことになってしまったの……?)


 ハナビを産み、レオンに心も体も許した時点で、私には選択肢など残されていなかった。


 ジュラークにもう一度振り向いてほしいなどという気持ちは、叶わぬ願いでしかない。


 結局、全ては私の弱さのせいだった。


 意志が弱く、誰かの言葉に流され、運命という名の言い訳に逃げ続けた――。


 私は自分の生き方を否定しながらも、それを変えることができなかった。


 目の前に広がる氷の湖の冷たさが、私の心を映し出しているかのように感じられた。

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