第31話 幻想と現実
どうしてこうなってしまったのか、私にはわからない。
氷の湖の上で、ジュラークと再会したあの瞬間。私の胸には何かがざわめいた。ずっと会いたかった。あの手紙を読んだ時、本当に嬉しかったのに。だけど、それでも……。
会えない日々が続く中で、孤独を埋めるようにいつもそばにいてくれたのはレオンだった。彼は優しかった。どんな時でも私を守ってくれるような気がして、気づけば心が揺れ動いていた。
ただ、それだけだったはずなのに――。
ジュラークの背中が遠ざかっていく。冷たい空気の中で、その背中がどこか鋭く見えた。
「ジュラーク……」
思わず名前を口にするけれど、その声は届かない。私の中で何かが崩れる音がした。
(レオンは言っていたじゃない……)
『俺の言う通りにすれば、ジュラークとまた元の生活に戻れる』。
あの言葉を信じて、私はレオンの言うままに振る舞った。ジュラークと再会した時も、何もかも――全て言われた通りに。
でも……。
「どうして……それを、わかってくれないの?」
私は静かに呟いた。涙が頬を伝う。
レオンの言葉を思い出す。
『ジュラークはすぐにお前を許すさ。何も知らない単純な男だ。それにお前がいなければ、あいつには何も残らない。だから、俺の指示通りに動け。簡単なことだろ?』
その時は信じていた。ジュラークとまた元に戻れるなら、何だってしようと思っていた。だけど――。
「なのに……どうして……!」
私は声を押し殺しながら、自分の手を握りしめた。冷たさが手の中に残り、それが私の心の中にも広がっていくようだった。
ジュラークは冷たい目で私を見た。剣を向け、まるで二度と近寄るなと言わんばかりだった。その目には、かつて私が見た優しさの欠片もなかった。
「私はただ……」
声が震える。誰に向けたものか、自分でもわからない。ただ、言葉を絞り出すように呟くしかなかった。
「私はただ……ジュラークに会いたかっただけなのに……」
でもその言葉は、凍てついた湖面に吸い込まれて消えていく。ジュラークは振り返ることもなく、スズカと共に歩き去っていった。
(幻想だったの……?)
彼が私に向けてくれた優しさも、私が彼に感じていた愛も。あの穏やかな日々が戻ると思っていたのは、ただの私の幻想だったのかもしれない。
でも、それを認めるのは怖い。だから私は、ジュラークではなく、レオンにすがったのかもしれない。
「ジュラーク……私は……」
それ以上の言葉が出てこない。ただ、凍てつく風が私を包み込み、冷たさが心の奥深くまで染み渡っていった。
手紙を受け取った時、私は何も感じなかった。ただの紙切れだとさえ思った。あの頃のジュラークのことを、心の中で遠ざけていたのかもしれない。
でも――実際に会ってしまった。
そして、目の前で龍を倒し、堂々と立っているジュラークを見てしまった。
「……あぁ……やっぱり……着いていくのはジュラークだ……」
心の中で呟いたその言葉が、凍りついた湖面に吸い込まれるように消えていく。
だが、それは遅すぎた。あまりにも、遅すぎた――。
私の胸の中には、どうしようもない葛藤が渦巻いていた。ジュラークが私に向けた冷たい視線。近寄るな、と剣を構えたあの姿。
(どうして……どうしてこんなことに……)
天魔という力を持っていなければ、こんなことにはならなかった。私はただ、普通の生活がしたかっただけなのに。
でも、どちらにしても――。
(レオンについて行かなくても……狙われる運命だったんだ……)
天魔の力を持つ者として、国に利用される。あるいは追われる。そんな運命は最初から決まっていた。これは仕方のないことだ。抗おうとしても無駄だったのだと、自分に言い聞かせた。
しかし――。
(今なら……もしかしたら……)
私はジュラークの背中を見つめながら、心の中で希望を抱いていた。
今のジュラークなら。レオンが苦戦して倒せなかった龍を、一人で倒してみせた。私の目の前で、圧倒的な力を見せつけた。
(今のジュラークなら、国に対抗する力がある。私を守れる力がある……!)
そう思ったのに――。
ジュラークの心は、もう私にはない。
「……ジュラーク……」
思わず名前を口にしてしまう。だが、振り返ることはなかった。
私の心の中で残っているのは、過去の思い出と、それにすがる未練だけだった。それでも、彼が私を拒絶したあの瞬間が、はっきりと示していた。
私が戻れる場所は、もうどこにもないのだ――。
◆◆◆◆◆
「ジュラーク! 私の方が、そこの女よりもあなたのことを好き!」
アイリの叫びが氷の湖の静寂を破った。その声には必死さが滲み、震えていた。
ジュラークはその言葉に眉をひそめ、剣を握る手に力を込めた。
「あぁ? てめぇ、何言ってんだ……!」
低く、怒りを押し殺したような声でそう呟くと、ジュラークはアイリを鋭い目つきで睨んだ。
「私は……!」
アイリは泣きながら言葉を続けた。
「レオンに言われた通りにすれば、また元に戻れるって……! だから、私は……ジュラーク、あなたのことを……!」
その言葉に、ジュラークの怒りが爆発する。
「ふざけんな!」
その怒声は、氷の湖に反響して遠くまで響き渡った。
「お前……何言ってんだよ!? 裏切ったのはお前だろうが!」
ジュラークは剣を振り上げ、アイリに向かって一歩踏み出す。その表情には、これまでに見たことのない怒りが宿っていた。
「レオンについて行ったのはお前だ。俺のことを捨てたのもお前だろうが!」
「違うの、違うのよ……!」
アイリは頭を抱えるようにして泣き叫ぶ。自分がしてきた選択の重さを、今になって突きつけられたようだった。
(天魔の運命、国の宿命……そんなの関係ない。ただ、私は……)
アイリの心は揺れ動いていた。頭ではジュラークの怒りが当然だと理解している。だが、それを認めたくない自分がいた。
「ジュラーク……私は……!」
その時、隣に立っていたスズカが、ジュラークに寄り添いながら、静かに口を開いた。
「アイリさん、本当に好きなら……どうして一緒に戦ってでも、生きていくことを選ばなかったんですか?」
その言葉は鋭く、迷いがなかった。
アイリは顔を上げ、スズカを睨み返す。
「そんなの、強くて力のあるあなたには分からないわよ!」
叫ぶように言い返したその言葉には、悔しさと嫉妬が混じっていた。
スズカは少しも怯むことなく、穏やかな口調で答えた。
「そんなことありません。私だって、弱いです……。」
スズカはジュラークに寄り添いながらも、自分を見つめるアイリに真っすぐな目を向けた。
「でも私はジュラークさんに救われました。だから、どんなことがあっても助ける。そう決めただけなんです。」
その言葉には、一片の迷いもなかった。アイリの震える瞳が、その強い意思に揺さぶられるのが分かった。
「……救われた?」
アイリの声は震え、その目には涙が溜まっていた。
スズカは頷き、ジュラークに寄り添う手に力を込めながら続けた。
「はい。私はただ、ジュラークさんに感謝してるだけじゃないです。だから、一緒に戦う覚悟をしたんです。弱くても、怖くても。」
その言葉に、アイリは一瞬だけ言葉を失った。
(私は……何をしてきたんだろう……。)
ジュラークの冷たい視線と、スズカのまっすぐな言葉が、アイリの心に突き刺さるようだった。
だが、アイリは何かを振り払うように再び叫ぶ。
「でも……でも、私は……!」
ジュラークはその声を遮るように、剣を鞘に収めた。そして、アイリを見下ろしながら低く言った。
「いい加減にしろよ、アイリ。」
その言葉は冷たく、氷の湖よりも冷たい温度で彼女の胸に突き刺さった。
「俺はもう、お前に振り回されるつもりはない。」
ジュラークの言葉に、アイリの涙が頬を伝い落ちる。
(どうして……どうして、こんなことになったの……?)
幻想の中に生きていたアイリにとって、それが現実だと思い知らされる瞬間だった。
氷の湖の空気が重く張り詰めたまま、誰もが動かずにいた。静寂を破ったのは、傍観していたユキナの冷たく刺さる言葉だった。
「何があったか詳しくは知りませんけど……アイリさん、第三者から見ても、あなたが悪いですよ。」
アイリはその言葉に驚いたように顔を上げた。ユキナは冷静な表情を保ちながら、ジュラークの方に視線を向ける。
「このジュラークさんの気持ちを踏みにじり、裏切った挙句、今さら擦り寄ってくる……滑稽だとは思いませんか?」
その言葉にアイリの顔色が一気に変わった。
「……そんな、私は……」
アイリの声は震え、涙が次々に溢れてくる。
ユキナの目は冷たく鋭かった。
「龍を倒した時点で、正直あなたがどうなろうと私には関係ありません。けれど……あなたがここで何を言おうと、この場にいる全員にはもう響かないでしょう。」
その言葉は淡々としているのに、アイリの胸を鋭く突き刺した。
「……私は……」
アイリは言葉を絞り出そうとするが、その声は小さく消え入りそうだった。
その時、レオンがゆっくりと立ち上がり、肩を軽く回しながら嘲笑を浮かべた。
「……馬鹿な女だな。」
アイリがその声に反応し、驚愕の表情でレオンを振り返る。
「何を……」
レオンは無情な笑みを浮かべたまま続ける。
「確かに色々とお前に言ったよ。ジュラークと上手くやれ、とか。俺の言う通りに動け、ってな。」
アイリの顔が恐怖と困惑で引き攣り始める。
「だがな、アイリ。言っておくが、俺にとってお前なんてどうでもいいんだよ。」
その言葉は、アイリにとって何よりも残酷だった。
「えっ……」
アイリはその場に立ち尽くし、信じられないという表情を浮かべた。
レオンは笑みを深めながら続けた。
「俺がお前に興味があったのは、お前の天魔の力だけだ。お前の存在そのものなんて、何の価値もない。」
アイリは後ずさりながら、涙を浮かべた瞳でレオンを見つめる。
「まさか……そんな……」
その言葉に、レオンは呆れたように眉をひそめた。
「まさかも何もないだろう? お前がまだそんなことを今さら知ったのか? 本当に……救いようがないバカな女だな。」
その言葉は、アイリの心を完全に打ち砕いた。
「……違う、違う……!」
アイリは頭を抱え、崩れるように膝をついた。涙が湖の冷たい表面に落ち、氷に吸い込まれていくようだった。
彼女の悲痛な声が響き渡る中、ジュラークは冷たい視線を投げかけるだけで、何も言わなかった。
スズカもジュラークに寄り添いながら、呆れたようにアイリを見つめていた。
ユキナは肩をすくめると、一歩下がりながら冷たい声で呟いた。
「やはり、こういう結末になるんですね……滑稽です。」
冷え切った空気の中、アイリの泣き声だけが静かに響き渡っていた。
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