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翌日の火曜日、坂下翔子は学校を休んだ。
俺の知るかぎりでは初めての欠席だった。
だからといって特に教室の様子は変わらない。
おもちゃを失ったからといって高見たちが退屈そうにしているわけもなく、休み時間には楽しそうに談笑していた。
誰かが増えても、減っても、それくらいで教室は揺るがない。
学校に限らず、集団というのはおおむねそういう構造なのだろう。
特別な誰かも、大切な個人も本当はどこにもいなくて、すべては替えの利く部品でしかない。
教師も、生徒も、俺自身も。
そんなことを考えている俺の日常だって、坂下がいないからと言って別になにも変わらない。
普通に授業を受け、友達と笑い、放課後には自習をして過ごす。
日課というのは毎日続いているというだけで、特に警戒しないものになる。
洗面所で顔を洗うとき、いちいち水道が出ることに感心しないのと同じだ。
昨日もそうだったから。
ただそれだけの理由だけで今日も明日も当然そうなるだろうと思いこんでいる。
経験は人を間抜けにする。
だから俺も間抜けだった。
「本当に遅い時間まで残ってるんだ」
自習を終えた俺が、完全下校の過ぎた教室へと戻るとそこに坂下の姿はなかった。
そのこと自体は想定通りだ。
坂下は今日欠席している。
その代わりのように俺の机に座り、長い足を組んで退屈そうにしている女子生徒がいた。
「こんにちは、平尾くん」
高見琴乃はこちらを見つめながらゆったりと足を組み替える。
その視線は蛇のような鋭さで、俺は思わず立ちすくむ。
だが怯えるような理由はなにもない。
やましいこともなければ、高見になにかを遠慮するような関係でもない。
「どうも、高見さん。遅くならないうちに帰ったほうがいいですよ」
机の中のノートを回収するのは諦めて、さっさと教室を出ようとする。
だが高見は逃がしてくれなかった。
「なんか、よそよそしくない?」
「そんなことを言われるほど親しくないはずだけど」
「親しくもないクラスメイトとは一緒に下校してくれないの?」
「一般的にはそうじゃないかな」
「じゃあ坂下さんとはずいぶん仲がいいんだね」
そういう風に言われてしまえば、足を止めないわけにもいかない。
元々偶然高見が教室にいたと信じられるほど俺も鈍くはないつもりだ。
そして今の発言で疑念は確信に変わった。
どうやら高見は俺が来るのを待ち受けていたらしい。
もちろん、相手をしないという選択肢もある。
だが結局俺は振り返ることを選んだ。
「それでは僕と一緒に帰っていただけますか」
「よろしい」
俺ができるだけ嫌味っぽくお辞儀をすると、高見は満足げに机から降りた。
そしてそのまま並んで下校することになってしまう。
何度か経験しているものの、女子と二人きりでの下校がこれほど楽しくないものだとは思っていなかった。
全身に走る悪寒は肌寒い気温のせいだけではないはずだ。
「ねぇ、あの子とは手でもつないだの? もしそうなら私ともつないでみる?」
あの子、というのは坂下のことだろう。
名前を口にしないあたりが、高見の性格を如実に表している。
「なんのつもりかは知らないけど、用があるからこんなことをしてるんだろう。ならさっさと本題に入ってくれないか」
「本題なんてないよ。強いて言えばこれが本題かな。平尾くんとあの子がどういう理由で一緒に下校しているのか、知りたかったの」
やはり高見は俺と坂下が下校していることを知っていたらしい。
「放課後になってもまだ坂下の動きを調べてるのか? まるでストーカーだな」
「まさか。知ったのは偶然だよ。昨日の球技大会のとき、平尾くんの体操服の袖には血がついてた。平尾くんがケガした様子はないから、あれはあの子の血でしょ? それで余計なおせっかいを焼いたのがあなただってわかったの」
「よく見てるな」
「でも普通のクラスメイトなら血がついてしまうほど、あの子には近づかない。教室での状況を知っていれば、見て見ぬふりをするのが普通だからね。例外は根津さんくらいかな」
加害者である高見にも根津の動きはしっかり把握されていたようだ。
あれだけ派手に抗議していれば当然か。
「それで平尾くんとあの子の関係が気になって、周りの子に訊いてみたの。そしたら一緒に下校をしているのを見たっていう子がいてね。興味がわいたから、直接会って話してみようかなって」
「話してみた感想は?」
「想像してたより、つまらなかったかな」
言葉とは裏腹になにが楽しいのか、高見がにっこりと微笑む。
一方で、俺はなぜか高見に対して奇妙な話しやすさを感じていた。
好感が持てるという意味ではない。
一切好感が持てないからこそ、話しやすい。
根津や坂下と違い、気遣いのようなものを必要としないせいだろう。
「あ、そうそう。これ以上、あの子をいじめるのはやめてあげて」
「は?」
想定外の言葉に一瞬頭が真っ白になる。
腹が立つよりも先に、意味がわからなくて困惑してしまう。
いったい誰がどの口でそんなことを言ってるんだ。
「その気もないのに期待させるような振る舞いをするのは残酷なことだよ」
「なんの話だ」
「あの子は毎日傷ついている。そんなときに一緒に下校して、ケガの手当をしてくれて、さらには普通に話をしてくれる男子が目の前に現れたらどう思う?」
高見はあたかも、心の底から坂下のことを心配しているかのような大げさな口調で続けた。
「自分を助けてくれるんじゃないか、って期待しても無理ないんじゃない? でも平尾くんには、そんな気持ちも力もない。そうでしょ?」
気分の悪いことだが、高見の言うことは合っている。
坂下のために高見たちと敵対して教室の空気を乱すような気概が、俺にはない。
だがそんなことを批難されるいわれはないだろう。
まして高見に言われたくはない。
「毎日傷つけている側がなにを言ってるんだか」
「え? そんな証拠がどこにあるの?」
「その発言が証拠みたいなものだ」
「でも私が直接手を出しているわけじゃない。仮に指示を出していたとしても、基本的には大勢のクラスメイトと同じように眺めているだけだからね。平尾くんがしていることよりもよっぽど健全だと思わない?」
高見は意図的にこちらの神経を逆なでするような言葉を選んでいるに違いない。
あざ笑うような口調だけでそのことを確信するには十分だった。
坂下に期待させているつもりはない。
すべては行きがかり上の出来事だ。
意図せず未来を知ってしまったから。
偶然放課後に顔を合わせたから。
たまたま怪我をした姿を見かけたから。
それ以上の理由はなにもない。
打算も、親切心も、そして根津のような良心も、俺にはない。
あれこれ強がってみてはいるが、状況に流されているだけの小心者だ。
そのことについて高見がわざわざ俺を批難している理由なんてわかりきっている。
高見は坂下を孤立させたいのだろう。
放課後を迎えた今でも、高見は坂下をいたぶるための労力を惜しまない。
直接話して、始めてきちんと認識する。
高見琴乃はひどいやつだ。
嗜虐心の塊みたいな人間だ。
美しく整った外見の中身は、汚泥のような悪意が詰まっている。
どれだけ対話を試みても仲良くなれる気はしない。
はぁ、というため息と共に思わず天を仰ぐ。
俺はいったいなんのために、事件の発生を防ごうとしているのだろうか。
今まであまり考えないようにしてきた疑問が、悪意の権化である高見と話しているせいで浮かび上がってくる。
殺人事件が起きることを知っていて、それを見逃すことはできない。
そう考える根津の意見に対して異論はないし、それが良識的に正しいことだというのもわかる。
しかし俺は良識だけでそこまで行動できるわけじゃない。
俺が避けたいのは殺人犯である坂下に加担して、逃亡を助けてしまう未来だ。
だけど、あの逃避行はどうしても回避しなければいけないものなんだろうか?
頃合いを見て出頭するよう促せば、それで解決する問題だ。
俺に命の危険が迫っているわけじゃない。
それならば、事件の発生を防がなければいけない理由ってなんだ?
殺人事件を見逃してはいけない理由って、そもそもなんだ?
倫理観と良識。
それ以上の理由がどこにある?
高見琴乃が殺されるのを防ぐためか?
大して接点もないクラスメイトのためにどうしてそこまで奉仕ができるというんだ。
元を正せば高見に非がある出来事で、本人の性格にも褒めるところが見つからないような相手だぞ。
殺されても自業自得だ、と考えてしまうのはそんなに悪いことなんだろうか。
なら坂下翔子を殺人犯にしないため?
それだって理由にならない。
家族でも友人でもない相手のことを、どうしてそこまで必死になって慮ってやる必要があるんだ。
過程はわからない。
だけど坂下自身が勝手に決めて、高見を殺害した。
その意思や過程を無視して、傍観者である俺が事件の発生を防ぐのは本当に正しいことなのか。
きっと根津ならこんなこと考えもしないのだろう。
目の前で困っている人がいたら助けるように、近々発生する犯罪を良識と正義感だけで防ごうとしている。
どんな人間でも殺されていいはずがないし、どんな理由があっても人を殺してはいけない、とはっきり言い切るはずだ。
でも俺にはそれができない。
高見に死んでほしくないとも思えないし、坂下に殺してほしくないとも望めない。
そうなると、なんだか色んなことがどうでも良くなってきた。
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