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一夜が明け、金曜日になったところで名案は思い浮かばなかった。
あの未来へじわりと近づいているという恐怖はあるけれど、そもそもやはり現実感が足りてない。
ぼんやりと周囲を見回す。
昼休みの教室では今日もいじめが続行中だ。
実行犯の二人が趣向を凝らして坂下を貶め、それを高見が笑って眺めている。
その他のクラスメイトはまるでそんな光景が存在しないかのように、各々談笑していた。
まるで坂下が透明になっているかのような振る舞いだ。
透明な坂下はただ耐えるだけだ。
頭にゴミ箱をかぶせられ、楽器のように叩かれても、うろたえるばかりでなにも抵抗できていない。
じゃあなにをすれば解決するのか、なんてことは俺にもわからないのだけど。
きっと今も坂下のブレザーにはカッターナイフがしまってある。
その刃はいずれ、楽しげに笑っている高見の血にまみれる予定だということを俺は知っている。
今、根津の姿は教室にはない。
昨日と同じように担任であるタヌキ先生に直談判しに行っているのかもしれないし、別の用事で教室を空けているのかもしれない。
どこに行く用事もない俺は教室で昨日の体験を思い返す。
この鬱屈した日々の行き着く先が、あの逃避行になる。
今からちょうど二週間くらい先の出来事だ。
たまりにたまったものが爆発し、報復としてカッターナイフが人の命を奪う。
そういう結末は他人事として受け入れられる。
これまで凄惨ないじめを見て見ぬふりしてきた傍観者の一人として、殺人事件だってその気になれば傍観できる。
問題はそれを先に知ってしまったことだ。
そして俺がその事件に、共犯者として参加してしまっていることだ。
この二週間でなにが起きれば、俺は坂下の逃走を助けてしまうのだろうか。
透明な坂下翔子にどんな色がつけば、俺はそれを放っておけなくなるのだろう。
いじめられている坂下を直視しながら考えても、その答えは出てきそうもなかった。
俺には日課がいくつかあって、それを消化することによって時間を前に進めている。
たとえば学校に通うことや塾へ行くこともそうだし、
塾帰りに根津のいるコンビニへ寄ることも含まれる。
そして数日前から、新たな日課が仲間入りを果たそうとしている。
「あ、ひ、平尾くん……」
完全下校が過ぎた教室には今日も坂下翔子がいた。
こんなことが三日も続くと、俺もなんだか自分がわざと坂下に会おうとしていたような気がしてくる。
決してそんなことはないのだけれど、結果だけ見ればそう思われても仕方がない。
「今日はどうして教室に?」
「えっと、その……」
「いや、無理に答えなくてもいいよ」
訊いておいてなんだけど、教えてもらったところで力になれるとは限らない。
むしろ気分が悪くなるような可能性のほうが高いだろう。
「用事が済んだのなら早いところ下校したほうがいい」
「う、うん……そう、します」
俺が自分の机からノートを回収すると、坂下も立ち上がる。
ごく自然な流れで俺たちは一緒に下校することになった。
川の流れに抗えない小石のごとく、俺は場の雰囲気に流され、転がり続けている。
そのことを卑下するつもりはない。
だけど流され続けた結果があの殺人事件だとすれば、それだけは受け入れがたい。
血なまぐさい
その未来を避けるためならば、少しくらいは流れに逆らうようなことをしてみたくもなる。
「カッターナイフ」
「え……?」
「どうして持ってるの? しかもポケットに入れて」
坂下は俺が踏み込んでくるとは思っていなかったのだろう。
足を止めてしまっている。
俺も本来であれば、無色透明なクラスメイトという立ち位置でいたかった。
だがこのまま何もしないままでいても、いずれは自分の身体に色がつく。
殺人犯の逃走を助ける共犯者という、とびっきりビビットな色が。
それを知ってしまっているからこそ、ここで踏み込むことができた。
未来を知らなければ、こんなことは尋ねなかっただろう。
いや、どうかな。
未来の自分の行動を予測したり、保証する自信が今はまったくない。
カッターナイフなら俺も小さなものを筆箱に入れている。
あると便利なのはわかるが、ブレザーの内ポケットには入れない。
「お守り、です」
坂下は自分の左胸に手を当てている。
それは内ポケットに入ったカッターナイフの形を確かめるような仕草にも、その下にある自分の鼓動を確認しているようにも見えた。
「わ、私は武器を持っている、だからその気になればこの状況を変えられる……そういう風に考えるためのお、お守りなんです。だから一昨日も、その、自分を傷つけようとしていたわけではなくて……そのことを再確認していただけ、なんです」
坂下はつっかえながらも言葉を吐き出すように打ち明けてくれる。
あのカッターナイフが、坂下にとっては日々の支えだということはわかった。
海外で護身用の拳銃を枕元に隠して眠るようなものなのだろう。
映画の知識だけど。
今はまだそのカッターナイフを使う瞬間は来ていない。
しかし二週間後には事情が変わってしまう。
なにかのきっかけによって、坂下は護身用のカッターナイフで高見を殺してしまうのだ。
その理由がわかれば、犯行を未然に防ぐ手がかりになるだろう。
しかし怯えた小動物のような坂下を見ていると、これ以上尋ねるのは気が引けた。
「変なこと訊いてごめん」
「いえ、全然……」
俺たちは再び歩き出す。
坂下からはちょっとしたことでバランスを崩してしまいそうな、危うさを感じる。
しかし、だからといってこの気弱なクラスメイトが人を刺し殺してしまうとは、今でもまだ信じきれない。
いったいどんな出来事が、これほど我慢強い坂下を事件に踏み切らせたのだろうか。
浮かぶのは疑問ばかりで、答えにたどり着く手がかりは一つとしてないままだ。
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