第17話 ウィスキーの守り神
僕は故郷に帰るという事はない。それはこの福岡が僕の故郷だからだ。両親も祖父母も福岡にいた。
年末や正月、お盆だって帰る事はない。小さい時に従弟が住んでいる熊本に何度か行った。しかし熊本は故郷ではない。
故郷を離れて、故郷を懐かしむって、どんな感じなんだろう。
激しい夕立のようだ。入ってくるお客様の肩が濡れている。
「夕立ですか」
「ああ、短時間にどっと降ったよ。いや、まだ降っているがね」
そうおっしゃてくれた男性はカウンターの端に座られるなり、テキーラをストレートで注文された。
男性はテキーラでもウィスキーでもお構い無しにオールドファッショングラスを指定される。男性がオールドファッショングラス以外で呑まれているところを見る事ができるのは、『バドワイザー』と『コロナ』を呑まれる時だけだ。どちらも瓶から直接。
下手すりゃ、マティーニだってオールドファッショングラスで呑まれかねない。
特に怖い顔をされたり、難しい話をされる事は無い。スポーツや映画や本などの趣味の話が中心で、ちょっとスケベなシモネタや馬鹿みたいな話をされる。
とてもフランクなお客様だ。今晩も早い時間にいらっしゃって、馬鹿な話で盛り上がられている。
カウンターはそのフランクな男性一人。ボックスは三つ埋まっている。
まだ雨は降っているのだろうか。お客様がいらっしゃらないので外の様子はわからないが、もうしばらくすればかいらっしゃるだろう。
「いらっしゃいませ」
レセプタントの声がグラスを洗う僕の耳に入ると同時に、僕も挨拶をした。
「いらっしゃいませ」
入口に女性が立っている。雨に当たったのだろうか、髪の毛が濡れているようだ。
「いらっしゃいませ。まだ外は雨が降っていますか」
「・・・・」
彼女は何もおっしゃらず、うなずかれた。
前髪が長く、目が隠れるくらいある。顎のあたりが丸く、全体的に丸顔なのだろうか。
「こちらがお飲み物のメニューです。こちらがお食事です。暖かいカクテルもございますので、よろしければ、ご注文ください」
彼女はメニューを受け取るなり、上から順番に舐めるようにご覧になっている。
僕はフランクな男性の元に行き、空いたグラスのお変わりを尋ねた。
「そうね、たまにはアイラにでもしようか。『ラフロイグ』あたり」
「かしこまりました」
僕は先程の彼女がまだメニューを見て決めかねているのではないかと思い彼女に目を向けるとこちら向かれていた。
注文が決まったのだろうか、僕は「しばらくおまちください」と笑顔で答えた。
僕は新しいオールドファッショングラスを出し、ラフロイグの栓を抜いた。抜いたと同時に香るアイラ独特のヨード香。いや、好きな人から言わせれば最高の香だ。
瓶を傾け、オールドファッショングラスに注ぐ。『トクトク』という音と伴にグラスの四分の一ほどまで満たした。
僕はフロイグが入ったグラスをフランクな男性に差し出し、再び彼女を見た。すると、彼女はフランクな男性の方を向かれていた。
いやよく見ると向いているのでは無く、鼻を向けられていると言ったほうが正しい。
「お決まりですか」
彼女はうなずかれ、小さな丸い手で、カウンターのラフロイグのボトルを指さされた。
「ラフロイグですか」
彼女はうなずかれた。
そして、開いたフードのメニューで、小さな丸い手についたかわいい指で指した先は『オイルサーディン』だった。
「かしこまりました。ラフロイグは、どのようにして飲まれますか」
彼女が再び何も言わず指差さされた。
その先にはフランクな男性がいらっしゃった。
「ストレートですが、大丈夫ですか」
「・・・・」
「かしこまりました」
僕はバックにオイルサーディンの注文をながして、先程と同じようにラフロイグのストレートを作った。
フランクな男性は僕の顔を見ながら「ラフロイグのストレートか・・」とおっしゃたた。
僕は彼女の前にコースターを置き、そっとラフロイグが入ったグラスを置いた。
「オイルサーディンはしばらくお待ちください」
彼女は、小さな両手でグラスを持たれ、少しずつ飲まれた。
なんともかわいらしい。
未成年では無いのはわかるが、小さな手で、それも両手でグラスを持たれて飲まれている。
口につけたグラスからアイラモルトをちょっとずつ飲む。まるで舐めるかのように。
「かわいいね」
フランクな男性は僕に小声でつぶやかれた。
エッチな意味でおっしゃたのではない。確かに僕の目にもそう映る。僕は彼女のそばに行って尋ねた。
「アイラモルトはお好きなんですか」
「・・・・」
彼女は何も言われず、うなずかれた。
僕は少し笑みが出た。
すると、突然、彼女がつぶやかれた。
「海の香が好きだから。
生まれたところが海の近くだった。
海にはお魚がたくさんいる。
パパが釣った魚をもらった。
小さな魚だけ。
大きな魚はパパとママが食べた」
舌足らずで、まるでついさっき言葉を覚えた小さな子供がしゃべっているようだった。
「ああ、お魚が好きでオイルサーディンですか。私も、モルトを飲むときは時々オイルサーディンをおつまみにします」
「私は海のそばの倉庫で育って。
パパのお手伝いをしていたの。
麦を食べに来る小さなねずみを捕まえる。
すると、パパがご褒美をくれた」
僕はかわいい彼女が、ねずみなんか捕まえていたのかと驚いた。
「お待たせいたしました」
バックからワカがオイルサーディンを持って入ってきた。僕はワカからオイルサーディンを受け取り彼女の前にそっと差し出すと、彼女は皿を両手でさわった。
まるで、オイルサーディンの温度を確かめるかのように。
そしてしばらく彼女は手をつけなかった。暖かいうちに食べたほうがおいしいのにと僕は心の中でつぶやいた。
僕がカウンターの中で、先ほど洗い終えたグラスを拭いていると、彼女はオイルサーディンにやっと手をつけた。いや、ほんとに手をつけた。
そう、手でつまんで食べ始めたのだ。
もちろん僕は彼女前にフォークと箸、それに取り皿も置いていたのだが。
まあ、海のそばで育ったのだから、このくらいの小さな魚は手でつまんで食べてもおかしくない。居酒屋や焼鳥屋で『ししゃも』が出てくれば手でつまんで食べている。
『そうだな』と僕は自分に言い聞かせた。
ふとフランクな男性を見ると、驚いた顔をされている。きっとオイルサーディンを手でつまんだことに驚かれているのだ。
そう思って、僕はフランクな男性の前に立った。
「どうかなさいましたか」
「いや、一瞬彼女の目が見えたのだが、それが・・・」
「それが?」
「いや、それが、小さい顔のわりにかなり大きな目だった。瞳孔というのかな、それが大きかった。それに白目がなかった気がするんだ。
ほら、よく猫の目が暗いところで大きく開いているでしょう。あれだ。まさしくあれだよ。
そして、ダウンライトがその目の中に入ったのだろうか、光ったんだ、赤というか、えんじというか・・・
本当に、猫の目のような・・・」
僕はふとある事を思い出した、きっとこのフランクな男性もご存知なことだ。
『ウィスキーキャット』
スコッチ・ウィスキーの蒸留所では、原料の麦をねずみから守るためにウィスキーキャットを飼っていたといわれる。しかし、最近では衛生上の問題から猫を飼うことができなくなった。しかし、今でも猫はウィスキーの守り神と言われている。
アイラモルト、海辺の蒸留所。
オイルサーディン、小さな魚。
ウッ!ねずみを捕まえると、パパがご褒美をくれた!
まさか。
僕が彼女の方を振り返ると、もうそこには誰もいなかった。グラスのラフロイグはきれいになくなり、オイルサーディンはきれいに平らげられている。そのうえ、お皿もきれいに舐めてあった。
僕は食い逃げされた事より、彼女が、いや、まさかそんなはずはない。
と、そこに、男性のお客様が入って来た。
「今このドアから、グレーの猫が出て来たたけど」
僕はごくりとつばを飲みこみ、カウンターから飛び出して扉のとこまで行った。
すると、扉の隅の方に、一匹のねずみが横たわっていた。
第十七話 終わり
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