第16話 憧れの父さん
親父の思い出は心の中にたくさんある。
親父とキャッチボールをした事。
親父が運転する車で海に行った事。
親父は、僕が小さい頃、良く遊んでくれた。
親父は僕らの食事が住んだ後に会社から帰ってきて、酒を呑みなが食事をしていた。
親父の最後の想い出は病室だった。
まだそんなに遅い時間ではないのに今晩はお客様がいない。左端にいらっしゃる男性二人と、僕の目の前でグラスを片手に持たれて、うつむいたままの男性だけだ。
もう少し時間がたてば、一次会を終えた方々が「次はバーで・・」なんて言っていらっしゃるだろう。
いや、やって来てほしいものだ。
「ただ、遠目に見てりゃよかったのに」
目の前の男性はそうつぶやかれた。
知らない顔ではない。よくいらっしゃるお客様だ。
今晩もいつものようにキープしたバーボンを水割りで飲まれている。いや、まだ口をつけられたのは一度きりだ。
もともと何杯も飲まれるお客様ではないが、どうした事だろう、グラスを持ったままうつむかれている。
男性はお連れの方がいらっしゃらない時は、僕達を相手によく趣味の話をされる。
その趣味とは登山。
申し訳ないが、このバーには登山の事がわかる者などいない。だから、僕達はいつもわからないままお話を聞いている。
しかし、今晩は登山の話も出てこない。
男性が先程おっしゃった「ただ、遠目に見てりゃよかったのに」とはいったい何の事だ。景色なのか、山で鹿や猿などの動物を見たのだろうか。登山の事だと返事に困るので、僕は黙って男性の前に立っていた。
「なぁ。バーテンダーさん」
「はい。何か」
「あんたは色男だね。もてるんだろう。だいぶ女を泣かしたか」
「いや。そんな事はないですよ」
「そうか」
まさか、そんな事を聞かれると思わなかった。こんな話なら、まだ登山の話しを聞かされた方がよかった。
しかし、これが話の始まりだった。
「たしか、あの時、あいつが座っていたのはこの席で、俺はピアノの席にいた。目を引く派手な女というわけではなかった。
ただ、遠目に見てりゃよかったのに」
僕は男性が『あいつ』と呼ばれた人が誰だか分かった。それは一緒によく飲まれている女性の事だ。一緒にいらっしゃるか、どちらか先にいらっしゃっている。
今晩は一緒ではないので、後で彼女がいらっしゃるのだろう。
「二度目にあいつを見たのは、同じカウンターだった。同じ暗さの中で、あいつはカクテルを飲んでいた。カクテルにうとい俺にはなんて名前のカクテルかはわからなかった。
薄暗いバーのわずかの明かりの下で、あいつの手の中にオレンジ色のカクテルがあった。
俺はそのオレンジ色のカクテルをじっと見ていた。それは、オレンジ色のカクテルを包むあいつの指先に、俺は寂しさよりも暖かさを感じていたからだ。
じっと見ていた指先から、ふと目を上げるとあいつと目があった。
久しぶりに胸が浮わついた。どのくらいぶりだろうか。
ただ、遠目に見てりゃよかったのに」
そのカクテルは『マンゴヤン・オレンジ』だ。
タンブラーに氷を入れて、マンゴヤンと言われるマンゴーリキュールに、オレンジジュースを加えるだけの簡単なカクテルだ。
マンゴヤンリキュールを宣伝に来たメーカーの方から教えていただいた。
作っている時に、確か彼女が『オレンジを飾らないで』とおっしゃた。だから余計に覚えている。
男性と彼女が不倫関係であることは、このバーのスタッフは知っているが、誰も口には出さない。
男性には奥さんがいらっしゃって、それと二人の息子さんがいらっしゃる。
お兄さんは県立高校に通われており、弟さんは中学生だ。その弟さんは幼稚園の頃から剣道を習われ、今年は夏の県大会で優勝されたそうだ。
男性はお兄さんとは話をする事が多いそうだが、弟さんとはあまり話しをする事がないと言っていた。その上、弟さんは最近お母さんにべったりだそうで、『中学生にもなって・・』なんておっしゃていた。
そんな事を思い出しながら男性のグラスを見たが、二口目をつけた形跡はなかった。
どうしたのだろうと思った時、男性の小さな声が聞こえた。
「あいつを三度目に見た時も、あいつはオレンジ色のカクテルを飲んでいた。後から来た俺はあいつと席をひとつ空けて同じカウンターに座った。
そこに男性二人がやって来た。俺の両脇に席がひとつずつ空いていた。俺がどちらかにつめると、男性二人は並んで座ることができる。
俺は、あいつの方に席をつめた。
こうなると、もう遠目に見るだけでは済まなかった。先日、目が合った事はお互いにわかっている。どちらが先に声を出すか。
俺は、やはり男性の俺からかと躊躇した時に、あいつの方から声が出た。
あいつは俺がバーボンを飲んでいる事を気になっていたらしく、その事を聞いてきた。
俺はカクテルには疎いので、大学時代から飲んでいるバーボンをつい選んでしまうなんて答えた。
そして、あいつは俺の体格を見て、学生時代に何か運動をしていたか聞いてきた。
俺は子供の頃から習っている剣道の話をすると、『やはり』というような顔をした。
始まりはこんなたわいのない話しだった。
その後はこのバーで会う事が多かった。もう一年以上前の話だ、
ふっ、一年以上前。
ただ、遠目に見てりゃよかったのに」
僕はそんな事があったなんて知らなかった。
男性はそれからしばらく声を出す事も無く、黙ったまま下を向いていた。僕と男性の間には沈黙が続いた。男性は下を向いたまま顔を上げない。
どれくらい時間がたったろう。僕はカウンターの左端のお客様からお勘定をしてくれと合図をもらい、伝票を確認しクレジットカードを通し、領収書を書いた。
そして、扉の外までお客様を見送り、再びカウンターに戻ろうと振り返った。
ふと、背後に気配を感じた。
振り向くと扉のところに男が立っていた。背が高い!僕よりも高い。
しかし頭は丸坊主で顔にはまだあどけなさが残る。
高校生。いや中学生だ!
「申し訳ありません。お酒を扱っておりますので、未成年者の方のご来店はご遠慮願っております」
「ええ。わかっています。父さんを迎えに来ただけです」
『弟さんだ!』
そう思いカウンターの男性を振り返るが、いまだに下を向かれたままだ。
「お呼びしま・・」
僕の言葉を遮るように弟さんの手がすっと出た。
その手はなんと。黒くなっていた。
びっくりした僕は弟さんの手をはらって、男性のそばに行って声をかけたが、男性の耳にはもう入らなかった。
男性は死んでいた。
スーツの胸元から見えるカッターシャツが赤黒くにじんでいる。
僕は弟さんの顔を見た。
弟さんは平然とした顔で男性の横に座り、僕に警察を呼ぶようにおっしゃた。
そして、弟さんは僕に話しを始められた。
「一年くらい前かな、父さんが若い女性と仲良く歩いているのを見たんだ。僕は交差点の向かいから見ていた。
最初はまさかと思ったけれど、よく見るとやっぱり父さんだった。
僕は『嘘だ』、何かの間違いだと思った。
だけど、その頃、父さんの態度が変わった事は感じていた。母さんは気がついていたのだろうか。どうだろうか。
父さんはそれからもその女性と会っていたようで、母さんとの会話が減っていくのが目に見えてわかった。
僕は母さんに言おうかどうしようか迷った。でもこの事を知った母さんが悲しむのはいやだった。
そんな母さんは父さんの誕生日プレゼントに、靴下とハンカチを買ってきた。母さんはやっぱり、何も知らなかったのだろうか。
母さんが笑顔で父さんに誕生日プレゼントを渡す姿を見ると、僕は気が狂いそうになった。
それから、僕は父さんとはしゃべらなくなり、母さんのそばにいる事が多くなった。
僕は何もしていないと、父さんが若い女性と仲良く歩いている姿を思い出してしまう。だから、僕は部活の剣道を一生懸命やってその事を忘れようとした。
学校にいても、家にいても練習に励んだ。
ところが、一昨日。僕が部活が休みなので、早く家に戻っていた日のことだ。
父さんは家に携帯電話を忘れて会社に行ったようで、父さんの書棚で携帯電話がブルブルなっていた。
僕は、きっと父さんが携帯電話をどこに忘れたのかを知るために、電話をしたと思って取った。
しかし、聞こえて来た声は女性のなれなれしい声だった。
『あした。いつものバーで会いましょう』
僕はびっくりしてただ黙っていた。
女性は僕が黙っていた事を、今は話ができない状態と感じたのか、『後でメールしとくわ』といって電話を切った。
僕は体が震えた。
僕は父さんの携帯電話の着信履歴を見て、女性の電話番号をメモした。
そして今日。僕はその女性に電話をして会った。
待ち合わせの時間が来ると、女性は血相を変えて現れ、僕の名前を確認した。
僕が名前を言うと女性は何も言わず、僕の顔をじっと見た。
僕は女性になんて言ったら良いのか判らなかった。
しかし、僕の手には、いつも母さんが台所で使っている包丁があった。
一突きだった。
無防備な女性を一突するくらい。僕の力を持ってすれば朝飯前だった。
女性は僕の目の前で倒れて動かなかった。
僕は女性の携帯電話を使って今度は父さんに電話をした。
三十分はかからなかった。父さんはすごい顔をして現れた。
父さんは倒れた女性を抱きかかえて揺さぶったが、もう何も反応はなかった。あたりまえだ。僕が心臓を一突したんだから。
父さんは、僕につかみかかり押し倒し、僕を平手でたたいた。
僕は黙ってたたかれた。
何度も何度もたたかれた。
父さんがたたくのをやめると、僕は立ち上がり、父さんの顔を見て声をだした。
『これだけは父さんに言いたかった。僕は母さんも父さんも大好きだ。
優しくて、いつも家族の事を考えて自分を犠牲にしている母さんが好きだ。そして、それに負けないくらい父さんの事も大好きだ。
僕は父さんにあこがれていたんだ。だから父さんが子供の頃からやっている剣道を僕もやっているんだよ』
父さんは下を向いた。
僕はそんな父さんの姿を見るのが、いやだった。
僕は、母さんが笑顔で父さんに誕生日プレゼントを渡す姿を見た時と同じように気が狂いそうになった。
気がつくと僕は泣いて父さんに抱きついていた。いや、右手は母さんがいつも使っている包丁を握っていた。そしてその包丁の先は父さんのわき腹に刺さっていた。
母さんごめんなさい。こんな事になるなんて。母さんを悲しませてしまうね。
あの時、知らない振りをしていればよかった。
交差点の向こうから。
ただ、遠目に見てりゃよかったのに」
第十六話 終わり
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