第15話 若いドライ・マティーニ

 僕はパソコンやスマホをうまく使えていない。ましてや「サブスク」なんてなんの事やら。

実はこのホテルでもインターネットを使う事ができる。

ルームでも、事務所でも。

 それに、宿泊の予約をインターネットで取る事もできる。

 出張でお泊りの方は、部屋でラウンジでパソコンを広げてお仕事をされている。

 後輩バーテンダーは専門学校時代にパソコンの操作について習ったと言っていた。だからだろう、事務所のパソコンを使ってインターネットをよくやっている。

 後輩バーテンダーが言うには、「先輩、ネットやらなきゃ情報不足だし、取り残されちゃいますよ」って。

 僕はどこかに取り残されちゃったのだろうか。


 今日も事務所で後輩バーテンダーがスマホを見ながら座っている。

 後輩バーテンダーは長い髪を後ろで結んで色白なので、宴会営業の誰かに「志村けんが、コントでやっている若殿見たいだな」なんて言われた。それ以来、後輩バーテンダーはみんなから『若(ワカ)』と呼ばれている。

 スマホを見ているワカの目が左から右に動いている。右の端まで行くと次の行の先頭の左端に移る。それを繰り返すうちにワカの目線は徐々に下に降りていった。

そして突然、ワカの顔がこわばった。

 目線はだいぶ下まで行っているから、最後まで読んだのかもしれない。

 僕は気になったが、ワカの側には行けなかった。

 側にいけない僕は遠くからワカの様子を見ていた。すると、ワカの目がスマホから離れた。

 僕はワカの事が気になっていた。

 そして、ワカの目はスマホではなく天井に注がれると、僕はたまらなくなってワカに近寄った。

 「どうした」

 「先輩。このブログ見てくださいよ」

 ワカはスマホを指差し、そう言った。

 そこには僕達が勤めるこのホテルのバーの評価が書いてあった。

 『☆二つ』

 僕は『☆二つ』かと思って、続いて書いてあるコメントを読んだ。

 『店に入るなりマティーニを頼んだ。バーテンダーはあらかじめ冷やしてあったミキシング・グラスに氷を入れて、バースプーンを滑らかにまわした。すっとバースプーンを抜き、水気をしっかり切って、ビターズを振り、ドライベルモット、冷えたジンを注いだ。

再びミキシング・グラスにバースプーンが入り、ステアする。

 グラスと氷が滑るような優しい音とともに、氷はグラスのふちを回った。それは、氷の間をジンやドライベルモットが回ると言ったほうが正しいかもしれない。

 もうひとりの若いバーテンダーは、ステアが終わる間合いを見て冷蔵庫から冷えたカクテル・グラスを出し、私の前に置いた。

 私が若いバーテンダーに目をやると、優しい笑顔を持って軽く会釈をした。

 ミキシング・グラスから、カクテル・グラスにマティーニが注がれ、ピンをさしたスタフッドオリーブが優しく飾られる。

 そして、最後にレモンピールを絞る。香りが私のところまでやって来た。

 そして、マティーニも私の前にそってやって来た。

 透明で、なんともきりっとしたマティーニ。きりっとしているのは透明さだけではなく、味の方もそうだった。

しかし、このバーはやや若さが目立つ。

 カクテルは味だけではない。雰囲気も大切だ。

だから、☆は二つ』

 読み終えた僕は『☆二つ』ももらえたと思い、 率直な感想を言ってみた。

 「どうした、☆が二つじゃ足らないか。フランスのレストランの評価本じゃ。『☆一つ』もらえるだけでも、たいしたものらしいのに。二つなら、いいじゃん」

 それでも、ワカは黙っていた。僕はもう一度コメントを読み返してみた。

 「若いバーテンダー・・・若いバーテンダー・・・やや若さが目立つ。」

 もしかして、ワカはこのバーで一番若い自分の事を言われたと思ったのだろうか。自分のせいで☆が二つしかもらえなかった。

 そんな事を思っているのだろうか。

 ワカの口は固く閉ざされてしまった。その固く閉ざした口を見れば、奥歯をかみしめている事が解る。

 僕は軽く深呼吸をすると、むかついた。

何でこんなことを書く。直接言われたらまだしも、こっそりと書きやがって。僕はその文章が映る画面を叩き割りたくなった。

 僕は「気にするな」とワカに言おうとしたが、そう言ってしまえば、☆二つの責任がワカのせいになってしまう。

 僕はワカにもう一度声をかけた。

 「何を気にしている」

 「やっぱ俺、若造に見えますかね」

 やはり、そう考えていたか。

 「何を言っているだ。『若さが目立つ』というところか。必ずしも、お前の事ではない。レモンピールの香りをお客様のところまで飛ばした俺の未熟さを言っているんだよ」

 「そうですか。でもカクテルの事は褒めてますよ。やっぱ、僕のグラスの出し方や、挨拶の仕方じゃないんですか」

 僕は返す言葉がなく、二人してその場で黙ってしまった。

 すると、事務所のドアが開いて、料飲部長とマネージャーが現れた。

 「どうだ、これが割引クーポンだ。インターネットで表示して印刷すると出てくる」

 マネージャーはそう言って、クーポンを僕に渡した。

渡された僕の表情をマネージャーはおかしく思ったのか、眉間にしわをよせ、状況を感じ取った。

 僕は若のスマホをマネージャーに見せた。マネージャーは先ほどのコメントを読んだ。

 「お客様がそう言うのだから、そうなんだろう。何が若かったか、考えてみる事も必要だな」

 僕はマネージャーのまさかの言葉に、口を強く閉ざした。

 「書いてあるじゃないか、雰囲気も大切ってな。俺も気がついていないところに何かがあるんだろう。お前たちの事ではない。

 年齢なら俺だって充分若い方だ。

五〇歳を過ぎてる料飲部長だって、行くとこ行きゃ、若い方に入るんだぞ」

 マネージャーが両院部長を見ながらそういうと、ワカが苦笑いをした。そのワカを見て僕も苦笑いをした。

 「ああ。俺だって若造呼ばわりされる事はあるぞ」

 そう言って料飲部長は笑っていた。


 その晩、ワカは意識してか、挨拶の仕方がいつもより丁寧だった。

 時間は二十三時まであと少し。ふと、入口のところに、三つ揃いのスーツの初老の男性が立っている。

 「まだいいかな」

 「いらっしゃいませ。カウンターでよろしいですか」

 ワカがカウンターから飛び出し、初老の男性をカウンターの真中の席に案内した。

 「いらっしゃいませ」

 ワカは初老の男性に挨拶をし、おしぼりを広げて渡した。ワカは初老の男性がおしぼりで手を拭かれている間に、バックの棚からメニューを取り出し、初老の男性の前に広げた。初老の男性は、メニューを見る事もなく、ブランデーの水割りを頼まれた。

 銘柄の指定はなかった。

 初老の男性は、店内を見回わされ、そして、なぜか最後にワカにじっと目を向けられた。

 ワカは、黙ってグラスを洗っている。

 初老の男性はその姿をごらんになってて、鼻で笑ったようだった。いや、馬鹿にして鼻で笑われたのではない。何かを思い出されて鼻で笑われたようだった。

 うつむいてグラスを洗うワカがふと顔を上げると初老の男性と目が合った。初老の男性はそれを待たれていたのだろうか、ワカに声をかけられた。

 「あんたは、カクテルは作らんのか」 

 「ええ。まだ勉強中ななもので。試験には合格したのですが、お客様に出せるようなカクテルはまだ少なくて、決まったカクテルしか作っておりません」

 「そうか。合格というから試験があるのか。そりゃ、国家試験か何か」

 「いえ。そんなたいそうなものではなく。このバーの中での試験です」

 「ああ、そうか。でも合格したなら、いろいろなカクテルを作ればいいじゃないか」

 「ええ。でも合格したのはつい最近で」

 「そうか」

 男性はそうおっしゃって、ブランデーの水割りに手を伸ばされた

 「若いな」

 僕の耳にもその言葉は入った。

 そして、その言葉が耳に入ったワカの手は止まっていた。

 僕はワカと目が合った。

 「若い。うらやましいよ。でも、若さがうらやましいのではないよ。私がどんなにがんばっても、あんたの若さに戻れるわけがない。あんたが俺にさっき頭を下げて挨拶したろう。丁寧に。心をこめて、深く。俺が最後にそんな挨拶をしたのは、いったいいつだろう。思い出せんな。

 ぼけて思い出せないのではない。若さと一緒にどこかに忘れてきてしまった。

 若くなきゃ、そんなに素直に頭が下がるもんじゃない。俺の周りの奴らは、俺の顔をうかがって、頭をさげる。形だけだ。

 あんたのように、ひたむきに一生懸命な姿の奴を見た事はない。

 会社では俺がそう言えば、そうなる。こう見えても、俺は社長なんだよ。

 あは、これがいかんのか。すまん、すまん。

もう、地位や役職だけで生きているもんだから。

最近は、そんなに丁寧に頭を下げる事もなくなった。

いや、やらなくなった。ただ歳を多く重ねただけだ。それに、歳とりゃいいわけでもないしな。

 あんたは、なにかやりたい事はあるのか」

 ワカは不意に聞かれた問いかけに、「あっ」という口をしただけで、首をひねって苦笑いをした。

 「ははは。やっぱり若いな。若いと選択肢が多いからな。何でもできるし、何をやってもゆるされる。ただ、ゆるされる若さはそんなに長くはないぞ。あんたもいつか責任を持った人間になるだろう。『お客様に出せるようなカクテルはまだ少なくて』なんて言葉はそのうち言えなくなってしまう。

 そんな言葉が言えるうちはまだ若い証拠だ。しかし、若さがなくなっても、今のあんたの素直でひたむきな心は忘れてはいかんよ。

 俺みたいになってしまう。

 あんたに何かカクテルを作ってもらおうかと思ったが、今日はやめとくよ。

 次に来た時に少しだけ歳をとったあんたに作ってもらうよ」

 初老の男性はそう最後におっしゃって、お勘定を払われ、席を立って出ていかれた。

 「ありがとうございます」

 「いや、こっちがありがとうだよ。二つか三つは若返ったかな」

 僕とワカはカウンターの中から飛び出てきて、バーの扉のところでお見送りをした。

 「おまちしています」

 「先輩、俺、今からいろんなカクテル作れますかね」

 「ああ。今度はお前がマティーニを作れよ。俺がグラス出してやるから」


 第十五話 おわり

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