第14話 怪物たちの夜

 以前は服装を見れば会社帰りなのか、お休みなのか分かったものだ。しかし、最近ではカジュアルな服装での勤務が許される会社が増えている。それに、夏場にはクールビズと言って、ノーネクタイの会社もたくさんある。服装だけを見て会社帰りだと決め付ける事はできなくなってしまった。

 しかし、家でも会社でも変わらぬカジュアルな服を着ていると、仕事と遊びの区別はどこでつけるのだろう。


 それは蒸し暑い夏の夜の事だった。

 少し顔色の悪い男性が入って来られた。顔色が悪いというよりも、ちょっと影がある男性だ。そのうえ、この蒸し暑い夏の夜に黒のタキシードに黒いマント。一目見て会社帰りでない事は分かる。いや、その格好では会社勤めなどできないだろう。

 男性は入ってくるなり店内を眺められた。

 今晩は、カウンターに二人組みの女性が座られているだけで、ボックスには誰もいらっしゃらなかった。男性は二人組みの女性と席をひとつ空けて座られた。

 レセプタントは迷っていた。男性が着いている黒いマントをどうしてよいのか。

 「いらっしゃいませ」

 「ああ」

 「お上着、おかけいたしましょうか」

 「いや。このままで」

 レセプタントが言いたかった事を僕が代わりに言った。レセプタントは、肩で息をするようにして、ホッとため息をついた。

 「ホテルにお泊りのお客様ですか」

 「いや、窓越しにこの扉が見えたのでちょっと寄ってみたんだが」

 「窓越しにですか?。ここはホテルの二階ですが。高さは普通のビルの三階くらいありますよ」

 男性は自分が何をおっしゃっているのか分かっているのだろうか。確かに前にあるビルの三階あたりから見れば、ホテルの二階のラウンジの窓を見る事は出来る。しかし、このバーの扉まではラウンジの窓から10メートル以上ある。それに、途中には壁や柱もあり、それらの障害物を透かして見ない限り、とても見る事はできない。

 「お飲み物は、いかがいたしましょう」

 「そうだな。まずは赤ワインでもいただこうか」

 「ハーフのボトルにしますか」

 「いや。グラスでいただけるか」

 男性は腕を組み、正面を向いていた。僕は赤ワインをグラスに注ぎ男性の前にすっと出すと、男性は右の頬を吊り上げて、にこりと笑われた。

 右の口元に八重歯が見える。かわいい八重歯と言いたいところだが、なにか内に秘めた恐怖を僕は感じた。

 「あまりお見受けしたことがございませんが、このバーは初めてですよね。ご旅行か、ご出張でいらしたのですか」

 「うーん。まあ。そんなところかな。ちょっと東南アジアの方から」 

 「へー。東南アジアですか」 

 「まあね。いろんな国に行ったな。故郷を離れて何百年経つだろう」

 男性は平気な顔をしてそう答えられた。

 男性はいったい何をおっしゃているのだろうか。何百年と出た時に、僕は軽いツッコミを入れなければならなかったのだろうか。ますますおかしな事をおっしゃる男性だ。


 「出発はルーマニアだった」

 「お客様はルーマニアに行ったことあるんですか」 

 「行ったというか、住んでいたというべきか」

 「ヘー、ルーマニアというと『コマネチ』くらいですかね。知っているのは」

 「彼女を知っとるのか。いい子だった。ナディア・エレーナ・コマネチ。ルーマニアが誇る女子体操選手。1976年のモントリオールオリンピックで史上初めての十点満点を出した選手。当時はまだ十四歳で、そりゃあ、うまかった」

 「うまかったって。そりゃあ、うまいでしょう。僕はまだ生まれてないから知らないですけど、オリンピックで金メダルをたくさん取る選手なんですから」

 「うまかった。うまかった。そうそう。体操がうまかった。

個人総合で金メダル三個、銀メダル一個、銅メダル一個を取った。その四年後のモスクワオリンピックでも金メダル二個、銀メダル二個を取った。しかし、1989年12月、ルーマニアからアメリカに亡命した。そうチャウシェスク政権崩の一ヶ月前だ。

 そして、1996年にロサンゼルス五輪男子体操金メダリストのバート・コナーと結婚し、2001年6月にアメリカに帰化した。もう処女じゃないだろう。もったいない」

 男性はいかにもコマネチと知り合いかのようにお話しになり、最後に首を軽くかしげて残念そうな顔をされた。それにこれだけコマネチの事をご存じという事は、やはりルーマニアにはずいぶん長く住まれていたに違いない。

 もしかすると、男性はルーマニアの体操のコーチをされていたとか、オリンピックに関係する仕事でもされていたのかもしれない。

 しかし、この不健康そうな顔色の悪さと、ほっそりとしたこの体は、スポーツをやっていたようには思えない。

 たとえば、ルーマニアの事を専攻にしている大学教授ではないだろうか。

 「お客様はコマネチの事ずいぶんお詳しいですね。何かスポーツ関係の方ですか、それとも、大学でルーマニアの事を専攻されているとか。

 僕は高校生の時に地理の授業で東ヨーロッパの事を習ったんですが、知らない国が多かった事を憶えています。でもルーマニアはコマネチで有名だから、東ヨーロッパという事を覚えています」

 「そう。ルーマニアは東ヨーロッパの国だ。セルビア・モンテネグロ、ハンガリー、ウクライナ、モルドバ、ブルガリアなんかと隣合せの国。有名な黒海も面しているよ」

 すごい。やっぱり大学教授だ。あんなに早く隣接国の名前が出てくるなんて。


 「へぇー。ところで、ルーマニアの名産ってなにがあるんですか。たとえば料理やお酒は・・」

 「ルーマニア料理。主食は小麦ととうもろこしを使った料理だ。小麦はパンとして使うことが多い。まあヨーロッパでは当たり前だ。とうもろこしは、マッシュポテトに似た『ママリガ』と言うものがある。肉料理は『サルマーレ』といわれる煮込み料理が有名だ。酒は『パリンカ』という強いお酒がある。たしかこの極東の地にもやって来ているだろう。しかし、私はワインのほうが好きだ。特に赤ワインは処女の血のように美しい赤をしている。

 ルーマニアは白ワインも有名だが、ドブロジェア地方のカベルネ・ソーヴィニョンとピノ・ヌアがなどの赤ワインがうまい・・」

 その後、男性はルーマニアの歴史をお話してくださった。どこでどう研究したのかわからないが大変お詳しい。特に十四世紀あたりのお話しは、その場にいらっしゃって、見て来られたようなはなしっぷりだ。

あまりにリアルなため、僕はいつのまにかその時代に迷い込んだような気になった。

 ふと、僕は『ドラキュラ』という映画を思い出した。

 「そういえば、ドラキュラってルーマニアではなかったでしたっけ。フランシス・フォード・コッポラ監督の映画でありましたよね。確か、なんとかバニアって言った。」

 僕がこの話しをすると、男性はおどろいた顔をされた。それは、まるで何かまずい事がばれたようだった

 「こんな極東の地でも、私の・・、ああ・・いや、ドラキュラの事を知っているのか」

 「ドラキュラは有名ですよ。漫画にもなりましたからね。狼男やフランケンシュタインなんかも一緒に出ていましたよ」

 「なに。漫画。そうか。そんなに有名とは。やりにくいな。そのうえ、狼男やフランケンシュタインも一緒か」

 「ドラキュラは作り話だから、そんな事は研究してないですよね」

 「みなはドラキュラと言うが・・。

 では、久しぶりだから、私の・・いや、そのドラキュラの話をしてやろう。

 ドラキュラ。よく吸血鬼といわれている。

 生まれはルーマニアのトランシルバニア。フフッ。久しぶりにこの地方の名前を口にする。

 本当の名前はウラド・ツェペシュで、父の名前がウラド・ドラクル。ドラクルの息子なのでドラキュラと呼ばれるようになった。

 子供の頃は『ドラ息子』とよく呼ばれ。からかわれたものたよ」

 「そんなドラキュラの子供頃のことも研究しているんですか」

 「いや。だろうなだよ。だろうな。

 ドラキュラの話をする前に、父親のウラド・ドラクルの話をせねばならない。時代は十四世紀。当時オスマン帝国という大国があって・・・」

 男性はルーマニアの話と同じように、ドラキュラの父親の話をリアルにしてくださった。

 しかし、ドラキュラの話の前の父親の話が長く、いつドラキュラが出てくるか僕は気になった。

 「よくわかんないですけど、ドラキュラはいつ出てくるんですか」

 「ああ、ここからだ。・・・」

 そう言って男性は話を続けた。


 男性の話はドラキュラの幼少の頃から始まった。しかし、ドラキュラの残酷な話が出てくるのはドラキュラがワラキアにいた頃のわずかな話だった。

 例えば、地主貴族全員を串刺しにしたとか、トルコ人がターバンを取らなかった事に腹を立てて、ターバンの上から釘を打ち込んだなど。また、オスマン帝国軍との戦でオスマン帝国軍の進撃路に串刺しにした捕虜を並べたなど。しかし、人間の血を吸う話は出てこなかった。どちらかというと串刺しが多い。

 やっぱり人間の血を吸うなんて作り話なのだろうか。

 男性の話しが一段楽すると、グラスの中のワインがなくなっていた。

 「もう一杯ワインを召し上がりに成りますか」

 「いや、そうだな・・・」

 「カクテルはいかがですか」

 「カクテルかぁ」

 僕は迷っている男性にメニューを見せながら、いくつかカクテルを説明した。

 「テキーラを使ったカクテルなんかどうです。テキーラとオレンジジュースとグレナデンシロップ。そのグレナデンシロップを入れる時に、スプーンの背中に這わせるように注ぐとグラスの下が赤くなって、きれいですよ」

 「おお。赤か。私の大好きな赤か。それはなんというカクテルなんだね」

 「『テキーラ・サンライズ』ですが」

 「サンライズ!。ダメだ。ダメだ。太陽の光はダメだ。他のはないの」  

 「そうですかぁ。グレデナンシロップがゆっくりと上がって日の出みたいなのに。では、『ソルティドッグ』なんてのもありますが」

 「ソルティ。塩はダメ。清めの塩といってダメだ」

 「案外スタンダードなカクテルを言ったつもりなのですが。では薄い赤ですが『パッシモオレンジ』なんかどうですか」

 「パッシモ。なんか響きが怪しいな。でぇ、どんなカクテルなの。」

 「パッションというリキュールを使います。パッションというお酒は、ブランデーをベースにしたリキュールで、フルーツの香りがします。そのパッションの元となるパッションフルーツは、大きな花を付けます。スペイン人はその花のめしべが十字架にかけられたキリストに似ているということで・・・。どうされました」

 「ダメ、ダメ、絶対ダメ」

 男性は、パッションの説明の途中でいきなり引きつったような顔をされて拒まれた。

 「あー。では、そうですねぇ・・」

 僕が悩んでいると男性は左の席に座っている二人組みの女性が飲んでいるカクテルに目をやった。

 「あの赤いカクテルがいいな。それにお飲みになっているご婦人も美しいし。おいしそうだし」

 「ええ、おいしですよ。ウォッカにトマトジュースを入れた簡単なカクテルです」

 「トマトの赤か」

 僕は男性の気が変わらないうちに、手早く作り。男性の前にすぐに差し出した。

 「どうですか。きれいな赤でしょう」

 「ああ。少しトロッとしたところが本物の血のようで、うふふふふ。

 ああ、聞き忘れたが、なんと言うカクテルだ」

 「ブラッディ・・・」

 男性は、カクテルの名前を言おうとした僕に割って入るように声をあげた。

 「なに、ブラッディ。ブラッディとはあの血のブラッドのことか」

 「そうです。血のブラッドです。『ブラッディ・メアリー』」

 「なに、血まみれのメアリー。なんとすばらしい響きだ。」

 男性はそう言って、立て続けに二杯飲むと、悪かった顔色がいつの間にか赤みを帯びて来た。そして左の席に座っている二人組みの女性をじっと見た。

 なんとなく、右の八重歯は先程よりも長くなっているように思えたが、そんなはずはない。

 そんな事を思っていると、いつの間にか男性は女性のほうに詰め寄り、話を始めた。

 「あのー。わたくし、浦戸(ウラド)と言うものですが、あなたがお飲みになっているこのカクテルが非常においしそうだったので、私も真似をして飲んでおります。

 ここでお会いしたのも何かの縁でございましょう。お名前をお聞かせいただきますか」

 「セイコといいます。聖書の『セイ』に子供の・・」

 「セ、セ、聖書ぉ!」

 さっきまで赤かった男性の顔が再び青白くなってしまった。

 「ああ、きゅ、きゅ、急用を思い出した。す、す、すまんが計算をしてくれ」

 男性はすくっと立ち上がり、マントの中から大きな財布を取り出された。

 ぼくは尋常ではない男性の姿にびっくりして、あわてて計算をした。

 男性は支払いが終わると、先程の女性の方を一切見ずに、なおかつ、おつりももらわずにマントを翻して逃げるようにして去って行かれた。

 「どうかしたのかしら」

 女性は心配そうな顔をしてそうおっしゃた。僕は何が起きたかさっぱりわからなかった。


 先程の男性が帰られてしばらくすると、入口にひげずらにサングラスをした男性と、身長が二メートル以上ある黙った男性の姿が見えた。

 ひげずらにサングラスをした男性はカウンターのあたりまでやって来て、僕に「今、黒いマントをした、青白い顔をした奴がいなかった」と尋ねられた。

 その男性が尋ねたその容姿は、先ほど急いで帰った男性そのものだったので、たった今あわてて帰っていかれた事を伝えた。

 すると、男性は入口で待つもう一人の長身の男性の所に戻られた。

 「一足違いだったようだな、確かにあいつの残り香がする。久しぶりに会えると思ったんだが、残念だな。じゃ、帰ろうか。」

 「フンガー。(そうだね)」


 第十四話 終わり

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