第11話 エスケープカクテル
先日、アメリカの兵隊さんがやって来られた。テレビや映画で見るように、ワイワイ騒いでにぎやかに飲んでいるのかと思っていたら、静かに飲まれていた。
一人はずっとビールを飲み、残りの二人はウィスキー。それもバーボンかと思ったら、アイリッシュ・ウィスキーだった。
アメリカの兵隊さんは世界のいろいろな扮装に行っている。それは世界がまだ平和でない事を証明している。ただ、その晩にやって来た兵隊さんの優しい笑顔を見た時、世界は僕が思っているほど大変な事になっていないのかと思った。
それとも、大変な所から平和な日本にやって来て、ほっとしていたのだろうか。
ところで、カウンターには疲れた男性が座られている。疲れたというよりは『くたびれている』と言ったほうがあっているかもしれない。紺のスーツにとても大きな旅行鞄。何が入っているのだろうか、出張帰りというわけではない、きっとどこか海外旅行からでも帰って来られたのだろう。
「ブランデーをもらおうか」
「かしこまりました」
男性は僕が手渡そうとしたメニューを受け取る事もなく、ブラデーを注文された。
僕は男性に渡そうと思っていたメニューをバックの棚に戻した後、振り返ると、男性は目を瞑っていらっしゃった。男性に飲み方を聞こうと思ったが、いまはちょっと聞きにくいので、しばらくして聞く事にした。
さしあたり、ブランデーだけは出しておこうと再びバックの棚を振り返った時、男性の声が聞こえた。
「いや、『サイドカー』にしようか。ブランデーベースのカクテルだったなぁ」
「かしこまりました」
どうしたことか、サイドカーに変わってしまった。僕はブランデーに続き、ホワイト・キュラソーを棚から取り出し、最後にレモンジュースを冷蔵庫から取り出してサイドカーを作った。
サイドカーは、フランスはパリで作られたブランデーを使ったカクテル。男性はフランス旅行からの帰りなのだろうか。
「どうぞ」
「ああ・・・パリか」
僕はやはりと思った。
サイドカーの由来はいろいろな話がある。
有名なところではパリにあるハリーズバーのバーテンダーであるハリー・マッケンホーンが作り出したと言われている。
また、第一次大戦時にパリにやって来たどこかの将校がサイドカーに乗ってバーを訪れ、作らせたカクテルがサイドカーだったとも言われている。他にもいろいろな説があるが、関連しているのはフランスだ。
だから僕はフランス帰りだと決め付けてしまった。
男性はカクテル・グラスを左手で軽く握って眺めていらっしゃる。そして、一口目を口に含み再び目を瞑られた。
『何かを思い出しているのだろうか。』僕は『フランス旅行の帰りですか』と切り出そうとしたが、一向に目を開けられない。僕が前に立って男性を眺めているのも変だから、一旦、男性の前から離れた。
目を瞑るほどフランスが恋しいのだろうか。大切な彼女を置き去りにしてきたのだろうか。しかし、ああくたびれた様子からすると、そんなロマンスがあったようには見えない。
僕はしばらく男性から目をそらしていたが、再び男性の方に目をやると、男性は二口目を口にされていた。
しかし今度は目を瞑られることはなかった。
そして、男性は三口でサイドカーを飲み干したが、くたびれたその顔は変わらなかった。
男性は僕の方を向いて軽くあごを引いて僕を呼ばれた。
「同じものにいたしますか」
「いや、今度は『アレキサンダー』にしよう」
これもベースはブランデー。ブランデーにホワイトカカオ、生クリームを入れてシェイクする少し甘いカクテル。このカクテルはイギリスで作られたと言われている。イギリス国王エドワード七世が王妃のアレクサンドラに捧げたカクテルだと。最初は王妃の名前のアレクサンドラであたったが、いつの間にアレキサンダーになってしまった。
僕がアレキサンダーを男性の前にすっと出すと、男性はグラスに左手をやり一口目を口に運ばれた。そして、先程と同じように目を瞑られた。
僕はあまりに気になったので、今度は男性が目を開けるまで前に立っていた。
しばらく沈黙が続いた後、男性はゆっくりと目を開けた。
普通は目を開けた先に人が立っているとびっくりするのに、男性は表情も変えず何も言われなかった。
まるで目を開けるとそこに僕が立っている事がわかっているようだった。
「いかがですか。アレキサンダー。ずっと目を瞑っていらっしゃいましたが、何か思い出がありますか」
「ああ。あるね。1982年。今でも憶えているよ。それまで三年間住んでいたフランスからイギリスに移った年だ」
フランスからイギリスか。ドーバー海峡を挟んだ隣同士の国だ。あの大きな鞄は旅行用ではなく、海外に住んでいた時の荷物が入っているのか。でもフランスとイギリスでどんな仕事をしていたのだろう。僕は仕事の事を切り出してみようとしたが、彼の目がこわばっているので黙っていた。
しかし、そんな戸惑いなど必要なかった。
「イギリスではいい思い出がない。たった一度のミスで五年程つらい思いをした。
『二コラシカ』をいただこうか」
男性はそうおっしゃって、アレキサンダーを二口で飲み干し、グラスをすっと僕のほうに差し出された。
次は二コラシカなんて。またブランデーベースのカクテルか。僕は戸棚からリキュール・グラスを取り出した。
グラスにブランデーを入れ、レモンスライスをふたのようにして乗せる。そして、その上に砂糖を山積みする。
ドイツ生まれのカクテルだ。名前からするとロシアっぽいがドイツ生まれだ。
名前の由来はロシアの皇帝ニコライ二世が好んだレモンとウォッカの飲み方から来ていると言われている。
男性は、レモンで砂糖を包み口に放り込み、ニ、三度噛むとブランデーを一気にはおわれた。
今度は目を瞑られる事はなく、右のほほをつりあげられた。
ニコラシカにも思い出があるのだろうか。
「辛かった五年が過ぎると、俺はイギリスからドイツに渡った。
そして、フランスに住んでいた時から計画していた仕事を終わらせた。さっき俺がニコラシカを一気にはおったように。一気にな。
頼まれた仕事は最後までやる。決着がつくまで。
その時アシストしてくれたのが、ロシア人のニコラスキーだ。
そして、俺はヨーロッパをあとにした」
「それで日本に帰って来られたんですか」
「ふっ。いやまだだ。それに『日本に帰ってくる』って、俺は東洋人に見えるか」
「ええ」
「それから大西洋を渡ってアメリカに行った。そこで新たな仕事ができた。次は『マンハッタン』を」
今度はブランデーベースからライ・ウィスキーに変わった。
僕はライ・ウィスキーとチンザノロッソを棚から出した。アロマチックビターズはいつもカウンターのそばに置いている。
それらをカクテル・グラスに注ぎ、赤いチェリーをつけて男性の前に差し出した。
マンハッタン。
第十九代アメリカ大統領選挙の時に、イギリスのチャーチルの母親がニューヨークのマンハッタン・クラブでパーティを開いた。その時にウィスキーとスイートベルモットの組み合わせをお願いしたのがマンハッタンの由来だと言われている。
男性はアメリカに渡って、何をしたのだろう。
それに頼まれた仕事なんて。
しかし、よく見るとこの人は右手を使われない。いつもグラスは左手だ。さっきもニコラシカを飲むときに、左手で不器用に砂糖をレモンで包まれていた。
右手はポケットの中にしまったまま。
どうしたのだろう。
男性はやはりマンハッタンを左手で持って、一口飲まれ話を続けられた。
「アメリカは敵が多すぎた。いつもどこかで俺を見張っていた。俺は、アメリカに渡った時から怪しまれていたようで、事を起せば捕まえようとしていた。
第四十一代目大統領選挙の年。
俺と一緒に計画を立てていた奴が、いつのまにか敵に寝返っていた。
何も知らない俺は計画を進めた。
計画通りに事は進む。当たり前だ、俺の計画は敵に筒抜けだったから。
しかし、俺は計画があまりにうまくいきすぎる事を怪しんで、捕まる寸前に南部に逃げた。
生まれて初めて、最後までやり遂げることができなかった仕事だ。今でも唯一の心残りだ。
南部は気候も良く、俺の事を疑う者もいなかった。
『ミントジュレップ』を。南部でよく飲んだカクテルだ」
「かしこまりました」
僕はバーボン、砂糖、ミントの葉、そしてミネラルウォーターを取り出した。ミントジュレップはミントの香りがさわやかなカクテル。
「知っているだろう。ミントジュレップ。アメリカ南部の夏のカクテルだ。
俺は南部で馬の世話をしていた。乗馬は子供の頃からよくやっていたので、馬の扱いには慣れている。馬主も俺が馬の扱いにあんまり慣れているので、びっくりしていた」
「乗馬されるのですか」
「ああ。その頃はな」
「『その頃は』って言いますと」
「南部にいた時までだな。
俺は南部で静かに暮らしていたつもりだったが、どこでどう情報が流れたのか南部まで追っ手がやってきた。しつこい奴らだ。
俺はアメリカを脱出しようと考えた。しかし、なかなかアメリカから出ることはできなかった。州を越えても俺を追いかけてくる。
それは俺がアメリカで狙った相手が悪かったからだ。『世界のドン』と言っても良い奴だ。
俺はフロリダに回り、ジャクソンビル、ニューオリンズ、ヒューストン、サンアントニオと南部を渡り。そしてエルパソに着いた。俺はメキシコに逃げようと一生懸命だった。しかし、エルパソには既に待ち伏せがあった。やつらは車で俺を追いかけた。俺は村で見つけた馬に乗りエルパソからリオ・グランデ川を渡ってメキシコのシウダーフアレスに行った。
さすがに車では追いかけてくる事はできないだろうと思ったが、国境付近には既に待ち伏せがあった。姿を見せず、遠くから奴らは俺を襲ってきやがった。
しかし、何とか俺はメキシコに逃げた。
だが、俺は右腕に大きな傷を負ってしまった。それ以来、もう右手は言うことを聞かない。馬に乗ったのはそれが最後だ」
『やばい人だ・・』
「俺はもう逃げ回るのも疲れた。そして、いつの間にかこんな極東の小さな国の田舎町までやって来たのに。まだ奴らは追いかけて来た。それに右手が使えなくっちゃ。俺の仕事もおしまいだ。
じゃあ最後に一杯だけもらおう。『ラスティ・ネール』日本語だと『さびた釘』って言うのか。使い物にならない俺そのものだ」
どうした事か、話し終えた男性はもうくたびれた顔ではなく、安らかな顔になっている。
僕は氷を入れたロック・グラスにスコッチ・ウィスキーとドランブイを注ぎ、軽くステアして、男性の前に出した。
「お疲れ様です」
「ああ。そんな事を言ってくれたのはあんたが初めてだよ」
男性はそう言って。目を瞑ってグラスを口に運ばれた。
支払いは現金だった。世界を歩いて回ったのにトラベラーズチェックでもカードでもなかった。
現金だ。いや、現金しかもてなくなっていた。
男性は左手で持ってきた大きな鞄を持って出て行かれた。
僕は翌日の昼、新聞を広げた。
僕は昨晩の男性の事を忘れていた。
ところが、普段はスポーツしか読まない僕が、たまたま広げた国際面に見た事がある顔があった。
『国際指名手配捕まる』
そうあの男性の顔だ。
男性はロシア系ポーランド人。名前を『スコルミノフ・コワルスキー』と言う。
1949年、ポーランドの牧場生まれ。1970年代後半から活躍する世界的テロリストであり、有名なスナイパー。
スコルミノフは1980年代にフランスの重要人物暗殺を依頼された。しかし、フランス国内での暗殺のチャンスには恵まれず、重要人物のイギリス訪問に併せ、スコルミノフもイギリスに渡り暗殺を実行。
しかし、イギリスで暗殺に失敗し、刑務所送りとなる。だがその五年後に刑務所を脱獄しドイツに渡った。
そして五年前に失敗したフランスの重要人暗殺に成功し、国際指名手配となった。
スコルミノフは姿を隠すために東洋人のような風貌に整形をし、アメリカに渡った。
スコルミノフのアメリカでの仕事は第四十一代アメリカ大統領の選挙戦で有力候補者の暗殺だった。しかし、事前に情報を得たアメリカ政府によって阻止される。
スコルミノフが暗殺を企てた有力候補者は第四十一代アメリカ大統領となり、アメリカ政府はCIA、FBIの全面協力という異例の措置によりスコルミノフを追いかける。
スコルミノフはしばらく南部に潜伏するが、街の射撃大会で優勝した事が新聞に載り潜伏先が判明。
スコルミノフは南部を逃げ回り、メキシコに渡る。しかし、国際指名手配の写真も最新の東洋人の風貌に変わり、一定場所に身を隠すことが難しくなった。
メキシコからコロンビア、ブラジルと逃亡生活を送り、二年前に日本にやって来た。当初は東京にいたが、最近、東京から九州に移動。
昨晩は張り込んでいた捜査員の方に自分からやって来た・・・そうだ。
僕は少しほっとした。捕まる時に抵抗でもして、ひどいことにならなくてよかった。
記事の最後に彼が持っていた大きな鞄の中身が載っていた。
M40狙撃銃(スナイパーライフル) 一丁
7.62mmNATO弾 3ケース
M16A2自動小銃 一丁
M855(グレネードランチャー) 一丁
M855NATO制式弾( 5.56mmx45) 5ケース
ベレッタM92 一丁
9mmx19 (パラベラム弾) 3ケース
コルト357コンバットパイソン 一丁
.357マグナム弾 5ケース
僕は鞄の中身の事は聞かなくてよかった。
もし、聞いていたら僕が逃げ出していただろう。
第十一話 終わり
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