第9話 頭文字は『S』

 色っぽい女性とひとことで言っても様々。

 大人の魅力の色っぽさもあれば、子供っぽい色っぽさだってある。グラマーで、身体全体で色っぽさを出す女性。言葉や仕草が色っぽい女性もいる。

 「一番好きなタイプは」と聞かれると、僕はどうしようか困ってしまう。

 

 カウンターの隅にシンガポール帰りの女性が座られている。

 陽に焼けた体に白いノースリーブ。その白いノースリーブがこの暗いバーの中で、ひときわ、ひきたっている。

 「あのー。シンガポールで飲んだカクテルを頼みたいんだけど、名前を度忘れしちゃって思い出せないの。『S』で始まるカクテルだったと思うの」

 「『S』で始まるカクテルですか」

 彼女の話を聞いて、僕は『S』で始まるカクテルの名前がいくつか頭に浮かんだが、どれから説明しようか迷った。しかし、彼女がシンガポール帰りだという事もあり、一番ポピュラーな名前を出した。

 「『シンガポールスリング(Singapore sling) 』はご存知ですよね」

 「ええ。でもそれは良く聞く名前でちゃんと憶えているから違うわ。でも、思い出すまで飲んでおこうかしら」

 「かしこまりました」


 『シンガポールスリング』

 この名前を出した僕は少し安易すぎた。有名なカクテルだから忘れるはずはない。 

 イギリスの小説家であるサマセット・モームが『東洋の神秘』と言ったシンガポールの夕陽をイメージしたカクテル。

 1915年にラッフルズ・ホテルで作られたもので、トロピカルカクテルの中でも傑作品だと言う人が多い。

 シンガポール帰りの彼女に、いまさら説明することも無いだろうが。

 「どうぞ」

 僕はシンガポールスリングを彼女の前に置いて笑顔を見せた。すると、彼女もグラスをもって笑顔を返してくださった。

 陽に焼けた肌に白いノースリーブ、それに爽やかな笑顔。僕には色っぽく見える。

 「よろしければ、シンガポールでの旅のお話を聞かせていただきますか、お話をされているうちに『S』で始まるカクテルを思い出されるかもしれませんよ」

 彼女はうなずかれて、シンガポールスリングを一口飲まれお話しを始められた。

 

「二泊三日の短い旅行だったの。シンガポールは小さな国でしょ。一度車でぐるりと回ってみようかと思って行ってみたの。

 マーライオン、ラッフルズ像、オーチャードロード、セントーサ島、国立蘭園。もちろんシンガポールスリング発祥のホテルであるラッフルズ・ホテル。

 国土が狭いのでシンガポールに住んでいる人達は自家用車をあまり使わなくて、タクシーや公共交通機関を使うんだって。でも私は運転するのが好きだから、レンタカーを借りたの。

 日本からあらかじめ予約していなかったから日本車を借りる事ができなくて、シルバーのドイツ車になったの。『B』では始まるね」

 そうおっしゃって、彼女はもう一度シンガポールスリングのグラスに口をつけられた。

 僕はドイツ車と聞いて、『S』で始まるカクテル『スプリッツアー(Spritzer) 』を結びつけた。

 「実はドイツ車って初めて運転するの。高級車のイメージがするんだけど、案外、頑丈な作りで、内装もそんなに派手じゃなかったわ。

 ちなみに、日本では国産のちょっと大きめの車に乗っているの。何でも付いているから至れり尽くせりだけどね。父が『大きいほうが安全だ』と言って買ってくれたの」 


 彼女は笑顔を見せて、シンガポールスリングを飲み干された。

 「先程ドイツ車のお話を聞いて思い出したSが付くカクテルがあるのですが」

 「なんていう名前なの」

 「スプリッツアーです。白ワインとソーダだけのカクテルなのですが、非常にライトなカクテルです。

 スプリッツァーと言うのは、ドイツ語のはじけるという意味の『シュプリッツェン』から来たんです。ソーダの泡がはじけるところをそう言っているのだと思うんですが、口当たりがさわやかで、好まれる方が多いんですよ」

 彼女は僕の話を聞いて感心しされた。

 「スプリッツアーね。でもそんな名前じゃなかったような気がするの。でも、スプリッツアー飲んでみようかしら」

 「かしこまりました」

 スプリッツアーはライトなカクテルだから、彼女はすぐに空けてしまいそうだ。早いところ次の『S』で始まるカクテルを考えとかなきゃ。

 僕が彼女の前にスプリッツアーのグラスを置くと、彼女はグラスを手に取られ、すぐに口にされた。

 「どうぞ」

 「あっ。本当ライトなカクテルね。

その思い出せないカクテルを頼ん出くれた『彼』はアメリカ人だったの。

 その彼とどこで知り合ったかというとね。初日にずいぶんと車でシンガポールを走ったらガソリンがなくなったので、ガソリンスタンドに入ったら、セルフサービスだったの。日本ではガソリンスタンドの店員さんに任せちゃうでしょ。それで、私はどうやって入れたらよいかわからなくてあたふたしていたら、そこに彼が現れたの。

 顔が小さくって、髪が短く、背が高くって、もちろん足は長いわよ。

 『ちょっとタイプだなぁ』って思ったわ。

 彼はとっても優しくって、ガソリンの入れ方を丁寧に説明しながら入れてくれたの。ガソリンを入れている間、ちょっと話をしたら、なんと同じホテルに泊まっている事がわかったの。彼は貿易関係の仕事でシンガポールには長期滞在しているって。それも、ホテルによ。贅沢よね。

 彼はまだ仕事の途中だったので、ガソリンスタンドでお礼を言って別れたわ」

 彼女はそう言って再びスプリッツァーに口をつけられた。

 僕はそんな出会いもあるのかと思った。車を運転しない僕にはひとつ出会うチャンスが少ないというわけだ。

 「でも、なんと翌日の朝にロビーでばったり会ったのよ。アメリカ人はさすがねと思ったのは。すぐにお昼を一緒にフレンチレストランに行かないかって誘ってくるの。シンガポールでフレンチよ。なんか、違うかなと思ったけど、OKしちゃった。

 彼は午前中に仕事が入っていたので、11:30にホテルのロビーで待ち合わせ。私は午前中ショッピングに行って、この白いノースリーブを買ったの」

 彼女はそう言って胸元を指差され、誇らしげに僕に見せられた。


 フレンチときいて、『サイドカー(Sidecar) 』は、フランスはパリに関係する事を思い出した。

 そう思いながら彼女のスプリッツアーを見ると後一口だったので、僕はサイドカーを急いで説明する事にした。

 「あの、フランス生まれのカクテルでサイドカーというカクテルがあります。ブランデー、ホワイト・キュラソー、レモンジュースを使ったカクテルです。パリの『ハリーズバー』のバーテンダーが作ったと言われていて、ブランデーのおいしさが良く出たカクテルです。男性でしたらブランデーを飲まれる方も多いと思いますので」

 「ちょっと違うわね。よく聞く名前で、有名なカクテルなんだけど、度忘れしちゃったわ」

 「そうですか」

 僕が返事をしてうつむくと、彼女は話の続きをしてくれた。

 「そのフレンチのお店は、車でほんの少し走ったくらい。そんなに遠くはないの。観光客はあまり知らなくてシンガポールの人だけが知っているお店だったの。

 海がそばにあるから魚介類がたくさんね。とってもおいしかったわ。

 そこで、彼がそのカクテルを頼んだの。

 食事が終わると、今度はドライブ。観光客があまり行かないところに連れて行ってくれたわ。

 特にシンガポールの歴史に合わせて回ってくれたの。イギリス領だった事は知っていたんだけど」


 イギリスといえば、『ソルティドッグ(Saltydog) 』がある。

 「あの。ソルティドッグというのがありますが・・・」

 「それは良く知っているから、違うわ」 

 「そうですね。有名なカクテルですからね。でも最近は注文が少なくなりましたよ。ウォッカとグレープフルーツジュースだけの簡単なカクテルです。特徴はグラスを塩でスノースタイルにする事ですかね」

 「ところで、何でソルティドッグなの」

 「カクテルにはいろんな説があって、どれが本当かわかりませんが、僕が知っている事を言いますと。イギリス海軍の甲板員が甲板で潮風や波をかぶりながら仕事をする事から、スラングで『塩辛い野郎』と呼ばれるようになったそうです。

 もともとは、ジンにグレープフルーツジュースを加えて、塩を少しいれてシェイクしたんですが、アメリカに渡って今のようなウォッカを使うスタイルになったそうです。アメリカ人も関係していたんですがね」

 ソルティドッグの話しを終えると、僕は頭の中に残った三つのカクテルのどれを言おうか迷っていた。


 「それでね、その彼が乗ってきたのが『F』で始まる真っ赤なイタリアの車。わかるでしょ。私、初めて乗ったの。昨日ガソリンスタンドにそんな車があったかな?と思ったんだけど」

 イタリア車か。きっと僕は一生乗る事もない車の事だろう。そう思いながらも、僕の頭の中にある三つのカクテルの中から一つを引いてくれた事を感謝した。

 「イタリアでしたら、『スプモーニ(Spumoni) 』なんてありますよ。カンパリとグレープフルーツジュース、それをトニックウォーターで割ったものですが」

 「それよぉ!スプモーニ。よかった。思い出す事ができて」

 僕もほっとした。

 ベースとなるのはイタリアのカンパリ。カンパリの味が良く出た酸味あるカクテルで、見た目が綺麗で、女性にも人気があるカクテル。

 「いやぁ、残りは二つで。もし『セックスオンザビーチ(sex on the beach) 』なんて言われたどうしようかと思いましたよ」

 「ああー。それはその夜よ」

 僕は手にカンパリのボトルを持ったまま止まった。そして、口で軽く息をして、彼女の方を振り向くと、彼女は両手で口を押さえて笑っていた。

 そんな彼女のさっぱりしたところが色っぽく感じたのは僕だけだろうか。

 いや、その赤いイタリア車に乗ったアメリカ人もそう感じたのだろう。だから、セックスオンザビーチというわけか。

 しかし、最後にひとつ残ったカクテルは、アメリカはニューヨーク生まれの『スティンガー(Stinger) 』だ。食後酒の甘口カクテルとして有名なカクテル。

 そのスティンガーの意味はいわずと知れた『針』のこと。

 彼女は食後にセックスオンザビーチで、アメリカ人のスティンガーをいただいたとなると、残りの三つはすべてあたりだったわけだ。

 そんなことを考える僕の頭の中は、スケベの『S』になっていた。


 第九話  終わり

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