第8話 地獄から天国へ

 僕の知らない世界はたくさんある。

 いや、世界に目をやらなくとも、このホテルの中だって、バー以外は知らない事でいっぱいだ。婚礼や会議、セミナーはどうやって注文を取って、企画をしているのだろうか。それに事務所では机に向かって何をしているのだろうか。経理の女性はパソコンに向かって何をしているのだろうか。

 ホテルの中でこんな風じゃ、知らない世界はどれほどあるのやら。

 社内恋愛も不倫もあるのだろうか。

 それはドラマだけの話なのだろうか。


 「今から天国に行くのさ。ただし、もうちょっとだけ地獄に寄ってな」

 男性は僕を睨み付けて話しかけた。いや、睨み付けたのではない。僕にはそう見えただけだ。

男性のどす黒い顔に落ち込んだ目、そして削げたほほ。誰が見ても睨み付けたようにしか見えない。

 「すまんな。誰かにこう言いたかっただけだ」

 僕は男性にニコリと笑って会釈した。

 男性は入ってくるなりカウンターの端に座られ、バーボンのロックをご注文された。

 僕はバックの棚からグラスを出してバーボンのロックを作って男性の前に置くと、男性は何もおっしゃらず、腕組みをされグラスを眺められるだけだった。

 僕は静かに飲まれるお客様かと思い、ただカウンターの中で立っていた。

 そこに、あの声が聞こえた。


 「今から天国に行くのさ。ただし、もうちょっとだけ地獄に寄ってな」


 その意味を考えようにも、どこから考え始めれば良いのだろうか。天国から、それとも地獄から。そんな事を考えていると男性はお話を続けられた。

 「人間は必ず天国に行けるんだ。俺も天国に行く事はできる。みんなは死んだら天国か地獄のどちらかにしか行けないと思っているだろうが、死んだらみんな天国だ。

 天国では誰かを傷つけたり、殺す必要はない。死んだのだから病むことも怪我をする事もないんだ。それに誰も過去の罪をとがめる事はない。

 好きな事をして。

 好きなもの食って。

 好きな女を抱いて。

 まさに天国だ。

 しかし、天国に行くには必ず地獄を通らなければならない」

 僕はこんな怖い顔をされて、面白い事をおっしゃるお客様だと思った。

 しかし、それは、始まりだけだった。


 「会社の金を横領した奴がいた。その使い道はギャンブルがほとんど。たまに酒を飲んで、女を抱いた事もあった。

 最初は、たいした金額じゃなかったが、ギャンブルで負けが込みだすと、横領する金がだんだんと膨らんじまった。

 少しくらいなら、ボーナスで返せばいいって思っていたが、いつの間にかどうしようもない金額になっちまう。

 すると、遊ぶ事よりも毎日毎日、横領した金の穴埋めの事ばかりを考える。もう、このあたりからそいつは地獄に一歩足を踏み入れてしまっている。

 しばらくすると、今度は何かの拍子に会社にバレないか、毎日冷や冷やする日々が始まる。バレるのが怖くて、怖くて、眠れない夜が続き、忘れようとして目を瞑るが、バレた時の事が頭をよぎる。

 もう地獄だな。

 すると、地獄にいると金欲しさに馬鹿な事もやっちまうもんだ。」

 男性は吐き捨てるような口調で話しを止められた。

 そういえば、僕もそんな人の事を知っている。以前勤めていたバーで、常連のお客様がぱったりいらっしゃらなくなった。その事をそのお客様の同僚にお話すると、会社の金を使い込んで、どこかに逃げてしまったそうだ。

 もしもその方が今でも生きているのなら、地獄の中を逃げているというわけだ。


 「死ぬ時だって地獄だ。

 病気で死ぬ奴がいるだろう。よく、『ぽっくり死ねたらいいなぁ』なんて言ってるが、そりゃそうだ。

 病気になって薬で治療をするだろう。ところがその病気に効く薬は副作用が強く、頭がボーとしたり、胃が痛くなったりだ。

 苦しくて、苦しくてたまらない。そして、検査、検査だ。その検査だってつらい。そして死んでいく。それは地獄のような日々だ

 それに、恐怖や不安も事業だ」

 僕はその病気の話が男性の事ではないかと思った。どす黒い顔に落ち込んだ目、削げたほほ。男性は病気の治療をされていて、一時退院されたのか、自宅で治療をされているのだろうか。

 そう考えながら男性を見ていると、再び話は始まった。

 「それに死ぬのは病気や怪我だけじゃない。殺される事だってある・・・・。

 老夫婦がいた。

 夜も遅くなり二人は寝床に入った。

 静かな夜だ。

 しばらくすると台所の方で物音がする。

 何だろうと思った妻は台所に行った。

 夫は寝床に入ったまま目を開けて、妻が帰ってくるのを待った。しかし、しばらく経つが妻はいっこうに台所から帰ってこない。夫は不思議に思って台所に行くと、灯りが点いておらず、暗い中で妻を捜した。

 ふと、食卓の先に何かが横たわっているのが見えた。

 夫はそのそばに行き、腰を下ろし、よく見ると、妻だった。

夫は妻をおきあげようとして肩を触ると濡れていた。

夫は立ち上がり、灯りを点けると。妻の胸元から肩にかけてパジャマが赤く染まっていた。

 妻は痛みと恐怖の地獄に落ちていた。

 妻は夫の顔を見ると、息絶え絶えで夫に何かを話そうとしていた。しかし、妻は口を動かすと痛みで顔がこわばった。夫は妻の口元に耳を持って行き、一生懸命に妻の声を聞き取った。妻は苦しかったが、なんとか声を出した。

妻の声を聞いた夫は、はっと台所の流しの方を振り返ると、なんと、そこにはナイフを持った男が立っていた。

 男は夫のそばに行き、金を出すように言う。しかし、夫は『無い』と答えた。

 男はナイフを夫の首に突きつけ、執拗に要求したが、あいにく今晩は家に現金を置いていなかった。

 夫は胸から血を流し息絶え絶えの妻を横に、そして自分は首にはナイフを突きつけられ、挙句の果てに無理な要求まで言われていた。

 夫も恐怖の地獄に落ちた。

 しかし、この後、夫はもっとすさまじい地獄に落ちる事になる。

 今晩たまたま遊びに来ていた孫娘がこの騒ぎに気が付いて二階から起きてきた。

 寝ぼけ眼の孫娘はふらふらして台所の方にやって来る。男は孫娘がそばに来ると、孫娘の首の後ろをつかみ、自分の方に引き寄せた。寝ぼけた孫娘は何が起きたか、誰が自分を引っ張るのかわからず、だまって男の腕の中に入っていった。

 それを見た夫は男に手を合わせてやめてくれと頼む。しかし男には関係ない。手に持ったナイフを孫娘の首に押し当て、夫に金を出すよう要求した。

 夫は何度も今日は現金がない事を説明したが、男は執拗に要求した。

 すると、孫娘は夫と男の会話耳に入っていたのだろうか、寝ぼけていた意識がはっきりしてきた。

 自分の側にいる男は見た事もない。そのうえ、自分の首に硬く冷たいものがあたっている。

 孫娘はその冷たいものがナイフである事が分かったとたん、大声を出してしまった。

 男は孫娘に大声をだされて、びっくりしたひょうしに、ナイフをひいてしまった。

 殺意はなかった。殺す気はなかった。

 孫娘の首は大きく裂け、血が噴き出した。

 夫は血を流しながら倒れた孫娘の首をしっかり押さえたが、もうどうしようもなかった。

 孫娘も痛みと恐怖の地獄に落ちた。

孫娘の首からどんどん血が流れ出した。

 孫娘は首おさえて、泣いた。

 夫は狂乱した。怒りと恐怖が夫を支配した。

 夫は男に飛び掛った。男は必死で、持っていたナイフを夫に向けて振り回し、夫の手や顔を何度も切りつけた。夫は手や顔を切りつけられるが、男を押さえつけようとした。しかし、体から血を流している夫の力は徐々に弱ってきた。

 男は夫を跳ね除け、中腰になった。

 すでに台所は三人の血でいっぱいになっていた。

 妻と孫娘はもう動かない。そして、二人が着ているパジャマは血で赤黒く染まっていた。振り返ると、さっきまで男と争っていた夫も、もう動く事ができなくなっていた。

 男は夫の首筋に手をやり、脈がない事を確認した。

 そして、三人は天国に行った。

 台所の床は天国に行った三人とその血でいっぱいだった。

そして、その中に立つ男はまるで、地獄に立つ光景そのものだった。

 男は地獄に落ちた。

 いやもうずいぶん前に地獄に落ちていたのかもしれない。

 五年前の話だ。

 その日から、男は寝てもさめてもあの光景が頭から離れない。町行く老人を見ても、そして小さな子供を見ても、思い出すあの光景。男はどんなに逃げても地獄から這い出る事はできなかった。

 そして昨年、男は吐血した。

 食っても、食っても、痩せていく身体。続く微熱。

 今度は病という地獄に落ちた。

 逃げ回っている男には治療を受ける事はできない。男はその痛みを忘れるために酒を飲んだ。強い酒を飲んで痛みを紛らわすが、もうそれも限界だった。

 男は思った。

 これだけ地獄を歩いたんだ。そろそろ天国に行かせてもらってもいいんじゃないかってね」


 面白い話ではなかった。男性の顔同様に怖い話しだった。しかし、その恐ろしい顔はいつのまにか、穏やかな顔になっていた。

 「変な話ししてすまんな」

 「いいえ」

 「勘定してくれるか」

 「かしこまりました」

 僕は男性からお金を受け取った。その男性の手は、肉などない骨に皮がくっついている手だった。

 そして手の甲には青というより黒い血管の部分だけが皮から盛り上がっていた。

 まるで、それは地獄の絵の中にいる死者の手だった。

 「これからどちらへ」   

 「今から天国に行くのさ。ただし、もうちょっとだけ地獄に寄ってな」 


 第八話  終わり

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