第5話 彼女は師匠

 カウンターに立っていれば、いろいろなお客様と出会う。出会うのは男性だったり女性だったり。楽しく笑顔のお客様もいれば、黙って悲しそうなお客様も。

 僕達バーテンダーはお客様の顔をしっかり覚えている。それに、どんなカクテルがお好みか、どんなウィスキーを飲まれたか。また、飲み方だってもちろん覚えている。特に女性で、なおかつ美人だと余計に。


 ところで、僕の目の前に座った彼女には、見覚えがある。僕はおしぼりを渡しながら、記憶の中で彼女を探した。

 細い指先、長い腕。どこかで見た事がある。

 どこで出会ったのだろうか。もし以前いらっしゃったお客様だとしたら、思い出せない事はとても悔しい。

 もしかして、酔った勢いでベッドを伴にしてしまった女性か。

 いや、それは一度で懲りたはずだ。

 高校の同級生か。

 いや、僕は男子校だ。

 ともかく注文を聞いて、早いところ彼女を僕の記憶の中から探しださなければ。

 僕はバックの棚からメニューを取り出し、彼女に渡した。それも何気なくカクテルのページを開いて。

 「いかがいたしましょうか」

 彼女は受け取ったメニューを見る事もなく生ビールを頼まれた。

 「かしこまりました」

 僕は再びバックの棚に向かい、ビアグラスをひとつ取り出し、生ビールを注いだ。

 僕は記憶の中で彼女と生ビールを結びつけた。いや、彼女と生ビールは結びつかない。彼女が生ビールを飲む姿は僕の記憶の中にはない。

 僕はコースターを取り、彼女の方を振り向くと、彼女は店の中を見渡されていた。何か気になる事でもあるのだろうか。

 僕は彼女の前にコースターを置き、ゆっくりとビアグラスを載せた。

 「どうぞ。ごゆっくり」

 彼女は「ありがとう」とおっしゃって、僕に笑顔をくれたが、すぐにはビアグラスに手をつけられなかった。

 グラスの上面にふわりとのった泡が小さくはじけている。

 僕は彼女のそばで先程洗ったグラスを拭きながら、彼女をちらりと見た。

 確かに一度会った事がある。ただし、このバーではない。

 『以前、いらっしゃいましたか』なんて尋ねる事はできない。いや、それは自分自身で許す事ができないからだ。

 僕が考え事しながら眺めていた彼女のビアグラスから目線を少しずつ上にあげると、彼女が僕の方に目を向けられていた。

 目が会ってしまった事に躊躇した僕は、両頬を軽く上げて笑顔を見せた。

 『悔しい、誰だ』

 僕の記憶の中には確かに彼女がいる。いや、彼女も僕の事をご存知だ。

 僕の心の中で、あせりが怒りに変わろうとした時だ、話は彼女の方からやって来た。

 「この店にやって来て何年になるのかしら?」

 彼女はすべてをご存知なのだろうか、確かめるように自信たっぷりに僕に尋ねられた。

 「確か五年が過ぎて、今年の夏で六年目に入ります」

 彼女の目が輝いた。

 それから、僕は昔の事をしゃべらされる事となった。


 「ここに来る前はレストランのウェイティング・バーですね。でも、あくまでもウェイティング・バーだったので、お客様も長居されませんし、ご注文も食前酒用のカクテルや食後のちょっとしたカクテルが多かったんです。

 そのウェイティング・バーで二年半たったある日。男性のお客さんで、年齢はそうですねぇ、五十歳くらいか、ちょっと前ですか。その男性がちょっとした事を僕におっしゃいまして。嫌なことを言われたとか、お叱りを受けたというわけではなく。ただ・・」

 僕がそこで言葉を止めると、彼女は心配そうな顔をされた。僕は彼女の心配そうな顔を見て話を続けた。

 「その男性が『バーテンダーさん。あんたに師匠はいるのかい』っておっしゃって。僕は突然そんな事を尋ねられるとは思っていませんからびっくりしちゃって、逆にどうしてそういう事をおっしゃるのか尋ねたんです。

 すると、男性は僕に『どこに進んでいるんだろうね』っておっしゃるんです。

 『当り』なんです。僕もその頃悩んでいたんですから。

 僕がその店に入った時は先輩がいて、いろいろ教えてくれました。先輩は『おまえは覚えが良いほうだ』って言ってくれましたけど。僕は先輩が言うとおりに、ただ作っていただけでした。その先輩は店のオーナーと意見があわなくってよくもめていました。僕は先輩がオーナーと喧嘩してバーを辞めちゃうんじゃないかと心配していました。すると、その先輩に熊本から共同で店を出さないかって話しが来たんです。先輩にとっては良いチャンスですね。

 僕は先輩にはまだ居てもらわないと困ると思ったんですが、僕のために先輩がチャンスを逃すのも、もったいないでしょ。

 それがウェイティングに勤めて二年目に入る頃ですかね。

 先輩が辞めてから独りでやってみたんですが、大変でした。だからといって先輩を恨んだりはしていません。今でも熊本に遊びに行くと先輩の店に行きます。もし熊本に行かれることがおありでしたら、お店をご紹介します」

 心配そうだった彼女の顔は何か謎が解けたように穏やかになった。

「でも、しばらく独りでやっていると、なんか行き詰っちゃって。それで、街のバーに飲みに行ったり、他のホテルのバーに行ってみました。勉強のためにと言いたいんですが、どうして良いか迷っていたんです。誰かに聞けるわけでもないですから。

 街のバーに行くと、カウンターのお客様同士で楽しくお話をされて、バーテンダーとも仲良く話しをされてました。

 お酒の話や女性の話、野球やサッカーの話で盛り上がって。僕がいるレストランのウェイティング・バーと違って、常連さんと気さくに話しをされていました。

 なんか少しうらやましくなってきちゃって・・・」

 僕は一度ここで話を切った。


 いつもと逆だ。僕が話をする側になっている。これじゃあ、どっちがカウンターの中にいるのかわからない。もしかすると・・彼女はバーテンダー。

 そんな事を考えていると、いつの間にか彼女のビアグラスは空になっていた。

 「なにかお作りしましようか」

 僕は手を差し出して、注文をうかがった。彼女から帰ってきた言葉は予想外のものだった。

 「得意なものはあるの」

 「いえ。これがというのは」

 そう言った言葉に、僕はちょっと後悔が残った。何故そんな風に答えてしまったのだろう。普段ならば、「かしこまりました」の一言で体が動き出すのに。

 彼女は「じあゃね」と言ってジン・フィズを頼まれだ。

 「かしこまりました」

 何も特別な事はないスタンダードなカクテル。しかし、僕の心の中の後悔がジン・フィズを特別なカクテルにした。

 「どうぞ」

 彼女の前にジン・フィズをそっと置きながら、「彼女は僕が得意とするものを飲みたかったのか」と心の中でもう一度後悔の言葉が走った。

 彼女は先ほどのビールとは違い、すぐにグラスに手をもって行き、口元まで運んだ。すると、彼女の目が輝いた。

 僕は彼女の目の輝きを見て、その後の話を自分から始めてしまった。

 「僕は街のバーに行ってお客様ばかりを見ていたわけではなくて、もちろんバーテンダーも見ていました。立ち方やカクテルを作る時の仕草、オリジナルにはどんなものがあるかなど。技術も接客態度も。

 「すごいな」と思うバーテンダーはたくさんいたし、「首をかしげる」バーテンダーも。僕は自信をなくしたり、自信を付けたり、いろいろな事を勉強したつもりでした。

 僕は店に帰ると街で見たバーテンダーの仕草を真似してみたり、カクテルも真似しました。でも、そんな事やっているうちに、どこを目標にすれば良いのか悩んでしまったんです。

 その時、先程の『あんたに師匠はいるのかいって』って、おっしゃったお客様がいらっしゃったんです。

 先輩に教えてもらっていた頃は、先輩を目標に後を追いかけていました。いい目標があったんですよ」

 彼女はうなずいた。

 「それでも、僕はバーを回ったんです。

 そんなある日、あるバーに入ってみると、二人の女性バーテンダーがカウンターの中に立っていたんです。

 カウンターの真中でカクテルを作っているバーテンダーは身長が低く、ちょっと体格のよい女性でした。彼女はその店のオーナー兼チーフバーテンダーで、きりっとした顔に、力強そうな腕でシェイクするその様は、男性バーテンダー顔負け。

 カクテルをお客様の前にすっと出すと、笑顔で説明をされてました。

 そして、その横に背が高く、細い指先に長い腕の女性が立っていました。チーフバーテンダーとは体つきも雰囲気も違います。

 僕はそのバーで、ジン・フィ・・ジン・フィズを頼んだんです」

 僕は声が止まった。

 彼女は僕が気付いた事がわかったのか、両頬を軽く上げて笑顔を見せてくれた。

 そう、目の前にいる彼女は、あの時僕のジン・フィズを作った彼女だ。

 やっと僕は彼女の事を思い出した。

 彼女はチーフとは違うシェイカーの振り方をされていた。

 僕はなぜシェイカーの振り方が違うのか、彼女に尋ねた。

 「基本はいっしょです」彼女はと答えてくれた。そして、その後、ほんの少し話をしてくれた。

 仕草やレシピを真似することは大切で、やはり真似する事から始めたと。でも自分にはできない事もある。だから自分にできるスタイルで、自分の持ち味を生かす事を心に決め努力したと。カクテルもウィスキーのストレートだって、生ビールだって、自分の持ち味を生かした自分のスタイルをめざしたと。

 「あの時の・・・・」

 「そう、あの時の。さっきバーに入って、あなたを見たときに『あら』と思ったんだけど、もし違うと恥ずかしいから、最初にビールを頼んでみたの。

 だって、あの頃のあなたの目と、今のあなたの目がずいぶん違っているんですもの」

 彼女はそう言ってくれた。

 その後は今のお店の話や、最近、勉強している事について話をし、彼女はもう一杯だけジン・フィズを飲んで帰られた。

 今の僕があるのも彼女のおかげだ。彼女は僕にとって先輩の次の師匠だったかもしれない。

 そう考える僕の心には、さっき得意なカクテルを飲んでもらえなかった事が後悔に残る。


 第五話  終わり

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