第4話 雨の一見さん
突然の雨だった。天気予報ではそのような事は言ってなかった。いや、僕が天気予報を聞いたのは今朝だったろうか。
雨が降ると、一見さんと言っている一回きりのお客様がよくいらっしゃる。
はたして、何故だろう。
一見さんにもいろいろなタイプがいて、入って来るなり僕達バーテンダーにすぐにお話されるお客様や、黙って二杯ほど飲まれてすぐに帰られるお客様。
僕達は一見さんにこのバーを気に入っていただけるように努めている。一見さんが気に入ってくれれば、常連さんになってくださるのだから。
ともかく、今晩の雨はどんな一見さんを連れて来るか楽しみだ。
「いらっしゃいませ」
最初のお客様は常連さんだ。会社の宴会の帰りだろうか、若い男性を三人連れて入って来られた。
名前はわかっている。後輩バーテンダーがバックに行き、キープボトルを持って来た。レセプタントもお客様の顔を覚えているし、キープボトルがある事も覚えているだろう。レセプタントはおしぼりを渡し、常連さんとほんの少し話しをして戻って来た。
「ロックと水割りを三つです」
「了解!」
返事をしたのは僕だけど、グラスを用意しているのは後輩バーテンダー。僕と入れ替わるようにして、カウンターの端に寄ってウィスキーのロックと水割りを作る。
僕は心の中で後輩バーテンダーの手際がよくなった事を誉めた。これでしっかりとカクテルが作れるようになれば一人前だ。
後輩バーテンダーはまだアルバイト。ホテルの社員として雇われてはいない。一年ほど前に専門学校を途中でやめて、このバーのアルバイト募集を見てやって来た。
後輩バーテンダーがグラスをカウンターに並べると、レセプタントはトレイに乗せて先程のボックスに戻った。
しばらくすると、また常連のお客様が一人で入ってこられた。
「いらっしゃいませ」
そのお客様は、いつも独りでカウンターの端に座られる。時々、会社の部下の方を連れて来て、夜遅くまで飲まれる事もある。しかし、家に帰れば優しい二人の娘さんのパパ。シガーも吸われるが、それは他にお客様がいらっしゃらない時だけ。飲まれるのはウィスキーが中心で、シングルモルトファン。ラフロイグやボウモアといった、アイラ系のシングルモルトを飲まれる。
今晩もいつものように、僕達に話しかけらながら、ゆっくりと飲まれるのだろう。
「いらっしゃいませ」
今度は男性三名。続いてスーツ姿でない若い男性二名が入って来られた。どちらも一度は拝見した事があるお客様。
先に入って来られた男性三名はピアノの席に、若い男性二名はカウンターの真ん中に。
レセプタントが注文を聞いている間に、またお客様が入って来られた。
「いらっしゃいませ」
僕がカウンターの中から飛び出て、お客様の元に行った。
男性四人。やはり常連さんだ。
今晩は好調だ。雨が降る日は一見さんがいらっしゃると思っていたが、今晩はまったく違うようだ。
しかし、客足はそこでピタリと止まり、その後、お客様はいらっしゃらなかった。
これも雨のせいなのだろうか。
二時間程するとお客様はほとんど帰られ、カウンターに座る二人の娘さんのパパだけになった。
バーが暇になったので、僕は後輩バーテンダーをラウンジの手伝いに行かせた。すると、代わりにマネージャーがやって来て、レジのチェック始めた。
途中点検というやつだ。僕は二人の娘さんのパパの前でグラスを拭いていた。
ふと入口に影が見えた。
「いらっしゃいませ」
最初に女性が入って来られて、続いて男性が入って来られた。男性は女性の肩を後ろから抱いて、ゆっくりとカウンターの端に座られた。
マネージャーはすぐにおしぼりを取り出し、お二人の前に立った。そして、挨拶をしておしぼりを渡した。
「いらっしゃいませ」
男性は受け取ったおしぼりで両手をしっかりと拭かれた。女性の方はと言うと、もらったおしぼりをぎゅっと握り締めて何か考え事をされている。
新婚というには初々しさがない。それに、楽しそうでもない。
やっと『雨の一見さん』が来た。しかし、なんとも重苦しい雰囲気だ。
男性はメニューを受け取る事もなく注文をされた。
「生ビールを二つもらおうか」
「かしこまりました」
女性は黙って、カウンターに伸ばした手を眺めている。マネージャーは、二人の前にコースターを置き、生ビールを置いた。
「どうぞ、ごゆっくり」
男性はグラスを持ち、口に含む程度飲まれ、心配した顔で女性の方を向かれている。
なんか怪しい雰囲気だ。
「大丈夫だよ・・」
静かなこの時間、男性が女性に話しかけるかすかな声が聞こえた。
何がいったい、大丈夫なのだ。
僕の頭の中ではその大丈夫と言う言葉が、いくつかの選択肢を作った。しかし、どれと決める事はできなかった。
「大丈夫だよ・・」の続きが聞きたい。
そう思った時、いきなりマネージャーがグラスを洗い始めた。
『マネージャー。何をやっているの、二人の話が聞こえないでしょ』と僕は心の中で叫んだ。
女性が何か話をされている、女性の口がゆっくりと動いているのが見える。しかし、女性の声は水道の音に消されてしまっている。
そして、マネージャーが蛇口を止めた瞬間、女性の声が聞こえた。
「本当に、大丈夫かしら」
女性は心配そうな顔をして男性の方を向いて、そうおっしゃった。
何か大変な事があったのだろうか。何がいったいなんが大丈夫なのだ。
僕は『その後の話を・・・』と心の中で叫んだ。でも、声を出したのは男性の方だった。
「ああ。ダメだったら、また最初からやり直せばいいんだよ」
「でも、ずっとがんばってきたのに。これでだめになるなんて・・・」
女性はそうおっしゃって、男性から目を離し、うつむいてしまった。男性はその女性の姿を見て、もう一口ビールを飲み、口を真一文字にされた。
『駆け落ち』だ。いや『不倫』かもしれない。僕は頭の中ではその二つの選択肢を選んだ。
それからしばらく二人は何もお話しされる事はなかった。
そして、聞こえてきたのは女性の声だった。
「ここまで頑張って来たのよ。もちろん、最初は遊びのつもりだったけど、だんだんと本気になって。いつの間にか独りでは手に負えなくなって。それで、あなたにもお願いするようになって」
いや、不倫ではない。『ギャンブル』だ。いや『投資』かもしれん。それで借金でもして、きっと取り立てに追われ逃げて来たんだ。
僕は頭の中では新たな選択肢を選んだ。
「そうだな、最初は君の気まぐれで始めたけど、いつの間にか家中まきこんで、子供達だって。なぁ」
「そうね。子供達はかわいそうね。無理やりだったから」
無理やりって。まさか、『無理心中』って訳じゃないだろうな。
僕は二人の娘さんのパパと目が合った。二人の娘さんのパパも息を殺している。それに先程からタバコも吸われず、ウィスキーを手に持たれたままだ。
僕は二人の娘さんのパパと目で話をした。二人の娘さんのパパも、思っている事を口には出さなかった。いや、とても出せるような状況ではない。
きっと僕と同じように怪しんでいる。
僕は二人の娘さんのパパの方に体を向け、二人の方に耳だけ向けた。
男性が残ったビールを飲み干すと、女性が再び話を始めた。
「どうやって処分するの。家の庭に埋める? それともどっかに捨てちゃおうかしら」
「馬鹿なことを言うな。家は借家だし、引っ越した後の人に迷惑がかかるぞ。臭いがするから、犬なんかが掘り出す事だってあるだろう」
『なに!死体の処理か』、『殺人』だ。再び、僕は頭の中では新たな選択肢を選んだ。
「明日、家に帰るのが怖いわ」
「ともかく寝よう。なぁ。あのぉ。チェックをお願いします」
「かしこまりました」
マネージャーは何食わぬ顔で計算を始めた。マネージャーが男性に伝票を見せると、ルームキーをマネージャーにお見せになった。ホテルにお泊りのようだ。
「ごちそうさまでした」
そう言って出て行かれ女性は、入って来られた時と同じように肩を落とされていた。
僕の心の中では、既に二時間分の火曜サスペンスのストーリーできており、殺された被害者のリストアップもできていた。後はそばいたマネージャーの話を聞いて、岩崎宏美のエンディングを流すだけだ。
先に声を出したのは二人の娘さんのパパだった。
「あの二人。初めて」
「そうですね」
「なんか深刻な話をしていたようだったけど」
「ええ。今日は急な御用で、家族みんなで和歌山からいらっしゃったそうで。何でも、自家製の梅干を庭に出したままだったらしいんです。梅干は天日でずっと干すでしょう。でも、一度雨に当たると、カビが生えやすくなり、だめになる事があるんですって。
今晩、こっちはこんなに雨が降っているから。明日の朝、この雨が和歌山に行くんじゃないかって心配されていたみたいで。それで大丈夫かっておっしゃっていたんですよ」
「でも遊びで始めたとか、子供達がとか、無理やりって言っていたでしょう」
「ええ。さっきも言いましたように自家製で、最初は少しだったけど、だんだんと量が増えて子供達にも無理やり手伝わせたんだと」
「じゃあ。庭に埋めるとか捨てるのは」
「雨に当たってだめになった梅はどうするかって。捨てるか、埋めるかって」
マネージャーと二人の娘さんのパパの会話を聞いて、僕はがっかりした。もっと事件になるような事を期待したのに。
僕が一生懸命になって作った火曜サスペンスをどうしてくれるんだ。
実は僕も配役のひとりとして、出演する事を考えていたのに。
第四話 終わり
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