第5話

 抑えきれない鼓動を感じながら俊野は振り返る。意外にも、そこにいたのはまだ成人しきっていない影を持つ少年だった。だが、それ以上は何もはっきりと見ることができない。

「どうした、私の質問には答える価値はないとでも?」

「ふん。そんなこと、誰も思ってやしねえよ」

「では、答えてくれるだろうか?」

「別に、理由なんてねえよ。寝ようかと思ったけど、目が冴えちまったから、ちょっと立って見てるだけだ」

 突然、少年の影が動き始める。それとほぼ同時に、俊野の足も山側へと後ずさっていく。

「止まれ」

 と、少年が静かなのに辺りを震わせるような声で言う。

(誰がその言いなりになるか)

 と、俊野は紛れもなく思っていたのに、それに反して彼の両脚は大人しく止まった。

 しかも不思議なことに、彼が必死に体を動かそうとしても、なぜかびくともしない。

「おい、これは一体どういうことなんだよ。こんな怪しい術を操るなんて、お前は一体誰なんだよ!」

「ふふっ。お前が急に止まったのは、私の命令に従ったまで」

 俊野は苛立ちが頂点に立ちながらも、動くことを諦めた。

(どうやら、目の前にいる奴はただ者じゃないらしい)

「そうかよ。じゃあ、お前は誰なんだよ。その質問にも答えろよ」

「私が何者か、を考える前に、お前が先に自分の名を伝えるべきでは?」

「どうしてだよ」

「一介の奴婢が格上の者に名を尋ねる時はそういう決まりだろう?」

 何の前触れもなく辱められたせいで、俊野は今にも激高しそうになったが、ぐっと拳を握りしめて耐える。それから、普段鉄を運んでいるときのように呼吸を穏やかに整えることも忘れない。

「俺は、俊野っていうんだ。これで、今度こそお前は名乗れるだろう?」

「いいだろう。私は、水雲すいうんだ」

「水雲?随分と変な名前だな」

「ふん。地海国には奴隷が多いと聞いていたが、まさか全ての奴隷がお前のように教養のない者ばかりなのか?」

 少年は初めて苛立った口調になる。一方の俊野は全く気にも留めない。ただ、山に生えている鬱蒼とした木々だけが意味深げに騒いでいた。

「ふん。そんなに知るかよ。てか、お前は地海国のお偉いさんじゃないのか?」

「私が?ふん。いくら私のことを知らないからと言って、勝手に地海国の者にしないでくれないか。こんな奴婢ばかりがいるような国など、私はごめんだ」

 水雲の言葉で、いつの間にか静まり返っていた俊野の鼓動が再び速くなる。

「じゃあ、お前はどこの国の奴なんだよ?」

「おう?よく考えてみろ。今日地海国に入った使節はどこの国のものだ?そして、その中で一般に危険とされている夜道を自由に歩けるのは、一国の皇子か、それとも臣下か。どうだ、わかりそうか?」

 俊野は不快極まりなかったものの、彼の言うとおりに考えてみることにした。少しして、すぐにその答えが見つかった。

「まさか、お前は伝声師なのか?」

 だが、水雲は何も答えないまま、彼に背を向けた。

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