第4話 まとめ

【預言まわりのまとめ】

預言者ヨカナーンの発言について、個別に注釈を入れてきましたが、総括をしてみたいと思います。


荒野でいなごと野蜜を食し、ラクダの毛皮を着ている27~30歳前後、十代の少女を惑わす魅惑のセクシー聖人こと、ヨカナーン。


ヨカナーン、会話以外は自動読み上げ機ぐらいのキャラクターかと思っていたのですが、すべての注釈を終えた今の印象はすこしかわりました。

このお人、実は結構感情的では???


まず、預言時、井戸から宴席に聞こえるくらいの声量でへロディアが不快に思う程度の声量、普段から頻繁に同じことをしていたら、大事な日は、隔離されるか、しゃべれないようななんらかの措置があると思うのですが、されてない。

普段はもうちょっと抑えめなところ、王様の誕生日で来客いっぱいの今日に限って不規則発言をしているわけではないでしょうか。

だとしたら、この聖人、すこし好戦的なのでは。


預言自体が、イタコシステムで神から受信したら意思に関わらず口からでちゃうものなのか、それともヨカナーンが自分のタイミングで言っているのか不明なのでなんとも言えないのですが、王夫妻が一番いやがるタイミングでやっている、というところは考慮したいです。


さらにサロメに対しての拒否。

サロメの口説き文句は、「雅歌」の引用です。旧約聖書的には最高の歌で、婚姻と性的な同意を求めるもので、それなりにアカデミックなビッグラブな歌ですね。

それを中学生くらいの女の子が独自アレンジで告白しまして、ヨカナーンはその捨て身の全力告白を分かったうえで、「女=罪悪だから無理」みたいな感じで断りました。


同じく預言者であるイエスは、男女関係なく分け隔てない布教活動をしていたのですが、対してヨカナーンは「触られると穢れる」「見たくない」「声も聴きたくない」「イブ(女性)のせいで世界に罪悪が来たので」という形で女性NG。

少し過剰過ぎなような…イエスと違って、気持ちが揺らぐ要素があるのでしょうか。誘惑されるものか、という頑張りが見えるような。

はたまた、サロメの因果が恐ろしい姿に見えていたのか、このあたりはポイントになりそうです。


その後、おつきの家来が、サロメの豹変ぶりにショックを受け自死。因果で真っ黒なサロメに対し、現状を打開する救われルートを示したものの、それをスルーされたうえに、ブレずに迫ってくるサロメに対し「もう知らない!」と、井戸に帰ってしまうヨカナーン。わりと人間味のある人ですね。


【サロメは悲劇か】

サロメという舞台は、恋に狂った少女の純粋な悲しい物話、美しい狂気、みたいなイメージが定着しているのですが、


個人的には、、読んでいるとちょっと力業過ぎるように見えたり

主人公が不思議ちゃんで、相手も不思議ちゃんだと情緒がつながってなくて何が起きてるのかよくわからないところ、いきなり舞が始まって首ちょんぱでエンディング。

映える美人に舞を舞わせて生首持たせてエモい画作りして勢いで良い話風にしようとしてない?と思ってしまうんですよね。


斬首が悲劇なのか、というと構造的にはそうでもなく、

この芝居、テキスト上でも斬首シーンはございません(井戸の中で処刑が行われたていで進みます)。「出来上がったものをこちらにご用意しました」システムなんですね。

生首の存在自体はショッキングなんですけど、「殺人」自体に登場人物たちが反応薄いというか皆無反応なんです。


反応している部分が

処刑前は・預言者が失われること。

処刑後は・生首が出てきたショッキングさ、キスの絵面。


処刑前までの間に

「憎い・殺そう」「首を切られるの怖い・痛い」「殺人への罪悪感」が描かれておらず、殺人後も「殺された個人を思っての悲しみ・追悼」みたいな感情とか描写がごっそり抜けております。


で、登場した生首を、サロメは変わらないテンションで口説くのです。

そこには「斬首」=「殺人」という重みは一切ない。


「愛は死よりも重いもの」というのですが、サロメの愛って本当に愛なのかなあと思ってしまいます。生前、ヨカナーンの言ったことには耳も貸さず、肉体的な部分をほめたりけなしたり、斬首を指示し、最終的に遺体に性的な接触をする。

愛って言いきっているけど、ごっこ遊びに近いな、と。ものに対しての「執着」とか「欲」なのかな、と。


ワイルドの短編に『スペイン王女の誕生日』という作品があります。

『せむしのこびとが野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女の12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりにスペイン宮廷に連れて行かれる。姫君にきれいな衣裳を着せられたこびとは、周りが自分の不恰好さを嘲笑していることに気づかぬまま、得意になって踊って見せ、そのうち王女が自分を連れて歩くのも姫君に愛されているとすら信じ込んでしまう。だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、自分の真似をする醜い化け物の姿を見つけ出す。そしてついにそれが姿見の鏡で自分の真の姿を映し出しているという現実を悟るや、ショックで倒れそのまま心臓が止まって死んでしまう。それを見て王女はこう吐き捨てる。「今度のおもちゃは、心臓(心)なんか無いのにしてね。」』


この舞台の冒頭、宴会を抜けだしたサロメは、義父のいやらしい目や、外国人の来賓の粗暴な様子を批難しているわけですが、エンディングで彼女のやっていることは、そういった男たちと同レベルか、それより酷く暴力的です。

目的を達するために相手を傷つけてもOKという無邪気さ。

相手にも人格や感情があることを想像できておらず、「自分の考える愛」を滔々と生首に語って聞かせる。

前半戦で普通の感覚の少女のように描きつつ

後半のこの常人とズレまくった価値観と勢いが、知性の無い野蛮さと残酷さが、美女の皮をかぶって行われていることが魅力であり、ヒロイン(ヨカナーン)と対照的なのかもしれません。


結構シニカルな話だと思います。


またサロメのモノローグから

「成程お前は、神を見ていただろう。其癖わたしを、わたしをちっとも見なかったのね。」とあります。ヨハネは神を見ている(愛している)のは宗教家なので当然と言えば当然ですが


(これは、ノンフィクションのほうのヨハネについての言及ですが、)エッセネ派の教義を抜けて、ヨルダン川で洗礼をしたというエピソードから、ヨハネは、弱者の味方、貧しい人も無学な人もなるべく救う人に思え。

…その大き目な博愛の矢印の先には、弱者で親の因果を背負ったサロメも含まれていて、救われる未来もあったのではないかと思います。


サロメとヨカナーンのそれぞれの「愛」の解釈が違っていて、永遠に平行線でわかりあえないこと。

無邪気な子供の自己正当化された愛と暴力によって聖人がたやすく物として所有された不条理。

ヨカナーンの死で、サロメの考えは修正されることは金輪際ないこと。そして予言通りサロメは盾に押しつぶされて死ぬ因果応報。

が、この話の悲劇、ということを結論としたいと思います。

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サロメ研究 ねんど @nendo0123

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