第3話


その夜、またあのタヌキさんが現れた。私は必死にむしゃぶりつく。

「教えて、タヌキさん。いったいどのくらいの間、私は男でなければならないの?」

目から涙がほとばしり出た。

タヌキは右前足をぴんと一本立てた。

「一個で一日? じゃあもうすぐ……」

「それじゃ面白くないではないか。一年だ、一年」

目の前が真っ暗になった。私はあのサクランボを全部食べてしまった。だって美味しかったんだもの。思い出したけど、確か三十個くらいはあったような。

「そのとおり、君は四十代後半まで男じゃ」

「あ……あ……」

喉がつかえたように言葉が出ない。それって、制服を脱いだら着たいなと思ってた、可愛い小花模様のワンピースとか、フリルのついたニットとか、お花のイヤリングとか、ピンクパールのネックレスとか、前々からお店の前で狙ってたものがすべてダメになるってこと?

「ふふふ。食い意地のはった罰じゃな」

罰にしては重すぎやしませんか。思春期の女の子は美味しいものに目がないって決まってるじゃん。

だんだん私にはこのタヌキさんが悪魔の化身のように見えてきた。


「まあ、いいではないか。カレシもできたんだろ。悪いことばかりじゃないわ」

私ははっとする。

「タヌキさん、真崎くんは私が男だから好きになったの? 女の私では好きにならないの?」

と話している間にタヌキさんの姿は霞んでいく。

「知るか~。それはお前次第じゃな」

微かな声も消えいってしまった。


「薫。何やってる、あんまり友だちを待たすもんじゃないぞ」

分かってるぜ、親父。今髪をワックスで立てているところ。ひげの剃りのこしはないな。

うん、色白でまつ毛が長いのは以前のまま。男になってもそこはちゃんと残ってる。

「ごめん、真崎くん。待った?」

私は肩にかけたバッグを揺らしながら門の外に飛び出す。

「大丈夫だよ。遅刻するような時間じゃないし。それより……」

真崎くんはほんの少し赤くなった。

「その、真崎くんていうの、やめてくれないかな。女子は皆そう呼ぶけど、野郎でそう呼ぶの、薫だけなんだよな。気づいてた?」

心の中であっと思った。そうか、たしかに。皆「真崎」って呼び捨てにしてる。

「ごめ……えと、真崎」

「おはよう、薫」

真崎くん、いや真崎は心底うれしそうに笑った。

「薫。俺、友だちでも何でもいいから、ただ薫といると楽しいんだ」

「僕も……真崎」

「ほんとに? 実ははらはらだったんだ。本当は迷惑してるかもって思ってさ」

「そんなはずないだろ!」

あれ? 私、いつの間にか男言葉になってる?

「その髪型、薫に似合う。薫は地がいいんだからさ」

──薫は地がいいんだからさ。

耳の中で真崎くん、いえ真崎の言葉がこだまする。ふわーっと気持ちが軽くなった。

真崎は先にたってバッグを右肩にかけて歩きはじめる。彼は背が高いから当然足も長い。私は普通に歩いていると遅れそうだと、焦って小走りに彼を追いかける。

これまで夢見ていた形とは少し違うが、思いがけない幸福な時間。

駅に向かう横断歩道で立ちどまり、私は彼に追いつく。

振り返った彼が、ちょっと目を見開いてぐいっと私に顔を近づけてきた。

心臓がいきなり飛び出しそう。彼はそっと左手で私の肩に手を伸ばした。ふわりとした気配。

「ああ、惜しい。逃がしちゃった。今、薫の肩にとんぼが留まってたんだぜ」

ああ、また彼の青空のような笑顔。歯が白くて、唇は薄くて。

私はぽおっとして倒れそうになってしまった。


こんな幸せが続くなら、ずっとずっと男の子でも、やっぱりいいかな。キスって勘違いした恥ずかしさも吹きとんでしまった。

「お前ら、最近やけに仲がいいよな」

朝礼前の教室で、私の机に真崎が来てしゃべっていると、山田が茶化すような声で割り込んできた。なんだ、こいつ。今いいところだったのに。

「ああ」

真崎は軽く笑って、

「薫のやつ、俺の好きなゲームが好きだっていうんだ。それでつい夢中になっちゃってさ」

本当はゲームなんてどうでもいい、ちょっとした話題に出たくらいだ。でも、真崎はうまく山田をかわしてくれたと思った。

「何かそんな二人だけで熱心に話してると、俺ら除け者みたいじゃん」

山田に調子を合わせて安藤も声をあげた。

そうだった、真崎と彼らは仲が良くて、よくつるんでいたっけ。こいつら、妬いてんな。

「俺と薫だけの世界があんの」

あっさりと怖いことを言う真崎にちょっとひやひやしたが、山田と安藤は一瞬怯んだように口を閉じた。内心『ちぇっ』とでも舌打ちしそうだ。僕はちょっとだけ気の毒になった。二人とも、本当にいつも「真崎」「真崎」とじゃれついていて慕っている感じだったよな。

仲間が心変わりしたみたいな気分なのか。

「あの、できたら僕も皆の仲間に入れてよ」

気を使ってそういうと、山田と安藤は少し気まずそうに、真崎はがっかりしたようになった。

帰り道、真崎はことさらに山田と安藤の誘いを蹴って、私と帰ることを選んだ。

「今日はさ、薫と約束あるんだ」

邪気のない真崎の笑顔には二人も逆らえない。

私は横目でちらりと二人を見やりつつも、すぐに目を伏せて真崎の後についていく。でも、校門を出たところで、言ってみた。

「ねえ、いいのかな。山田く……、山田も安藤も真崎とつるんでるの、すごく楽しそうだったし」

「俺だってあいつら大好きさ。いい奴らだよ。でも、薫とは違うんだ」

意外なことに素直に喜べない自分がいる。うれしい反面、友だちを大事にする彼でもいて欲しい。そんな悶々とした私の手をひっぱって、真崎が言う。

「あのさ、今日はいい天気だろ? 山の方に行ってみない?」

「山の方」とは、本格的な山ではなく、城下町だったこの街で、昔殿様が築いた小山のことである。街の中では高台になっていて、自然の草木を生かした公園のようになっている。

「あそこで薫と夕陽をみるのが楽しみだったんだ」

「真崎……」

そんなことまで想像していてくれたのか。僕はうれしくて何だか怖いような気にさえなってくる。

山の方へは、大通りに並行する裏道をずっといき、二十分くらいでたどり着ける。駅とは反対方向だったけど。

何を話していいのか困ってしまって、私はうつむいて真崎の後についていく。真崎は何度か立ちどまって振り返る。背が低いのが恥ずかしい。

あれ? 私、女の子だったよね? 実感が遠のいていることに、急に不安になっちゃう。

足を止めた私のほうに真崎が戻ってくる。

「ごめん、薫。速すぎたみたいだね。わりい、わりい」

「じゃなくて……」

「え、何?」

「あの、真崎……って」

でも私は言いたかった言葉を飲みこむ。

『もし僕が、女の子だったら、好きでいてくれるの?』

「変だなぁ、薫」

冗談めかしてはいるが、真崎も少し不安になったようだ。だって、それも当然。まだ、私、本当に君が好きだって、言ってないもん。でも、まだ言いづらいんだ。

真崎は裏道の小さな店のほうに、すっと歩いていった。

「ラムネ、二つ」

「あいあい、お兄ちゃん、ラムネ冷えてるよー」

だみ声のおばさんの声がする。模造紙に手書きで「ラムネ」「コーラ」「コーヒー牛乳」「駄菓子」「カップアイス」「コーンアイス」などと書いたものがべたべたと貼ってある店だった。

ラムネ、なんて。

目の前に差し出された透き通った水色、揺れるビー玉を見て涙が出そうになる。ずるいよ、真崎。こんな、切ないような気障なこと、平気な顔してやるんだもん。

真崎と並んで、歩きながらラムネを傾ける。微かな風鈴のような音。裏通りだから、さほど人や車の通りも少なくて、静かだ。

こんなに飲めるかな、と心配だったが、案外ぐいぐい飲んでしまった。

「やっぱ、喉渇いてたよね」

「うん。美味しかった」

「今度さ、うちへおいでよ。両親、父方の爺さんの具合がよくなくて、一晩家を空けるんだ。そのときに、泊まりにきなよ」

まだ口の中にあったラムネが噴き出す。

「あれー」

真崎がハンカチで私の制服を拭いてくれた。ハンカチは、紺のチェック柄で、制服のズボンに入れっぱなしだったせいか、変に曲がってクシャクシャだ。急に、このクシャクシャのハンカチが愛おしくなった。私、変態?

「わるい! このハンカチ預かるよ。洗濯して返す」

私はこわばって笑いながら、半ばむりやりそれを自分のバッグにねじ込んだ。

「え、いいの?」

私がハンカチごときに異様な執着を見せたので、真崎はぽかんとしている。とりかえす気にもならないのかもしれない。

「うん! アイロンかけて返すからね!」

「薫って、変な奴。でもそこがまた、気になっちゃってたまんない」

真崎はいたずらっぽく目を細めた。

小山を登るには、細い木の幹で土をせき止め階段にした道を登っていくのがいちばんだ。でも、体力のない私はすぐに息が上がってしまう。先を歩く真崎が振り返ってさりげなく右により、左腕を伸ばした。

私は右腕を伸ばしてその手をつかむ。とたんにぎゅっと握りしめられる。

上の方の雲が黄金色に染まり始めている。

息と一緒に心も弾む。まだ半袖のシャツだから、真崎の腕、太い血管が浮き出ているのがとてもきれい。静脈の薄青い色に「僕」はふっと口づけしたくなって、はっと我に返る。

陽に透けて真崎の髪は薄茶色に輝いている。首すじも長くて、くっきりとした線で、大好き。

はあはあはあはあ。

僕はだんだん自分の息とうっとりした気分だけに包まれていく。

「ほら、その岩の横を抜ければ展望台だよ」

真崎の声でまたはっとする。僕はもう、しっとりと汗ばんでいる。

いちばん急な岩の横を通り抜けると、いきなり視界がぱあっと拓けた。

ちょっとした広場のようになっていて、もちろん、こんな時間は

誰もいない。右手に沈んでいく夕陽。季節がらまだ白っぽい夕焼けだけど、それでも日中のぎらぎらがいつのまにか優しくなっている。

正面には、街の端っこを流れる大きな川。ゆったりとうねり、遠目でも微かに水面が光っているのが分かる。ずっと奥の山の方から流れてきて、もうすぐ海へと到達する流れ。広い川べり。人の姿が豆粒のようにぽつんぽつんと見える。

見惚れていると、すっと後ろから肩に腕がまわされた。どきりとしたが、すぐに気づいた。真崎、震えてる?

疑ってるというのじゃなくて、信じられなかった。本当? 本当に、真崎は僕が好きなの? 好きなんだ、よね?

しばらく何と言っていいのかわからないかった。風が吹き抜けた。夕陽は確実に赤みを増している。微かに揺らめいているのが目に入ってきた。

「真崎」

かすれるような声で僕は言った。

背後で温かい息が漏れた。

「友だちって言ったけど、やっぱり薫の気持ち、聞かせてくれる? 無理しないでもいいから」

無理なんて! だって僕の気持ちは女の子だったときからずっと……!

「わ、ぼ、僕も……」

真崎が息を殺す気配が分かった。

「僕も、真崎が好き。ずっと、ずっと前から!」

吐き出すように言ってしまった。だって、本当に電車のなかで盗み見していたあのころから。まだ同じクラスでもなかったころから。

同じクラスになって毎日がどきどきの連続で、自分でもどうしていいのか分からなくて。

もちろん、近づくことなんて思いもよらなかった。ただ、遠くから憧れているだけでも当時の私=僕には十分すぎるくらいだったんだ。

真崎の背が高くて筋肉のついた身体、長くてくっきりした首筋。さらさらの少し薄茶の髪。でも、そんなこと以上に、眼。そうあの優しくて悪戯っぽい眼。水泳部の癖に色白で、唇は薄くて。

「私」のときも、「僕」になってからも、まぶしくて仕方ない存在だったんだ、真崎は。

「薫、ほんとに?」

その真崎が今、後ろから僕の肩を抱いて小刻みに震えている。

一筋にたなびいた雲も金色に輝き始めた。

そのあと、ずっと僕たちは平らな岩の上に座って、肩を抱き合いながら沈む夕陽を見ていた。ほんの少し、キスくらい期待したけど、何だか今だけのこの幸せを十分に味わいたい気持ちが勝って、真崎の呼吸に合わせて微かに揺れる身体に身をあずけていた。何も話をしなかった。それで十分。今の僕は真崎に寄りかかって座りながら、ただこのままでいたい幸福感に浸っていた。言葉なんて要らない。初めての経験。そう、女の子のときも、男の子になってからでも、真崎は僕の初恋。好きになったのって、本当に初めてなんだ。

やがて遠くに拓ける川原も薄く翳りを帯びて、川向こうの住宅にぽつんぽつんと灯りが灯りはじめた。陽はもう地平線に沈んでいるほうが大きくなっている。最後の一滴まで見届けてから帰りたいなと思った。真崎も同じ気持ちかな。そっと横顔を盗み見る。筋の通った鼻の形、きれい。見ているだけで幸せ。

いつも明るくて、誰にでも気さくで優しくて、全然目立たないけど、実は勉強の成績もいいんだよね。僕はずっと知ってたよ。水泳部で、泳ぐ姿も大好き。本当に魚になったみたいだ、ってびっくりしたんだ。きれいな流線形。

最後の滴が消えた。真崎がそっと立ち上がった。あ、僕と同じように考えていたんだな、と思った。



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