セッション11 発狂

「魂に新たに器官を作るというのは、本来は外法です。異星人の臓器を移植するようなものだと言った人もいるくらいです。その反動は正気の減少――即ち、発狂という形になって現れます」

「なにそれこわい」


 発狂するのかと思っていたら、マジで発狂すんのかよ。何だこの世界。教典を見た時から嫌な予感はしてたんだよな……。

 しかしまあ、であれば確かに部屋に閉じ込もるのは道理だ。「狂っている」という表現は様々な状態に使われるが、大抵は厄介な時に使うものだ。悲鳴を上げたり気絶したりするだけならまだいい。往来で暴れたり自殺したりしたら大問題だ。面倒は当人だけの話ではなくなる。


「御心配なく! 今回お教えするのは魔術の中でも聖術と呼ばれているものです。そうそう発狂しませんよ」

術なのに術?」

「はい。大帝教会では『魔』という字を嫌っていまして。実質的には同じなのですが。……で、でも正気度の減少が低い事は確かですよ!」

「そうか……」


 宗教って面倒臭えな。


「お教えするのは『初級治癒聖術ヒール』です。――では、始めます」


 ステファがテーブルの上の装置を操作する。装置のライトがステファの教典を光で照らし、開かれたページを上から順に当てていく。続いて、装置のペンが僕の教典に字と図を書き込んでいく。内容はステファの教典に書かれているものと全く同じだ。まるでコピー機だ。

 あっという間に転写は終わり、装置がペンを教典から上げたその時、



 邪神クトゥルフが、目の前にいた。



「…………は?」


 突然の事に目が丸くなる。唐突過ぎて訳が分からない。

 確かに今まで部屋にいた。ステファと一緒の一室にいた。

 だが、今は闇にいた。闇の中でクトゥルフが僕を見ていた。蛸に似た頭部、鱗に覆われた肌、蝙蝠の翼、暴力的な程の巨躯。一〇〇〇年前、僕を――僕の街を襲った時と寸分変わらぬ姿。あの時の悪魔が眼前に立っていた。

 クトゥルフは感情の読み取れない目で僕を見据えると、触腕をうねらせ……その下から凶悪な口腔が――


「――さん! 藍兎さん!」


 ステファの呼び声で意識が戻る。

 クトゥルフはいない。先程の石壁、先程のテーブルが目の前にあった。隣にはステファが慌てた顔をして僕を覗き込んでいる。


「今のは……幻覚か……!」


 魂が歪んで、幻覚を見るという狂気に陥ったか。

 そうか、これが発狂か。これが正気を失うという事か。これが――この世界の魔術か。


「すみません、まさか初級聖術で発狂するとは……大丈夫ですか?」

「……ああ、大丈夫だ。問題ない」


 額の汗を袖で拭う。未だに心臓はバクバクと言っているが、動けない程じゃない。

 しかし、恐ろしい。おぞましい。よもやこうも容易く幻覚を見るハメになるとは。それ程までに魔術を習得するというのは負荷が掛かるという事か。


「無理なら、今日の依頼は延期した方が……」

「大丈夫だっつってんだろ。気にするな」


 溜息を吐き、呼吸を整える。

 大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。

 あのクトゥルフは幻。僕が勝手に見た偶像。現実にはいない。目の前にはいない。大丈夫だ、落ち着け。落ち着け。落ち着け。


「依頼やんなきゃ生活費入んないんだろ? じゃあ、休んでなんかいらんねーからな。馬車馬が如く働こうぜ」

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