第31話 勝敗

 股抜きショットという奇策でポイントを先取した俺は、平井ひらいに対し気丈に振舞いながらも心臓はバクバクと速く鼓動していた。


 よ、よかった。ちゃんと股抜きショット打てた……。


 脳裏を過るのは練習のときの記憶。何度も足にラケットをぶつけたり、自分の体にボールを打ち込んだりした。おかげで足、特にすねあざだらけだ。


 しかも打てるようになっても球威が出せずなかなか苦労した。おそらくここまで真剣に股抜きショットを練習した素人は俺くらいだろう。


 素人のクセに基礎よりも小手先の技術を猛練習するなんて、テニス部の新入部員ならまず顧問からこっぴどく叱られるだろうな。まあ幸い俺はテニス部に入るつもりもないし、この1ゲームだけ平井に勝てればそれでいい。


 しかし、先手を取れたからといって油断はできない。この成功にかまけてこの後のプレーを疎かにしてしまえばすぐに逆転されるだろう。


 コートのセンターやや左に立ち、サーブを構える。


 油断せず、正確に作戦を実行する。次の策はもう決めているし、きっと平井なら乗ってくるはずだ。


 呼吸を整えてから俺は大きく息を吸い込み、ボールに集中してサーブを放つ。


 苦手とはいえ丁寧なバックハンドでサーブを返してくると平井はベースラインよりも少し前の位置で構えた。


 ふむ……なるほど、左右に振られてもすぐ対応できるようにか。


 平井も実力者だしなにかしら対策を取ってくるだろうとは思っていたが、まさか2ポイント目からこうも大きく動きを見せるとは。


 それくらい俺のことを警戒してくれているということか。エースに認められたような気がして少し嬉しい。


 前後の絶妙なコントロールは習得できていないので少しリスキーだが、躊躇ためらってはすぐに巻き返されるので失点しないギリギリを攻めていく。



 平井のポジショニングは思ったよりも効果があり、平井をあまり振ることができないどころか返球がワンテンポ早くなったことであまりいいショットが打てないでいた。


 スピンやスライスを多用して主導権を握らせないよう粘ってはいるが、とはいえこのまま延々とラリーをしても先に俺の体力が切れるのが先だ。


 仕込みは手堅く行いたかったが仕方ない。元より実力で劣っている俺は常に平井よりもリスクを負う必要がある。


 気持ちを切り替えて思い描いていた筋書きを修正する。


 しめのショットを考えると平井を少しでも後ろに下がらせたい。


 ある程度コースを絞るため右サイドに鋭角アングルでボールを打ち込む。平井は少し窮屈そうな様子でクロスに返してきた。


 そのコースが読めていた俺はすぐにボールとの位置を調整して左サイドにロブを放つ。あまり慣れていないので球速はないが距離感はちょうどいい。


 平井がボールを追うのを確認して俺は三度前に出る。


「――ッ!」


 俺の動きに平井は一瞬だけこちらを見やるとタイミングを合わせて跳躍し、叩き落すような高い打点でボールを打ち込んできた。狙いは――俺の足元。


 ロブは1ポイント目の失点あり、かといって下がらされた状況でボレーされては取れない。なんて俺の思い描いた逡巡をしたのだろう。そうなると導き出されるのはボレーができない足元に打ち込むこと。しかも反応できない速球で。


 その判断は正しいが、それらすべてが予想できていればただ速い程度は問題ではない。


 俺はすぐさま足を広げ腰を落とし、軌道の先にラケットを合わせる。


 あとは俺が力加減を間違えなければ――っ!


 ズシンとラケットに伝わってくる重さに顔をしかめながらも、勢い逃しつつラケットを切るように滑らせボールに逆回転をかける。


 ふんわりと上がったボールはネット上数センチを通ってサービスコート内に沈んだ。


 ドロップショット。秘密兵器その二だ。股抜きに比べれば全然使用されるショットなのでしっかり状況を整える必要があったが、上手く刺すことができた。


「うっそだろおー……そんなんありかよ」


 ベースラインに佇んでいた平井は遠目でもわかるくらい露骨に肩を落とした。


「どうだ直正なおまさ、俺とのゲームは楽しめるだろ?」


「――ああ、予想以上だぜ。だけど、これ以上は取らせないからな」


「いや、あと二点取らせてもらうよ」


 そう宣言したものの、


 ――ダンッ!


 数分後、平井の鋭いダウン・ザ・ラインが左サイドのスペースを貫いた。


 あわよくば完封したかったのだが、やはりこの武器を抑えないと逆転のリスクが付きまとう。


 ただ、当然だが策はある。とはいえ股抜きやドロップよりのときよりも精密なゲームメイクを求められるのでこのポイントでは実行できなかった。


 続く4ポイント目。俺はこのままマッチポイントに持っていこうと、平井は同点にしようと互いに際どいショットの応酬を繰り広げる。


 そのせいで今日一ラリーが長くなっていて、少しずつ肺が苦しくなる。


 体力はまだ問題ないと思うが、一回のポイントでの運動量は限界に近い。


 このままだとボールを追えなくなる……同点になったら平井の勢いが増すだろうし、このポイントは抑えておきたい。


 ふと、嫌な気配を感じる。短いながらも平井とゲームをしていてすっかり慣れた、勝負球ダウン・ザ・ラインの前兆だ。


「っせぇい!」


 力のこもったかけ声と共に鋭いボールが放たれる。


 俺は急いで右ラインに走りラケットを合わせる――が想像以上の球威に打ち返すことができずアウトになった。


「っしゃあ! 追いついたぞ!」


 平井はラケットを左手に持ち替えて右手でガッツポーズをする。


 スピードも球威も、やはり武器と呼ぶに相応しいレベルだ。絶対に返せないというほどではないが、しっかりと体重を使わないとあらぬ方向に飛んでいきそう。


 同点になってしまったが、仕方ない。ダウン・ザ・ラインの情報が手に入っただけでも行幸だ。


 それにだ、平井の性格を考えるとこのまま自分の武器を押し付けて乗り切ろうとするだろう。であればこちらのチャンスにもつながる。


 しかし今の失点を踏まえると、本当にシビアなタイミングで動き出さないといけないな。早すぎるとコースを変更される可能性があるし、遅いと追いつけないか打ち返せない。


 情報整理をしつつ体力の回復を図り、五度目のサーブを放った。


「っ!」


 直後強烈なリターンが返ってきて俺はなんとか打ち返す。


 どうやら巻き返すと勇んでいるからか、先ほどよりも攻めっ気が強いように感じる。


 長丁場になるとジリ貧になるので助かる面もあるが、とはいえキツい。


 すぐに上がる息を無視してコートを走りラケットを振るう。


 タイミングを探りながら右サイドに打つ。すると不意に得点へのルートが無意識に見えた。


 平井はクロスに返してきて、ボールに追いついた俺はへ打ち返す。そしてすぐにセンターポジションを向く。


 途端に危険な気配を感じる。平井はダウン・ザ・ラインに照準を定め力強くラケットを振り抜いた。


 それと同時に俺は右足を軸に百八十度向き直し細かい足さばきで位置を調整する。


 曰くボールを打ち返すとき、もともとの威力を上乗せして返せるので球威を出しやすいとのこと。


 であれば平井の武器ダウン・ザ・ラインをしっかり返せたなら、それは俺ひとりじゃ到底出せない球威を出せるはず。


 両手でグリップを強く握りしめてボールをスイートスポットで捉える。両腕に走る衝撃に唇を噛み締めながら、俺は右ライン目掛け振り抜いた。


 想像をはるかに超えたショットはラインギリギリだがコート内を跳ねて金網にぶつかった。


 自分でも信じられないほどの球威に、平井と揃って呆然としてしまう。


「あ、あれ返せるのか……」


 平井のひとり言に内心うなずく。


 いや、狙ってはいたんだけど、あそこまでエグいショットになるとは想像できなかった。


 ふと冷静になると、両手がジンジンと痺れるのを感じる。


 念のため指をグーパーと開閉してみたり手首を回してみるが傷めた様子はない。万全の姿勢で打てたからだろうか。


 ともかく、これでマッチポイントだ。


 次取れば俺の勝ち。そのことを意識すると緊張からかプレー中とはまた違う鼓動を感じる。


「……これ以上長引かせるのは時間がもったいないから、ここで決めさせてもらうぞ直正」


「ハンッ。オレは大会で何度も似たような状況から逆転ブレイクしてるんだ。舐めるなよ?」


「もちろん」


 平井がサーブに備え構えたのを見て、俺もこの勝負を終わらせるべくトスを上げ――ボールが上がりきる前に打ち、空かさず前に走った。


「なっ、今度はクイックサーブでサービスダッシュかよ……!」


 テンポがズレて動揺した平井は、そう言いながらも洗礼されたフットワークで回り込みフォアハンドに構えた。


 本来ならバックハンドになるポジションにもかかわらず回り込んでのフォア。


 そうだよな、そうくるよな!


 平井のラケットがボールを捉えるのと同時に俺は全力で右サイドに飛ぶ。


 放たれたダウン・ザ・ラインになんとかガットを合わせられるも、あまりの威力にラケットが手から弾かれる。


 コートに倒れた俺はすぐに起き上がってボールの行方を探す。


 鋭角コースのボレーを狙っていたからか、ボールは左サイドの方向へ上がっていた。


 リターンに全力を注いだからだろうか。平井は上がったボールに反応できておらず、俺と同じように弧を描くボールの行方を見届けている。


 打ち上げられたボールは風によって揺れることもなく、きれいな放物線を描いて――ラインギリギリの隅に跳ねた。


「――っしゃあ!」


 勝利という結果に、俺は柄にもなく拳を握りガッツポーズをした。






==========

あとがき


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