第30話 テニス部のエース

 トン、トン――とボールを地面に何度かバウンドさせてから掴むと、平井ひらいはまっすぐとこちらを見る。


 ラリー練習なんて比にならないほどの緊張感に体が強張るが、俺はゆっくりと息を吐いて過剰な力みをほぐす。


 すぐ反応できるよう平井の動きに目を凝らす。平井はゆっくりとトスを上げると同時にラケットを構え――


「っ‼」


 平井は鞭のように右手をしならせて、自由落下するボールをラケット打ち抜いた。


 傍観しているときとは比較できないほどのスピードに焦りながらも、あらかじめ頭に入れていた情報からサーブコースを予測していたためなんとかサーブでの得点エースだけは免れる。


 しかし打ち返すことだけで一杯いっぱいで、甘いリターンになってしまった。


 圧倒的なサーブから始まったこともあり防戦一方でラリーは進み、抵抗虚しく1ポイントを奪われてしまう。


「っ、はあ……っ」


 一気に疲労感が込み上げてくるが、この連休の間にしっかり往復ダッシュをしておいたおかげでまだまだ走れそうだ。


 にしても、強い。これまでの実績や試合を見てきて充分わかっていたつもりだったが、相対したことで頭にあった平井の能力と実際の実力の乖離かいりを嫌というほど思い知らされる。


 まだたった1ポイントだっていうのにな。


 想像をはるかに超える平井の強さに思わず苦笑がこぼれる。


 まあ、今のは俺のリターンがそもそも甘かったし、防戦一方になるのも当然だ。様子見とはいえ不利なリターンゲームなのだから、もう少しギャンブルをしてもよかっただろう。


 反省を心に刻みながらコートの左に移動し、平井のサーブに備える。


 だが、このゲームだって最初から捨てるつもりは毛頭ない。さっきよりもハイリスクハイリターンの動きに変えてワンチャンを狙う。


 方針を定め、俺は平井を注視する。


 平井は回転が少ないスピード重視のフラットサーブしか打たない。そして今平井が立っているのは向かって右側のサイドライン。であればコースはサイドライン側ワイドほぼ一択。


 トスを上げ平井がサーブの姿勢を取る。ボールが降下を始めた瞬間、俺はこれまでの記憶から可能性の高い位置を読み先んじて動き出す。


 パァン! と豪快で軽快な音と共に放たれたボールは俺の予想とほぼ変わらない軌道で飛んできた。


 おかげで一回目より余裕を持ってリターンに臨むことができ、俺はコートの左隅にボールを打ち返す。


 ただその程度で点が取れるわけもなく、追いついた平井にボールを返された。しかし良いリターンができたことで平井は万全の姿勢で打てておらず、先ほどまでと比べて球威はない。


 このポイントの出だしは上々。とはいえただ考えなしに打ち続けてもすぐに主導権を奪われてしまうのがオチだ。


 ただでさえ素人で決め手にかけるのだから、仕掛けだけでも先手を取る必要がある。


 平井を左右に揺らすよう今度は右隅に返球してから俺は前に出る。ハイリスクハイリターンで先手必勝だ。


 俺の動きに一瞬平井は困惑したような表情を浮かべた。俺は左右どちらを狙われてもいいよう、縦のサービスラインの位置で構える。


 ニブイチに勝てばボレーで1ポイント取れる、はず!


 しかし俺の考えを読んだのか、平井が選んだのは頭上を越えるロブだった。


 たしかに今の俺には噛み合わせたボレーくらいしか決定力がない。平井の強力な縦回転ドライブショットのようにベースラインから使える武器もまた然り。


 平井のことだから半分くらいは直感的な判断だろうが、しかし反射的にロブを選択できるのはさすがとしか言いようがない。


 俺は全力で着地点まで走り、ボールを追い越してから半ば無理やりに振り向いてボールを返す。


 たった一打で状況をイーブン、いや劣勢にまで追い込まれ、このポイントもあえなく奪われた。


 平井の勢いを制止することができず立て続けに3ポイント目も奪われあっという間にマッチポイント。


 リターンに精いっぱいリスクを負ったおかげでギリギリ状況は均衡しているものの、ハッキリ言ってジリ貧だった。


 そして、


「――っらぁ!」


 左隅に返したボールを狙われ、サイドラインに沿った直球――ダウン・ザ・ラインを叩き込まれた。


 平井の一番の武器とも言える強烈なショットに、俺はラケットで触れることすらできなかった。


「どぉだ雅也まさや! これがテニス部のエースの実力だ!」


 ビシッとラケットをこちらに向けた平井は勇ましく叫んだ。


「ああ。まさにエースだよ、ほんと」


 金網に当たって転がったボールを拾いながら称賛をかける。


 これがテニス部のエースか、想像の何倍も手ごわい。こりゃ勝利条件を調整した平井の感覚は性格だな。


「さて、次は一回きりの雅也のサービスゲームだけど、ちゃんと負かしてくれるんだよな?」


「もちろんだとも」


 平井に不敵な笑みを返してから俺はサーブをするべくベースラインについた。この勝負唯一の俺のサービスゲーム。このゲームを落としたら勝機はほぼなくなるだろう。


 しかし、このゲームは俺の本命。思い描いたゲームメイクが刺されば平井だからこそ勝てるはずだ。


 だからこそ俺に求められるのは、多少形勢を巻き返されても粘る忍耐力と仕掛けるタイミングを見誤らない洞察力。


 どっちも優等生を演じるうえで必然的に養われてきた力だ。理論上は問題ない。


「ふぅ……」


 息を吐いてから平井を倣ってボールを突いてみるが、あまりしっくりこない。まあルーティンは日常的にやっていないと効果がないからな。


 気持ちを切り替えて平井を見やる。実力差がわかっているのに、サーブに備える平井の構えは真剣そのものだった。


 曰くサーブはもっとも本人の実力――経験が必要なショットらしい。であれば素人の俺のサーブなんて大したことない、と思いそうなものだが。


 いや、平井は勝負に関しては相手が誰であろうと真剣だったな。


 気を改めてから俺はトスを上げた。連休に猛練習した甲斐あってボールはきれいに上がり、俺はタイミングを計って手を鞭のようにしならせながらラケットを振り上げる。


 狙うはワイド。落下するボールをベストなポイントで捉え、練習以上の好感触なサーブを打てた。


 平井は少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐにまた集中した様子に戻り難なくボールを返してくる。


 まあ俺が平井からエースを取るなんてまず普通ではありえない。俺だってこのサーブにエースを期待していなかったし。


 ただ虚を突けたようでリターンはそこまで鋭くなく、この瞬間は明らかに俺が優位に立っている。


 平井に立て直される前に仕掛けるか、一点目!


 俺は返ってきたボールを右のスペースにスピード重視で打ち返し、空かさず前に出る。


 平井はボールに追いついたもののあまりいい体勢ではない。しかも平井はバックハンドが不得意なので無理やり強打してくる可能性は低いだろう。


 だからこそ打つという選択肢もありはするが、前提の実力差を考慮すると一度イーブンな状況にするほうが確実だ。


 しかもがある。


 俺の位置を確認した平井は下からすくい上げるようにラケットを振りロブを上げた。


「なっ」


 ――ありがとう平井、罠にかかってくれて。


 サービスラインで止まっていた俺はボールの軌道から着地点を予測し、すぐにベースラインに切り返す。


 この間に平井は中央に戻って左右どちらにでも対応できるようにしようとしているだろう。1ゲーム目がそうだった。


 しかし俺は1ゲーム目よりも前には出ず、平井がロブを打つと確信して早く戻っている。であれば平井はなおのこと早く戻ろうとしているだろう。


 平井の脚力ならそれでも間に合うだろうが、例えば俺が先ほどよりも打ち返したらどうだろうか。


 勘違いしてもらっては困るが、前に出るフリだけが策ではない。本命はこれからだ。


 日寄るな、躊躇ためらうなよ俺!


 ボールは予想通り、蹴ってしまうかどうかの距離に落下する。


 もう一歩力強く踏み込んだ俺は、振り向くことなくラケットを振り上げ――


「しっ……!」


 股を通しボールをコートの右隅に打ち込んだ。


 中央に戻ろうと走っていた平井は重心のせいで切り返すことができず、コート内を跳ねたボールはコートの外へと転がっていった。


 対平井の秘密兵器その一、股抜きショット。


 素人がまずするはずのない、邪道でトリッキーなショットは、俺の作戦どおり平井から1ポイントを奪ってみせた。


「どーだ、直正なおまさ。優等生も油断ならないだろ?」


 いまだ呆気に取られている平井にラケットを向けて、俺は不敵な笑みを浮かべてみせた。






==========

あとがき


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