第6話 焦りと努力

「――はあ」


 体を洗い終わった俺は、ゆっくりと浴槽に体を沈める。由夢ゆめが追い焚きをしてくれたのか、一番風呂のように温かかった。


 賭けに負けた日から一週間、由夢はよりいっそう強気に『おやすみ』に誘ってくるようになった。初めのときのような強引さはないものの、いつでも強硬手段を取ってやるぞと言わんばかりの気迫を感じる。


 実際、一度深夜の一時くらいまで徹夜で勉強していると音もなく背後に現れて筆記用具とノートを没収された。加えて、平然と同じベッドで寝ることを促してくる始末。


 それはそれで寝つけるか心配になる状況なのだが、由夢がまとっている香りや雰囲気、あとは人の温もりも相まって気づいたら寝てしまっている。


 前に寝つきが悪いと言っていたので、もしかするとあの香りは彼女の安眠アイテムなのかもしれない。


 ともあれ、そんなことがあり俺の生活はだんだんと健康的なものになっていった。夜はだいたい二十三時くらいには寝るようになり、徹夜をしても二十四時半ほど。


 まあ由夢にはこれでも健康的とは言えないけどと真顔で突っ込まれた。


 それだけ勉強に費やす時間に変化があったというのに、今のところ成績に変化はない。むしろ、慢性的な睡眠不足が少しずつ解消されているため、集中力や精神面が安定するようになり下振れが減り、総合的に見ればプラスになっている。


 これに関しては、悔しいが由夢に頭が上がらない。


 由夢の誘いに応じるようになって、はっきり言えばすべてが好転しているように思えた。


 けれど……はたして、このまま由夢がもたらした変化を受け入れてもいいのだろうか。


 たしかに由夢のおかげで改善したことは多い。しかしそれは運がよかったから、今のところ問題ないように見えているだけという可能性だって大いにある。


 睡眠不足は解消されつつあるが、やはり勉強に費やす時間は確実に減っているのだ。今のところ弊害は表れていないが、数週間、数か月が経ったとき、問題ないとは言い切れない。


 俺はなにも、闇雲に勉強時間を増やしていたわけではない。優等生で在ることを決めてから少しずつ時間の使い方を変えていき、最終的にあの生活リズムに落ち着いたのだ。


 俺が優等生を目指し始めたのは中一の夏だった。そして今のように、成績上位に居座れるようになったのは中三の一学期終わりごろ。たかだか百人強の上位に立つのに、まじめに勉強して一年もかかっている。


 そんな俺が高校二年の今成績を落とそうものなら、もはや挽回は難しいだろう。中学に比べて断然授業の難易度は上がっているし、維持もできず転げ落ちる可能性だって十分にある。母さんに心配をかけるというレベルではない。


 最悪の未来を想像し、不愉快で行き場のない焦燥感を覚える。


 本当の俺は怠け者なんだろう。だから由夢が与えてくれたゆとりを心地好く感じ、都合よく受け止めているのだ。けれど、それじゃ優等生で居続けられない。


 きっとこの焦りは、不安は優等生としての俺が出している警鐘だ。引き返すなら、いや引き返せるのは今しかない。


 ふう、と長めに息をはいてから、俺は風呂から上がった。



   ◇   ◇  ◇



 二十三時半。予習もある程度したところで、俺はもう一度期末試験に向けて範囲のおさらいを始めた。


 そんなタイミングでドアが開く気配を感じる。


「もうすぐ日付変わるよ、おにーさん。まだ続けるの?」


 来訪者は当然由夢。彼女は俺の肩に手を乗せ、暗にいつでも妨害できるぞと主張してくる。


「再来週には期末試験だからな。今のうちに試験範囲を復習しときたいんだ」


試験範囲の復習それをするための期間が、来週の試験週間だと思うんだけど」


「俺は出来が悪いからな。優等生で居続けるには、みんなと一緒じゃ遅いんだ」


「ふぅん」


「俺の身を案じてくれているのはありがたいけど、もう大丈夫だ。賭けの約束もあるし、無理をしないよう加減するから」


 もう誘わないでくれと言外に伝える。


 それに対し由夢は、大きなため息という返事を寄越した。


「おにーさんって、どうしてそんなに自分に自信がないの?」


 ふと、そんな質問を投げかけられる。


「自信がない、か。たしかに俺は自分のことを信じてない。けどそれはネガティブ思考からくるもんじゃない。事実に基づいた客観的な判断だ」


 俺はありありと過去の自分がどれだけ出来が悪かったか、今の成績を維持するのにどれほどの時間がかかったかを由夢に説明する。


 そして、そんな俺が勉強に手を抜くようになってしまったら、どんな惨状になるのかも。


「私は昔のおにーさんを知らないけど、昔のおにーさんがどれだけ苦労したか、なかなか結果が出ないことが堪えたのはわかったよ。けど、それは過去のことだよ」


 由夢はまっすぐにこちらを見つめてそう言う。


「過去の俺だって、俺には違いないだろ」


「でも、過去のおにーさんと今のおにーさんじゃ前提が違うでしょ。昔は普通に過ごしてたけど、今のおにーさんは優等生であろうと努力をし続けてる。身につけた経験も知識も習慣も、なにもかもが違う」


「だからもう大丈夫って言うのか? そんなハズない。どんな能力も、磨き続けないとすぐに衰えるんだ。そうなってからじゃもう遅いんだよ」


「じゃあ、おにーさんはこの一週間手を抜いて勉強してたの?」


 その質問に、一週間前の自分の発言が頭に浮かぶ。


「そんなわけないだろ」


 例え時間が短くなったからって、心にゆとりが生まれたからって手を抜くわけがない。それは俺のポリシーに反する。


 俺の答えに由夢は「だよね」とうなずいてみせた。


 どことなく空気が弛緩する。それと同時に、俺の頭も少しずつ冷静さを取り戻していった。どうやら俺はいつの間にか熱くなっていたようだ。


 深呼吸をして心を落ち着かせる。


「おにーさんが過去の苦悩の経験で自分を信じられないってのは充分伝わった。けどさ、自分がしてきた努力は信じてあげてよ」


「努力を、信じる」


 反芻すると由夢はそうとうなずく。


「ほら、ちょうどおにーさんの努力が目に見える形であるでしょ」


 そう言って由夢が指さしたのは本棚だった。中にはこれまで使ってきた参考書や問題集、そして膨大な冊数のノートが科目ごとに並べられている。


「そしておにーさんは、この一週間もちゃんと努力をし続けてる。たかが一時間、日の勉強時間が減った程度で衰えるものじゃないと、私は思うけど」


 サボったらすぐ衰えるってのは同意するけどね、と補足を入れてから、由夢はふうと息をはき呼吸を整えた。


 ふと、俺に向けられていた瞳が、どこか遠くを見つめるような目つきになる。


「……時間ってさ、最終手段だと私は思う。もっと上手い方法はないか、自分にあった方法はないか。そうやって試行錯誤して効率化を図って、最後に費やすのが時間だと思う。ほら、時間が解決するって言葉が使われる状況って、結構末期でしょ?」


 たしかに、と同意できるほど俺はそんな状況を見てきていない。ただ、彼女が言うならそうなんだろうなと思うくらいには説得力を感じた。


「最近のおにーさんの様子を見てると、勉強時間に固執するんじゃなくてもっと余裕を持ったほうがいい結果につながると思うけど。ま、おにーさんが今以上の成績を望んでいたり、とにかく頑張る根性論者だったりするならこれ以上は言わないけど、そこんとこどう?」


 俺は無言で両手を挙げる。


 きっと、この言い争いに絶対の答えなんてない。人によって、状況によって二転三転するするだろう。けれどこの場に限れば、俺は由夢の言葉に納得した。その時点で俺に言える言葉などない。


 降伏する俺を見て、由夢は疲れたと言わんばかりにため息をこぼす。


「やっとその顔に戻った」


「え、俺の顔なんか変だった?」


「一週間以上前のときと同じ顔」


「どんな顔だよ」


「切羽詰まったような、ツラくて今にも泣きだそうって顔」


「……俺そんな顔してたの?」


 しかも、過去にも同じ顔をしてたというと、実は他の人にもそう思われていた可能性もあるのか?


 そんな心中を察したように由夢は首を横に振る。


「おにーさんが周りから優等生だと思われてるなら、きっと気づけるのは私だけだよ」


「どういうことだよ」


「べつに、おにーさんはわからなくていいよ。それより、日付もすっかり変わったし、一緒におやすみしよっか」


 由夢に椅子ごとベッドに引っ張られた俺は、素直にベッドにもぐった。


 けっきょく今日も由夢に助けられるかたちになった。なんというか、俺の生き方や考え方に、どんどん彼女が浸食してくるような感覚を覚える。


 それをこのまま受け入れてもいいのか。その疑問は解決していないけれど、


 努力を信じる、か。


 その言葉を言われたとき、なにか報われたような気持ちになった。今日のところは、それだけでいい。そう思えた。






==========

あとがき


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