第2話 『また』はない
とくん、とくん――と規則的に音が聞こえる。
あれ、俺はなにをしてたんだっけ……?
どうやら俺は寝てしまっていたらしい。寝起きなせいかまだ少し意識がぼんやりとする。
いや待て。なんで俺は寝てたんだ? 課題もやった覚えはないし、夕食を摂った記憶もない。
意識が
そうだ、帰宅して、
寝てしまう前の記憶を思い出したことで、今俺の顔を受け止めている柔らかい感触の正体にも気づく。
「――――――っ、うぁあああああ!?」
慌てて飛び退くとベッドから滑るように落ち床に腰を打つ。
しかしそんな痛みは、込み上げてくる罪悪感でまったく気にならなかった。
まるで短距離を全速力で走ったときのように心臓が早く鼓動する。
ベッドの上を見上げると、女の子座りをした由夢が感情の見えない表情で俺を見下ろしていた。
「おはよ。少しは休めた?」
「ご、ごめん! なんと謝ればいいか……と、とりあえずお詫びはさせてくれっ」
女子の胸に抱かれて寝てしまうなんて想定外すぎて、優等生モードであってもどう対処すればいいのかわからない。
焦りと罪悪感からとにかく謝罪を繰り返していると、由夢は「べつにいいよ」と素っ気なく答えた。
「私がやったことだから。というか急に起き上がったら危ないでしょ。怪我はない?」
「え? あ、ああ。特になんともないよ」
「そ。あぁ、お風呂掃除だけどおにーさんが帰ってくる前にやっておいたから」
「それはありがとう――って俺何時間寝てた!?」
お風呂という単語で、俺はようやく時間に意識が向かう。
もともと
そのためお湯を張るのは母さんが帰ってくる直前にしているのだ。
慌てて机に置いてある時計に目を向ける。時刻は十八時半。母さんが帰ってくるのが十九時なので、ギリギリ過ぎてはいなかった。
というか、十七時前に帰ったはずだから、一時間半も寝ていたのか。
ホッと胸を撫で下ろすと、いまだベッドの上に鎮座している由夢が「おにーさんは慌ただしいね」と呟いた。
誰のせいで、と言いたいところだったが、彼女なりに俺を労ろうとしての行動だったことは理解できるのでやめておく。
「それで、少しは休めた?」
「ん? ああ、そうだな。少し気分が軽くなったよ。……一応、お礼は言っておく。ありがとう」
「どういたしまして。でも、ちょっとお昼寝しただけじゃその場しのぎだからね。普段からもっと休みを取らないと、そのうち倒れちゃうよ」
「……気にかけておくよ」
そう答えると由夢はわざとらしくため息をこぼした。
「おにーさん、ホント
「そんなことはない。女の子の胸で寝るなんていう醜態を晒したからな、反省しているし改善する気持ちもある。けど、俺なりに譲れないラインがあるってだけだ」
「おにーさんの場合、改善の意味が『私に悟られないようにする』みたいな感じになりそうだけど」
「……」
まともに会話をするのは今日が初めてのはずなのに、なぜかすっかり思考を理解されてしまっている気がする。
けど、仕方ないだろ。対策は考えるが、そう易々と昼寝ができるほど俺には余裕がない。
しばし無言の睨み合いになるが、ほどなくして由夢の先ほどより大きいため息によって沈黙が破られる。
「じゃあさ、これからも一緒におやすみしようか、おにーさん」
「どうしてそうなる」
突然の提案に俺は首をかしげる。
そもそも休んでいる暇はないという話なのに、どうして一緒なら通ると思ったのだろうか。
「だって、私はおにーさんが完璧な優等生じゃないってもう知ってるから。ついでに可愛い寝顔も」
「ついでのほうは即刻忘れてくれ、シンプルに恥ずかしい」
考えとく、という信用ならない返事をしてから由夢は続ける。
「本当の自分を知ってる人が近くにいるってわかったら、一緒にいる間だけでも多少は肩の力が抜けるでしょ」
彼女の言っていることはもっともな内容だ。
「たしかに、そうかもしれない。けど、遠慮しとくよ」
母さんが再婚する前までは、家にひとりのときには気を緩めていた。けれどそれは誰もいない一時に優等生の仮面を外していただけ。
でも、そこに誰かという存在ができてしまったとき、きっと心に隙ができてしまう。その隙はきっと時間とともに広がっていき、いつかボロを出してしまうことになる。
だから、頼ってしまう存在は作りたくない。
そう自らの考えを伝えると、由夢は本日三度目のため息とともに「本っ当に頑固」と呟いた。
その発言に少しモヤっとする。
俺が頑固なのは、まあ認める。頑なになってでも譲れないものがあるから。しかし、再三俺に休むよう言ってくる由夢もまた頑固ではないだろうか。
「なあ、なんでそんな俺のことを気にかけるんだ? 家族になったとはいえ、感覚は他人に近いだろ」
由夢は正直、他人や物事に対して執着しないタイプだと思っていた。
家族となって以来、何度か交流を図るべくいろいろ質問したことがあった。例えば好きなものや嫌いなもの、最近なににハマっているのかなど。けど、どれも返ってくるのは「とくに」という素っ気ない答えばかりだった。
最終義父に由夢について聞いてみたが、これといった情報がなかった。好き嫌いはなく、趣味らしいものもない。一言で述べるなら何事にも無頓着。
普段から無気力で気だるげにしているので納得はしたが、だからこそ彼女が頑なに俺を休ませようとするのかわからない。
「……っ」
そんな俺の疑問はどうやら的を得ていたようで、由夢は初めて無機質ともいえる顔に動揺の色を見せた。
「べつに、一緒に暮らしてる家族がオーバーワークで今にも倒れそうだと、私が気になって休めないってだけ」
自分以外に無頓着だからこそ、自分のために動くというのは理解できる。けれどどうにも腑に落ちない。
「なあ」
他に理由があるんじゃないのか。そう尋ねようとしたときだった。
「雅也ー、由夢ちゃーん、ただいまー!」
ドアを開ける音とともに、仕事帰りとは思えない母さんの元気な声が聞こえてきた。
思いのほか話し込んでしまっていたようで、時計はすっかり十九時を指している。
「あっ、風呂入れてない⁉」
「おにーさんって、けっこうポンコツだったりする?」
ああそうだよ! だから常に必死なんだよ!
胸中でそう叫びながら、俺は慌てて廊下に顔を出す。
「ごめん母さん、まだ風呂入れてない!」
「あー、そんな焦んなくていいよ。べつに帰ってすぐ入ってるわけじゃないし。いつもありがとねー」
母さんに「今準備するから」とだけ言い、部屋に向き直る。
まだ話の途中だったけど、あの様子じゃどれだけ追及しても話さないだろう。
頑固者同士、しばらく面倒なことになりそうだ。
なんてことを考えていると、由夢はひらひらと脱力した手を振ってきた。
「またおやすみしようね、おにーさん」
「『また』なないよ」
それだけ答えて、俺は浴室に向かった。
==========
あとがき
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