ーーロクーー
第15話
いつも一番に出勤するあおいが今日遅刻をして、いつもギリギリに出勤するはずのみかこが一番乗りで店へやって来て、萌香はたまたま休みを入れていた。不慣れな手つきで開店準備を進めるみかこをリリアは椅子に座って眺めている。
「おー、BGMも設定できるんだ、意外とやるね。おー、こんなところまで掃除するんだ、やるねー」
まだメイド服にも着替えていないのにリリアは呑気に休憩を取りながらみかこの様子を一人実況しながら褒めていた。
みかこがモップをぶんっと振りかざし、汚れた水が周辺に飛び散る。
「もう!どうしてかな、リリアちゃんはなんで優雅ににゃんを眺めているのさ、ひどいよーぅ、リリアちゃん涼んでないで手伝ってよーぅ」
「だって珍しいものは見とかないと損じゃん」
「にゃんは自分の事はあまりできないかもしれないけど、お店の事はちゃんとやるし準備くらいはできるよ!」
「ふうん、でもなんか面白いから見ちゃうんだけど」
パシャリ。
言いながらリリアはモップを握りしめるみかこの写真を撮る。
「もうもうもーう!にゃんは子供のままだけど出来る子供なんだもん!ふーんだっ!」
リリアにいじられてふくれっ面をするみかこが荒々しく掃除に戻る。
リリアは暫くみかこを観察していると、背中からお嬢様言葉が聞こえてきた。
「先に更衣室をお借りしましたわ。リリアさん、お着替えをどうぞなさってください」
振り向くとジュンがいて、ふっくらとしたスカートに胸元の大きなリボンが目立っていた。
「あー、もうこんな時間かぁ、それにしてもあおいはいつ来るの?」
「にゃんもお店にきてあおいちゃんがいなかったからびっくりだったよ。いつも真面目なだけあって、ちょっと心配だにゃ」
「心配にもなるけど、本当、今日は珍しいよ」
リリアは言いながら立ち上がって更衣室へ着替えをしに行った。
「よーっす」と言いながらやって来たのはキイチである。晴れ晴れとした満面の笑みは、一体何を考えているのかわからない。
ジュンは上機嫌なキイチの表情を見る。萌香が恐怖したのは、この仄かに狂人を匂わせる笑顔なんだなと何となく納得できた。
「どう?初日はうまくいった?」
キイチがジュンにさりげなく訊いた。
「ええ、問題なくとても楽しかったですわ」
未成年飲酒を目撃するし、早朝まで働かされてくたくた疲労困憊で眠気に襲われて、本当は楽しいなんて微塵も思っていなかったジュンだが、今は調査中につき、メイドに憧れていた女性を演じる事だけを考えることにしたのだ。
「それより、あおいさんはいつ来るのでしょう。いつもは一番乗りで来るのに、と皆さん心配していらっしゃいましたよ」
「多分寝坊かなんかだろうさ、いつも真面目でしっかりしているから、たまには遅刻の一つくらい大目に見てやるさ」
あおいの遅刻をあまり深く気にしていない様子のキイチが、「メンバー揃ったらいつものようにやって」と言い、お気楽に外へ出て行った後の事だ。
「ごめんなさい、遅れてしまいました!」
二時間遅れであおいはやって来て、更衣室へ逃げるように入っていった。
どうしたのだろう、と他のメイド達はあおいが更衣室から出てくるのをちらちらと見ていたが、なかなか出てこなかったので、率先してジュンが更衣室の扉をノックした。
「あおいさん?いつも早く来るそうですけど、今日は何かあったのですか?」
ドスドス、ドンドンと更衣室の中が騒がしくなって、あおいがわたわたと焦りはじめたのがわかった。
「ちょっとちょっと、落ち着いてください。何かあったのはわかりましたわ、私が話を聞きますので少し入ってもいいかしら?」
すると、扉がほんの少し開いて、「はやく」と、何かに怯えたあおいの声が聞こえてきた。
ジュンは急いで更衣室の中へ入り、あおいの姿を見て、驚愕とした。
「どうしたんです!?その顔は……」
あおいはさっと両手で顔を隠したが遅かった。
あおいの右頬が赤く腫れていたのをジュンはしっかりと見たのだ。
「ちょっと転んじゃったんだ、馬鹿だよねー、ハハ……」
そうは言うものの、あおいの顔の痣は転んでできるような位置でもない。ごまかそうとしているのがわかる。よく見ると、首元も青痣が出来ているようであった。
手で強く締め付けられたような細い指の痕があり、あおいはその首を何度も触って、いまだに苦しそうにしていたが、痕が残っているとは気が付いていないようである。
ジュンは転んだなどという簡単なウソにごまかされることなどなく、あおいの目を真っ直ぐ見て言う。
「つらかったでしょう」
「へ……?そんな、何を……」
あおいの目は怯えているようであった。
「あおいさん、私をしっかり見て」
ジュンが、うん、と頷いた。
その時、ジュンの目を見たあおいは、ああ、と思った。
張りつめていた心が一気に解放されて思わず声をあげて泣きそうになったが、この安心感は更衣室の中で留めておきたかった。あおいは必死に声を我慢して泣いたのだ。
涙を流しながら声を必死に堪えるあおいを見て、ジュンはその肩を抱いて、あおいの背中で自分の手をぎゅっと握りしめた。ジュンはその握りしめた自分の両手であおいの背中を撫でてあげたかったが、そうすると、あおいの気が緩んで、更に声を上げてしまいそうだったので、強く、強く、ジュンは自分の手を握りしめて、きつくあおいの身体を抱きしめた。
ジュンがきつく抱きしめたせいであおいの節々は傷んだ。だが、あおいはそれが心地よくて、居心地がよかったのだ。
ジュンの胸の内であおいは思う。
やっと、やっと、安全な場所へ戻って来た、と。私のいるべき場所はやはりココしかないんだ、と。
「本当のところ、なにがあったのですか?」
あおいのしゃくり泣きが治まりつつある頃、ジュンが優しめに聞いてみた。
「マチアプでエッチを誘われたの。私、お金に困っていたからお金が貰えるならってオッケーをしてアカバネまで行ってたんだけど、ホテルに入ってから生理が始まっていたのを……その人が気づいて……急に怒り出して」
いつもと違った弱々しい声色で話すあおい。
「乱暴を?」
あおいが小さく頷く。
頬の傷が右である事と、首についた僅かな指の形から、暴行をした男はおそらく左利きの人物であるとジュンは直ぐに推測した。
「その人はむしゃくしゃしたのか私を殴って一人で帰っちゃったけどね」
私は平気だよ、と辛かったことを隠すように笑って見せるあおい。
それを聞いて、ジュンはあおいに乱暴をした男にどうしようもないくらいの苛立ちを覚えた。
「そんなの、許せないわ、誰なのか私が突き止めますわ。そして警察に通報するわ」
「それはやめて」
きっぱりとあおいは話す。
「どうしてですの?」
「私がお金に困っていたことをみんなに知られることも嫌だし、なんにせよ、私の事が知られるってことはろりぃたいむの事も色々探られるわけでしょ?それはちょっとタブーなんだよね。メグリちゃん知らないと思うけど、アキハバラはちょっと今厄介なことになっているんだよ。そのほとぼりが納まるまでは全部見なかったことにしてほしいの。それに今回の事だって、私が勝手に男と会うことを決めて、ホテルまで行って、私が勝手に起こしたことだからね」
自分を責めるあおいを見て、ジュンはなんだか悲しくなってしまった。
少女一人すら救うことのできない環境が存在すること。そんな環境でしか生きていけない少女に絶望して、その少女を助けてあげる事も出来ず野放ししておく事しか出来ない自身を情けなく思った。
ジュンはこれ以上何にも言えなかった。
どうしようもない間があった。
「メグリちゃん、どうかこのことは他の子達には内緒にしてほしいんだ」
あおいの気休めになればと思った。少しでもあおいの意の向くままに生きさせてあげたかった。
「ええ、あおいさんが言うなら」
あおいはその日、やっぱり帰ることにした。
ジュンが他のメイド達にあおいは体調不良で遅れてきて、やっぱり体調が芳しくないという理由で帰ることにした、と報告をしておいた。
次の日からあおいは体調不良を言い訳にろりぃたいむを休むようになった。
真面目だっただけあって、他のメイド達はさらに心配をしたが、ジュンだけは傷の治療のためと理解していたつもりであった。
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